アレキサンダー大王

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 ルネサンス57  
 「我、可能性をためさん」
  大河は正まらない。日夜、滔々として、海へ走る。
 歴史も流れる。悠久にして、常に新しき変化の波また波を、末来へ注ぐ。
 万里はるか、その巨大なうねりを見晴るかすとき、一人の人間の存在は、あまりにも小さく感じられるかもしれない。
 しかし、歴史に押し流されるのも人間なら、歴史をつくるのも人間です。私たちは、「歴史をつくる人間」でありたい。 「歴史を読むのはたのしみだ。だが、それよりももっと心をひき、興味があるのは、歴史をつくることに参加することだ」
 こう言ったのは、インドのネルー首相(一八八九〜一九六四年)です。
 
 一人の人間が、どこまで歴史を変えられるのか。その可能性を考えるとき、古代においては、私(名誉会長)は、アレキサンダー大王を思い出す。
 〈紀元前三五六−三二三年。ギリシャから、エジプト、ペルシャ、インド西境まで、ヨーロッパ、アフリカ、アジア三大陸にわたる空前の大帝国を約十年で築いた)
   
 また、アソカ大王を思い出します。 〈在位・紀元前二六八〜二三二年(諸説あり)。インドのほぼ全域を初めて統一。「法(ダルマ)による統治」を実践し、仏教を各地に弘めた〉  
 近代においては、ナポレオン(一七六九〜一八二一年)でしょう。
 ナポレオン自身も、アレキサンダー大王に憧れ、その跡を継承するという気概があったようです。  
 名誉会長 そう。歴史は、人間から人間への連鎖です。歴史を開いた偉業は、その時だけにとどまらない。偉業を慕う人々を後世に生み、多くの人々を奮い立たせる。行動が行動を促すのです。夢が夢を刺激するのです。
 その意味でも、私どもは今、歴史をつづっておきたい。
 「あのとき、あの人々は、あそこまで壮大な闘争を、やり抜いたのか。あれほど偉大な勝利を勝ち得たのか」。後世の人々が、そう仰ぎ見る金字塔(「金」の字をした塔。ピラミッドのこと)を築いておきたい。
 それは、永遠の誉れれです。なかんずく仏法に連なる勝利は、自分自身の生命にも、未来永遠にわたる「金字塔」を輝がせることになる。
 金字塔、ピラミッドといえば、先生は昨年(一九九二年六月)、エジプトにも行かれました。エジプトは、アレキサンダーゆかりの地です。
 名誉会長 そうです。彼にとって決定的な意味をもつ地となった。  
 ナポレオンがあれほどエジプトに魅かれたのも、ひとつには、アレキサンダーへの思いが強かったからです。  アレキサンダーは、エジプトで「人類はひとつである」という啓示を得たといわれる。その意義を特筆大書されたのは、トインビー悼士ですが・・・・。 〈イギリスの歴史家。名誉会長と対談〉  
 当時においては、これは抜きん出た発想であった。ギリシャ文明では、ギリシャ市民(ヘレネス)以外を、野蛮人(バルバロイ)と見なして差別していたのだから。
 以来、アレキサンダーは「人類を統一する」という、「見果てぬ夢」に生きた。その夢が、彼をインドの果てまで連れていったのです。  
 
 行動者ナポレオンは「夢を見なければならぬ」と言った。詩人ゲーテは「行動せねばならぬ」と言った。  
 一見すると、反対のように思えるかもしれない。しかし、ここに英雄の秘密がある。彼らは、だれよりも強烈に「夢」を信じたゆえに、だれよりも本気で「行動」したのです。
 アレキサンダー大王が病死したのは三十二歳。即位したのは二十歳だから、わずか十二、三年の治政です。  
 その問に、ギリシャ方面の盟主の座を固め、アジアの老大国ペルシアを打ち破り、連戦連勝、さらに「東ヘ!東へ!」と前進し続けた。
 文字通り、彼は「大地果つる地まで行くつもりだったと言います。  
 
