2 ヨーロッパ世界の拡大
大航海時代以前
ヨーロッパの船
ポルトガル
ディアスの航海
ヴァスコ=ダ=ガマ
コロンブス
マゼランの太平洋横断
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アラブ世界をはじめアジアのほうが、ヨーロッパよりも学問がすすみ、豊かであった。当時東洋はヨーロッパ人にとって、憧れの地。東西を細々と結ぶシルク=ロードによってかろうじて保たれていた。
13世紀、プラノ=カルピニ(ジョヴァン二=デ=プラノ=カルピニ)やルブルック(ウィレム=ファン=ロイスブルーク)やマルコ=ポーロはアジアの奥地にいっている。スカンディナビア人は、コロンブスに先んじてアメリカに到達している。
1420〜1620年の探検は、政府や商人の団体で組織的に行われたという点で相違。
ルネサンスのヨーロッパは貴金属と香料を求める。貨幣をつくる金属を必死になって求める。ヨーロッパの金鉱は枯渇。ドイツの銀鉱も埋蔵量は豊富であったが、需要には応じきれなかった。貨幣が豊富に供給されないかぎり、商業や金融の発展は望まれない。
香料も、食物の風味を付け加えるだけでなく、ルネサンスの人々が食べていた肉は、塩漬けか腐りかかったものであったので、香料はたんに食物の味をよくするだけでなく、食べられるようにするものであった。(輸送が困難で、冷凍設備もない時代)
ビザンツ帝国を滅ぼしたオスマン=トルコが東西交通路をおさえ、東洋貨物に重税を課した。そこで西ヨーロッパの人々は、地中海を経由しない新しい航路を開き、生活必需品となっていた香料をなんとか、オスマン=トルコ・アラビア・イタリア商人の仲介なしで入手しようと考えていた。当時ヨーロッパがアジアに求めた物産は、中国の陶磁器・生糸・絹織物やスマトラの胡椒、香料諸島の丁子・肉ずく・ずく花といった香料。広大な東西貿易の担い手は、ペルシア湾・アラビア海ではイスラム商人、インド沿岸からマラッカへはインド商人、マラッカから香料諸島へはジャワ商人が活躍。
異教徒を改宗させたいという願望。
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大航海時代を可能にしたものの一つは「新しい船」であった。王子らの工夫もあって、「風に向かって走る船」が開発された。15世紀に発達したヨーロッパの船は、どこへでもゆくことができ、また戻ってくることができた。それまでの航海は「風向きしだい」であった。それをさまざまな技術改良によって、順風の時のみならず、あらゆる風向きの場合にも前進できるようにした。この発明は、自然を克服した大きな一歩であった。
これらの船は、二つの違った造船の伝統が存在。一つは北海や大西洋沿岸のがっしりした大きな横帆の貿易船。もう一つは、地中海の櫂つきのガレー帆船と三角帆の沿岸貿易船。
大洋を航海することを目的とした、双方の長所を取り入れた船が建造されるようになる。
船首、船尾の双方から発射できる大砲で武装。また、船の舷側につくられた船窓から側舷発射ができる砲も備えていた。すぐれた火力。
大きな三角帆の利用。四角帆のときは船が風向きに対して約67度の方向までしか進めなかったが、それが55度までに可能となったのである。
マゼラン・カボット・ドレークなど船員の反抗に悩まされた探検家。ハドソンは乗組員の手によって殺された。
12世紀以来、ヨーロッパにはプレスター=ジョンに関する伝説が広く流布していた。ジョンは信じがたいほどの富と権力を持ったキリスト教徒の君主で、その居城は、最初はアジアに、後にはアフリカのどこかにあると考えられていた。だから、ヨーロッパの国が、ジョンと連絡をとることさえできれば、アフリカの改宗もできるかもしれないという希望が16世紀まで続いていた。
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当時人口は約200万。エンリケ航海王子(1394〜1460年)
