ルネサンス57
婦人の知恵は偉大です。
アソカ大王のおじいさん(チャンドラグプタ=月護王)が、古い政権(マガダ国のナンダ王朝)を倒すに当たって、「子供を叱っているお母さんの言葉」に学んだという伝説がある。
彼はカースト(インドの階級制度)も低く、その勢力も弱かった。まともに向かっては、勝ち目がない。 彼と同盟軍はまず、倒すべき王国の辺境部分を、かく乱した。
都をはじめ中心地帯は、王とのつながりで固まっている。周辺の、比較的、不安定なところへ攻め込み、見方にし、その勢いで中心部を陥落させたのです。腐敗した王国に見切りをつけて、中心部から、彼に内応した者もいたかもしれない。
彼がこの作戦を思いついたのは、ある婦人が、“皿の中心部から食事を食べている了供”を叱ったのを見た時という。
「バカだね、お前は!」と言ったかどうかは、わからないが(笑い)、「まん中は、まわりよりも、ずっと熱いのよ」と、お母さんは教えていたのです。 ― そこでヒントを得て、周辺のもろい部分から攻めた・・・・。
もちろん、こういう戦法が、いつも成功するとは限らない。状況によっては、一気に本丸を攻めたほうがよい場合があるのは当然です。
ただ、伝承にせよ、彼が、「一庶民の婦人の姿にも学んだ」という謙虚さに注目したい。いわんや、ともに戦っている婦人の知意、婦人の意見を大切にすることは、リーダーの務めです。そうすれば、リーダー自身が得をするのです。
もちろん、大局を見失ったり、情報の真偽を確かめないことはいけない。しかし、リーダーに「皆の知恵を大事にしていこう」という一念があれば、自分たちだけでは思いもよらない知恵が集まってくるものです。 〈月護王は、マガダ国を支配下に収めた後、アレキサンダーが去ったインド西北部に進軍。やがて群小国家を制圧し、インド史上初の統一帝国を築いた〉
月護王には優秀な参謀がいました。カウティリヤ(チャーナキヤ)という知識人です。かつて彼はナンダ王の宮殿を訪れたとき、居並ぶ人々の前で、王に不当に侮辱された。報復を決意した彼は、旅の途中で見つけた少年に王となる教育を授けたと伝わっています。 その少年が月護王となったのですね。
そうです。カウティリヤの知謀と、月護王の武勇という名コンビによって、ナンダ王朝を倒したのです。
彼らは、状況に負けない人間だった。抑えられても、叩かれても、「何くそ!」と立ち上がり、押し返し、攻め込む人間だったのです。
強い人間にとっては、人生は愉快です。弱い人問にとっては、人生は悲哀です。 そして、だれよりも、「強い人間」になるための信仰なのです。いっさいは、そのために自分自身を鍛えているのだという自覚があれば、よいのです。
参謀は大事です。カウティリヤは、新政権の明確な展望をも抱いていた。
古代インドの政権論
“王は人民に奉仕せよ 悪政の王は交代せよ”
彼の政治論「実利論(アルタシャーストラ)」の英知は、現代にさえ通じるといわれている。
同時代のアリストテレスの「政治学」や、マキャヴェリ(イタリア・ルネサンス期の政治家・思想家)の「君主論」と比較する学者もいます。
「実利論」の内容は、あまりにも多岐にわたるので、簡単には論じられない。国王の義務、大臣らの職務、貿易、地方自治、裁判、さらには婦人の権利、老人や困っている人の保護、税金、外交、パスポートのことにまで論及しています。
なかでも面自いのは、国王は王座に就くと同時に、「人民への奉仕」を誓約しなければならないと明記していることです。
“もしも国王が悪政をすれば、人民は彼を退座させ、他の人に交代させる権利をもつ” ― 古代インドに、こういう思想があったことは驚くべきことです。
指導者は労働者である、政治家は労働者であると考えられた。そして「国王は一番の重労働者である」と。
「もし王が活動的であれば、民衆も活動的であろう。民衆が幸福であり、富んでこそ、王も幸福である。ゆえに、王は自分自身の楽しみを悪とみなし、民衆の楽しみを善とみなすべきである」
もちろん、この理想通りにいったわけではないでしょう。しかし、ここには為政者としての永遠の根本原則が輝いています。 この理想を体現した政治家こそ「転輪聖王」ですね。月護王のアソカ大王が、その一人とされました。
そう。「転輪」の一つの意義は、「止まらない」ことです。
黄金の車輪が、いつでも、どこへでも、転がっていくように、民衆の福祉のための王の活動と徳が、いつでも、どこへでも、何ものにも妨げられず、地の果てから果てまでも転展し、広がっていく。それが転輪聖王です。
