3 宗教改革
宗教改革への道
ルターの宗教改革
ドイツ農民戦争
アウグスブルクの和議
スイスの宗教改革
エリザベス1世
反宗教改革
封建制・荘園制の崩壊
イエズス会
ルネサンスと宗教改革の意義
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16世紀になってはじめて、宗教改革が成功したのは、国権や国民意識の成長と密接に関係している。
西ヨーロッパ諸国では、中世以来、中央集権的な国家が形成され、教皇の権利がしだいに制限されていくの対して、皇帝権が弱体化しつつあったドイツは、そのために教皇による集中的収奪の対象となった。
ドイツは「ローマの乳牛」、教皇に対する反発が強い。
宗教改革がまずドイツでおこったのは、そのような事情の結果。
贖宥状 ― 罪に課される劫罰を免除するもので、その代わりに罪を悔いた人々は教会に金銭を寄進する。
神のゆるしは、告解・懺悔・贖罪によって得られるもの。中世において贖罪は、7年間パンと水しか口にしないとか、艱難に耐えて長い巡礼をするとか、非常に厳しい修行をすることを意味した。
ところが何百年かたつうちに、贖宥がその代用をするようになり、金銭さえ支払えば、贖罪の修行をしなくても済むようになった。そして、それが悪用されるようになった。
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教皇ユリウス2世は、ヴァチカンにある聖ペテロの墓の上に、新しいバシリカを建立するよう命令をくだした。あとを継いだレオ10世は事業を継続させるために、再び贖宥教書を公布した。ヨーロッパの支配者は、自国の金がローマへ流出するため抗議。
ヘンリー8世に対してはイギリスの売上高の1/4を与える。フランソワ1世に対しても同じ比率を適用。スペインではカルロス1世(のち皇帝カール5世)に売上げ金額を貸与するという懐柔策をとった。
マインツの大司教の地位が空席となり、ホーエンツォレルン家のアルブレヒトがフッガー家から巨大な借金をして手に入れた。アルブレヒトから袈裟料取立てを確実にするため、アルブレヒトに対し、自領からあがる売上高の半分を自分のものとして、フッガー家の借金返済にあててよいとした。ザクセンのフリードリヒ賢王は、諸国王のような特権を与えられていない
贖宥状を購入しさえすれば、買ったものはもちろん、煉獄で苦しんでいる近親の死者までもが天国に入ることが約束されるようなことを口にしていた。
ヨハン=テッツェル、ドミニコ会の修道士、1517年4月ウィッテンベルクの町はずれに説教台を据えつけた。
ルターは、ウィッテンベルクの人々がだまされて、夢中になって贖宥状を求めているのを知って憤慨した。そのころ意見を発表するための新聞などなかったから、どこか公的な場所に公表するのがならわしであった。ウィッテンベルクでは、域内の教会の扉がそうした発表に使われていた。
フリードリヒの居城の教会堂の扉の上に釘付けしてある掲示板にはりだした。「人々は信仰によって罪を償いうるのであり、贖宥状を購入することによって得るのではない」
テッツェルは、ルターの論題を読んで、ほくそえんだ。「異端者め、3週間以内に火あぶりにしてやるぞ」。テッツェルは教皇庁に、ルターを処罰すよう強訴した。
ルターは、大量のパンフレットを送り出す。ルターの著作は、たちまちのうちにベストセラーになった。教皇庁もルターを黙殺することができなくなり、1518年ルターは、アウグスブルクで、教皇庁の枢機卿カエタンと面会した。言説の撤回を求められるが拒否。このとき以後、教皇職は人間がつくりだした虚構であり、キリスト教信仰の悪用は、それに根ざしていると考えた。