 「地上のすべての民族が皆、同じ一の民族であることを理解させたい」  
 この夢に向かって、東西を融合させ、民族間の差別の意識をなくそうと、かれは苦労しています。まさに一人の人間と、どこまでできるか、「我、可能性をためさん」との鮮烈な生涯でした。
 大王の夢を、臣下や兵士たちは理解していたのでしょうか。  
 名誉会長 おそらく、ほとんど、だれにも理解できなかったにちがいない。事実、その隔たりが、大王の晩年には表面化しています。
 ただ兵士たちは、大王の人間性を愛していたのでしょう。あるとき(紀元前三二五年、インドからの帰路)、大王の一行は砂漠(マクラン砂漢、現パキスタン)に迷いこんでしまった。皆、水を求めて苦しんだ。死の行軍です。
 一兵士が、貴重な水を碗に入れて、大王に捧げた。感謝して受け取った王は、しかし、水がすべての兵士には行き渡らないと見るや、熱砂の上に水を残らず捨ててしまった。
 「なぜならば」と彼は言った。「私ひとりが、これを飲んだならば、ほかの者たちは、どんなに、がっかりするだろうか」
 この一言に、兵士たちは泣いた。そして一斉に立ち上がり、「いざ前進を!」と叫び、求めた。「この王あるかぎり、疲れも渇きも、ものの数ではない」。彼らは勇気凛々となって、快活に進み始めた。有名なエピソードです。  
 アレキサンダーは、部下を大切にした。女性も大切にした。  
 
 遠征の間には、絶壁もあった。身を焦がす炎暑もあった。 インドへと、ヒンドウクシュ山脈を越えたときは、三五○○メートルを超す雪山に、暖かい地中海育ちの兵士たちは苦しみ抜いた。
 「ヒンドウクシュ」とは「インド人殺し」という意味です。かつて、西方へ連れていかれるインド人たちが、疲労のあまり、次々に倒れたところから名づけられたという。大変な難所であった。
 しかし、「山」を越えなければ使命は果たせない。
 兵士たちは、飢え、凍え、疲れていた。雪で目をやられている者もいる。  
 「王(アレキサンダー)は、行軍の列を見まわり、疲れて倒れている兵士を見ると、元気づけて起こし、やっとついてくる兵士には、自分の体で支えてやって励ました。あるときは先頭に立ち、あるときは列の中ほどにつき、またあるときは列の一番うしろに、というように、彼はさまざまな苦労をしながら、いたるところに駆けつけるのだった」(クイントゥス=クルティウス『アレキサンダー大王史』)
 彼は信じていたのです。  
 「王者とは、艱難辛苦を、だれよりも引き受ける者のことである」と。自分の弱さに負け、安逸を倉ることは、もっとも卑しく「奴隷的である」と彼は言った。
 アレキサンダーは、一人の老人を励まし、助けているうちに、行軍の列から取り残されてしまったこともある。一緒にいるのは、わずかの味方だけ ― 。
 夜はふけてくる。寒さが身を刺す。加えて、敵の火が前方に点々と燃えていた。  
 見つかったら最後だ―普通はそう思うでしょう。 ところが、アレキサンダーは、ひとり、まっしぐらに、一番近い敵の火のもとへ走った。飛鳥のごときスビードは、彼の得意とするところです。居合わせた二人の敵兵を、あっという間に倒し、篝火の薪を一本、奪って戻ってきた。
 そして、巨大な火を焚いた。これで敵は、大軍がやってきたと思い、大部分が、あわてて逃げてしまった。  
 彼の剛胆と知恵と早業をエピソードです。  
 
 ともかく、いつでも王がまっ先に走っていくのだから、皆、ついて走らざるを得ない(笑い)。アレキサンダー軍が強かったのも道理です。
 アレキサンダーのギリシャ連合軍は、どんなに強いといっても、当時の超大国ペルシャに比べると、実力の差は歴然としていた。物量の面でも、人数のうえでも、はるかに劣っていた。
 いわば、若き「強国」と老いた「大国」との戦いだったのです。「大国」と戦った場合、長期戦になれぱ、絶対に不利なことは当然です。時間があれば、大国は、資源をいくらでも補給できるのだから。
 また、ナポレオンがロシアに敗れたように、大国の奥へと逃げ込まれてしまえば、とらえどころがない。  
 大国ペルシャに勝つには短期決戦以外になかった。  
 
