アレクサンダー大王とクレオパトラ ルネサンス27 池田SGI会長はエジプトのホスニ文化大臣と、古代エジプトの文化について語り合った。話題はアレクサンドリアの町の由来であるアレクサンダー大王から、この町でドラマを演じたクレオパトラ、そして古代の悲劇の王ツタンカーメン、更に「人間」と「文化」と「未来の世界」へと広がっていった。
池田SGI会長
アレクサンドリアで再びお目にかかれて、本当にうれしいことです。ここは大臣のご出身地であり、アレクサンダー大王(紀元前三五六〜三二三年)ゆかりの地です。大王については、日本で高校生向けの小説『アレクサンドロスの決断』を出版し、幸い好評でした。私の少年時代からの憧れです。プルタークの『英雄伝』の中でも白眉のところでしょう。
ホスニ文化大臣
私は池田先生にお会いすると、常に「善」なるものを与えられます。人生の幸福という点で、個人的に大きな影響を受けました。しかも、いつも何かを考え、何かを探究しようとされている。その活発な知性の力に打たれます。
七不思議のひとつ「大灯台」
会長 恐縮です。ところで世界の七不思議の一つ「アレクサンドリアの大灯台」は、今、その跡はどうなっているのでしょうか。〈紀元前二世紀の旅行家フィロンによる「世界の七不思議」とは@エジプトの大ピラミッドAバビロンの空中庭園Bオリンピアのゼウス神像Cロードス島の巨人像Dアレクサンドリアの大灯台Eハリカルナッソスの霊廟Fエフェソスのアルテミス神殿〉大臣石だけが残り ― それらの石も使って作った要塞が立っています。〈十五世紀後半、エジプトの回教の君主カイト・ベイが建設〉
会長 大灯台は、あれほど多くの人々を照らしたのですから、絵は残っていないのでしょうか。〈アレクサンドリアは地中海の貿易の中心港で、エジプト、アラビアをはじめとして広く地中海諸地域の、あらゆる物が交易された。多数の船の安全のために、紀元前二七九年ごろ(アレクサンダー大王の死から約五十年後)、当時の最高技術をもって大灯台がつくられた〉
大臣 想像図なら残っているのですが。
大王の墓は
会長 アレクサンダー大王自身の遺跡や遺品はありますか。
大臣 世界中の学者が、大王の墓を探していますが、実は、今、私たちがいる、この宮殿(ラス・エル・ティン宮殿)の下にあるとの説があります。
会長 それは素晴らしい話です。大臣ただ、近くのモスク(回教寺院)の下との説もあり、そちらのほうが有力です。ともあれ、「大王の墓」の夢は、世界の考古学者の心を狂わせました。
仏教者も訪れた
会長 大王は、インドのアソカ大王と並んで、歴史を変えた大人物です。ともに「文化」を愛しました。〈アレクサンダーの死後、約百年、アンカ大王の西方への使者は、このアレクサンドリアに達している。紀元前三世紀、この港湾都市の道を、仏教者が歩いていた。またインドの婦人やインドの犬、牛の姿もあったという〉
大臣 アレクサンダーは、天才的哲学者(アリストテレス)の弟子でした。エジプトでは、アンモンの神殿に巡礼し、彼は神格化されました。〈大王は、どの国でも土地の風習、人民を尊重した。エジプトのメンフィスでは神官が彼をファラオ(神と一体とされた王)に推戴し、アンモンの託宣所では神の子として遇された。彼はエジプトでギリシャ文化を振興し、その拠点として紀元前三三一年にアレクサンドリアを建設した〉
会長 三十二(三十三)歳で死んだのは、いかにも惜しいですね。子供も暗殺されてしまった。しかし、東西の文明を融合させた、その業績は不滅です。
大臣 その通りです。彼は偉大なギリシャの遺産・哲学を広めました。肖像画など十分な記録がないのが残念です。大王の時代(約二千三百年前)は、私たちにとっては、そんなに古いことではないのですが
会長 “七千年の文明”を誇るエジプトの文化大臣ならではのお言葉です。〈十七日、訪問したカイロ考古学博物館のメイ・トラッド主事も、「数百年など、ほんの短い時間です」と。エジプトでは時間の尺度が長いようである。ゆえに少々の伝統の長さなど問題にならない。「何をなしたのか」が焦点となる〉
栄華の陰で
会長 アレクサンドリアは、女王クレオパトラ(紀元前六九〜前一二〇年)の舞台でもあります。〈アレクサンドリアはプトレマイオス朝エジプトの首都。クレオパトラは、その最後の王〉
大臣 (ローマの将)アントニウスとクレオパトラが過ごした素晴らしい宮殿がありました。
会長 彼女は純粋なエジプト人ですか?