アフリカ海岸を南下する探検を開始。探検の主宰者は、ポルトガル王ジョアン1世の3男にあたるエンリケ航海王子であった。母親はイギリス人であった。若くして(21歳)北アフリカのイスラム世界にふれ、大ポルトガル建設の大志を抱く。
エンリケ航海王子の目的は、一つはアフリカの金・象牙・奴隷などの貿易ルートを確かめること。もう一つは、プレスター=ジョンの国を探し当てることであった。彼はジョンと連絡をつけて、北アフリカや聖地からイスラム教徒を徹底的に追放する十字軍を計画したいと考えた。
エンリケは華やかな宮廷生活を捨て、イベリア半島の南端のザグレス岬に移り住み、世界初の航海学校を創設。あらゆる分野の一流の学者を集め、地図製作・造船・地理研究・数学・医学・天文学等々の研究に専念させた。人種は問わない。ユダヤ人・アラビア人、そしてルネサンスの先進国イタリアからも一級の知性が集まる。結婚もせず、「海と結婚した王子」とよばれた。そこであつめられた情報は、エンリケの探検隊の隊長たちに伝達された。実験航海が失敗すれば、王子はその損害を補償したため、借金だらけであった。世界を変えた「大航海時代」も、まずエンリケという一人の若者の「心の中」に生まれたのである。
1434年、一人のポルトガル人がアフリカ西岸を南下。船乗りたちが、ある地点以上に進もうとしないのである。その場所はボジャドール岬。この岬から先は「暗黒の海」と信じられていた。怪物たちが住み、海は煮えたぎり、滝となって落下していると、中世以来、伝えられていた。赤道付近では人間は生きていられない、煮えたぎる海、そこへいくものは照りつける太陽のために真っ黒焦げになるか、いったとしても沸騰する海で死んでしまうという。「岬を越えて南進せよ」と、いくら王子がいってもムダだった。船乗りたちは15年間、王子の命に背き続けた。「風評にだまされるな」「行こう、岬をこえて」と一人の門下が腹を決めた。そして、彼はこえた。王子の確信どおり、「向こうの海」は何でもなかった。「想像していたのと、実際は正反対だった」。それまでの「恐怖の岬」という「心の境界線」「臆病の壁」をこえた。そこに決定的意義があった。
アフリカ沿岸に散在するマディラ、カナリア、アゾーレスなどの島々に基地を確保。
アフリカ奴隷の売買は、ヨーロッパで大きな利益を生み、それに力を得て、探検が次々とおこなわれた。ポルトガルはこうして「海の覇者」「時代の覇者」となった。
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激しい嵐に襲われ、海岸から押し流された。風が和らいだとき、ディアスは避難所を発見した。彼はモスル湾にいたのである。しかし、彼は風の力で喜望峰を迂回できたことに気づかなかった。彼は航海をつづけ、アフリカの最南端を通過したに違いないとの確信をいだく。しかし、乗組員たちは、まさにインド洋の入り口にさしかかりながら、ディアスに帰国を強要した。ディアスは不本意ながら帰ることにした。
彼はその岬に「嵐の岬」と名づけたが、知らせを聞いたジョアン王は、将来への明るい見通しにかんがみて、喜望峰と名をあらためた。
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この航路によってインドに向かう最初の遠征を任されたのがヴァスコ=ダ=ガマ。
1495年ジョアン王は没し、その後継者マヌエル王のとき、ヴァスコ=ダ=ガマの航海。
1497年7月8日、リスボン出発。3隻の船。
1498年、カリカット到着。多くの乗組員が壊血病に倒れる。香料を大量にあつめて10月インドを離れる。
1499年7月と9月、二隻がリスボン帰着。出発したときの乗組員170人のうち戻ったのは44人。しかし、ガマの持ち帰った香料は、イスラム商人の中間利潤がないので巨大な利益をうんだ。
世界貿易の全く新しい時代がここに開幕したのである。
