アラン 今日より2
フランスの哲学者アラン(一八六八〜一九五一)は、今世紀前半を代表する“知性”の一人であり、ベルグソンと並び称される。その主著の一つは「幸福論」だが、それは、私(名誉会長)にとっても若き日に手にした名著として、まことに思い出深い。彼は、デカルトの流れを汲む高邁なヒューマニストであり、「現代のソクラテス」の“魂の著作”は、卒業しゆく高校生達の“心の本棚”に確実に納められていった。
アランは、追憶する ― 謙虚な師・ラニョーは、生徒達からの敬愛という隠れた栄誉以上のものを、決して望まなかった ― 。確かに、様々な勲章や一時の名声など、永遠なる“心の財宝”から比べれば、大した意味はない。ましてや仏界の生命という永遠不滅の「宝」からみれば、また大した価値もないといえまいか。弟子のアランも、名聞名利を超克した恩師の生き方を、若き生命に、鮮烈に刻みつけたにちがいない。アラン自身、六十五歳で定年退職するまで、四十年余、高校の哲学教師として勤め抜いた。大学の権威に心を奪われず、高校教育に、生涯、誇りと情熱を持ち続けた。
戸田先生は、かつて「人を引っ張っていくには、名誉欲と金欲をかなぐり捨てることだ。これらを捨てた人間ほど強く、いい意味で、手のつけられぬものはない」と叱咤してくださった。自己の「名声」や「富」を第一とする人に、本当の意味での指導者の資格はない。また、教育者も同じであろう。学生、生徒らの鋭敏な「心」は、教師のエゴイズムを、鋭く、ただちに見抜いてしまうだろう。世俗的な欲望を“かなぐり捨てた”、純粋にして高潔な情熱のみが、子らの澄んだ心に分け入り、胸中に感銘と共感の鐘を打ち鳴らしていくにちがいない。
ラニョーとアランは、大学での教鞭をとらず、高校の教壇で生徒の育成に全魂を注いだ。
十八歳のアランは、師のラニョーから哲学を学んだ。それは“新しき精神”の目覚めであり、“新しき世界”の発見であった。まさにアランにとっては、“青春の朝”ともいうべき覚醒の日々であった。彼は、この時代を振り返り、次のように記している。人が毎朝、目覚めるということは、本来、それ自体が、日々、新たな世界との出あいである。その上で、哲学をもち、新しい「ものの見方」を学んでいくことは、二重の意味での「目覚め」といえる。師・ラニョーのもとでは、その新鮮な感動の連続であった。「人生は朝から成る」という言葉を好んだアランは、いわば“朝の哲学者”だったのかもしれない。教えるにも、この言葉を繰り返し語ったといわれ、太陽が昇る「朝」のイメージをこよなく愛していたようだ。
さて、ラニョーは、高校での教育に自身を捧げ尽くし、四十二歳で逝去する。前述のごとく、著作を出す余裕もなかった。アランは、その師をしのんでいう。「師は、現代の最も深遠な哲学者のうちに、生前、当然、地位を占めるべきであった。師からじかに全思想を授けられた者達は、師がこのような地位を、死後、占めうるよう努めねばならない」と。そして、この言葉通り、アランらは全魂を込めて、ラニョーの講義草稿をまとめ、出版する。麗しい師弟愛である。師を思う弟子の深い一念に、私(名誉会長)は胸を突かれる思いである。アランは、生涯を通じて、繰り返し繰り返し、ラニョーを宣揚した。こうして今日、ラニョーの名は、アランとともに、歴史の花園に馥郁と薫りを放っている。
著名な作家モーロア(一八八五〜一九六七)は、アランの教え子であった。つまり、ラニョーの孫弟子に当たるが、モーロアもまた、師アランの伝記を、敬愛の心を込め、つづった。その冒頭の一節は、こうである。
「アランはつねに偉大であったが、師ラニョーについて語るとき、彼はつねにもまして偉大である」。
今日より6
