輝き29
その人の名はクーデンホーフ光子。「ヨーロッパ統合の父」リヒャルト・クーデンホーフ・カレルギー伯のお母さんです。
彼女の旧姓は、青山光子。明治7年(1874年)7月16日、東京・牛込で生まれた。牛込というのは、今の新宿区の一部にあたる。
青山家は、もともと佐賀県出身の商人であった。幕末に、佐賀から江戸に出てきて、祖父の代に、菜の花の“たね油”で財産を築いた。支店も出していたようである。
青山家の三女として生まれたのが光子である。格別な家柄というわけでもなく、小学校を出たか出ないかというぐらいの、当時としては、ごく普通の庶民の娘出会った。
「今、なすべきこと」を全力で
では、どうして、この“庶民の娘”がヨーロッパ統合の母”と呼ばれるまでになったのでしょうか。彼女は、常に「今、自分がなすべきこと」を全力で、やった。真剣勝負でありました。
運命の人との出会いは、明治二十五年(1892年)冬の寒い日に訪れた。光子が十八歳になる年でした。店先に出ていた光子の前で、一人の外国人青年が落馬した。「まあ大変!だれか来てください!」。光子は、とっさに助けを求め、医師を呼び、自分も駆け寄って、応急手当をした。
当時は、外国人のそばに寄るだけでも、かなりの勇気がいった時代です。しかし、「苦しんでいる人を、ほうってはおけない!」 光子は、そういう女性だったのでしょう。
「国際結婚」第一号
落馬したのは、ハインリヒ・クーデンホーフ・カレルギー伯爵。大国「オーストリア=ハンガリー帝国」の駐日代理公使として、日本に赴任して来たばかりだった。青年公使は、このとき、一目で恋に落ちた と伝えられている。間もなく二人は結ばれ、日本の国際結婚の第一号となった。
二人に間に、長男のミツタロウ、次男のエイジロウ(後のカレルギー伯)が誕生して間もなくのこと。夫の日本での任期が終わった。ヨーロッパへの帰国が決定。今とは違い、「地の果て」のような遠い国である。言葉だって通じない。両親にも二度と会えないかもしれない。
この道を行く!
しかし、光子には迷いはなかった。「私は『この道を』を行くんだ!」と決めていた。明治二十九年(1896年)の春、光子は、ドイツ国境に近いボヘミアの古城に“伯爵夫人”として迎えられた。
嫁いだ先は、ヨーロッパ有数の名門貴族クーデンホーフ家。クーデンホーフ家といえば、ハプスブルク家の皇女エリザベートの家庭教師も出している。学問の誇り高き一族であり、夫のハインリヒは、なんと十八ヶ国語を自在に操った。夫の曾祖父の時代には、文豪ゲーテとも親交があった。
そんな家に、「開国」したばかりの東洋の小国から来た花嫁。どんな“未開人”が来るのか と初めから先入見で見られた。
偏見と戦って
皆さまも、これまで、どんなに“先入見”や“偏見”に苦しめられて来たことであろうか。
光子の苦労も並大抵ではなかった。城の中では、さっそく小姑たちの嫁いびりが始まった。言葉の問題から、食卓のマナー、着物の着こなし、立ち居振る舞いに至るまで、チクチクとやられた。
社交場でも、“伯爵の心を奪った東洋人”を妬んだ貴族の令嬢たちから、冷たい視線を浴びせられたのだった。光子の伝記には、こう綴られている。
「くる日も往く日、針の褥に座し、棘の鞭でなぐられるような試練と苦難の連続といったよかった」
「『いっそ何もかもふり捨てて、祖国に逃げ帰ろう』と思ったことが、何度あったか知れなかった。そのたびに、うしろ髪を引き留められたのは、夫ハインリヒの細かに行き届いた愛情である」
夫を亡くした絶望のなかで
「強くなるんだ!強くならなければ!」。光子は語学も必死で学んだ。しかし ― たったひとつの“頼みの綱”が切れてしまった。夫ハインリヒが、心臓マヒで急死したのである。まだ四十七歳の若さだった。三十一歳の光子は、広いヨーロッパで、たった一人になった。
「もう苦労して、ここで生きていくかいもない!」
夫の後を追うことを考えて、刃物を手にとった光子だったが、絶望の中で、ある言葉が蘇ってきた。それは、日本を発つ前に、ある方から贈られた励ましの言葉だったという。
「悲しいことも、つらいこともあろう。しかし、どんな場合でも日本人の誇りを忘れないように−」
“そうだ!私が負けるということは、日本が負けるということだ!”。光子の「負けじ魂」に火がついた。
七人を育てぬく
光子は、夫の遺言に従って、クーデンホーフ家の全財産を相続し、七人の子どもたちを育てる後見人となった。