1519年、ライプチヒの公開討論会。恐るべき弁舌の才で知られたヨハン=エックと応酬。エックは、ルターがフスと類似した見解(「聖書の中に神を求めよ」)を持つと決めつけた。ルターは激しくエックに応酬した。コンスタンツ公会議がフスを異端と断じたのは誤りである、と。教会・教皇の権威を否定。ますます嵐は大きくなる。
1520年8月「ドイツのキリスト教貴族に与う」 ─ 教会が改革を行わないなら、国家が改革をおこなうべきである。
10月「教会のバビロニア捕囚」 ─ キリスト教の教えは、ローマのもとに捕らわれた1000年間の間に堕落してしまった。11月「キリスト者の自由」 → 人間は神の言葉にのみしばられる。そして、神の言葉は聖書である。教会の権威を否定
ルターの影響は国中に広まる。なぜルターは改革をなしとげることができたか。どこよりもローマと分離したいと望んでいた国の人々にむかって、彼は訴えた。
1520年カール5世はマクシミリアン1世のあとをついで皇帝となった。カール5世は、ウォルムス国会へルターを召喚。自説の撤回を求める。ルターは一日考える時間を与えられたが、「私は聖書や明確な根拠によって承服させられないかぎり、良心に逆らって行動することは正しくないので、何事も取り消すことはできませんし、また欲しもしません。神よ、私を救いたまえ」。これを拒否(1521年)。ルターは彼を支持する人々の英雄となる。
一ヵ月後、若き皇帝カールはルターの公民権を剥奪するウォルムス勅令を公布。これに対し選帝候フリードリヒは、ルターの安全を気遣って、一団の武士にルターを襲うと見せかけて連れ去り、ワルトブルクの城に約1年間かくまう。この間に新約聖書のドイツ語訳を完成。文学的にもすぐれており、ただ一つの著作としてルターの聖書ほど、現在のドイツ語の完成に寄与したものはないといわれる。
この時点で、フリードリヒ賢王、エラスムス等、圧倒的にルターの味方が多かったが。ルターがキリスト教会制度の破壊を目指していると考えられるにつれて、知識人は離反。洗練され博識の持主であったエラスムスが離れてゆき、他の学者も彼にならった。彼らは教会の破壊ではなく、教会を改革することを願った。
ドイツ農民戦争 戻る
農民たちは、権威に対するルターの非難・攻撃、「神の前の平等」に刺激され、彼の言葉をうのみにして領主に対して反抗した。
ルターは農民たちに非難を浴びせ、当局が行動をおこすよう呼びかける檄文を書いた。こうして、彼は下層階級とも離反していった。
それでもルターの主張は、依然大きな力を持っていた。諸侯・貴族・商人の支持。信仰を擁護するという皇帝の宣誓も、これらの人々がルター主義にかたむいていくのを阻止することはできなかった。一人、また一人と諸侯はルター側にくみし、都市もそれに続いた。彼らは、ローマの政治干渉をはねかえす要求を持つ。イタリアへの金銭の流出を防ぐ。しかし、カトリックの信仰と皇帝に忠誠をつくすものもいて、こうして、カトリック派とルター派という二つの党派ができあがる。
カール5世は、ハプスブルク家と犬猿の仲であったフランスと戦う。ハンガリーを侵略していたトルコ人とも戦ったので、1529年、カール5世はババリアの首都であったシュパイエルで開催されていた国会へ、ウォルムスの勅令を強化してカトリック信仰を再建すると伝えたにすぎなかった。
これに対し、数人の諸侯と14の都市が結集して、有名な「抗議」(プロテスト)をおこなった。彼らは「抗議する人」として有名になり、やがて「プロテスタント」という言葉が、ローマ教会をさった人々をさすようになる。
アウグスブルクの和議 戻る
