インドのジャンヌ=ダルク

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 今日より80  
 インドのネルー初代首相が「名声は群を抜き今もって人々の敬愛をあつめている人物」(ネルー著『インドの発見』(下、岩波)とたたえた女性がいる。  
 彼女の名は、ラクシュミー=バーイー。19世紀、中央アジアにあったジャーンシー王国の王妃である。“インドのジャンヌ=ダルク”― 人々は今も、敬愛の念を込めてそう呼ぶ。
   
 第2次世界大戦まで、イギリスの植民地だったインド。1857年、そのインドに、通常「セポイの反乱」と呼ばれた抵抗運動が起こる。
   
 これは、当時、インドの植民地化を進めていたイギリス東インド会社に雇われていたインド人傭兵(シパーヒー、イギリス側の用語で「セポイ」たちが、植民地支配に対して立ち上がった運動である。“自由を我らの手に”“インドに独立を”―自由への叫びは、彼らだけにとどまらなかった。圧政にしいたげられた民衆の怒りが、インド全土で炎となって燃え上がる。
   
 この運動で、イギリス軍さえも「もっともすぐれた、もっとも勇敢なるもの」と驚嘆した人物こそ、王妃ラクシュミー=バーイーであった。  
 彼女の父は、貴族であった。だが、故国はイギリスとの戦いに敗北。父も退位させられた主君に従い、国を去る。彼女は、「一族が亡国の悲しみに沈んでいるころ、生まれた。母も、幼いころ、亡くしている。  
 なお彼女のマナカルニカという幼名は、ガンジス川の別名にちなんで名づけられたという。悠久の「母なるガンジス」―人生の波濤は高くとも、心には常に大河が流れるような、凛々しくも、おおらかな女性に育ってほしい―そんな願いが込められていたのだろうか。  
 その後、彼女は、15歳で、中央アジアの小さな国・ジャーンシー王国の王と結婚する。当時のインドでは、イギリスの強い影響のもと、小王国がわずかに存続していた。ジャーンシー王国もその一つである。  
 民衆は彼女を愛した。皆、王家に早く世継ぎが生まれることを祈った。やがて王妃は、念願の男の子を産む。しかし王子は不幸にも、わずか3ヶ月の生命だった。そればかりか、ショックを受けた王もまた、病に倒れ、世を去る。最愛の家族を、相次いで失った悲しみ、苦しみは、深く、大きかった。  
 しかし、彼女は王妃だった。涙に暮れてばかりはいられなかった。  
 王は、死の直前に、後継者として養子を迎えていた。だがイギリスは、養子を世継ぎにすることを認めようとしない。また、世継ぎのないことを理由に、イギリス領への併合を迫ってきた。  
 このままでは、国は滅ぶ。いや、断じてそうさせてなるものか。私たちのこの国は、自分の手で守り通してみせる―人生の勝敗を決めるのは「勇気」である。「勇気の人」は、耐え切れないような不幸や悲しみのなかからも、鋼のごとき「意志」と「希望」を鍛え出す。むしろ、不幸や悲哀が大きいほど、「生き抜く力」は燃えさかる。        

 


 

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