ポルトガルの第一の目的は、香料貿易を独占すること。まず、アフリカ東岸からインド西岸にいたるインド洋の通商権をイスラム商人の手から奪う。1509年には、アラビア海のディウ沖でエジプト・インド(カリカット)・ベネツィアの連合艦隊をやぶって、イスラム勢力に大打撃をあたえ、インド洋の制海権を握る。1510年には、ゴアを征服。以後、ポルトガルの根拠地。さらに東にすすんで、1511年にはマラッカを占領(香料貿易の最大の集散地)。こののち、マラッカを基地としてモルッカ諸島の一つにテルナート島に要塞を築く。
こうして、ポルトガルは「海の覇者」「時代の覇者」となった。南米(ブラジル)からアジアにまたがる大帝国をつくりあげた。日本にも南蛮文化をもたらしている。しかし、その繁栄も長くは続かなかった。それは何がげんいんであったか。
その要因の一つを要約して言えば、自らの力をこえて、はるかに膨張し拡大に走りすぎたためだといわれる。
大航海をすればするほど船員が必要になる。船員の確保のため農民がどんどん転用され、航海用の食糧をつくる人手が足りなくなる。そのため、外国から食糧を買い入れなければならない。だが、足元をみられたりして高い値をつけられる。そうした結果、貿易による利益よりも費用のほうが高くつくようになる。こうして、航海にでればでるほど赤字は膨らむという悪循環におちいった。植民地維持のために本国が疲弊するという事態を招いた。
このことはスペインも同様であった。ポルトガルとともに世界を二分していたスペインも、せっかく手に入れた「富」を蓄積して自国の資本を育てるだけの基礎体力がなかった。そのため。後進のオランダに、またイギリスに「海上の覇権」は移り、「富」は奪われていった。
コロンブス 戻る
フィレンツェのトスカネリは、大西洋を横断すれば東方航路よりも速くアジアに到達できると断言していた。しかし、地球の円周を実際よりも1/4も短く見積もっていた。
コロンブスは西方からインドへ行こうとする計画をポルトガルのジョアン2世に進言。しかし、ディアスが東方航路の可能性を開いていたので、援助を拒否。そこで、フランスとイギリスに弟を派遣するが拒絶される。彼は最後のチャンスを求めてスペインに向かい、イサベラ女王が彼を援助。1492年8月3日、3隻の船で出発。
海に出てから30日間がたったサンタ=マリア号の船上では、乗組員たちがコロンブスに引き返せと要求していた。コロンブスはついに、あと2・3日の間に陸地を見なかったら戻ろうと約束した。しかし、それから2日後の10月12日の午前2時、満月を過ぎたばかりの月に照らされながら3隻の船の先頭にあったピンタ号の見張りが大声で叫んだ。10月2日、バハマ諸島の小島を発見。コロンブスはその島をサンサルバドルと命名。インディアンがつけている小さな金製の鼻飾りを見て、コロンブスはインドへ到着した証拠だと考えた。彼は日記に記した。「私は日本の島を発見できるかどうかやってみるつもりだ」。そののち、キューバやハイチを発見しても、その土地が東インドと信じきっていた。
1493年、コロンブスは再び出発した。
その後、10年ものあいだ、西回りの航路をとった人々も、新しい大陸とは気づかなかった。
1501〜1502年ブラジル一帯を探検したアメリゴ=ヴェスプッチは、アジアとは異なる新大陸の一部だということに気づき「新世界」と名づけた。後になって、彼の栄誉をたたえて「アメリカ」とよばれるようになった。
やがて手に入る黄金や香料を守るため、スペイン王は重要な行動をとった。教皇に大洋一体の征服と貿易の独占権を願い出た。
悪名高きボルジア家の頭領であった教皇アレクサンドル6世は、1493年の教書によってスペインの望みを許した。もちろんポルトガルはすぐさま反対し、こうして二国の交渉がはじまり、互いに譲歩しあって、1494年6月トルデシリャス条約が締結された。のち教皇庁もこれを是認した。スペインの垂直線は西へ移動された。何の根拠もないやり方であったが、その結果ポルトガルは新しい線の端にひっかかったブラジルを手に入れることができた。