1555年、カール5世の最後のアウグスブルク議会が開催されたとき、ルター派は非常な数にふくれあがっていた。彼らは、自分たちの宗教を承認することを要求し、それをとりつけた。
諸侯と自由都市のすべては、その統治下の住民がカトリックかルター派のどちらかの信仰をもつべきかを決定する権利を獲得。アウグスブルクの和議によって、ドイツ諸侯は二つのうちどちらかを選び権利を与えられた。
しかし、現代でいう信仰の自由を認めた規定ではない。認められているのは、ルター派とカトリックだけ。再洗礼派やカルバン派はまったく認められていない。
諸侯や都市当局が決めた信仰に同意できないものは、他の地域にうつる権利はあったが、その地にとどまって自分の宗派を信仰する自由はなかった。
アウグスブルクの和議は国民的な見地からいえば敗北。諸侯の権利が強化されたので、政治的統一がますます困難となる。ヨーロッパのほかの国々が強大な勢力に成長していったとき、以後300年間、ドイツは分裂したままで弱体化していく。
スイスの宗教改革 戻る
他の国では、国王から農奴にいたる社会階級があったけれども、スイスには市民と牧畜と酪農によって生活する自由農民という二つの階級があるだけ。
名目的には神聖ローマ帝国の一部であったけれども、事実上独立していた。13の各州は高度な民主制をしいていた。皇帝や君主から独立していると同じく、教皇の支配もほとんどうけつけなかった。チューリヒが最も急進的であった。
スイス連邦の中で、チューリヒはドイツ・イタリア間の取引の中継地として繁栄。
ここに1519年ツウィングリが司祭として赴任。ツウィングリはルターにおくれること2ヶ月弱、1484年1月に生まれる。ルターとは独自に贖宥状への反対を説く。のちルターの著述を知るが、人文主義の影響によって自らの理念をつくりあげていた。チューリヒの人々は、ツウィングリの方法をうけ入れる。教皇も、ルターの処置によって多くのドイツ人を失ったことから、教訓を得たようでツウィングリをそのまま放任した。
しかし、改革をはじめた張本人のルターは黙認しなかった。ツウィングリの思想がドイツに流れ込み、とろによってはルター派の思想や儀式にとってかわりはじめたのである。ルターは腰を落ち着けていられず、ツウィングリを相手にパンフレット合戦を開始した。ヘッセン伯フィリップは1529年秋、ルターとツウィングリをマールブルクの居城に招いて会談させる。二人の改革者が顔を合わせることになったのである。
ルターは、ツウィングリをキリストを裏切ったユダにたとえ、「私の教会堂内では、あの悪魔に決して何も教えさせない」といっている。
ツウィングリは、ユダヤ人や異教徒でも、立派な人間なら天国で歓迎されるだろう、とはっきり言うだけの心の広さを持っていた。このような態度は改革者では珍しい。ルターはツウィングリを異教徒だと決めつけている。
こうして会談は不一致に終わる。ツウィングリは和解の情をしめして手を差し出すが、ルターは腹立たしげに拒否。
スイス人のあいだでは、ツウィングリのやり方は都市部ではすぐに採用されたが、「森の3州」では人々は保守的でカトリックをすてなかった。5つの州はカトリック同盟を結成し、1531年8000人の軍隊をチューリヒに差し向けてきた。ツウィングリは1500人の兵士を召集し、自ら甲冑をつけてカトリックの攻撃を迎え撃って、戦死。こうして宗教改革者のなかで最も寛容な心をもったツウィングリは死ぬ。
改革の舞台ははジュネーヴに移り、ジャン=カルヴァンが登場する。彼はスイスのバーゼルで「キリスト教綱要」を執筆して出版した後、シュトラスブルク目指して出発した。そこで著述と研究に専念しようと思ったのである。途中、彼は一夜の宿を求めるためにジュネーヴに立ち寄ったが、思いがけなく、生涯そこにとどまることになった。
