滝廉太郎

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 滝廉太郎 今日より10  
 氏が弾きたいといわれた「荒城の月」にちなんで、この名曲を作った滝廉太郎について、少々、触れておきたい。彼の短くも激しく、充実した一生は、青年部の諸君をはじめとして、人生の生き方に今なお鮮烈な示唆の光を放っていると思うからだ。  
 彼は、一八七九年(明治十二年)八月二十四日生まれ。一九〇三年(明治三十六年)六月二十九日に亡くなった。享年二十三歳。まことに惜しまれる短い生涯であった。しかし、その作品は、今なお広く愛され、人々に歌いつがれている。「荒城の月」はもちろんのこと、唱歌「箱根八里」や「お正月」。本格的な歌曲「荒磯」。更にピアノ曲「メヌエット」等々。また、へ春のうららの隅田川 ― と、ちょうど今ごろの佳き季節をうたった「花」も、多くの日本人にとって忘れがたい名曲である。
   滝家は、大分県の日出藩の名門であった。家老など代々、要職を務めたという。廉太郎は、東京で誕生。父の転任のため、横浜、富山、東京と移転し、十歳のころ、大分へやってくる。高等小学校時代は大分の竹田で送った。この竹田の地には、八百年の歴史を秘めた古城、岡城の城あとがある。廉太郎少年も、しばしば、そこを散歩したらしい。この時の詩情豊かな思い出が、あるいは後に「荒城の月」の曲想にも、つながっていったのかもしれない。私も今から七年前、昭和五十六年十二月、この岡城祉を訪れた。そして風雪を耐え抜いた竹田の同志とともに、「荒城の月」を歌った。その光景を私は今もって忘れられない。私は歌い、贈った。「荒城の月の岡城眺めつつ竹田の同志の法戦讃えむ」と。
   さて廉太郎少年は、人柄もよく、茶目っ気もあって、誰からも愛されたという。成績もよく、運動神経もすぐれていた。父親は彼を役人の道に進めたかった。しかし、廉太郎は極度の近視だったので、あきらめ、少年自身が望んだ音楽の道への進学を許した。こうして彼は十四歳の春(明治二十七年)、上京する。九月には、草創期の東京音楽学校に、最年少で入学した。
   
 音楽学校での日々は、決して、はじめから順調ではなかった。一時は、“将来の見込みなし”のラク印を押されかかったこともある。.周りは年長者ばかりであった。しかも、設備がなく、ピアノ等の勉強ができなかった当時の大分から上京したばかりである。廉太郎の苦労は並たいていではなかったにちがいない。しかし、彼は負けなかった。懸命に、努力また努力を重ねた。そして次第に、その才能を人々に認識させていった。何の分野であれ、「一流」への道は、甘いものではない。他の人も真剣である。ぎりぎりまで努力している。しかも、他の人と同じ程度のことをしていたのでは成功は、おぼつかない。「心血、人の千倍」 ― 私は、ある芸術家に、こう書いて激励しようとしたことさえある。ともあれ、“超一流”の実証とは、常に人々が想像もつかないほどの心血を注ぎゆく努力と鍛えの結晶以外にはありえない。
   
 廉太郎の修業時代で、見逃してならないことは、師のケーベル博士との関係である。一流の人は必ず師匠をもっているものだ。卓越した音楽家で、しかも、たぐいまれな人格者であった博士に、彼はピアノと作曲を学んだ。廉太郎は「真塾に」また「忠実に」師事しきった。そして基本理論や幅広い教養を自分のものにしていった。彼の才能の華やかな開花の陰には、師のもとでの、こうした基礎固めの努力があった。師弟の道は厳格である。もとより中途半端や、遊び半分の心など微塵も入り込む余地はない。真塾なうえにも真蟄に、忠実なうえにも忠実に、そして誠実無比に仕えきってこそ、やっと弟子の道を歩む資格が生まれる。  
 廉太郎が名作を集中的に作曲したのは、ドイツ留学を前にした一九〇〇年から一九〇一年。二十一歳から二十二歳にかけてという若さであった。しかも期間は、たった一、二年である。それでも永久に残る仕事をなした。偉大な仕事は二十代、三十代でやる決心が大事である。その時に本気になって取り組まずして、より老いてからできるわけがない。世界的名曲「ラ・クンパルシータ」も、ある十七歳の若人の作品である。ちなみに、この曲はコンクールでは落選している。その素晴らしさを認めたのは、選考委員ではなく、民衆であった。民衆のなかに次第に人気を呼び、タンゴの傑作として世界に広がっていった。作者の名は、コンクールで脚光を浴びることはなかったが、本当に良いものは民衆が知っていた。  
 ドイツに留学した廉太郎は、ライプチヒ音楽院に学ぶ。しかし、間もなく、この異国の地で肺結核を発病し、一年ほどで帰国。ふるさと竹田で療養するが、翌年、亡くなっている。病気のため、志なかばで留学から帰国の途についた廉太郎。彼を、イギリスのテムズ埠頭に停泊した船中に見舞った人がいる。折しもヨーロッパを訪れていた詩人の土井晩翠であった。いうまでもなく詩「荒城の月」の作者である。これが廉太郎と晩翠の、生涯ただ一度の出会いであった。廉太郎が亡くなって四十年後、晩翠は、はるばる仙台から竹田の岡城趾を訪ねた。そして天才の早すぎる死を悼み、一詩を詠んだ。  
 歴史にしるき岡の城  
 廃嘘の上を高てらす  
 光浴びつつ「荒城の月」
 の名曲生み得しか
   
 「すぐれしものは皆霊助」  
 詩聖ゲーテの日ふところ  
 世界にひびく韻律は  
 月照る限り朽ちざらむ
   
 ドイツを去りて東海の  
 故山に疾みて帰る君  
 テームス埠頭送りしは  
 四十余年のそのむかし
   
 ああうら若き天才の  
 温容今も髪髭と  
 浮ぶ皓々明月の  
 光の下の岡の城
   
 たった一度の出会いでも、歴史をつくる出会いがある。廉太郎と晩翠の運命的な邂逅も、そうであった。(滝廉太郎に関しては、主に小長久子著「滝廉太郎」〈吉川弘文館〉、遠藤宏著「瀧廉太郎の生涯と作品」〈音楽之友社〉を参照)    

 


 

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