ご存じの通り、アランは高校時代、恩師ラニョーとの出会いによって、哲学に目を開いた。彼は高等師範学校卒業後、二十四歳で哲学の教師となる。そして、各地の高校で教鞭をとり、六十五歳で定年退職するまで、教職を全うした。決して華やかさはないが、堅実にして実り多き生涯であった。
教師としてアランの立派さは、まず、生徒をむやみに叱らなかった点にある。子弟が、どのような失敗を犯したとしても、「この間違いは、君にふさわしくない」「君はやれば、必ずやれるはずだ」と励まし、生徒たちの奮起に期待したという。叱らないこと─それは、やさしいようで、実は難しい。
アランの思想的な立場は、デカルトの流れをくみ、「高邁な心」を最高の価値とする「ヒューマニズム」である。そして、“神とは「完全な人間」にほかならぬ”との思索にまで至っていた。至高の存在といっても、何か天上に特別なものなどありうるはずはない。特殊な権威や能力で飾られたものでもないという彼の思想は、仏法にも相通ずる、かなりの高次な地点にまで達していたといえる。
彼の著作には、有名な「幸福論」をはじめ、「権力に抗する市民」「思想プラトン、デカルト、ヘーゲル」「ラニョーの思い出」「芸術論集」などがある。これらの書は、私も若き日に読み、思索の道標としたものだ。
彼は、反戦・平和主義を宗(むね)とした。が、第一次世界大戦が勃発するや、四十六歳という年齢も顧みず、志願出征している。彼は考えた。“戦争を批判し、平和を説くのも、銃後では机上の空論となろう。みずから軍隊のなかに入り、一兵卒の苦労を知ってこそ、戦争の実像も認識でき、本質的な批判も可能になる”と。そこで、敢えて勇気ある行動に出た。その行動への評価は別にして、実践を重視した彼の真骨頂をみる思いがする。
“正しい認識は大切だが、それを踏まえて判断し、実践するのでなければ、無意味である”また“人間たれ、人間として振る舞え”これが、アランの人生哲学であった。世には、「認識」はしても「行動」しない人が少なくない。反対に、「行動」はするが「認識」と「見識」に乏しい人も、多々、見かける。が、いずれも一方だけでは、社会と人間の変革を進めゆく価値の行為とはなりえない。「認識」と「行動」は、いわば車の両輪であり、いかに理想が高く、また実践力に優れていても、それが両立しなければ、いたずらな空転を繰り返すだけである。行動なくして認識なし ─ ここに“人間として振る舞え”としたアラン哲学の真髄があると、私(名誉会長)は見たい。
「現代における最高の、そして最後のモラリスト」と評価され、敬愛されたアラン。「モラリスト」とは、人間性と人間の生き方を探究する思想家のことだが、彼は、生涯、そうした高道な生き方を全うした。そして、一九五一年(昭和二十六年)、八十三歳で死去。ほぼ、戸田先生の会長就任と同時期であった。
恩師の忘れられない言葉に、「相手を天晴れ、大した人だと認めた時は、勝った時である。相手を憎しみ、悪口をいうだけではいけない。敵に対してでも、尊敬の念を抱く時は、勝てるものだ」との指導がある。
まことに含蓄深い言葉である。人の良さを認めず、他に学ばぬ人に成長の歩みはない。人を嫉妬し、蔑むばかりの人には、人格の後退と委縮があるのみである。そこに、人生の栄冠は、決して輝かない。
「心広々とした指導者であれ」これも、戸田先生がよくいわれていた指導である。心広き人のもとにいる人は、幸福である。温かな理解と期待、そして真心の応援を受けて、伸び伸びと進んでいけるからだ。反対に、心せまき指導者といる人は、不幸である。理解もされず、包容もされず、つねに堅苦しい思いで、委縮していなければならない。まことに悲しいことである。
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