尾崎行雄

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 輝き25  
 話は変わるが、戸田先生が、ある政治家と会った時のことである。私も、そばにいさせていただいた。その時の、戸田先生の一言一言が、今も、耳朶に残っている。先生は「だんだんと、今の政治家は堕落しているような気がする。いわゆる権力欲、自分本位、傲慢、偉ぶる等々―。選挙民だけでなく、多くの人々から尊敬され、信頼され、私利私欲を投げ捨てる政治家になってもらいたい。それには、立派な人間となることである。人格をつくることである」と。  
 諭すような、また怒るような態度で語っておられた。  
 終わりごろに、先生は「あなた方の模範の政治家がいるではないか!だれだと思う?」と言われた。相手の政治家は、苦笑して、何も言わなかった。  
 戸田先生は、「それは、憲政の闘士・尾崎咢堂(尾崎行雄)氏について、思い出すままに、少々、語っておきたい。  
   
 アメリカの首都・ワシントン。ここに有名な桜の名所がある。ポトマック川のほとりである。爛漫と咲く桜は「日米友好のシンボル」とされている。  
 小説『新・人間革命』の第一巻でも触れたが、この桜は、当時の東京市長(今の都知事にあたる)であった尾崎行雄氏が、三千本の苗木を贈ったものである。  
 今から八十六年前の明治四十五年(一九一二年)こことであった。  
 しかし、驚くべきことに、後に、だんだん日本の国家主義が強まっていくなかで「尾崎は桜をアメリカに植え、日本の魂を外国に売った」などと、一部の人間から非難されるようになった。  
 考えられないような話であるが、世の中の狂った雰囲気のなかにいると、自分がおかしくなっていることに気がつかないものである。そして、こういう偏狭な「国家主義」と一生涯、戦い続けたのが、ほかならぬ尾崎行雄氏出会った。  
   
 彼は、幕末(安政五年=一八五八年)に生まれ、昭和二十九年(一九五四年)に九十五歳で亡くなった。議員生活は六十三年余。一貫して叫び続けたのは、「世界から尊敬され、愛される日本になれ」と言うことである。  
 「戦前は、高慢さが日本の進歩を止め、世界の憎まれっ子にした。うぬぼれを捨て、へりくだった気持ちになった時、はじめて日本人は世界から愛されるようになるだろう」  
 これは、敗戦後の昭和二十二年の言葉である。今でも通じる、いな今こそ大切な言葉だと思う。  
 彼は日本人の欠点は「世界を知らない」視野の狭さと、何かと人を見下す驕慢にあると見ていた。「愛国者」であった。「国を愛するからこそ、厳しいことを言うのだ。黙っているのは卑怯だ」の信念で、臆さず、正論を語り抜いた。  
   
 戦前の演説のひとつでは、こう言っている(大正十四年=一九二五年の名古屋での講演の要旨)。  
 「今、日本は行き詰まっている。内政も、行き詰まっている。外交も、行き詰まっている。どこに日本の本当の味方がいるか。日本を尊敬し、信頼し、好意を寄せている国が、どこにあるのか。財政も行き詰まっている。みんなが苦しんだいる。つい十数年前まで、あんなに調子のよかった日本は、今、にっちもさっちも立ち行かぬようになっている。これは一体、どうしてなのか。何が原因か」  
 「それは日本人が『傲慢無礼』になったからである。だから、世界から嫌われる。だから、行き詰まる。しかも、それを反省するどころか、日本の傲慢を批判する人間がいると、そちらのほうが悪いように責める。  
 とにかく、今の日本人の現状は、どうしても『世界の人と相いれない』ほど、『心得違い』をしている。行き詰まりを打開するするには、この『心得違い』から治さねばならない。すなわち、全世界の人と交際できるよう、『高明正大なる道』を歩まなければならない」  
 彼の言う「高明正大なる道」とは、「人類の王道」である「人権」を尊重せよということであったと思う。要するに、世界のだれが見ても「ああ、日本はすばらしい人間尊重の国だ」と言われるようになれ!―それ以外に、将来は開けない、このままでは転落しかない、という叫びであった。  
   