マゼランの太平洋横断 戻る
ポルトガルの下級貴族。インド方面やモロッコで活動したのち、スペインに移る。彼もまた自らの経験から西方航路の可能性を信じていた。スペイン王カルロス1世(神聖ローマ皇帝カール5世)から、5隻の船を手に入れ、1519年9月20日出発。南アメリカ沿いに南下。南半球は冬であったのでパタゴニアに停泊。1520年11月マゼラン海峡を通過して、ついに開かれた海にでる。それから4ヶ月の間、島影を見ずに航海。「太平洋」と名づけた。
「食べられるものといえば、うじ虫がたかっている、こなごなになったビスケットしかなく、それらはネズミが食い荒らしたときにつけた汚れで悪臭を放っていた。飲む水も黄色く悪臭を放っていた。我々は、帆桁が索具を破損させないように主檣の帆桁に張ってある牛の革まで食べた。おがくずも食べた。ネズミも食べた」。
ようやく1521年3月マリアナ群島に到着。つづいてフィリピン群島にも上陸したが、マゼランは原住民に殺されてしまった。部下は航海を続行し、喜望峰を通ってセビリャに到着。出発したとき5隻の船は1隻とあんり、生存者は18名にすぎない。これによって、世界一周が実行され、またその球形であることが実証された。
壊血病 ─ ビタミンC の不足。インドへの航海の場合、5人のうち死ぬものが1人なら上々と考えられた。
「俺の歯茎はすっかり腐ってしまって、真っ黒な腐った血が流れ出している。太ももと下肢は真っ黒く壊疽を起こしている。俺はこの黒い悪い血を流し出すために、毎日ナイフで肉を削りとらなければならない。土気色になって、歯の上までふくれあがった歯茎にもナイフを使う。この死肉を切り取ると、真っ黒な血がどっとばかりに流れ出す。俺は口の中を小便でゆすぎ強くこする。具合が悪いのは、食べることができないことだ。噛むよりも飲み込みたくなってしまう。この病気で仲間の多くがl、毎日のように死んでいく。俺たちは、いつも死体が海に投げ込まれているのを見ている。一度に3体も4体もだ。たいていの場合、やつらは何の助けも受けずに死んでゆく。包みや戸棚の後ろで息を引き取り、目や足の裏は、ネズミどもにかじり取られてしまう」。
ところで、15・6世紀の大航海時代に、なぜヨーロッパが歴史の主役となりえたか。アラブや中国は当時、ヨーロッパより文化的にも栄えていた。ずっと優れた航海技術をもっていた。それなのになぜ、これらの文明先進国は、後進国のヨーロッパに後れをとったのか。それは自己の世界を広げようとの思いが弱かった。「飢えたヨーロッパ」が襲いかかった。侵略・略奪である。善悪をいえばもちろん、ヨーロッパが悪である。しかし所詮、敗北は敗北である。以後、アジア・アフリカ・南米の民衆はヨーロッパの列強のために長く苦悩の歳月を送ることになる。
アジアを支配した専制主義や、南米にみられる神君主義は人々の精神をいわば骨抜きにしていった。つまり、人々は命令されたり服従することに慣れきってしまったのである。一方ヨーロッパの人々はルネサンスを通して鍛えられた「個人主義」と「自立せる意志」があった。人間性を抑圧する勢力と戦い、自己の信念に生きる「強さ」をもっていた。それによって培われた「なんとしても行くのだ」「勝つのだ」という意志が、アジアや南米の人々に瀰漫していた「あきらめの心」に打ち勝った。これが大航海時代の、精神の一断面であったといえよう。
【インド航路の発見】
A 「地理上の発見」の要因
1 ヴェネツィアの商人(1 )の「2 」
→ アジアへの好奇心をかきたてる
2 アジアの物産 − (3 )(胡椒など)などの需要増大
→ 東方貿易(→ イスラム教徒やイタリア商人の手をへる)にかわり、直
接アジアと通商する要求がうまれる
3 文化的要因
(4 )の改良(中国で発明 → イスラム → ヨーロッパ)、航海術・造船術の発達
4 宗教的要因 → 国土回復運動の延長としてアフリカ進出(聖ヨハネ伝説)