ジュネーヴでも他のスイスの州と同じように市参事会によって自治がおこなわれていた。信仰はルター派とツウイングリ派がいりまじったもの。説教師であったファレル(フランス人。説教者は罵倒するより教えるべきであるとの忠告を友人からうけたほど、猛々しい性格の男であった)の説得で、カルヴァンはこの地にとどまる。二人は力を合わせてジュネーヴに厳格な規律を確立し、死にいたるまでの23年間、神権政治を実施した。5人の牧師と12人の長老によって構成された長老会議が設けられ、礼拝儀式を決定し、ジュネーヴ全市民の風紀を監督し、各家庭に少なくとも年1回長老を派遣して調査させた。
ジュネーヴのアカデミー(のちのジュネーヴ大学)を創設。この卒業生がアルプスをこえ、ラインをこえ、全ヨーロッパ中に広がっていった。
既存の秩序に挑戦して、自らの自由を勝ち取った改革者たちは、例外なく他人が反対するのを認めなかった。彼らが痛罵したカトリック教会と同じく、彼らも意見の相違を異端として、異端には迫害をもってあたった。
イギリスの宗教改革 戻る
イギリスの場合は、君主が教会を変革したほうが、国家の利益になると考えて、国民がそれを支持。1520年代、ヘンリー8世の時代にはじまる。
1509年即位のとき、アラゴンのキャサリンをめとる(スペインとの同盟関係を強化する政略結婚)。キャサリンはヘンリーの兄アーサーの未亡人であり、スペイン王のフェルナンドとイサベルの娘である。ヘンリーの息子を産まない。王妃の子供で早死にしなかったのは、青白くやせていて、内向的な性格の王女メアリーただ一人であった。
ヘンリーが王妃キャサリンの侍女アン=ブリンに夢中になったのは、そのころ。彼女はヘンリーの思いをうけるかわりに、代償を要求した。彼女は王妃になりたかったのである。アンはそのとき身ごもっていた。ヘンリーは、アン=ブリンとの結婚を決意。教皇の離婚許可を得ようとする。教皇クレメンス7世は決断力のない男だったので、カール5世(カール5世の伯母)への政治的配慮とヘンリーの板ばさみになって、手をこまねいて一時のがれに問題の解決を引き延ばしたのである。
ヘンリーはアンとひそかに結婚し、カンタベリー大司教クランマーに自分とキャサリンの結婚は最初から合法的なものでなかったから無効であると声明するよう指示した。クランマーは指示通りおこない、アンはイギリス王妃となることができた。
クレメンス7世は報復手段として、ヘンリーを破門。しかし、国民感情がつよく、イギリス国民は国王を支持した。
ヘンリーは次々と改革をつづける。
首長令 ― 自分がイギリス教会の最高の首長であることを議会に承認させる。
ヘンリーはすべての聖職者に対し、教皇のかわりに彼に忠誠を尽くすことを誓わせた。
最後に修道院解散法を制定 ― 修道院の土地と財産を没収して、それを気前よく、土地を渇望している地主階級(ジェントリー)に与える。
ヘンリーに忠誠を誓うことを拒否した著名人、トマス=モアは、反逆の罪名をきせられ、打ち首に処せられた。
著書『ユートピア』 ─ どこにもないところ、という意味のギリシア語からの新造語。不思議の世界から帰ってきた旅行者の回想記で、そこの人々は悪によって堕落させられていない。
このあと結婚後3年であきがきて、不義と近親相姦の罪でアンをロンドン塔に送り処刑した。このあと、ジェーン=シーモアをめとり男子エドワードを生む。さらに3回妻を替え、1547年ヘンリーはなくなる。
王子エドワードは虚弱で病気がちであったが、聡明であり、9歳であったので、摂政が政治をとりしきった。エドワードは15歳で早世。
