|
アカデメイア 今日より15
さて古代ギリシャの大哲学者プラトン(紀元前四二七〜三四七年)の名は、諸君もよくご存じと思う。彼の多くの業績のなかで、ひときわ高く評価されているものの一つは、学園「アカデメイア」の創立である。アカデメイアは紀元前三八七年ごろ、アテネの北西の郊外につくられた。その名は、もともと学園のあった公園の名前で、その地を英雄アカデモスが領有していたとの伝説に由来するとされる。アカデメイア創立の時、プラトンは四十歳であった。
ちなみに私(名誉会長)がこの創価学園を創立したのも、昭和四十三年、ちょうど同じ四十歳の時である。プラトンは以後、八十歳で亡くなるまでの四十年間、このアカデメイアで「教育」と自らの「著述」に全力を注ぎ続けた。
彼が、この学園を創立した理由は何か。実は、そこには師ソクラテスに対する弟子としての深き誓いが込められていた。すなわちソクラテスは、全く無実の罪で死刑に処された。プラトンは師を不当に逮捕し殺した当時の指導者と社会に対し、すさまじい怒りを発した。その無念の思いは彼の生涯の原点となり、また悪しき権威と権力への糾弾の念は、彼の全著作のすみずみにまで強く脈打っている。
プラトンは決意した。“ソクラテスのごとく正しき善き人を迫害する社会は、大きくゆがんでいる”“この誤れる政治と社会を断固、革命し変革せねばならない”。
そのためには、正しい意味での「哲学」によって、正しき人間と正しき社会をつくる以外にない ― と。そして彼は、その誓いのままにアカデメイアを創立し、多くの人材を育成していった。このようにアカデメイア誕生の淵源には、生死を超えた崇高な「師弟の精神」と、「社会変革への理想」が、厳としてあった。プラトンの最後の著作「法律」には、“教育こそ、すべての人が生涯を通じ、力の限り、やらなくてはならないものである”とある。
彼は自身の後半生をかけて、この「人間教育」の実践に取り組んでいった。私もまた常々、人生の総仕上げの事業は「教育」にあると思っている。
プラトンは、また膨大な著作活動によって、師ソクラテスの正義を証明し、その思想の偉大さを後世にとどめ残していった。
“プラトンは書きながら死んだ”ともいわれる。晩年の大作「法律」十二巻は、最後の日々まで書き続けられ、未完のまま、絶筆となった。この書もまた、正しき社会の在り方を探究したものである。プラトンの胸中からは、師の面影と、師を殺した社会の腐敗への怒りが消えることはなかった。そのせいでもあろうか。彼の多数の「対話編」には、常にソクラテスが登場し、縦横に活躍している。現代のわれわれは、このプラトンの著作があるからこそ、はじめてソクラテスの思想と生き方を知ることができるわけである。
ところでアカデメイアの学員(学生と研究生の総称)の人数は何人ぐらいであったか。正確な記録はないようだが、プラトンの時代の人数を四十二人と挙げた研究もある。これは聴講した全員ではなく、主な弟子の数と考えられるが、いずれにしても“少数精鋭主義”であったことは確からしい。教えるものと学ぶ者が、身近に触れ合い、全人格をぶつけて磨き合いながら、ともに学問に励んでいった。そうした「人間をつくる」切瑳琢磨の情景が浮かんでくる。時代は異なっても、この「人間教育」の行動ほど尊いものはないし、その理想に徹しゆく教師という仕事は、まさに「聖職」であると私は思う。
学生は十五歳から十八歳で入学したという。皆さんと同じ若い世代である。
有名なアリストテレスがアカデメイアに入学したのも十七歳の時といわれる。この時、プラトンは六十歳。アリストテレスは、プラトンが八十歳で亡くなるまでの二十年間、三十七歳まで、このアカデメイアにとどまり、研究生活を続けている。最も大切な青春の二十年を師のもとで研究ひとすじに生きぬいたのである。彼はプラトンから「本読み係」とか「頭脳」とか呼ばれていた。
くる日もくる日も、寸暇を惜しみ、本を読んで読み切った。徹底して思索に思索を重ねた。そして若き日の盤石の基礎の上に、一生を通して、プラトンとアカデメイアの名を不朽のものにしていった。諸君も今こそ読書に挑戦すべき“時”である。中途半端であっては、後悔するのは自分である。私も図書の贈呈をはじめ、学園の読書の環境、づくりに全力で尽くしていく決心である。
アカデメイアの人材輩出の歴史は紀元前三八七年の創立から、紀元後五二九年の閉鎖まで、実に九百年以上にわたって、酒々と続いていく。後継の陣列がとぎれなく続いた、その輝かしい歩みは「黄金の連鎖」〈黄金の鎖が、とぎれなくつながっていること〉と呼ばれ、たたえられている(アカデメイアについては、廣川洋一著『プラトンの学園アカデメイア』岩波書店刊を参照)。
|