 アレキサンダーは、イッソスの会戦(紀元前三三三年)で、ペルシャエに自ら切り込んで敗走させ、そのあとも和議に応ぜず、相手が総力を挙げて決戦せざるを得ないように仕向けた。
 そして迎えたガウガメラの会戦(前三三一年)で、一気にかたをつけてしまった。大国は小まわりも、きかなかった。
 老大国は再起不能となり、ペルシャ王(ダリウス三世)は「アジアの王」の座を、アレキサンダーに譲ったのです。
 老人の退場と、若人の登場 ― 鮮やかな交代劇であった。
 「速さ」が彼の強力な武器だったのですね。  
 生涯を通じて、そうだった。  
 故郷マケドニアの王に即位してまもないころ、まだ政権が不安定と見られて、ギリシャのテーベ等で反乱が起こった。 
 北方で知らせを間くや、彼はバルカン半鳥の山中を全速力で駆け抜け、たちまち、四百キロも離れたテーベ市民の前に現れた。
 重装備の軍隊が一日に三十キロ、たった十三日で到着するなどとは、当時の常識では想像もできない。テーベ市民は「にせもののアレキサンダーにちがいない」と、うわさするほどだった。 「これでは、お手上げだ」 ― 彼のスピードの前には、相手は十分戦う余裕さえなかった。  
 
 東征が始まり、現在のトルコに上陸。ミレトス港にペルシャの艦隊四百隻がくるという情報が入った。
 アレキサンダーは大急ぎで、全艦隊をミレトス港に集めた。ペルシャ艦隊が到着したら「万事休す」である。
 また「全速力」。アレキサンダーの艦隊百六十隻は走りに走って、ペルシャ艦隊よりも、わずかご一日だけ早くミレトス港に入った。港を完全に封鎖し、遅れて駆け付けたペルシャ艦隊を入れさせない。
 その間に、アレキサンダーは、ミレトス城を陸地から占領してしまった。
 やはりスピードの勝利だったのです。  
 疾風のごとく、明日なきがごとく、彼は走り、彼は勝った。  
 私は、ユゴーの言業を思い出します。
 「今日の課題は何か。戦うことだ。明日の課題は何か。勝つことだ!」(「追放」)  
 
 アレキサンダーが女性を丁重に扱ったのは有名です。
 それが一番はっきり表れたのは、(初めのイッソスの会戦で)ペルシャ軍を打ち破ったときのことです。ペルシャ軍は、大軍といっても、団結が弱く、いったん崩れ始めたら、もろかった。ペルシャ王(ダリウス三世)は命からがら逃げ出した。
 王の家族さえ置き去りにされるという、あわただしさだった。  
 戦場にも家族を連れてきていたのでしょうか。  
 そうです。王官のぜいたくも、そのまま持ち込んでいた。
 この点、日本の「騎る平家」に似ているね。
 仇を討つ一念の源氏は、死にものぐるいだった。
 一方、平家は貴族化され、軟弱になってしまっていた。もはや武士ではなく、兵士ではなかった。
 学会は平家になってはならない。永遠に源氏の精神でいくのです。永遠に ― 。  
 
 アレキサンダーの軍も、長年ギリシャを苦しめ続けたペルシャヘの報復を、第一の目的に掲げていた。各地の連合軍ではあったが、この一点で結束していたのです。大勝したアレキサンダーは、戦場に残ったペルシャ王の幕舎を見て、驚いた。
 おびただしい金銀。日用品まで黄全や宝石に飾られている。豪華な浴槽、ベッド、饗宴のための調度の数々。部屋は香料の妙なる香りに満ちていた。 そしてペルシャ王の家族 ― 王の老母(シシュガムビス)、王妃(スタテイラ)、二人の娘らがいた。  
 当時の常識として、どんな目にあっても不思議ではない。彼女たちは、恐怖と悲嘆のどん底にあった。
 しかし、アレキサンダーは高潔であった。ペルシャ王は無事であること、自分は彼女たちに危害を加えるつもりは、まったくないこと、これまで彼女たちが受けていた待遇は少しも変えないことを、ただちに伝えた。
 囚われの身の屈辱感と、不安を少しでも軽くさせようと、心をくだいたのです。 身の回りのことをはじめ、何ひとつ不自由のないように、それまで以上の手当も与えています。
 そして、礼儀を失した言葉や振る舞いを、彼女たちが何ひとつ耳にしたり、目にしたりしないようにした。  
 王の老母は、アレキサンダーの心遣いに感謝し、彼を心から敬愛した。のちにアレキサンダーが病死すると、彼女は悲しみのあまり死んでしまったほどであった。
 ペルシャ王自身も、家族への手厚い保護を伝え聞いて、「私の王座を継ぐべき人があれば、アレキサンダーをおいて、ほかにはない」と、感嘆したといわれています。
 アレキサンダーは、こうして味方はもちろん、敵の心までつかんでしまった。
 「人物」です。「人格」です。「人間」がどうかが根本です。  
 彼は常に、女性に対しては潔癖であった。部下の、女性への暴行者は極刑に処したという。  
 ― アレキサンダーは、戦利品の黄金などを、どうしたのでしょうか。  
 部下に、気前よく与えてしまったようだ。行く先々で、手に入れた富や財宝を、惜しげもなく臣下に与え、自分は何も取ろうとしなかった。
 ところが、よくしてあげすぎたのか、臣下のほうが彼よりも、身の周りを豊かに飾り、ぜいたくをするようになっていった。    
 
