アインシュタイン

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 輝き25  
 アインシュタイン博士の言葉 ― 「人間としての真の偉大さにいたる道は、ひとつしかない。それは何度もひどい目にあうという試練の道である」。  
 
 今日より35  
 ご存じのように、博士はチューリヒのスイス連邦工科大学を卒業し、その後も長くスイスで活躍している。かの「相対性理論」も、スイスのベルンの地で誕生した。また、博士自身、スイス国籍を取得し、終生、このスイスの美しき国土と人間性豊かな人々を愛し、誇りとしていた。アインシュタイン博士は語る。「私はスイスの人たちが好きです。というのは、私が他の場所で暮したときの人たちよりも、全体的によりヒューマンだと思われるからです。これに加えて、私はスイスに敬意の念を持っております。というのは全体にヒステリーの時代にあってつねにかなり理解ある政権をもち、外部の圧力にも首尾よく抵抗しとげたからです」(『青春のアインシュタイン』、フリュキガー著・金子務訳、東京図書)と。  
 このアインシュタイン博士の心情には、私(名誉会長)も深い共鳴を覚える。日本の九州ほどの小さな国土で、また、少ない人口(約六百六十万人)でありながら、皆さまのこの国は、さまざまな圧迫をはじき返して二世紀にわたる永世中立を貫き、世界に冠たる歴史を刻み残している。  
 万般にわたって、たとえ少人数であっても、高き理想を共有する人間の絆ほど強いものはない。先日、あるフランスの女性のメンバーの方から、私ども夫婦にいただいたお手紙の中にも、「皆が一体となれば、我々の前に敵はない」との言葉が引かれてあった。私は、その凛然たる確信に感動した。  
 さて、アインシュタイン博士は、旧友であるベルギー王国のエリザベート女王にあてた手紙の中でこう綴っている。「結局のところ、永遠なるものにかかわるのがやはり最善です。というのは、人間の世界に平和と平穏を取り戻すことのできる精神はそこからのみ流れ出るからです」(『素顔のアインシュタイン』、デュカス、ホフマン編・林一訳、東京図書)  
 さて恩師・戸田先生は、青年時代、牧口先生とともにアインシュタイン博士の講演を慶応大学の講堂で聴いた思い出を、よく懐かしそうに語っておられた。数学者であった先生にとって、アインシュタイン博士から直接「相対性理論」の何たるかを学んだことは、大きな誇りであった。
 
 今日より96
 今世紀を最も自由に生きた人は
 「二十世紀を最も自由に生きた人はだれか」 ― 。当然、さまざまな見方ができるが、それはアインシュタインではないか、という人がいる。確かにアインシュタインは、それまでの科学が越えられなかった壁を次々と打ち破り、既成の学問的な“常識”を打ち破った。そして、「精神の翼」を限りなく広げ抜いた。限られた一生で、自身の可能性をどこまでも自在に追求し続けた。
 私(名誉会長)は、我が創価学園生の中から、「二十一世紀のアインシュタイン」が出るにちがいないと信じている。必ずや、偉大な世界的人物が育ちゆくことを、強く強く確信している。
 アインシュタインはユダヤ人ということで、狂った独裁者・ヒトラーから、理不尽な迫害を受けた。人を差別し、蔑視する人間ほど卑しい存在はない。博士は国籍を奪われ、財産を盗まれる。自らの著作は焚書のリストに挙げられ、更に肉親を殺された。しかし、彼は退かなかった。何ものも彼を抑えつけることはできなかった。「平和」のために、「正義」のために、「魂の自由」のために、堂々と戦った。
 
 迫害にも悠然と宇宙を見つめて
 私(名誉会長)が対談したイギリスの大歴史学者トインビー博士は、アインシュタインのこんなエピソードを紹介している。(アーノルド・J・トインビー『交遊録』、長谷川松治訳、オックスフォード大学出版局刊から)
 それは、アインシュタインが、ヒトラーのナチスによって追放され、一時、イギリスのオックスフォード大学に亡命していた時のことである。ある時、トインビー博士の知人の教授がアインシュタインを見かけた。博士は遠くを見るようなまなざしで座っていた。晴れ晴れと、何ともいえない幸福そうな笑みをたたえながら ― 。
 “これが一体、極悪のナチスに迫害され、追放された亡命者の姿であろうか”と言いたいくらい、余裕に満ちた表情であった。そこで、その教授は、質問した。「アインシュタイン博士、何を考えていらっしゃるのか、教えて下さい」すると「私が考えているのは」とアインシュタインが答えた。「この地球は、要するに、きわめて小さい星にすぎない、ということです」と ― 。「大宇宙」への思索に生涯をかけた碩学の人柄と境涯をしのばせるエピソードであろう。宇宙から地球を見下ろす多くの指導者が、そういう大きな心境になれば、世界がどれほど平和になるであろうか。私も無限の宇宙を見つめながら、“舞台は全地球”と定めて走り続けている。
 