一族の人々は、この遺言に驚いた。「七人の子の後見人など、何も知らない光子にできるわけがない」と批判が起こり、裁判になってしまった。
以前の光子であれば、一歩も二歩も譲ったかもしれない。しかし、ひとたび、心を決めた女性は強い。「夫の遺言通り、私が全部やります!」と、光子は法廷に臨んだ。
裁判官は光子の真剣さを知るにつれて、「彼女より立派な後見人はいない」と結論した。
財産をめぐる争いも、裁判で堂々と勝った。一方で、のちのち、子どもたちと親族の関係が悪くならないように、こまやかな配慮も怠らなかった。
こうして、光子は、自他ともに認めるクーデンホーフ家の家長となった。
夫が亡くなった時、七人の子どもたちは、上が十二歳で、下は二歳だった。光子は子どもたちを“立派なヨーロッパ人”に育てるため、厳格に教育した。子どもたちからは恐れられるくらい、気を張って生きた。しかし、後年、立派に育った子どもたちは皆、母に尊敬を寄せたのだった。
− 運命は残酷である。今度は、「オーストリア=ハンガリー帝国」と「日本」という「二つの祖国」が敵国として戦うことになってしまった。一九一四年(大正三年)の夏、第一次世界大戦が始まったのである。
光子の長男と三男も、兵隊として戦場に出ていった。それにもかかわらず、“敵国”出身の光子には、「黄色い猿め!」と罵声が飛んだ。
他の日本人は、あわてて別の国へ出ていってしまった。残った日本人は、光子たった一人といわれる。光子は、歯を食いしばって耐えた。
「私は負けない!」
光子は、人々のヒステリックな敵対心を、自分の振る舞いで和らげ、消して行きました。
まず、光子は三人の娘をつれて赤十字に奉仕に出ました。敵味方にかかわらず、苦しむ人々のために働いたのです。
「無」から「有」を生んだ戦い
また、前線の兵士が飢えていると聞くと、城の庭に畑を作り、大量のジャガイモを収穫。それを袋詰めにして列車に積み込み,奪われないよう、自分が「男装」して見張りながら、無事、最前線に送り届けた。
人々は驚いた。大したことだ。あの奥方は無から有を生じなされた!」。
光子のジャガイモづくりは、終戦まで続けられ、兵士だけではなく、市民も救ったのです。
ある戦地で苦戦が続くと聞くと、勇敢にも現地慰問を実行した。最前線まで足を運び、くたびれきった兵士たちを励ました。
兵士たちは、光子の姿を見ると、「女神さまが来てくださった!」と叫び、勇気を奮い起こしたと伝えられている。 光子をののしる者は、もういなくなった。光子の「忍耐」が、そして「勇気」が、「慈愛」が、厚い偏見の壁を打ち壊したのです。
その名の通り、彼女は“光って”いた。心が光っていた。
異国での生活、排他的な貴族社会、夫の死、世界戦争……。次から次へと困難が襲ってきた。
しかし、光子は困難のたびに強くなり、賢くなり、たくましくなって、堂々と乗り越えた。
夫のため、子どものたちのため、日本に傷をつけないため、そしてヨーロッパの人々のため ― 光子はつねに「人のため」に尽くして生きた。
「自分のため」ではなかった。だから強くなった。だから、だれも想像できないほどの「力」が出た。 光子は、晩年、「ヨーロッパ統合の母」と呼ばれた。
光子は、1941年(昭和16年)8月、67歳でこの世を去った。
カレルギー伯は、私(名誉会長)との会見で、しみじみと、こう語られた。
「母がいなかったら、私は決してヨーロッパ統合運動を始めることはなかったでしょう」と。
また伯は、「女性こそ平和主義者である」と語り、こう強調された。
「私の持論は、女性がより大きな役割を果たす機会が与えられれば、それだけ世界が平和になるということです。なぜなら、女性は本来、平和主義者だからです。子どもをみても、女の子は、みな人形で遊びますが、男の子の遊びは、どこでも戦争ごっこです」
「私は女性がいっそう政治に力をもつようになることを願っています」
「われわれの運命、そして、われわれの子どもや孫の運命が、政治によって支配されるからです」
「世界中で女性が議会と政府の半分を占めるようになれば、世界平和は盤石になるでしょう」
また、「社会のために行動している母」の姿や信念が、子どもたちの心に、将来の大成長への“種”をまいているのですとも言っておられた。
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