休まない。止まらない。常に「民衆のため」に、力の限り戦っていく。その人は、政治家でなくとも、「転輪聖王」の一分と言ってよいでしょう。 「王の中の王」 ― アソカ大王の奮闘は、西洋の人々も含めて、古来、あらゆる国から絶賛されています。 インドのネルー首相は、「わたしは、王様だとか、貴族だとかいった連中を、こきおろすくせがありすぎるのではないかと思う。わたしはめったに、こういった連中に感心したり、敬意を感じたりしたためしがない」と述べながら、アソカ大王だけは例外であると語っています。
〈『父が子に語る世界歴史』大山聡訳、みすず書房)
そしてH・G・ウェルズ(イギリスの作家・文明批評家)の次の言葉を引いておられる。
「歴史の行間を、陛下、殿下、閣下、猊下等々の称号で埋める君主の名前がかずかずある中で、アショーカの名は燦として、ひとり光芒を放っている。
それはヴォルガ(ロシアの大河)から遠く日本にいたるまで、今日なお頌えられてやまぬ明星である。
中国、ティベット、またその教義はすでに失われたインドですら、かれの偉業は語り継がれている。
コンスタンティヌス(三〜四世紀のローマ皇帝)やシャルルマーニユ(八−九世紀の欧州統合者。カール大帝)の名をかつて聞いたことのある人びとよりも、一層多くの現存する人々が、いまなおかれの記憶をを胸中ふかく抱いているのである」(前掲書、カッコ内は編集部)
二千二百年前のアソカ大王が、今なお人類の胸に生きている、と。 彼が「戦争の悲惨」をきっかけに回心したことも、創価学会が、第二次大戦の焦土のなかから、平和のために立ち上がったことと符号します。
〈アソカ大王は、インド南東部のカリンガ国(現在のオリッサとマドラス州の一部)との戦争の際、あまりの悲惨さに痛恨の心を抱いた。十万人が虐殺され、その数倍が死に、十五万人が捕虜となったという。以来、大王は戦争を放棄し、「法による統治」を決心した〉
戦乱で親と子が、夫と妻が、師と弟子が、友と友が ― 痛ましい別離が数かぎりなく続いた。嘆きの声が天地をおおった。
この地獄図を前に、大王は苦悩にさいなまれたのです。 「人間は、こんなことのために生まれたのか?かけがえのない生命ではないのか?幸福になるための人生ではないのか?」
そして慚愧の涙から立ち上がったとき、武器を捨てた彼の手には、かわりに、しっかりと「法」の剣が握られていたのです。 「法(ダルマ)」ごとは、仏教徒だけではなく、あらゆる宗教、あらゆる人種、生きとし生けるすべてのものに通じる普遍の「真理」のことです。
また、その真理に従って生きるという「正義」の意味にも、「徳」とか「文明」の意味にもなる。いうなれば「生命の道」であり、「人間の道」です。 アソカ大王は「民衆のために」生きようとした。彼は言っています。
「世のすべての人の利益のために働くことよりも崇高な事業はない」
「私みずから民衆に親しみ、近づくことが、私がなせる最上のことである」
しかし、それは決して、恩着せがましい気持ちではなかった。
反対に彼は政治家として、自分が民衆に支えられ、民衆のおかげで活躍できることを自覚していた。 「私の努力は、すべて人々ヘの恩を返すためである」
政治とは、生きとし生けるものへの報恩の行であるというのです。 仏法では「一切衆生の恩」を説きますが、彼は、「民衆への報恩」のために全身全霊で走り抜いたのです。
そういう彼を、民衆もまた熱烈に支援したのです。
アソカ大王は一国の指導者として、カリンガ国との戦争を機に、心が変わった。
彼の心が変わったゆえに、一国が変わり、歴史が変わった。
「最も偉大な政治家は、最もヒューマンな政治家である」という。〈ドイツの哲学者フォイエルバッハの言葉〉
大王は、ヒューマニズムの政治に挑んだ。
いかなる時、いかなる場所でも、政務の報告をせよと命じ、休みなく働いた。
福祉に力を入れ、病院や公園、井戸や道路を整備し、貧しい人を保護し、旅行者のための筒易宿泊所をつくり、婦人の教育のための施設を設け、道に植林をし、薬草も輸入し栽培された。 西洋で福祉の考えが広まる千年以上も前のことです。
殺生を、できうるかぎり、やめさせ、動物のための病院もつくった。 また、熱心に仏教を信仰しながら、指導者として、絶対に仏教を特肌扱いしなかった。
大改革ですね。
(名誉会長)そうです。