ヘンリーの長女、メアリー1世 ― 陰気で腺病質だったメアリーは、ずっと侮辱や無視を耐え忍んできたので、そのことが彼女にある種の人気を与えていた。メアリーの人気は長続きしなかった。スペインに対する国民感情を無視して、従兄弟のスペイン王フェリペと結婚。カトリックの復活をたくらんだ。彼女の態度は最初は控えめであったが、しだいに激しい手段をとるようになった。ヘンリーの法令を取り消し、異端を迫害。メアリーが1558年に死んだとき、イギリス人はエリザベスを歓呼の声で迎えた。
エリザベス1世 戻る
性格においても、政策においても、メアリーとは正反対で、統治者としての力量を示した。45年の統治をおこない、その間に孤立した田舎であったイギリスを、国際的な大国に仕上げる。メアリーとはちがい、エリザベスは幼児から父親の考えを尊敬していた。彼女はメアリーより17歳年下。
国教会は妥協の産物。主としてルター派の理念に基づく教義をとり、儀式はローマ教会をモデルとしている。ローマ教会との差異は、教皇にかわって君主が首長になるだけ。イギリスのたどった道は、教会に対する君主制の勝利を示すもの。
反宗教改革 戻る
16世紀のヨーロッパには、プロテスタントの波が押し寄せ、一時は全ヨーロッパをおおってしまう勢い、しかし、ローマ教会は手をこまねいていたわけではない。異端との戦いで勝ちを得るには、まず自らの家の中を清めることから始めなければならない。そのことに気づいたのである。多くの人々が教会を再建し改善しようと運動を進めていった。そして。教会を活気付づける一連の大きな改革がおこなわれる。この回復現象を「反宗教改革」という。
教皇パウルス3世の改革
1543年、異端的見解を禁止するため、宗教裁判制度を設けた。
イエズス会(イエスの集まり) 戻る
イグナティウス=ロヨラ
手に負えない乱暴者で大酒飲み。軍人となって、砲丸で片足を打ち砕かれる。傷の療養中、2冊の本を読む。1冊は聖者たちの生涯を書いたもの。もう1冊はキリストの生涯を詳細に述べたもの。これを読んでいくうちに、キリストの兵士となると決意したと言われる。それから勉強をはじめ、30代になっていながら学校に入学し、ラテン語をならい、その後さらに10年間、スペインとパリのさまざまな大学で勉強を続けた。
パリでロヨラは1534年、6人の友人とともに、生涯を清貧と独身のうちに過ごすことを誓い合った。彼らは、ローマに行って教皇に身をゆだね、命令されるどんな仕事もおこなうという誓いもたてた。「イエズス会」(イエスの集まり)が誕生。会員は命令に服従。厳格な訓練で鍛える。この「服従」こそがイエズス会のスローガンであった。「白いものを黒いといわれようと、我々はただちにそう信じ込むようにせねばならぬ」と彼は書いている。神の命ずるところ、なんの疑念ももたず受け入れよということになる。この服従の精神のもと、イエズス会は驚異的な勢いで広がる。
1540年教皇パウルス3世が公式の認可を与える。厳格な訓練で鍛え上げられ、全世界に伝道をくりひろげる。新しく発見された南北アメリカをはじめ、アフリカ・インド・アジアに乗り出していく。最も有名なのが、フランシスコ=ザビエル。イエズス会の創立メンバーの一人。1540年ポルトガル王ジョアン3世が、インドの異教民族を改宗させるため宣教師を求めたとき、ロヨラはザビエルを推薦した。11年間インド・セイロン・マラヤ・日本へと伝道し、1552年南シナ海の島で没する。
イエズス会が果たした最大の役割は教育の領域においてであった。ロヨラは、自派の会員がカトリックの第一線に立って戦うためには、聖職者として、また、学者として十分な訓練を受けていなければならないと考えた。イエズス会士を教育するために、何十となく学校を設立していった。やがて、教育者としてのイエズス会士の名声は高まってゆき、一般の大学からも指導を要請されるようになった。