大臣 そうとはいえません。〈プトレマイオス王朝は、かなりギリシャ化されていた〉 会長 毒蛇による自殺は史実でしょうか。
大臣 そう伝えられています。絵もあります。
会長 どうして毒蛇を使ったのでしょう。
大臣 コブラの毒は強いので、苦痛が短いし確実だからでしょう。
会長 今もいますか。
大臣 (エジプトの)南の方にはいます。
会長 栄華の女王、絶世の美女、国を守るために身を賭した指導者 ― クレオパトラの評価はさまざまですが、自殺に至った心情を思うと、「人間の幸福とは何か」を考えずにおれません。
ツタンカーメン王の父と宗教革命
会長 ツタンカーメン王(紀元前一三七〇年ごろ〜前一三五二年ごろ)も、殺害されたという説がありますね。
僧たちの「富」と「権威」と「専横」
大臣 王の時代は、不安定な時代でした。王の父・イクナトン王(アメンヘテプ四世)が行ったアトン神への信仰統一事業が、多くの聖職者の反発を招いたのです。子供のツタンカーメン王の治世は、そうした聖職者に牛耳られていました。
会長 悲劇の王でしたね。父の志を継げなかった ― 。
〈イクナトン王の宗教革命は、伝統に忠実な古代エジプト史のなかで異彩を放っている。彼は「人類最初の唯一神教者」とされる。それまでの多神教を排して、「アトン」という太陽神に統一しようとしたのである。究極のものは“ひとつのはずだ” ― 人類の宗教・精神史上、大きな意味をもった改革であった。その背景には、聖職者・神官たちの莫大な富と権威、専横があった。これ以上、放置はできない ― 。
「余は宣言する。血と殺人を認めるような神は存在しないと」「死によって平等となる前に、この世で平等な人間となるよう努めよ。余は神官の学校を閉鎖する。なぜか。彼らは一度たりとも、信仰の奉仕を行ったことがないからだ」
王は都もテーベからアケタトンに移し、「アマルナ時代」とよばれる写実的芸術が花開く時代となった。、
しかし聖職者たち反動勢力が盛り返していく。王の死後、九歳で即位したのがツタンカーメン王である〉
大臣 ツタンカーメン王は当初ツタンカートン(アトンの生ける姿)と名のっていましたが、反動の力に負けて、(もとのアメン信仰に帰り)ツタンカーメン(アメンの生ける姿)と王名を変え、テーベに戻りました。
会長 革命は、絶対に負けてはならない。「正義」を掲げた以上、戦って戦い抜いて、勝たねばならない。勝たねば悲劇です。
大臣 ツタンカーメンの「黄金のマスク」はカイロ考古博物館にあります。これは王のミイラに直接かけてあったもので、魂が体に帰ってきた時に、顔がわかるようにとの考えからです。ミイラは四重の枢に入れてありました。
〈カイロ考古学博物館で会長は黄金のマスクや枢、副葬品の数々を見、若き悲劇の王に思いをはせた〉
会長 日本でも三十年近く前(一九六五年=昭和四十年)、公開され、大変な反響でした。
大臣 そうですが。今は国外に出すのが、大変難しくなっています。“宝”を故郷へ
会長 人類の宝ですから、慎重なのは当然でしょう。エジプトの貴重な財宝が、おびただしく外国に持ち去られましたね。“ふるさと”へ返る日の早く来ることを私は願っています。
大臣 おっしゃる通りなのです。大事な問題です。買ったものならともかく、主なものだけでも返してほしい。現在、大きな博物館も構想していますし、“宝”が故郷に戻れば、どんなに素晴らしいことか。
会長 すぐには困難でしょうが、人道上、文化の王道上、次第に、そういう方向へ向かっていくと信じます。
「芸術」は「人間」の証
大臣 カイロ考古学博物館には、他に“世界一の彫刻”というべき「カフラー王の像」があります。〈ギザの第一ピラミッドの建造者の座像。高さ一六八センチ、硬い閃緑岩でできている。博物館のトラッド主事によると、玉座の図案は上下エジプト統合の象徴として、パピルスと蓮華を合わせたもの〉
また有名な着色の肖像(「王子ラーホテプと、その妻ネフェルト」)がありますが、これが発見された時のことです。墳墓の奥の部屋に何かあるからと、ロウソクをもって入っていった人が、ふるえながら出てきました。「生きていますよ!」 ― 目が光っていたのです。
会長 「お伽の物語」を聞いているようです。
大臣 目の周りには銅が塗られていました。酸化して(アイシャドーのように)黒くなることを計算に入れていたのです。
会長 すごい知恵です。人類は常に「芸術」を生み、「美」に挑戦し続けてきました。芸術の心こそ人間の心です。
大臣 人間は人間です。人間は、どこまでも人間であり、動物はどこまでも動物と思います。
会長 その「人間の心」を「芸術」「文化」が表現しているゆえに、「文化」で人間の心を結ぶことができる。「美」は国境・民族・信条の違いを超えます。「心」が結ばれることが、一切の根本です。
大臣 人類を救うのは文化ですね。
会長 軍事力だけでは永遠に平安はない。経済力だけでは結局、利害である。いわば「文化力」こそ二十一世紀に高めていくべき力です。その意味で、私は大臣を「文化戦線の同志」と思っています。
大臣 ありがとうございます。私も同じ気持ちです。
|