 また彼は、封建的な「官尊民卑(官が上で、民間人が下)」という因習についても批判した。  
 人類は「人道と民衆主体の方向に進歩している」のだから、「官」が威張っているのは、「人類の進歩に逆らう、古くさい有害な考え」だという信条である。彼は日本の「官」にヒューマニズムがないことを憤っていた。  
 彼は、世界の進歩を知らない「時代遅れ」の日本人を「心に、チョンマゲをつけている」と表現している。そして「思想を力でおさえつける」ようなことは、日本の恥辱であると考えていた。ゆえに「治安維持法を全廃せよ」と演説した。〈昭和六年(一九三一年)二月〉  
 言うまでもなく、平和主義者の牧口初代会長、戸田第二代会長を投獄した悪法である。  
   
 彼は言う。  
 「政治家のあるべき道は『良心に聞く』ことだ。自分本位になってしまっては、人間はおしまいだ。国だって同じだ、。自分のことばかり考え、他国がどうなってもかまわないと考えていたのでは、その国はおしまいだ。世界を考えなければならない」  
   
 そして晩年は、軍部と真正面から対決した。「戦争は犯罪行為だ」というのが、彼の信念であった。議会で軍縮を叫び、「非国民」「国賊」とののしられた。しかし、非難など眼中になかった。むしろ、「非・日本国民」となり、すすんで「世界の民」となるべきだと、胸を張っていた。  
 「『非国民』とは名誉ある呼称だ。やれ日本人だ、アメリカ人だ、中国人だ、などといった『狭い了見』は捨てて、世界をひとつの国と見るべきだ」と語っていたという。  
 人類の不幸の原因は「利己的な国家主義」にあると見て「反・国家主義」を説き、戦後は「世界連邦」を主張した。  
 世界の一体化が進む現代にあって、「国境」はもはや、昔の日本の「藩境」やアメリカの「州境」のようなものにすぎない。世界は一家族であり、そういう「超国家的社会に住むにふさわしい人間」を教育すべきだという考えであった。  
 先の先を見ていた。「尾崎行雄」をもじって、「お先、行く男」とも呼ばれていた。  
 「人生は百年に足りないのだから、つねに千年先を考えよ」が信条であった。  
 〈「人生、百に満たざれば、常に千載の後を憂えよ」―人生はせいぜい生きても百年のことである。ゆえに、些事に翻弄されながら生きるのではなく、つねに千年後のことを考えて行動せよ―という揮毫を贈っている〉  
   
 こういう人物であるゆえに、彼の周りには、つねに刺客(暗殺者)がいた。襲いかかられたことも、幾たびもあった。政敵に陥れられ、果ては獄につながれたこともあった。  
 そういう彼に、陰で、「私はあなたの味方です」と言ってくる人もいたが、「なぜ公開の席や新聞雑誌で、そういうことが言えないのか。日本人には道徳的勇気が足りない」と嘆いていた。  
 私も、あるヨーロッパのジャーナリストが、「日本人は肉体的勇気はあっても、(正しいと信じることを実行する)道徳的勇気が足りないと思う。これが残念だ」と言っていたのを覚えている。  
   
 彼が政治家として愛した言葉は「政は正なり」(論語)であった。〈「政治とは正義を為すことである」との意味〉  
 目的のためには手段を選ばない「権力主義の政治」「獣力の政治」ではなく、自らの良心のままに道義と正義を貫く政治であれということであった。  
 国内政治についてもそうであり、世界に対しても「道義」「人道」という道を踏みはずしては結局、失敗するという主張であった。  
 彼が、「憲政の父」と呼ばれるゆえんとなったの、大正のはじめ、犬養毅らとともに戦った「護憲運動」にある。「力と権謀術策の政治」でなく、公明正大なる議会政治をつくりたかった。  
 当時の政府にとって、財政難を打開するための「行財政改革」が緊急の課題であった。にもかかわらず、軍部と官僚が結託し、軍備の増強を画策。内閣は国民の期待を裏切っていた。  
 事態に臨んで、彼の論点は明快であった。  
 「政治家に、敵を陥れるための策略に費やす時間などあるものか!目下の課題に全力を挙げ、自分の行動には自分で責任をもて!」―この一点であった。  
 今、この困難時にあって、一体、何をやっているのか!≠ニいう叱咤である。  
   
 「憲政の父」にとって、政治を健全にする鍵は、政治家の「振る舞い」であった。どんな素晴らしい主義を掲げても、その「主義」を生かすも殺すも「人物しだい」である。「人」で決まる。  
 〈氏は語っている。「『主義』の善悪は、ちょうど刀の利鈍のようなものである」「それを使うのは『人』である。『人』の善悪を問わないで、単に刀の切れ具合を問題にするだけで、こと足りるわけがないではないか」「刀を使う人物の善悪を見極めることは、刀の利鈍を問うことよりも急要である」と〉  
 そう語る自分の「振る舞い」も立派であった。  
 彼は「政治家訓」の第一に、「公事を先にし、私事を後にする」を挙げた。自らも清廉であった。彼が長く住んだ東京の品川の自宅は、「化け物屋敷」と呼ばれるほど荒れ果てた借家であった。  
 ちなみに氏は、神奈川県の津久井町の出身である。三重県が選挙地盤。若き日には、新潟で新聞の主筆をしておられた。  
   