 博士の訪日講演と戸田先生
 アインシュタイン博士は、大正十一年(一九二二年)秋、神戸港に到着。訪日の第一歩をしるしている。東京入りは、その翌日、十一月十八日のことであった。そして翌十九日、慶応大学で講演。日本での博士の初講演であり、国内の大きな関心を集めた。若き日の戸田先生(当時二十二歳)も、師・牧口先生(当時五十一歳)とともにこの講演を聴いておられる。私も、戸田先生が、この時の模様を、何回も懐かしそうに語っておられるのを聞いた。戸田先生は、この希代の物理学者の講演に巡り合えたことを終生、楽しい思い出とし、誇りとされていた。当時の新聞(大正十一年十一月十九日付東京朝日新聞夕刊)は、講演の盛況ぶりを次のように伝えている。(旧かな遣い等は、編集部で現在の表記に改めました)
 「三田へ三田へ、十九日午前中から若い知識的な男女の群が押寄せる、午後一時慶応の中央大講堂で『一般性及び特殊性相対理論』を説こうとするアインシュタイン博士を親しく聞き親しく見ようという新知識の憧憬〈どうけい〉とも」者達、定刻前、既に二千名を越えかけて、ア博士が最初予め注文した『静かな聴衆を約一千名限り』を倍も突破して、さしもの大講堂もハチ切れる許りの満員となった」
 また「忽ち割れるような拍手が起る、ア博士が夫人同伴で着いた」と。その熱烈な歓迎ぶりがうかがえる。
 
 講演は、何と五時間に及ぶ長時間のものであった。長い船旅を終えて、到着するや、休む間もなく、ただちに、これだけの講演 ― 実に精力的である。偉大な人間は寸暇を惜しんで仕事をする。決して横着はしない。どんなに立場が上になっても、ただ要領よく立派そうな姿を見せるだけでは、少しも偉くない。虚像にすぎない。
 何より、一生は短い。限られた時間をどれだけ充実せることができるか ― そこに人生の真の勝負も決まってくる。だから私も働いている。人の何倍の仕事がでくきるか、平々凡々のみの人生の十倍、二十倍、百倍の価値を、この一生でどう創り、残していけるか。
 それはまた、“創立者はかく生きた”“これほどまでに戦い、働き抜いた人間がいた”との歴史を、諸君のため、後世のために示しきっておきたいからである。
 ともかく、聴衆は熱心に耳を傾け、講演は大成功であったようだ。新聞(二十日付東京朝日新聞)には、「大講堂一杯の二千に余る聴講者は咳一つせずノートを繰る音ばかりがサヤサヤと聞こえる」「たとい講義は相対性理論の香だけ嗅いだ位の人でも偉大なる学者の風貌に接しただけで十分に満足して帰途についた」とある。
 
 「大宇宙」は果てしなく広がっている。そして人間の「心」は、その「宇宙」をも包みゆく。ヒトラーが強大な権力を誇ろうと、“ちっぽけな地球”の、なかでもとりわけ“ちっぽけな人間”にすぎないではないか ― 。トインビー博士は、こうしたアインシュタインの心境に強い共感を示している。私(名誉会長)もまた、その心情を深く理解できる。そのうえで、もし私が今、同じように「何を考えているのか」と質問されたなら、一言つけ加えたいと思う。「私が考えているのは、二十一世紀には、我が学園生が、この地球を、ところ狭しと駆け巡り、民衆の勝利のための、壮大な活躍を繰り広げるだろうということです」と。諸君は今、学びの時代にある。どうか、行く手に何が立ちはだかろうとも、アインシュタインのごとく、我が「精神の大宇宙」を自由自在に広げていっていただきたい。

 


 

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