B インド航路の発見 − ポルトガル
1 (5 )航海王子の奨励(15世紀初)
アフリカ西岸 → ヴェルデ岬発見
2 1488年、(6 )が(7 )に到達
→ 国王ジョアン2世が命名、最初は「嵐の岬」
3 (8 )が(9 )年、(10 )
に到達(インド西岸)
リスボン → 喜望峰 → アフリカ東岸からインド洋横断(アラブ人の水先案内人)
→ ポルトガルがインド貿易を独占 → (11 )商人の地位後退
【アメリカ大陸の発見と世界就航】
A コロンブス(イタリアのジェノバ出身) の活躍 → 目的はインド航路の発見
1 (12 )(フィレンツェの天文学者) の地球球体説を信じる
2 スペイン女王(13 )が援助
3 (14 )年(グラナダ陥落の年)、スペインのパロス港を出発
→ (15 )島へ到達・探険(ハイチ・キューバ)
→ その後、3回航海。インドの一部と信じる
B その後の新大陸探険
1 (16 )父子(イタリア人)
英王(17 )の援助で北米探険(1497〜98年)
2 (18 )(イタリアのフィレンツェの人)
新大陸は彼の名にちなみ、アメリカとよばれる
3 (19 )(ポルトガル人)
(20 )に漂着(1500年) → ポルトガル領になる
4 (21 )(スペイン人)
パナマ地峡を横断し、太平洋に達する(1513年)
C (22 )(ポルトガル人)の世界周航
スペイン王(23 )(ドイツ皇帝カール5世)の命令で、(24
)年出発
→ マゼラン海峡・太平洋 → (25 )で戦死
→ インド洋・(26 )経由して、船隊の一隻が帰国(1522年)
D ポルトガル・スペインの植民活動
→ 教皇分界線(1493年)
教皇アレクサンデル6世が設定 → 西はスペイン、東はポルトガル
翌年、(27 )条約で分割線決定(ポルトガルの要求で西へ少し移す)
1 ポルトガル
@ (28 )に総督府を設置(1510年、アルブケルケ)
A セイロン、(29 )占領(1510年) 、 モルッカ諸島(香料諸島)
を支配
B (30 )居住権を獲得(1557年、中国貿易の拠点)
→(31 )に漂着( → 平戸に商館)
→ (32 )貿易を独占、首都リスボンの繁栄
2 スペイン
@ (33 )(コンキスタドレス)
メキシコ征服、(34 )帝国滅亡(1521年)
A (35 )(コンキスタドレス)
ペルーを征服、(36 )帝国滅亡(1533年)
B (37 )銀山(ボリビア南部)などから大量の(38 )が流入
→ スペインの富強・繁栄の基礎
→ 東洋貿易は(39 )(1571年建設) を拠点に開始
【世界の一体化】
A (40 )革命
世界商業の中心が、地中海から大西洋とインド洋へ
→ イタリア・南ドイツの都市が衰退、大西洋岸の都市が繁栄
B (41 )革命
新大陸から(42 )の大量流入で、貨幣価値が下落し、物価騰貴
→ 封建領主(固定した地代に依存)に打撃)
→ 商工業の成長
C その他の影響
1 スペイン、ポルトガルの繁栄 → 16世紀後半、スペインの全盛
2 生活上の変化
トマト、たばこ、コーヒー、(43 )など流入
3 キリスト教の伝播、征服や搾取で原住民の生活を破壊
D 意義
1 各文化圏の結合で世界が一体化、世界史的世界が成立
2 ヨーロッパ人の世界への進出で世界のヨーロッパ化が進展
3 歴史主体が大西洋岸へ移動(地中海世界より)
☆ 重要語句
インド航路 香辛料 世界の記述 エンリケ航海王子 バルトロメウ=ディアス
ヴァスコ=ダ=ガマ コロンブス トスカネリ カブラル
アメリゴ=ヴェスプッチ バルボア マゼラン コルテス ピサロ
アステカ文明 インカ文明 商業革命 価格革命
☆ 重要年代
ヴァスコ=ダ=ガマのカリカット到着 コロンブスのサン=サルバドル到達
マゼランの世界周航
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