 自分自身を征服した「征服王」  
 その姿を見て、アレキサンダーは怒った。  
 「貴公らは、まだ私が教えなければわからないのか」
 「我らは、これまで勝利につぐ勝利をとげてきた。その『勝利の完成』とは何か。それは我らが、打ち勝った相手(ペルシャ)の(ぜいたくで堕落した)弱点や弊害に染まらないことなのだ」
 勝った相手と同じようになって、どうするのか ― この一言にアレキサンダーの真骨頂があった。  
 
 彼は「征服王」と呼ばれたが、実は、「自分自身を征服した」第一人者だったのです。そして戦い続ける「永遠の戦士」であった。  臣下たちを鍛え直すために、彼はこれまでよりも一層、困難な課題を与えたりもした。
 しかし、富裕になるにつれて、騎慢になり怠惰になるという傾向は止まらなかった。そうなると、命も惜しくなり、苦しい遠征も、いやになる。疲れてもいたでしょう。
 「もう戦いは、よいではないか」。彼らは、ついには「戦い続けるアレキサンダー」を誹謗し、攻撃するようにもなった。それでもアレキサンダーは我慢していた。 「他人に事目を施して、しかも悪口を言われるのは、王者の常である」と、泰然としていた。
 そして、友人、部下のためならば、どんな小さなで出来事に対しても、わざわざ筆を執り、激励や指示の手紙を書いた。  
 その温情は、「驚くべきものであった」と伝えられています。  
 まさに、彼は、人間としても「王者」であり、「大王」であった。  
 父であったマケドニア国王(フィリップニ世)が、こう言ったのも、うなずけます。
 「息子よ、マケドニアは、お前には小さすぎる。お前にふさわしい大帝国を、さがしに行け!」と。  
 
 東征の初期のこと、地中海の商業都市国家ティルスは、沖合の小島に新しい市を築いていた。島までは八百メートル、島の全周四・五キロ。高い城壁をめぐらしている。周りの海の深さは平均三、四十メートル。
 “難攻不落の要塞”と誇るのも当然だったでしょう。  
 陸からの攻撃は届かない。海から近づけば、船が狙い撃ちをされてしまう。だれも手が出せない。しかし、アレキサンダーは、あきらめない。彼には、あきらめるという発想そのものがなかった。
 どうしたか。何と彼は、「島を陸続きにしよう」とした。海中に堤防をつくって、島まで届かせようというのです。だれも、こんなことを思いついた人間はいなかった。ティルスの市民も、あざ笑った。ところがアレキサンダーが大量の土石を運び、山から木を切り出し、大工事を始めると、あわててしまった。「こいつは本気だ!」。
 アレキサンダーは、築いた堤の先端に、相手の城壁よりもさらに高い巨大な櫓を建てた。その上から、矢や石で攻撃したのです。相手も負けてはいない。“燃える船”を堤防に突撃させ、炎上させてしまう手に出た。
 アレキサンダー側は、島に近づくにつれ、海は深くなるし、季節がら、風も激しく吹き付けてくる。せっかく築いた堤防を、もう一度、つくりなおす一幕もあった。それでも攻撃は成功しない。しかし、アレキサンダーはまだ、あきらめない。
 今度は、二隻の大型船を連結させた。その上に攻撃塔を固定させて、海からの攻撃を繰り返した。島からは、塔を引き倒すための「カギつきのロープ」が飛んでくる。海にもぐって、錨を切断する敵兵もいた。  こうした激闘の末、ついに島の城壁の一角が崩れ、そこから兵士が突入して、勝利をもぎ取ったのです。双方が知恵と力の限りを尽くした攻防戦であった。アレキサンダーは、攻めて攻めて攻め抜いて、勝ったのです。  
 これで、ほぼ地中梅の東の混岸は制覇したわけですね。  
 ただし、もう一度、激戦があった。ガザの町です。  
 ここも商業で栄えた古い町です。 
 そう。しかし今度は、「島」ではなく「丘」だった。町は丘の上にあるために、抜群の「地の利」を誇っていた。   ― 前の鳥攻めの方法は使えない・・・・。
 もちろんです。「以前、成功したから今度も」というのは油断です。その都度、冷静に、最善の方法を考え抜かねばならない。  
 この(ガザでの)戦いも、まさにアレキサンダーらしい戦いであった。 「丘があって攻撃ができないだって?それなら、こちらも丘をつくればよいではないか!」。こうして、丘の上の城壁と同じ高さの丘を築いた。(相手の丘の斜面に、高い壇を築いた)その上に攻撃の塔を組み立てたのです。同時に、地下道を掘って、敵の城壁を陥落させた。  
 ありとあらゆる行動で、不可能を可能にしていったのですね。
 その集積が、東西の世界を結ぶ大偉業となって輝いたのです。
 大遠征といっても、一歩一歩の積み重ねであった。一日一日の勝利の結果であった。一人一人の奮闘の賜であった。
 
