エンリケ航海王子(1394〜1460年)

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 今日より37  
 イベリア半島、当時は人口260方。ボルトガル王ジョアン1世の3男。若くして(21歳)北アフリカのイスラム世界にふれ、大ボルトガル建設の大志を抱く。華やかな官廷生活を捨て、イベリア半鳥の南端ザグレス岬に移り住み、世界初の「航海学校」を創設。あらゆる分野の一流の学者をまねく。地図制作、造船、地理学、数学、医学、天文学等々。人種は問わない。ユダヤ人、アラビア人、そして、ルネサンスの先進国イタリアからも一級の人材の知性があつまる。  
 結婚もせず、「海と結婚した王子」とよばれた。実験航海が失敗すれぱ、王子はその損害を補償したため、借金だらけであった。世界を変えた「大航海時代」も、まず、エンリケ王子という一人の若者の「心の中」に生まれたのである。
 時代を可能にしたものの一つは「新しい船」であった。王子らの工夫もあって、「風に向かって走る船」が開発された。それまでの航海は「風向きしだい」であった。それをさまざまな技術改良によって、順風の時のみならず、あらゆる風向きの場合にも前進できるようにした。この発明は、自然を支配した大きな一歩であった。  
 1434年、一人のポルトガル人がアフリカ西海岸を南下。船乗りたちが、ある地点以上に進もうとしないのである。その場所はボジャドール岬。この岬から先は「暗黒の海」と信じられていた。怪物たちが住み、海は煮えたぎ、滝となって落下していると、中世以来伝えられていた。「岬を越えて南進せよ」といくら王子がいっても無駄だった。船乗りたちは15年間、王子の命に背きつづけた。「風評にだまされるな。行こう。岬をこえよう」と一人の門下が腹を決めた。そして、彼はこえた。王子の確信通り、「向こうの海」は何でもなかった。「想像していたのと、実際は正反対だった」。それまでの「恐怖の岬」という「心の境界線」「臆病の壁」をこえた。そこに決定的意義があった。  
 ポルトガルはこうして「海の覇者」「時代の勝者」と鳴った。南米(ブラジル)からアジアまで広がる大帝国をつくりあげた。日本にもいわゆる南蛮文化をもたらしている。しかし、その繁栄も長くつづかなかった。それは何が原因であっ  
 その要因の一つを要約して言えば、自らの国力を超えて、はるかに膨張し、拡大に 走りすぎたためだといわれる。  
 大航海を拡大すればするほど船員が必要となる。船員の確保のために農民がどんどん転用され、航海用の食料をつくる人手が足りなくなる。そのため外国から食料を買い入れなければならない。だが、足元を見られたりして高い値をつけられる。そうした結果、貿易の利益よりも、費用のほうが高くつくようになる。こうして航海に出れぱ出るほど赤字はふくらむという悪循環に陥ってしまった。植民地の維持のために本国が疲弊するという事態をも招いた。  
 
 このことはスベインも同様であった。ポルトガルとともに世界の海を二分していたスペインも、せっかく手に入れた「「富」を蓄積して、自国の資本を育てるだけの基礎体カがなかった。そのため後進のオランダに、またイギリスに「海上の覇権」は移り、「富」は奪われていった。
 所詮、「宮jも「権力」も無常である。  
 ボルトガルもスペインも、繁栄を持続し、拡大する基礎体カを持っていなかった。そのため世界への行動範囲が広がれば広がるほど、発展への基礎体カを難しくした。それが、自らの存立基盤を危うくし、繁栄への歯車を逆回転させることになった。  
   
 このことは、いかなる国、団体、組織にあっても、十分留意し無ければならない。  
 ところで15,6世紀の大航海時代に、なぜヨーロッパが歴史の主役となりえたのか。  
 アラブや中国は、当時、ヨーロッパより、文化的にも栄えていた。ずっと優れた航海技術を持っていた。それなのになぜ、これらの文明諸国は、後進国のヨーロッパに遅れを取つたのか。  
 いろいろな理由が拳げられるが、結論的に言えば、中国(当時は明国)も、物質的に満ち足りていた。ゆえに、それ以上、自己の世界を広げようとの思いが弱かった。いわば、自己満足していた面があることを否定できない。  そこに「飢えたヨーロッパ」が襲いかかった。侵略、略奪であった。善悪をいえぱ、もちろ  

 


 

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