古代だから遅れている、現代だから進んでいる、とはいえない。その国が現に進歩しているか、向上しているか、向上のために「変わる勇気」があるか―それが「人間」の観点から見た、進歩の国かどうかの基準でしょう。
「進歩的な国では変革は不可避である。変革は不断である」と演説したのは、(十九世紀)イギリスの政治家ディズレーリです。〈このあと首相に〉
カーライル(同時代のイギリスの思想家)も「変化は苦痛だ。しかし、それは常に必要なのだ」と言い、同時に「改革は、結局は、道徳的改革のほかは役に立たないだろう」と、根本的な次元から論じています。
アソカ大王の改革は、大王自身の「生き方の革命」に発し、民衆にその模範を示しながら、「変化」を具体的政策に結実させていった。 大王の時代に、仏教はインド全体に、そして他国にまで広まったのですね。
(名誉会長)大事なことは、彼が仏教を、閉ざされた僧侶の世界から解放したことです。ネルー首相は言っています。
「ダルマ(法)とは、アショーカにとっては、空虚な祈祷や、プージャー(供養)や、儀式の執行のことではなく、よき行いと、社会の向上の実践のことだった」(『父が子に語る世界歴史』と前掲書)
そのころ、仏教は、出家者中心の傾向が強かった。しかし、大王は在家として、信奉するダルマ(法、真理、正義)を、「社会の現実」に生かそうとした。
この点を、中村元博士は「世俗的国家のうちに宗教的奉仕の精神を具現しようとした点においてアショー力王は、人類の歴史において不滅の意義を有する」(『インド古代史』、春秋社)と、高く評価しておられる。
大王は、政治の在り方を変えた。とともに、仏教を社会に開く行動をした。大功労者といえるでしょう。 (名誉会長)大王は政治家として、民衆の幸福に尽くした。
「私は満足しない。世のすべての人々が利益を得るまでは。それまで私は努力し、政務に励む」
一人残らず幸福にせずにおくものか、一人ももれなく正義のメッセージを送らずにおくものか―大王は、決して途中で満足することなく、一生涯、最後の最後まで努力したのです。〈統治は三十七年にわたったという〉
困難の壁もあった。反動もあった。陰謀もあった。しかし、ひとたび改革を決意した彼は引き下がらなかった。
その精神を受け継いだネルー首相は語っています。〈イギリスの植民地政策とインドの旧制度を非難して〉
「きのうの世界は死んだ。割れた卵は、もうもとには戻らないのだ」と。
(名誉会長)アソカ大王は「行動の人」であった。
法勅に「私は、正しいと思ったことは、すべて我が身で実行したい。そして正義を実現したいと願う」と ― 。 アレキサンダー大王からアソカ大王へ
歴史に輝く「力走のリレー」
王の道を通って「平和の使節」が
(名誉会長)アレキサンダー大王も戦った。「東ヘ!もっと東ヘ!」と。
そして彼が広々と開いた「東西交流の道」を通って、アソカ大王は「平和の使節を送った。「西ヘ!もっと西ヘ!」と。 ― 使節はエジブトや、バルカン半島まで向かっています。
〈西方へはシリア王、エジプト王、マケドニア王、キュレネ王、エピルス王のもとヘ、また、南方は南インドの諸民族やスリランカなどへ送られた〉
(名誉会長)西方の王国は、すべて、アレキサンダー大王の帝国を分割したものです。
アレキサンダー大王は、ギリシャ的文明の世界を一気にインドまで拡大した。このあと数世紀にわたって、西北インドをはじめ多くの「ギリシャ人仏教徒」がいたという。また、アソカ大王の宮廷でも、祖父の時代以来、ギリシャ人が活躍していました。 ―アレキサンダー大王は仏教を知っていたでしょうか。
(名誉会長)興味深い問題ですが、確かなことはわからないようだ。
大王が駐留したタクシラは、当時、商業の中心であり、仏教をはじめ新興の宗教が)伝わっていたとされる。 仏教と同じ時期に出発したジャイナ教の修行者と大王との問答が、伝えられています。大王は西へ帰るとき、彼らのうちの一人を同行させてもいます。
ただし、仏教徒との接触は「可能性があった」という以上には言えない。 一方、アソカ大王は確実に、アレキサンダー大王の執念の戦いを、よく知っていたでしょう。
アレキサンダーの風貌を、おじいさん(チャンドラグプタ)から、聞いたかもしれません。 (名誉会長)「征服王」アレキサンダーは、若さゆえか、時に激情にかられることがあっても、常に、「己自身を征服しよう」とした賢者であった。
また、結果として「文化による征服」をなした。