 大王は、あるときは「翼のある兵士たち」を使ったといわれる。
 もちろん人間に翼があったわけではない。インドに近づき、四方を断崖に囲まれた山中の砦を攻めたときのことです。 〈紀元前三二七年春。大王二十九歳の時。中央アジアのソグディアナの砦を攻略〉  
 相手は自信満々です。
 「この砦は、翼をもった、空飛ぶ兵士でないかぎり、近寄れないのだ!」
 「それならば」とアレキサンダーは決意した。「翼があることを見せてやろう」。砦を見おろす岩山の頂上に立って見せようというのです。
 呼びかけに応じて集まった勇者たち三百人が、夜中、ひそかに岩壁によじ登った。手にはテントを張るためのペグ(鉄釘)と麻の縄。
 墜落する者もいたが、ほとんどは明け方までに山頂に登った。下に砦が見えた。  
 夜が明けると、砦は大騒ぎになった。見上げると山頂に見慣れぬ兵士たちが大勢、旗を振っている。下からはアレキサンダー軍の声が間こえる。「『翼のある兵士』がやってきたから、もうあきらめろ!」  
 この心理作戦が成功して、相手は完全に戦意をなくしてしまった。  
 「もう、だめだ」 ― こう思ったほうが負けです。砦は占領されてしまった。  
 見逃してならないのは、「何がなんでも、やりとげる」というアレキサンダーの一念です。困難が大きいほど、彼の負けじ魂は燃えた。
 「翼」をもっていたのは「栄光」を求める彼の魂であった。その一念が、知恵を生み、行動を生み、彼を勝利の峰の頂へと運んでいったのです。
 「ここで、へこたれてはいけないぞ」。アレキサンダーは、あるとき、一人の兵士に声をかけた。その兵士は、はじめ大王の貴重品をラバに満載していた。そのうちにラバが疲れたので、しかたなく自分で背負っていった。
 しかし過大な荷物に疲れ果て、とうとう投げだそうとした、その瞬間、大王から声がかかった。事情を聞くと、アレキサンダーは、「歩み通せ。そして、そこに持っている品物を、全部、自分のものにせよ」と励ました。
 プルタークの『英雄伝』が伝える話です。もの惜しみしないアレキサンダーの性格がよく出ている。  
 それだけではない。彼は兵士一人一人のことを、じっと見ていた。その健康状態、心の動き、今、何を与えるべきか、よく知っていた。
 そして「勝利の蜜は君たちが取れ。私は、そのために先頭に立つ」と、うまずたゆまず努力した。「歩み通したならば、全部、自分が得をするのだ」。皆が、こう信 じた。勇気百倍だったでしょう。  
 
