アンデルセン

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 アンデルセン

 アンデルセンの「みにくいアヒルの子」を思い出してほしい。
 ほかのアヒルと「ちがっている」ために、みんなからいじめられる子どもである。「君って、なんてみっともないんだ!」「その子は失敗だよ!おまえさん、つくりかえることができるといいのにね」 ― しょっちゅう、そんな言葉を浴びせられ、かみつかれたり、突っつかれたり、ばかにされてばかり。
 はじめはかばってくれていた、お母さんまでが「いっそどこか遠いところへ行ってくれたらねえ!」。そう言われて、すべてがいやになり、うちを飛び出してしまう。(「みにくいアヒルの子」大畑末吉訳、『アンデルセン童話集』(二)所収、岩波文庫)

 このお活には、アンデルセン自身の人生が重なっていると言われている。
 彼は、幼くして父を亡くし、貧しい家庭に育った。背がひょろ高く、夢見がちなせいで、いつも「変わり者」と笑われた。
 学校の先生からは「おまえは大学生にはなれないだろうよ」「おまえのつくる詩は、本屋の物置でくさるだけさ」(ルーマ・ゴッデン著『アンデルセン夢をさがしあてた詩人』山崎時彦/中川昭栄共訳、借成社)とまで言われたという。
 俳優を目指して失敗。歌手を目指して失敗。恋愛もいつも、うまくいかず、生涯独身。自分がわびしい思いをしてきたからだろうか、アンデルセンの童話には、劣等感に苦しむ人々に寄り添うような優しさがある。

 家出した「みにくいアヒルの子」は、あちこち、さまようが、小鳥が驚いて逃げても、「これも、僕が、みにくいからなんだ」と悲観し、恐ろしい犬が噛まないで去ってくれても「僕があんまり、みっともないんで、犬までがかみつかないんだ」と考える。すっかり、いじけてしまっていた。

 今、日本で「自分を出さない」若者が増えていると言われる。授業でも質問もしない。「私は、こう思う」と、はっきり言わない。生き生きした反応がない。
 そんな若者を「無気力」とか「自分がない」とか非難する人もいる。そうなのだろうか?私は、そう思わない。
 それは「自分を出す」たびに傷ついてきたからではないだろうか。正直に「わからない」と言ったら、バカにされてきた。素朴な質問をしたら「こんなこともわからないのか」と見下されてきた。
 勉強以外のことでも、「おかしい」と思ったことを、納得できるまで聞こうとしたら、「生意気だ」とか「理屈を言うな」とか「そうなっているんだから、黙って従えばいいんだ」とか、いつも抑えられてきた。そのせいではないだろうか。「勉強もできないくせに、一人前のことを言うな!」と言わんばかりに。

 「みにくいアヒルの子」は、やがて、お婆さんと猫とめんどりが住む家に身を寄せた。しかし、そこでもばかにされる。
 めんどりのように卵も産めないし、猫のように「のどをごろごろ鳴らす」こともできないからだ。
 どちらもできないような劣等生は、何にも言う資格はないよ!
 ああ、みんな、どうして「自分たちと同じじゃない」だけで、いじめたり、ばかにしたりするんだろう?どうして、「見かけ」で決めつけるんだろう?

 ご存じの通り、「みにくいアヒルの子」は、実は白鳥だったことがわかり、「すべての美しい鳥のうちでも一番美しい」とみんなに讃えられ、ハッピーエンドで終わる。
 しかしアンデルセンは、「白鳥が上で、アヒルが下」だなどと言っているのではないだろう。見返してやったなどと卑しいことを言いたかったのでもないだろう。
 ただただ、いじめられ、抑えられ、自信をなくしている人たちに、「君は君自身でいいんだよ!」と励ましを送りたかったのではないだろうか。
 「みにくいアヒルの子」なんて、いないんだ。いるのは「素晴らしい白鳥の子」と「素晴らしいアヒルの子」なんだ ― 。

 詩人の目は、すべてのものに、かけがえのない「いのちの輝き」を見る。名もなき花にも、ブリキの人形にも、道ばたの小石にさえも。まして、どんな子どもにだって!(「希望の世紀へ」)

 


 

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