 彼は、日本では迫害非難されたが、世界では「日本の高潔な自由主義者」として極めて有名であった。  
 戦争中、アメリカのB29が、ビラを巻いて、「日本は目をさませ」と宣伝したが、そのなかに尾崎氏の名前も挙げて、「日本には、こういう人物もいるではないか」と訴えた。それほど海外では高く評価されていた。  
 こういう「世界的人道主義者」に対して、世界での評価と日本での評価は、あまりにも、かけ離れていた。  
 その事実そのものが、「人類の王道」からの「日本の脱線」を象徴していたと言えよう。  
    
 彼は、民主主義のためには、国民の精神革命が不可欠だと言った。  
 「日本を人道主義の国に」という彼の悲願の結論は、「民衆が、しっかりする以外にない」ということであった。  
 その場しのぎの「嘘」や、目先の「利害」に心を曇らされず、ものごとの正邪を、きちんと判断できる民衆になるしかない、と。  
 その基盤がなかったから、戦前の議会政治は「砂上の楼閣」のように、国家主義という波にさらわれ、崩されてしまったのである。  
 「民主主義を生かすには、国民の精神革命が不可欠である」  
 これが彼の結論であった。  
 彼を顕彰して、国会議事堂の南側に、「尾崎記念館」が建てられた。現在は「憲政記念館」となっている。  
 「憲政の父」のこうした正義の叫びを忘れるな―という意味を込めて建てられたものである。  
   
 ところで、尾崎行雄氏は子どものころ、体が弱かった。無事に育つかどうかと心配されたほどであった。  
 そのため、意識して節制し、九十五歳の長寿を保った。  
 体が弱いから短命≠ニは言えない。丈夫な人は、自分の体力に慢心し、かえって命を縮める場合がある。  
 氏は、「人生は、よく歩いたものの勝ちだ」と言って、毎日、よく歩いていたという。私どもも、いつも歩いている。「もっと健康になろう」「健康になれるんだ」と思って歩きたい。  
 彼のモットーは「人生の本舞台は常に将来に在り」。  
 何歳になっても「これまでの人生は、序幕にすぎない。これからが本舞台なのだ」という意味である。すなわち、「人間は年をとればとるほど、その前途は輝かしい」という人生観である。  
   
 彼が七十四歳の時、(一九三三年)、肺炎にかかってしまった。その時、自分は、これまで何をやってきたのかと病床で考え、この思想を抱くに至った。  
 そのころ、生涯をかけて訴えてきた「道義にもとづく政治」も、平和への努力も、何もかもが期待を裏切られ、時勢は反対に国家主義全盛の方向に動いていた。  
 一体、今までの苦労は何だったのか―。希望を失いそうな胸中に浮かんだのが、この言葉だったのである。そうだ!くよくよするのは間違いだ。今まで失敗したとしたら、それは今後に成功するためなのだ、と。  
 彼は、こう考えた。  
 ―人間は年齢とともに経験と知識を得る。これこそ最高の財産である。だとすれば、死ぬ前が一番、たくさんの「精神の財産」を蓄積していることになる。ゆえに、年をとるほど、偉大な事業ができるはずである。  
 考えても見よ、六十、七十まで働いて、「財産」をためたとする。これを子孫にも譲らず、社会の役にも立てないで、無駄に捨てる愚か者があろうか。  
 経験と知識という「無形の財産」も同じことである。これを利用し、社会の役に立てないで引退するなどというのは、愚の骨頂である。  
 財産は人に譲れるが、経験という財産は自分が使うしかない、死ぬ瞬間まで使い切るべきだ。  
   
 ゆえに「人生の本舞台は常に将来にあり」。年をとっても、いな、年をとったからこそ、「いよいよ、これからが本番」なのである。彼は「人を殺すものは労苦ではなく、クヨクヨすることだ」と言っていた。  
 あと一ヶ月で九十六歳という長寿で亡くなったが、最後の言葉は「いい気持ち」であったという。                              

 


 

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