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今日より24
そのなかの一人、セルマ・ラーゲルレーブ(一八五八−一九四○年)は、女性初のノーベル支学賞受賞者として著名である。スウェーデンが生んだ世界有数の女性作家である彼女の代表作『ニルスのふしぎな旅』は、多くの外国語にも翻訳され、スウェーデンの近代文学の高さを世界に知らせたといってよい。日本でも七十年前に紹介され、その時は「飛行一寸法師」というタイトルであった。
彼女は、由緒ある家柄の出身で、父親は文学愛好者であった。が、彼女は小さいころから、足が不自由であった。三歳半に完全に歩行不可能となる。そこで、学校には通わず、周囲から伝説やおとぎ話を間いて育った。おのずと書物にも親しみ、文学的な青擦をはぐくんでいった。支学を一生の仕事としたい−これが、少女の生涯の夢となった。若き日を、やはり病弱で過ごした私には、その気待ちがよくわかる。
ラーゲルレーブは、身体のハンディキャップにもかかわらず、まず教師を目指す。しかし、家の経済状態は悪化しており、教員養成所の入学金は借全でまかなった。
教師のかたわら、彼女は文学の創作にいそしむ。父親の死や経済的な苦境にも負けず、精いっぱい、青春の情熱を支学に注いだ。
そして三十二歳の時、懸賞小説の一等を獲得し、その作晶『イェスタ・ベルリング物語』は、翌年出版された。この成功が、青春の夢の実現への出発となるのである。
美しき花も厳寒に耐えて薫る
ラーゲルレーブがノーベル貫を受けたのは、一九○九年、五十一歳の時である。
彼女は、受賞演説で、自分のことよりも亡き父親と故郷のことを語り、多くの人々に感謝の言葉を捧げた。彼女の話には、深い「愛情」と恩ある人々ヘの深い恩いが込められていた。聞く人の心を打たずにはおかなかった。
さて、セルマ・ラーゲルレーブは、第一次世界大戦、第二次世界大戦の両度の戦争に、真っ向から反対の意志を衰明している。
そのため、ドイツでは、彼女の本が発売禁止となったこともあったが、彼女は決して屈しなかった。
彼女は、亡くなる少し前の一九四○年の三月、ソ連軍のフィンランド侵入に対して非常に心を痛め、貴童なノーベル賞の純金のメダルをフィンランドに贈っている。
戦火に追われ、苦しみと戦うフィンランドの人々に、せめてもの励ましを、との心情からであったにちがいない。
臨終を迎えた彼女の最後の言葉は、医師に「先生、平和は、くるのでしょうか」とたずねた一言であったという。
彼女は生涯、乎和を心から愛し、求め、真の〃平和文学者〃としての人生の在り方を、信念をもって示した。
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