トリエント公会議
パウルス3世の召集。次のパウルス4世、ピウス4世の時までつづく。、この結果、教皇庁の指導のもとに、改革運動がすすむことになる。このようにして、ローマ教会は宗教改革を耐え抜くことができた。
教会の伝統も、聖書と同等の権威を持つと決定
聖書の解釈をできるのは教会だけと再び主張
教会によって許可された贖宥状の効力によって、罪を許されるということも確認
カトリックとしての禁書目録も作成
ルネサンスと宗教改革の意義 戻る
ルネサンス・新航路の開拓・宗教改革は近代への入り口。
ルネサンス ― 16世紀の科学上の成果(地動説等)
新航路の開拓 ― ヨーロッパの交通範囲が急速に広がる。ポルトガル・スペインの探検家が、東方への新しい道を開き、西方に新しい土地を発見するとともに、貿易の中心は地中海から大西洋沿岸都市に移る。
新大陸の金・銀がヨーロッパに流れ込む。ヨーロッパは1世紀におよぶインフレーション。地代が固定している領主は追いつめられる。この変動で勝利したのは、商品と金銭を扱う商人、企業家であった。彼らが繁栄するにつれて、資本主義がさかんとなる。
資本主義の成功に寄与したものとして、カルヴァンの新しいプロテスタント主義がある。カルヴァンによれば、市民が救いを確実にするためには、法を守り、勤勉で、まじめで節約しなければならない。職業労働を天職(Calling)とみなし、勤労にいそしむ。その結果としての蓄財は認められる。
こうした観念は資本主義を勃興させる大きな助けとなった。新しい企業精神がプロテスタンティズムとぴったり折りあっていた。
【ルターの改革運動】
A 宗教改革への道
1 (1 )(イギリス)、(2 )(ベーメン)、サヴォナローラ(フィレンツ
ェ)らの教会刷新運動
2 人文主義者の聖書研究(ロイヒリン、メランヒトン)や教会の悪弊攻撃
3 ドイツの政治的分裂 → 教会の搾取、「ローマの牝牛」
B マルティン・ルターの宗教改革
1 発端
@ 教皇(3 )(メディチ家出身) がサン=ピエトロ大聖堂建設資金のた
め(4 )を売りだす
A (5 )年(マムルーク朝滅亡の年)、ルター(ヴィッテンベルク大学の神学教授) は(6
)の論題を発表(ヴィッテンベルグ教会の扉)
→ (7 )販売を批判
→ ルターの教義
@ 魂の救済は「福音の信仰」による
→ 「人は信仰によってのみ義とされる」(信仰義認説)
A 著書「8 」
2 展開
@ 諸侯・市民・農民がルター支持 → ライプチヒ討論 → 教皇が破門
→ 皇帝(9 )はウォルムス帝国議会(1521年) でルターを圧迫
→ (10 )選帝侯フリードリヒ(ワルトブルク城主)が保護
→ 聖書のドイツ語訳、修道院の廃止などの改革
A 騎士戦争(1522〜23年、ライン地方)
ジッキンゲンやフッテンらの指導(騎士の特権擁護をさけぶ) → 失敗
B (11 )戦争 − (12 )〜25年
(13 )らが指導、ルターの教えに刺激
→ 農奴制の廃止などを要求 → 諸侯により鎮圧
(→ ドイツの農奴解放と近代化が停滞)
※ ルターの態度
最初農民に同情的 → のち農民を非難し、鎮圧を支持(虚言博士といわれる)
C (14 )(protestant、新教徒の呼称)
皇帝(15 )が(16 )=トルコのウィーン包
囲で、ルター派を黙認
→ 戦況が好転し、ルター派を再び禁止(シュパイエル帝国議会)
→ ルター派諸侯、自由都市がプロテスト(抗議、1529年)
→ (17 )同盟(1530年、ルター派諸侯・都市)
→ ルター派とカトリック派の対立
→ (18 )戦争(旧教派との抗争、1546〜47年)
