ルネサンス12
ケネディが最も尊敬した日本人
アメリカのケネディ大統領(第三十五代)といえば、「ニュー・フロンティア」の理想を掲げ、人々に希望を与えた指導者である。かつて私も同大統領とお会いする予定があったが、大統領は凶弾に倒れ、実現することができなかった。世界的リーダーの夭逝を、今でも大変残念に思う。ところで、このケネディ大統領が「最も尊敬した日本人」とは、だれであった。それは江戸時代の米沢(山形県)の藩主・上杉鷹山である。〈ケネディ大統領が日本人記者団の質問に答えたもの。質問した記者たちのほうが鷹山を知らず、閉口したというエピソードがある。
ちなみに内村鑑三(近代日本の思想家)は『代表的日本人』という著作の中で五人の人物を紹介しているが、その一人が上杉鷹山である。『代表的日本人』については、私の『若き日の読書』(第三文明社刊、単行本とレグルス文庫)でも紹介した。〈なお『代表的日本人』には、日蓮大聖人が、西郷隆盛、上杉鷹山、二宮尊徳、中江藤樹とともに挙げられている。また「続・若き日の読書」が雑誌「第三文明」一月号から連載開始されている〉
世界に光る先駆的な“民主宣言”
上杉鷹山は、民衆を愛し、民衆のための政治を行った名君として知られる。彼は、君主の心得として、次の三項目を内容とする指針を残している。
一、自らの利益のために国家を用いてはならない。
一、自らの利益のために人民を用いてはならない。
一、人民のために君主があるのであり、君主のために人民があるのではない。
「伝国之辞」と呼ばれる、この“民主宣言”が伝えられたのは、一七八五年(天明五年)。これはアメリカ独立宣言(一七七六年)の九年後、またフランス人権宣言(一七八九年)の四年前のことである。身分差別の厳しい封建社会において、世界に先駆ける形で残された、この民主精神、人間主義の叫びが、ケネディ大統領の胸にも強く響いたのであろう。
青年の志から壮大な変革劇が
鷹山が、上杉謙信から十代目の家督を継ぎ、米沢藩主となったのは、一七六七年(明和四年)、わずか十七歳の時であった。当時の米沢藩は、財政的に貧窮し、衰退の一途をたどっていた。かつて福島の会津百二十万石を有していた上杉家の領地は、米沢三十万石に転封になったあと、更に十五万石に減らされた。会津時代の八分の一である。借金の山を抱え、極端な赤字財政。家臣から農民まで、藩の経済は破綻状態であった。鷹山が藩主になる三年前には、もはや藩の存続は不可能であるとして、前藩主(上杉重定)が幕府に領地の返上を願い出ようとするほどであった。
しかし、新しい青年藩主は、安易に悲観に流されたりはしなかった。それどころか、十代の若き鷹山は、米沢の地に自身の使命を定め、「ここに理想の国をつくろう!」と立ち上がるのである。
我が藩は蘇る!我に希望あり!
鷹山は藩主として米沢への第一歩をしるす。時は晩秋。見渡す限り、痩せて荒れ果てた土地と廃嘘のような家々。人々の顔には生気が、まったく感じられない。笑いもない。喜びもない。深刻な苦悩を映し出している。状況のひどさは覚悟していたとはいえ、まさかこれほどとは、その荒廃ぶりに鷹山は驚かざるをえなかった。
米沢城に近づくにつれ、連れの家臣たちも「この国を変えるのは、もはや無理かもしれない」と思い始めた。そうしたなかでのことである。鷹山は、側にあった煙草盆の炭に目を止めると、その消えかかる残り火を熱心に吹き始めた。そして、火がおきたのを確かめる彼を、けげんそうに見つめていた家臣たちに、次のように説明した。「まさに消えかかろうとする炭火でも辛抱強く吹き続ければ、明るい火をおこすことができる。同じように、この国と民が生まれ変わらないことがあろうか。今や、大いなる希望が我が胸によみがえった。私は、この炎を消さぬ」と。灰の中から残り火が再び燃え立つ様子に、彼は藩再興の希望を見いだしたのである。
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