とはいえ、時代の状況から、実際の行動は、武力による征服です。 これに対し、アソカ大王は、「武力による征服」の悲惨と、むなしさに目覚めた。
そして、当時の全世界に向かって告げた。 「ダルマ(法、正義、真理)による征服こそ、無上の征服である」「この征服のみが、真の征服である」
この信念から、彼は諸国に使節を送ったのです。
世界市民による「新時代」の開幕です。 使節は途上で、人と動物に医療を加え、井戸を掘り、日かげのための樹木を植え、薬草を分け与えて育てさせた。 その土地、その土地の人々の福祉のために奉仕した。
「一種の古代の平和部隊であった」(G・ウッドコック)と特筆ざれています。 こういう具体的な「民衆への奉仕」によって、仏教は共感を広げていったのです。
(名誉会長)そう。「西へ渡った仏教」は、通常考えられている以上に、大きな影響を西洋に与えたようだ。
ギリシャのストア哲学、また、キリスト教の発生の土壌にも深い関係があったと論じている学者は少なくありません。
アレキサンダー大王が開いたエジブトのアレクサンドリア。このころすでに「人口百万」といわれた文化の大拠点です。七十万冊という大図書館もあった。
昨年、私も、この古都を訪間しました。 この都の大路を、アソカ大王の送った仏法者たちが歩き、道ゆく多彩な民族の人々と微笑みをかわし、青き地中海を見つめながら平和について語り合っていた ― そうした光景を思い描くとき、私は思うのです。
「アレキサンダー大王も、きっと喜んだだろう」と。 アレキサンダーは、遠征に出かける前、すべての財産を部下に分け与えてしまった。「それでは一体、王は何をもって出発されるのか」と聞かれて答えたのが、あの有名な言葉です。「我がもてるものは、たた『希望』のみ!」
東西を結ぶという、その「希望」は、形を変えて、アソカ大王に受け継がれたといってよいでしょう。歴史とは、この「希望」というバトンを、人から人ヘ、世代から世代へ渡しゆくリレーかもしれません。
(名誉会長)アレキサンダーは挑戦した。「我が可能性をためさん」と。
アソカ大王は奮闘した。「我が努力に限りなし」と。
人間が命を込め、魂を込めた「希望」は、いつか必ず、バトンを受け継ぐ人が現れるものです。 「世界史とは」と、(フランスの)歴史家ミシュレは書いています。「絶えまなき闘争が生む、永遠の人間劇にほかならない」(「世界史『序説』」)
同じ劇ならば、私たちは「喜びの劇」をつづりたい。世界の歴史に「栄光のドラマ」を刻みたい。 攻めて攻めて、勝ち抜いたアレキサンダー大王のごとく。
正義に生きて生き抜いたアソカ大王のごとく。
新世紀という「夜明け」に向かって ― 。
ルネサンス80
アショカ大王の法勅を刻んだ岩が今回、展示されています。〈インド・ギルナールの岩のレプリカ〉そのなかに、こうある。「どのような時にも、どこにおいても、上奏官報告する役目の役人は人民に関することを私に奏聞しなければならない」「なぜならば、私には、一切世間の利益がなされねばならないと、考えられるからである」「実に、一切世間の利益よりも重要な事業は存在しない」(塚本啓祥著『アショーカ王碑文』、第三文明社刊・レグルス文庫) アショカ大王は“民衆の利益よりも大切なものはない。だから、自分が食事をし、寝ていても、移動中でも、遠慮せずに、報告すべきことを直ちに伝えよ。私も直ちに手を打つから”と命じているのです。指導者の模範です。指導者は「自分中心」ではなく、「民衆中心」で考え、動き、生き抜いてこそ指導者なのです。またガンジーは言っています。
「万人の福利を願うことが自らの福利につながる。自分や自分の所属する小社会のみの福利を願う人は利己的であって、そうすることは、けっしてその人のためにはならない」(K・クリパラー二ー編『抵抗するな・屈服するな』、古賀勝郎訳、朝日新聞社刊)
人のため、万人のため。それは、そのまま自分のためになる。個人も、国も、利己主義は結局、「自己を利する」こともできなくなるのです。ネルーも書いています。「われわれはただ自己にのみ関心をもつのか、それともより大きな善、社会の、われわれの、また人類の幸福に関心をもつのか?けっきょくのところ、このより大きな善は、われわれを包括するものではあるまいか」(ネルー著『父が子に語る世界歴史』第一巻、大山聰訳、みすず書房刊)
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