C (19 )の和議(1555年)
1 諸侯、自由都市はカトリックとルター派のどちらを信仰してもよい
→ 領内の人々は諸侯の信仰にしたがう
2 不徹底で(20 )戦争の遠因となる
@ 個人の信仰の自由なし
A 新教の中でルター派のみ公認
【カルヴァン】
A スイスの宗教改革
(21 )が(22 )で改革運動(免罪符の販売に反対)
→ 旧教派との戦いで戦死(1531年)
B カルヴァンの改革
1 フランスから(23 )に移り、神政政治(1541〜、宗教的共和政治)
@ 聖書主義(福音主義)に立ち教皇の権威を否定
A 司教制を廃し、(24 )の制度を設ける
2 「25 」(1536年) で徹底した聖書主義(福音主義)を説く
3 (26 )説 − 魂の救済は神によって予定されている
→ 救済を信じ、欲望をおさえ職業労働にはげむようにすすめる
→ 結果としての営利や富の蓄積を肯定
→ 影響 − この教えは成長しつつある市民階級の利益と一致
→ スイスのほか産業市民層の発達した各地に広まる
C カルヴァン派の伝播
スコットランド → プレスビテリアン(長老派)
イギリス → ピューリタン(清教徒)
フランス → ユグノー
オランダ → ゴイセン
【イギリス国教会】
A イギリスの宗教改革
1 テューダー朝の(27 )8世が、王妃との離婚問題(カザリン皇后)をきっ
かけに教皇と争う
2 (28 )年(イエズス会成立の年) 、(29 )令を発する
→ イギリス国教会(国王が主権者)
→ (30 )を廃止して土地・財産を没収
B 経過
1 (31 )(ヘンリ8世の子) − 新教にもとずく祈祷書を作成
2 女王(32 ) − スペイン王フェリペ2世と結婚、カトリッ
クが復活
3 女王(33 )
(34 )(1559年)によりイギリス国教会が再興・確立
※ 国教会の性格 − 信仰箇条(教義)は新教、司教制の維持や儀式は旧教ににる
【反宗教改革】
→ 宗教改革に対するカトリック教会の反省
→ 信仰の革新をつうじて勢力の立て直しにつとめる
A (35 )(北イタリア) 公会議(1545〜63年)
1 皇帝カール5世が要請
2 教皇が最高権威であることを確認 → 新教に対抗
→ (36 )の強化と異端の抑圧で新教を圧迫
B (37 )設立(1534年−首長令発布の年)
1 (38 )(スペイン人) が創立(パリで組織)
2 厳格な組織で旧教の布教・教育活動 → 新教の撲滅が目的
C 成果
1 南ヨーロッパへの新教の波及を阻止、南ドイツで旧教が回復
2 ポルトガル・スペインの通商・植民活動とむすびつく
→ (39 )(スペイン人。ロヨラの同志。日本へ)
→ マテオ=リッチ(イタリア人) 、明(中国)へ
3 新・旧教徒の対立を激化
→ 宗教戦争(オランダの独立戦争、フランスのユグノー戦争、ドイツの三十年戦争など) へ
☆ 重要語句
宗教改革 九十五ヵ条の論題 贖宥状 マルティン=ルター ヴィッテンベルク
キリスト者の自由 ウォルムス帝国議会 ドイツ農民戦争
シュマルカルデン同盟 アウグスブルクの和議 レオ10世 カール5世
キリスト教綱要 ミュンツァー ツヴィングリ カルヴァン ジュネーブ
予定説 プレスビテリアン ピューリタン ユグノー ゴイセン 首長令
イギリス国教会 統一令 ヘンリ8世 エドワード6世 メアリ1世
エリザベス1世 反宗教改革 トリエント公会議 宗教裁判 イエズス会
イグナティウス=ロヨラ フランシスコ=シャヴィエル
☆ 重要年代
九十五ヵ条の論題発表 アウグスブルクの和議 首長令の発布 統一令の発布
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