 インドヘの道。それは過酷な道だった。雪のヒンドウクシュ山脈を越えたあとは、すぐに灼熱の砂漠が続いた。五○度から六○度という暑さ。内臓まで干上がってしまうような渇き―。
 アレキサンダーは、「部隊が進む道のわきに立ちつくし、部隊全部が通りすぎるまでは、何も食べず、何も飲まず、武装のまま、わが身を休息させようともしなかつた」(クイントウス=クルティウス『アレキサンダー大王史』  ― アレキサンダーは、富もいらない、楽をしたいのでもない。それでは何のために、あんな苦しい遠征をやったのかと、つい思ってしまいますが・・・・・。
 彼には「大願」があった。「人類はひとつである」という理想(ホモノィア)を抱いていた。その「理想を実現する」ことが、目的だったのです。
 古い権威を壊し、新しき秩序、新しき「開かれた世界」をつくろうとした。  
 
 プラトンの弟子アリストテレスが、彼の家庭教師だったことは有名です。しかし、この理想については、アレキサンダーは、当時の大学者アリストテレスを大きく超えていた。  アリストテレスは、他のギリシャ人と同じく、ギリシア人以外は「生まれながらの」野蛮人であり、敵であるとしていた。実は、この偏見は、近代の植民地主義にも大きな影を落としているのですが・・・・ 。
 アリストテレスは、アレキサンダーに手紙を書き、「ギリシャ人を友人および身内として重んじ、バルバロイ(非ギリシャ人)は動物もしくは植物として取り扱え」と忠告しています。
 しかし、アレキサンダーは、そう思わなかった。  
 「人は『生まれ』によって自由人であったり、野蛮人であったりするのではない。人は『教育』によって自由人にも野蛮人にもなるのである」「友とは善人のことだ。敵とは悪人のことだ」。こう信じていた。
 彼のこの革新性は、マケドニアという、ギリシャの「辺境」の生まれだったせいもあるでしょう。
 また“心の師”であったアキレスの時代のおおらかさに学んだのかもしれない。〈アキレスは、トロイ戦争(大王より約九百年前)の英雄。唯一の弱点の踵(かかと)を射られて死んだところから、アキレス腱(けん)の名が起こった)  
 アキレスが活躍した「ホメロスの世界」には、アリストテレスの時代のような偏狭な民族主義が、まだなかったのです。ホメロスの(トロイの戦争を描いた)叙事詩「イリアス」が、アレキサンダーの“一書”だった。  
 あるとき、戦利品の中に、目もくらむような宝石箱があった。
 「この中に、何を入れるのがふさわしいと思うか?」  
 大王の問いに、側近は、思い思いの意見を述べた。アレキサンダーは、すべて聞いたあとで言った。 「私は思う。これに収めるにふさわしいのは、『イリアス』以外にない」  
 これほど彼は文化を愛した。哲学者であった。この“一書”に従い、“心の師”(アキレス)に従って行動した。彼が、後世の偏狭さをもたなかった理由の一つが、ここにあるでしょう。また、エジプトで「人類はひとつ」の啓示を受けたし、実際に広い世界を見て、彼の確信は深まった。  
 
 そしてアレキサンダーの悲劇は、この彼の「大願」を周囲が理解しなかったことです。
 強い信念がなければ、人間は、ほどほどで満足してしまう。ゆえにインドまで到達したとき、「もう、戦いはよいではないですか」と周囲は言い始めた。
 一方、アレキサンダーは、「戦いは、いよいよ、これからだ」と思っている。  
 「今、退いたら、これまでの苦労が、全部、ふいになるのだ」  
 懸命に説得したが、軍隊は聞き入れない。結局、断腸の思いで、インドから引き返した。  
 私どもは、引き返してはならない。断固、前ヘ、また前ヘ、「大願」ヘ向かって、きょうも進まねばならない。最後まで、ヘこたれず、歩み通さねばならない。
 ある将軍は言った。「井戸を掘るならば、水が湧くまで掘れ!」と。  
 勝ってこそ、歴史ができる。道ができる。道ができれば、後から、より多くの人々が続く。「勝つ」ことは、茨を切り開いて「道」をつくることです。  
 
