ルネサンス29
ペッチェイ博士は、まことに謙虚な方であった。多忙のなか、遠路はるばる私を訪ねてくださることも、しばしばであった。それほどまで私(名誉会長)との会談を求め望んでくださった。イギリスの歴史家トインビー博士も、同じく謙虚な求道の方であった。偉大な人格の方は、皆、謙虚である。
闘争の中で結んだ「永遠の友情」
ペッチェイ博士は、闘争の最中、一年近く投獄された。しかし、どのような拷問や虐待を加えられても決して屈しなかった。獄中で痛手を受けた分だけ、その魂は巌のごとくに鍛えられた。ばんじたたか人生は万事、戦いである。戦わない人生は「生ける屍」の人生である。博士は、私に語られた。「あの牢獄の体験がなかったら、今の私はありません」 「変節漢(自分の主義主張を曲げる人間)は最も嫌いです。私の信念は不動ですよ」と。当時、博士を弁護する友人にも拷問が加えられた。博士に不利な証言を引き出そうとしたのである。だが、その友人は最後まで、拷問に耐え抜いて、博士を守った。博士はこのことを振り返って、「極限的な状況下にあっても、絶対に互いを裏切らない真実の友情を結ぶことができた」と、熱い涙で語っておられた。そこに幸福の極致がある ─ とのお心であった。まことに「真の友情」ほど美しいものはない。「真の友情」ほど強いものはない。
反対に、「友情」を踏みにじる心、人を平気で裏切ったり、人の不幸を喜ぶような心は、人間性を破壊する心である。ファシズムの独裁者ムッソリーニ。彼は、権力の魔性にとりつかれた人間性の破壊者であった。彼には「友情」を重んじる心がなかった。若き日、喧嘩をしていた友人が、試験に失敗し、発狂するという事件があった。それをムッソリーニは、「これほどうれしいニュースはない」と、喜々として書き記したというエピソードも残っている。人の不幸を喜び、あざ笑う ─ 人間も堕ちるところまで堕ちると、そうなってしまう。彼は、「私には友達ができない」と自ら語っているが、生涯、心から信頼できる友人をもつことのなかった孤独な、わびしい人生であった。「部下」はいても、心の通う「友人」はいない。独裁者の心はみじめである。権力で「歴史の潮流」は止められない。
私情から人を処分し切り捨てる
この独裁者の人格の異常性を物語る事例は、その他にも数多い。歴史の教訓として少々ふれておきたい。そもそも彼は、「感謝」を知らない人間であった。“恩知らず”であった。
彼自身、「感謝するのは自分にとって努力が要る。感謝、それは心理学的に私にとってたいへん苦痛な感情である」(ローラ・フェルミ著、柴田敏夫訳、『ムッソリーニ、紀伊國屋書店刊)と語っている。その言葉通り、何事も、自分一人の力によるものであると考えなければ気がすまなかった。「感謝」を知らない人間は、もはや人間とはいえない。また彼は、「対話」を嫌っていた。常に自らの意思を他人に強制し、反対する者は次第に遠ざけていった。更に、言論の自由を封じ込めようと、反政府の集会や新聞発行を禁止したり、「特別裁判所」をつくって、自分に反対する人間を次々に切り捨てていった。その結果、彼の周りには追従する(こびへつらう)人間しかいなくなり、「ムッソリーニには、彼の聞きたいと思うようなことを言うにかぎる」(前掲書)というのが、部下たちの“常識”になっていたという。更に、彼は「人間」を侮蔑していた。すなわち、人間を人間として見ることができなかったのである。彼が人間に見たもの、それは自らの野心を支える“ロボット”であった。
信ぜよ、服従ぜよ ─ というのが、彼が民衆に出した命令である。民衆を愚弄し、盲目的服従を強いたのであった。多くの歴史家などが彼の性格異常をさまざまに分析している。「ムッソリーニは常に正しい」という文句をファシズムのスローガンに掲げた彼は、あたかも“神意(神の心)を授かった特別な人間”であるかのごとく、尊大に振る舞っていた。周囲もそれを助長させてしまった。自分だけが偉いと思い、周りが奴隷のように見えてくるまさに「魔性」である。「魔性」には絶対に負けてはならない。非人間性の「魔性」を見破り、徹底して戦いゆくなかに、本物の「人間」が出来上がっていく。
めまぐるしく感情が変化
