カレル・チャペック「ロボット」 今日より96
チェコスロバキアの作家、カレル・チャペック(一八九〇〜一九三八年)に、戯曲『ロボット』がある。〈一九二〇年発表。原題は『R・U・R ― ロッスムのユニバーサルロボット』〉
「ロボット」という言葉を作り出し、世界に広めたのは、この劇であり、SF(サイエンス・フィクション=科学物語)の古典となっている。
ある発明家が、人間そっくりの「ロボット」を作り出す。ロボットといっても、機械を組み立てたものではない。生きた血と肉をもった、いわば“人造人間”である。実際上は、通常の「人間」と見分けがつかない。この“人造人間”の大量生産によって、人間は苦しい労働を、すべて彼らにまかせるようになっていた。人間はロボットたちを売買し、好きな時に破壊し、こき使った。かつての“奴隷”のような存在である。「あの連中は、雑草以下なのです」 ― ロボット生産会社の社長は、こううそぶく。
ロボットには「情熱」もなければ、「歴史(伝統)」もなく、「意志」も「魂」もないと見くだしきっていた。そのような「ロボット」の扱いを、“おかしい”“間違っている”と思う人も一部にはいた。
「人道連盟」の代表は、「ロボットを解放したい」と、ロボット会社に交渉に乗り込んで行った。しかし、うまくまるめこまれてしまう。そのうえ、自らもロボットの労働のうえに、あぐらをかいて生きる傲慢な人間の一人になってしまった。
人類は、もはや「ロボット」とバカにしている“人造人間”たちなくしては生きていけなくなっていた。初めのころは、ロボットの安い労働力による人間の失業問題もあったが、やがて克服された。何より、一度覚えた安楽な生活は、どうしても捨てられなかったのである。「人間」は堕落した。自分で働かなくなってしまった。
“全部あのロボットたちにやらせておけばよいのだ!”
人間は、ロボットを奴隷として、自らは何も生産しない“貴族階級”となった。もはや創造への努力もなければ、勤労への意欲もなかった。ゆえに、充実した喜びもなかった。向上もなかった。「人間」は次第に「人間」でなくなっていった。人間は、ロボットの売り買いで金をもうけた。また、自分たちの内紛を代わりにロボットたちに戦わせた。自分たちが傷つかないために、“代理戦争”をさせたのである。ロボット同士が戦っているように見えたが、実は人間たちの内部の“勢力争い”であった。更に、誇大妄想的な、勝手な“理想”“へ理屈”のために、ロボットを動員する者もいた。傲りと安逸に心身を腐らせてしまった「人間」たちには、他への思いやりなど、まったく無くなってしまっていた。
ところが ― 「魂なんかない」といわれたロボットたちは、実は人間と同じ心をもっていた。ただ、「人間が主人」と、生まれた時から、思い込こまされていたため、何でも従順に、命令を聞いていたのである。耐えがたきを耐え、無理難題も、すべて実現した。しかし、ロボットたちが頑張れば頑張るほど、人間たちは、それを当たり前と思い、ますます感謝も配慮も失っていった。“死ぬほど働いて当然だ!何しろロボットなんだから!と。しかし、次第に時代は変化する。
ついにロボットたちが革命を起こした。世界中で、続々と立ち上がった。こうなると、あっけなかった。数の上でも、実力の上でも、ロボットたちのほうがずっと上なのだ。“もう、あなた方、人間のためには働きません!”。革命のリーダーは宣言する。「あなた方がロボットのように有能ではないからです。ロボットが何もかもします。あなた方ときたらただ命令するだけです。よけいなおしゃべりをしているのです」(岩波文庫『ロボット』、千野栄一訳)
ロボットたちは決起した。彼らは自分たちの力に目覚めた。自分たちの尊厳と、今まで尊いと思っていた人間たちの醜さとを知った。“人間は我々の寄生虫にすぎない!”と。人間たちはあわてた。虫けらのように思っていたロボットたちに、こんな怒りと人間らしさがあったとは!
“あの連中(ロボットたち)は機械であることをやめた…”。弾圧し、懐柔し、買収しようとし、また絶望したり、人間たちは右往左往する。ある者は、ロボットを使ってもうけた莫大な金を抱いたまま、死んでいく。札束が彼の墓標のようにうずたかく積まれたまま…。労働なき不当の富。彼は財産で何でも買えた。ただ自分の「幸福」だけは買えなかった。ありあまる金は、彼の人間性を破壊してしまっていた。人類最後の生存者の一人は滅亡を前に叫ぶ。「人間であることは、偉大なことであった。それは何かとてつもなく大きなものであった!」(前掲書)
しかし、もはや地上には、真の「人間」はいなかった。自分たちのために働いてくれている者たちを、「ロボット」といって侮蔑し、傲慢にいばり、命令していた「人間」たち。実は「人間」の傲慢は、自分自身を「ロボット」にした。文字通り「魂のない」機械に変えてしまった。反対に「ロボット」たちのほうが、ずっと「人間らしく」なっていた。戯曲は、革命の成功後、「ロボット」たちが試行錯誤の末、「新しい人類」となって出発するところで終わる。
この劇の見方は、さまざまである。一九二〇年作というところからみて、一九一七年のロシア革命の影響も無視できないであろう。“額に汗して働く者こそ、社会の主人なのだ!”。ロシア革命への歴史的評価は、さておき、この理想は、永遠の真理を含んでいる。
それはそれとして、他人をロボットのように見くだし、自在にあやつろうとする人間。その人間こそ、「権力の魔性」のあやつり人形、ロボットなのである。仏法では生命の魔性の王を「第六天の魔王」と呼ぶ。別名を「他化自在天」といって、人々を自在にあやつって破滅させていく働きである。この魔性に支配されたなら、もはや悪の奴隷である。一方、ロボットのようにバカにされながら、現実に働き、現実に力をもっている労働者 ― それこそ「人間」なのである。更に、傲慢な権威・権力の横暴に忍従することをやめて、「俺たちこそ主人公なのだ!」と立ち上がった時、彼らは、真の「人間」へと大きく脱皮した。頭を上げ、胸を張り、勇気をもって、正義を主張した時、難攻不落に見えた権威の城は、あっけなく滅びた。すでに「人類」は冷たい「ロボット」(機械)になり、かえって「ロボット」のほうが熱い血灘の「人間」になっていた。実質は、互いに入れかわっていたのである。
作者・チャペックは、機械文明の発達によって、人間がまるで機械のようになっていく不安を感じたという。ただ働くだけで、自分で考えることをやめてしまった人間。その「機械のような人間」を指す言葉として、チェコ語の「賦役、苦役」を意味する「ロボタ」から、「ロボット」という新語を作った。
ともあれ、「真の人間とは?」と問いかけるこの戯曲は、今も新鮮さを失っていない。
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