 アレキサンダーの遠征も多くの犠牲を出した。「東西を結ぶ」という理想も、時代の汰況から「武力による征服」となり、侵略者としての顔は覆うべくもない。そのうえ、理想を実現する時間がなかった。
 インドから帰還する途中、(再訪した)バビロンで熱病に倒れ、三十二歳という、あまりにも短い生涯を閉じた。マラリアだったともいわれています。
 大王は死の寸前まで、西方への新しい遠征計画に熱中していたという。最後まで「前進!」の意気は衰えなかった。臨終が近づき、後継者について聞かれたとき、
 「もっとも強い者に ― 」と遺言したという伝説は有名です。  
 大王の死後、基盤が固まっていなかった帝国は崩壊を始め、「後継者戦争」が続いた。〈ほぼ四十年にわたる戦乱の結果、エジプトを大王の部将プトレマイオスが抑え、プトレマイオス朝エジプトを開く。その最後を飾ったのが女王クレオパトラ(紀元前三○年、アレクサンドリアで自穀)である。これに、セレウコス朝シリア、アンティゴノス朝マケドニアを加えた「へレニズム(ギリシャ風文明)三大王国」ができ、一応の安定をみた〉  ― アレキサンダー大王は、彗星のごとく、一瞬の光亡を放って去っていった・・・・・。
 そういう見方もできます。
 しかし、鮮烈なる彼の戦い、彼の勝利は、人々の心を揺さぶり、長く影響を与えたのです。
 今でも中央アジアには、大王の子孫であると誇っている人々がいるという。 に、イスラムの世界でも、大王は「イスカンダル(アレキサンダーのアラビア語)」と呼ばれ、多くの「イスカンダル物語」が語られた。大王が中国まで行ったという話までつくられ、創造の絵画もたくさん残っています。  
 このイスカンダルが、インドの軍神スカンダとなったという説がある。そのうえ、スカンダは仏法守護の諸天の一人、「韋駄天(いだてん)」として、仏典に取り入れられ、日本にも伝わっています。
 足が速いことを「韋駄天走り」と言いますが、もとはアレキサンダーのことだったとは知りませんでした(笑い)。  
 アレキサンダーの「疾風のごとき速さ」が、よほど印象的だったのかもしれないね。  
 
 また、大王は、行く先々でギリシャ風の都市をつくり、アレクサンドリアと名づけた。ここが「文化の拠点」となって、大きな波動を周囲に広げたのです。  武力の力は短く、文化の力は長い。プルターク(の『英雄伝」)によれば、七十のアレクサンドリアをつくったとのことだが、現在、わかっているのは半分もないでしょう。ひとくちに都市をつくると言っても大変です。大王は、土木工事の技師や建築家、工人、学者、文北人、金属製錬の技術者、多くの芸術家、商人をも引き連れていた。遠征のもようを記録する係までいた。  大王の軍は「動くポリス(都市国家)」呼ばれたほどです。こうした多彩な人々の手によって、道路がつくられ、都市がつくられていったのです。  もうひとつ、アレキサンダーによる時代の激動は、インドに重大な変化をもたらした。あるとき、(インド北方のタクシラにいた)大王の幕舎を一人の青年が訪れた。彼はマガダ国から逃亡してきたという。マガダ国というのは、その少し前、釈尊が活 躍したことで私たちにも、なじみが深い。  
 王舎城とか、阿闇世王も、マガダ国ゆかりの名ですね。  
 法華経が説かれた霊鷲山も王舎城の東北にあった。「東北」は仏法上、深い意味をもっているのです。  青年が逃亡してきたころ、マガダ園はナンダ王が治めていた。青年はナンダ王の怒りを買ったとも、有能すぎて危険視されたともいわれています。  青年は、アレキサンダーに、ナンダ政権下の腐敗と、人々の心が離れていることを訴え、「今、進軍すれば必ず打ち破れます」と勧めたという。
 しかし、アレキサンダーは、部下の反対で、西へ帰らなければならなかった。  
 青年は残念がった。そして思った。「よし、彼にできて、我にできぬはずがない!それならば私が立って、新しい国をつくろう!」と。
 アレキサンダーも人間、我も人間だと。一人から一人へ炎が燃え移る―情熱の連鎖です。そして彼はナンダ王の政権を倒し、やがてインド史上最初の統一国家(マウリヤ王朝)を打ち立てたのです。
 彼の名はチャンドラグプタ(月護王)。〈ギリシャ史料ではサンドロコットゥス)  
 彼こそは、「インドの転輪聖王(てんりんじょうおう)アソカ大王」の祖父であった。〈アソカ大王は、マウリヤ王朝の第三代の王)
 いわば、アレキサンダーの命をかけた戦いこそが、アソカ大王を誕生させたのです。  

 


 

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