秋月種茂

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 輝き40
 ここ宮崎は、江戸時代に名君とされた秋月種茂(一七四三〜一八一九年)、その弟・上杉鷹山(一七五一〜一八二二年)の兄弟を生み出した天地でもある。〈鷹山は養子として山形の米沢藩で活躍〉
 宮崎の高鍋藩を大きく発展させ、「中興の名君」と言われた秋月種茂。彼が藩政改革の重要な事業として、まず取り組んだのが、「優秀な人材を育成し、登用する」ということであった。
 “国づくりは、人づくり”これが、彼の信念であった。
 秋月種茂は、一七七八年(安永七年)に、藩校「明倫堂」を創立。ここでは、八歳から三十歳まで、幅広い世代にわたって教育が行われた。その門戸は、武士だけでなく、農民にも開かれていた。
 この「明倫堂」からは、きら星のごとき人材群が躍り出た。のちに大審院長として活躍した三好退蔵氏。〈足尾鉱毒事件では、弁護士として農民たちの勝訴を勝ち取った〉
 孤児教育の世界的先駆者の石井十次氏。さらに、明治の外交に活躍し、創価教育学会の顧問であった秋月左都夫氏も、この「明倫堂」の出身である。
 一切が、人材で決まる。教育で決まる。

 


 

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