第8章 東西文化の交流
絹の道
絹の道を運ばれた陶磁器
陶磁器の道
茶の道・銀の道
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近代以前には、ヨーロッパ・地中海・南アジアといったいくつかの小世界に分かれていた。そして、それらの間を人や物がそのあいだを移動し、文化が伝わった。絹の道(シルクロード)は東アジアで産出された絹が、遠くヨーロッパにまで運ばれたことによって命名された。
絹の道は紀元前2世紀の終わりころ、漢の武帝の命令で大月氏に派遣された張騫によって開かれたとされる。しかしそれ以前に中国と西方との関係はあった。たとえば、アルタイ山脈北方にある紀元前5〜前3世紀のパジリク遺跡からは絹が出土しており、逆に中国ではホータンの玉が知られていた。また、前5世紀のギリシアの歴史家ヘロドトスはパミール高原以東についても記述しており、前4世紀にはアレクサンドロス大王の軍がサマルカンドにまで達している。らくだの背中に大きな荷物をのせて砂漠を進むキャラバンの姿。「絹の道」の命名者であるドイツ人の地理学者リヒトホーフェンが考えていたのも、砂漠とオアシス諸都市をつなぐルートだった。唐代のなかばころまで、このルートの担い手はサマルカンドなどパミールの西方のオアシス都市に本拠をもつイラン系のソグド人で、彼らは居留地をつくるほど中国領内に多数来ていた。ソグド人の地からは西アジアをへて地中海にいたるこのルートは、その後、イスラム系の人々によって担われた。
しかし、絹が西方に運ばれるルートはほかにもあった。上に述べたオアシスの道の北にはステップ地帯がひろがり、遊牧民族が活動するこの草原の道を通って、アジアからヨーロッパにいくことができた。
また、南は海路で結ばれていた。1世紀ころに書かれた「エリュトラ海案内記」には、ローマからインドまでの通商路が記されていて、中国の絹にも言及している。166年に後漢を訪れた大秦王安敦(ローマ皇帝マルクス・アウレリウス)の使者も、海上ルートを利用している。西をギリシア人、東をインド人が握っていたこのルートは、イスラム勢力の勃興によって担い手が変わり、唐代の広州(広東)にはイスラム商人が多数来住するようになった。一方、唐は新たに市舶司という役所を設けて海上貿易業務を管掌させている。13世紀にモンゴル族の大帝国が建設されると通行の障害が減り、この三つのルートはおおいに繁栄した。西アジアにも輸出された元代の中国陶磁器を代表する青花(染付)が、西アジアから輸入されたコバルトを顔料として用いていたことは、東西交易によって結ばれた世界を象徴している。また、中国にいたったイタリア人だけでもマルコ・ポーロ一行にとどまらなかったた。
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絹の道を運ばれたのは絹だけではなかった。陶磁器も中国からの輸出品としては重要で、南アジアからアフリカ北東部にいたる広い範囲の海岸で唐・宋時代の陶磁器の破片が多数発見されている。
西方からは、ローマやペルシアのガラス器・銀器など優れた工芸品が中国にもたらされた。それらの一部はさらに日本にも伝わり、正倉院の御物にその一端をうかがうことができる。人と物の移動にともなって、技術や思想・宗教も伝播する。唐代末までの宗教をみてもインドの仏教、イランのゾロアスター教とマニ教、ヨーロッパ世界では異端とされたネストリウス派キリスト教がおもに陸路をとって伝えられ、イスラム寺院も広州に建設された。
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船は重量のある物を大量に運ぶことができる。それゆえ海のルートは絹も運んだが、唐代以後は陶磁器の道としての性格を強く示した。
16世紀以降、ヨーロッパ人がアジアに進出し、アジアとヨーロッパを結ぶようになってもその点は変わらない。トルコのトプカプ宮殿に収められている南宋時代から清代末までの1万点をこす中国陶磁器は、陶磁器貿易の重みを示している。中国側でも、国外の依頼に応じた製品を作るようになっていた。ヨーロッパの人々は中国陶磁を宝石のように尊んだが、やがてはそれと同じものを自分たちの手で作ろうと試みる。17世紀にオランダのデルフトで始められた中国陶磁器の写しは有名だが、磁器ではなくこわれやすかった。18世紀初めになって、ようやくドイツのザクセン侯のもとで磁器の製作に成功する。マイセン窯である。