また、彼には、自己中心的な、極端な幼児性があった。常軌を逸する言動が多く、それは権力を手にするにつれ、ますますひどくなっていった。執念深く、残忍で、自分の思い通りにならないと、知人であろうと震え上がらせるまで怒りをぶつけた、という。更に、彼には、感情や行動の一貫性がなかった。勇ましく演説したかと思えば、煮え切らない態度になったり、現実離れした妄想にふけったりした。かと思えば、怒りっぽくなったり、悲観的になって、うちひしがれるなど、ほぼ一時間ごとに感情が変化したという。こうした独裁者に従わされる民衆こそ悲劇であった。特に、晩年の彼は、こうした狂気ぶりが、はなはだしかった。当然、民衆の、心は次第に離れていった。そのことに焦りを感じた彼は、権力を振りかざしたり、懐柔策をとって、人々を引きつけようとする。しかし、それらのあがきは、ますます多くの民衆から潮笑される結果となった。
「勝利の金文字」を労苦の青春で
レジスタンス闘争とは、ある意味で、“非人間性”に対する“人間性”の戦いであった。ファシズムの狂気に対して立ち上がったこの闘争には、さまざまな立場の人が心を一つにして集い合った。農民もいた。職人もいた。教師もいた。婦人もいた。そのなかでも大きな力となったのが、青年、とりわけ学生であった。古今東西、変革の先頭に立つのは、常に学生である。これらの勇者たちは、ペッチェイ博士のごとく、不屈の精神で戦った。
一人の青年は、こう記している。「自由とは他人からほどこされるものではない」「ただ自ら鉄鎖を打ち砕く人間たちがいるのみである」(ルッジェワザングランディ著、上村忠男訳、『長い旅ファシズムと永続革命の世代』、サイマル出版会刊) ─ と。
この信念のままに、青年は囚われの身になろうとも決して負けなかった。三度脱出を試みるが失敗。しかし四度目についに成功、更に激しい自由への戦いへと飛び込んでいった。このように、皆、たえず生命の危険にさらされるような状況の中、真剣に知恵を出しあいながら、必死に戦いを続けた。やりづらい中、困難な中でこそ、自在に知恵を発揮し、行き詰まりを打開していく。そこに、初めて強い信念、深い人格が培われていくのである。何の波浪もない平々凡々とした生活の中からは、偉大な信念も、偉大な人格も出来上がらない。ゆえに、皆さんは人一倍、苦労していただきたい。勉強していただきたい。そして、「私は立派に人生を勝利した!」「永遠なる栄光の旗を勝ち取った!」と、自身の歴史に「勝利の金文字」を刻める一人一人に成長していただきたい。
「信念の人」は揺るがない
また、戦い半ばにして処刑される犠牲者も多くいた。その数は四万人以上ともいわれる。彼らの多くは、いかなる弾圧を受けようと、甘い言葉で誘惑されようと、決して自らの信念を曲げなかった。処刑に臨んで、ある工員は、こう書き残している。「あと数時間もしないうちに、ぼくは確実にこの世からいなくなる。けれども、どうか信じていてもらいたい、落着きはらってぼくが銃殺班の前に立つことを」「ぼくらに死刑を宣告した者たちもこれほど落着いていられるだろうか?断じてそうではあるまい!」
「信念の人」は揺るがない。反対に、「権力の人」のほうこそ常に心が揺れ動いている。不安と焦りに満ちている。「ぼくらに死刑を宣告することによって、彼らは歴史の流れを止められるだろうと思っているのかもしれない。それは間違いだ!ぼくらの(理想)の勝利を誰も阻むことはできないだろう」(P・マルヴェッツィ/G・ピレッリ編、河島英昭他訳、『イタリア抵抗運動の遺書』、冨山房刊) ─ と。
こうした民衆の叫びは、やがて大きなうねりを呼び起こす。多くの無名の勇者が、闇から光へ、抑圧から解放へと歴史を大きく転換させていったのである。
民衆が立った時、町は解放された
レジスタンスの闘争が本格的に始まって二年 ─ 一九四五年(昭和二十年)の四月二十五日には、ミラノが解放される。この日、いまだ敵兵の装甲車(武装した車)が走り回り、銃撃戦が続いていた。しかし、その中をミラノの民衆は、互いに声をかけあい、勇んで街頭へ飛び出していった。「今こそ、われわれの勇気を世界に示そう!」「歴史に残そう!」と。いざという時、立ち上がった民衆の力は偉大である。しばしばインテリがひ弱で、卑怯な振る舞いをするのと正反対である。いつしか、通りは民衆であふれる。その民衆の波を、だれも押しとどめることはできない。あまりの人数に、敵兵たちもどうすることもできなくなった。いわば市民の「連帯の力」が、敵のとどめをさしたのである。その後、独裁者ムッソリーニは厳しく断罪され、最後はミラノの広場で、愛人とともに逆さ吊りにされるという末路をたどった。民衆の怒りは絶対に妥協を許さなかったのである。
レジスタンスの勝利、それは「理想」の勝利であった。「信念」の勝利、「行動」の勝利、「知恵」の勝利、「勇気」の勝利、「友情」の勝利であった。
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