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18世紀初め、中国の輸出品のなかでは茶が首位を占めるようになる。イギリスで喫茶が国民的習慣になったことによるが、この結果、海のルートは茶の道としての性格を強める。一方、これに先立って、陶磁器や絹の対価としてヨーロッパ人が中国にもたらしたのは大量の銀だった。海のルートは銀の道でもあったのである。茶はイギリス人の生活に根をおろし、銀は中国の人々の生活に深く浸透して税の銀納化につながる。海の道はそこで重要なはたらきを示したのである。
とはいえ、陸の二つのルートが16世紀以降その機能を喪失してしまったわけではない。ヨーロッパ人がアジアに進出しても、当初は直接アジアとヨーロッパを船が結んだわけではなく、西アジアから地中海のあいだは陸路が多く用いられていた。また、朝貢貿易のかたちをとった中国と周辺地域との陸路による物資の流通も、なおつづいている。絹の道は、中国とヨーロッパのあいだの交易を意味するのではない。その起点を長安、終点をローマとするような考え方は誤りである。ここでは中国を中心に述べたが、海の道は東南アジアの香料を運ぶ道でもあった。中国とインドのあいだには上述のルートのほか、中国南西部からミャンマー(ビルマ)をへる道があり、チベットからヒマラヤを越える道もあったのである。
【草原の道】 → ユーラシア北部のステップ地帯
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南ロシアの草原 〜 カザフ草原 〜(1 )山麓 〜 モンゴル高原
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1 遊牧騎馬民族の活動
@ 前6世紀の(2 )民族(南ロシアの草原地帯)にはじまる
A 前3世紀末の(3 )(→P76. モンゴル高原)の活動
B 4世紀末、北魏を建国した鮮卑(→81)
C 4〜5世紀にヨーロッパに侵入したフン(→P122) や、その後、東ヨーロッパ
・中央ヨーロッパに進出したアヴァール(→P125) やマジャール(→P127)
D モンゴル高原から中央アジアにかけて活躍したトルコ系の突厥(→P86)やウイ
グル(→P78)
2 トルコ系民族の活動
10世紀頃から中央アジアでイスラム化 → 11世紀以後、西アジアへ進出
3 13世紀、モンゴル民族の大征服 → 世界帝国をつくる
→ 東西の交易路で活動。生産力の豊かな(4 )地帯に侵入・略奪
【オアシスの道】
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東地中海・小アジア 〜 イラン高原・中央アジア 〜(5 )高原
〜 東トルキスタン 〜 中国
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@ 新石器時代すでに存在 → (6 )土器の分布
A 前4世紀後半(7 )大王の東征
B 前2世紀後半以後の、漢の(8 )や後漢の甘英の派遣
→ 以後、急速に発展
→ 中継貿易の発達 − イラン系の(9 )人の活動さかん
→ 東・西・南アジア文化圏を結ぶ内陸の最短交通路
→ 文物の交流
中国から西方へ 生糸や絹
西方から中国へ ヘレニズム文化、イラン系の文物、イスラム教など
仏教 − 中国僧の法顕や(10 )
ヴェネツィアの商人(11 )など
【海の道】
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地中海〜紅海・ペルシア湾〜アラビア海〜インド〜東南アジア・東アジア
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@ ローマの発展 → 季節風を利用したインドとの貿易がさかん
中国とインドとの航路もひらける → 大秦国王安敦の使者が後漢にくる
A 唐の僧(12 )が海路インドへ往復
B サータヴァーハナ朝・セイロン・扶南・チャムパー・シュリーヴィジャヤなど
が海上貿易で栄える。
C 8世紀以後はイスラム教徒のアラブ人・イラン人が活躍
D 15世紀の明の鄭和の南海遠征(→P197)
→ 文物の交流
南方産の象牙・犀角・(13 )(とくに胡椒) など
中国産の絹・(14 )・銅銭
インドから仏教・ヒンドゥー教、おくれて(15 )教が東南アジアへ
☆ 重要語句
草原の道 オアシスの道 海の道 遊牧騎馬民族 スキタイ民族
ソグド人 マラッカ海峡 香辛料 陶磁器
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