ヨーロッパ近代国家の形成

 

           第10章 ヨーロッパ近代国家の形成  
          
               1 絶対主義諸国の盛衰
 
 絶対主義とは  スペインの強盛  オランダの独立   エリザベス時代
 スイスの宗教改革  エリザベス1世   フランスの内乱と絶対主義  
 ルイ14世の時代    スペイン継承戦争   
   
 
 絶対主義とは   戻る
 ヨーロッパでは13・14世紀頃から王権による国家統一の傾向がはっきり現れてくる。そして、16世紀になると、絶対王政とか絶対主義とよばれる政治形態が生まれる。絶対王政の特色は、国王の権力が無制限とか・無制約で絶対的な点にある。
   
 王権の強化を最も望んだもの  
 商業の著しい発展によって、台頭してきた商業ブルジョワジー。彼等は国内市場の統一を要求し、これをはばむ封建的勢力と対立した。  
 彼らは王権に頼り、この点で集権化をめざす国王と利害が一致した。国王の側からみても、絶対王政の支柱である官僚と常備軍を維持するに必要な多くの貨幣を手に入れる必要があった。  
 中世から近代への過渡期において、封建貴族の退潮がいちじるしく、他方。市民身分が経済的実力をバックに成長していった。  
 貴族層は農民を支配していくために君主権に依存。市民層のうち商業的市民層は、商業上の理由から国王に依存その代償として、国王の貨幣要求を満たした。このように、貴族も市民もどちらも国王に依存する傾向がいちじるしかったので、両者のいずれからも制限をうけず、絶対的なものとしてあらわれることができた。  
 16・17・18世紀の間。とりわけ、17世紀は絶対主義の最盛期。
   
 君主権をおさえるような機関の権限は縮小されるか停止。  
 フランスでは、イギリスの議会にあたる三部会の召集が、1614年を最後として1789年までとだえる。  
 君主の地位は、王権神授説によってよそおわれ、君主はすべての法をこえた存在。君主は神のみに対して責任を負い、臣下が君主の行為を批判するのはゆるされないとする。
 
 スペインの強盛   
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 新大陸は次第に巨大な富をあらわす。特にポトシ等の大鉱山の発掘で、金銀を独占。  
 新大陸との貿易は王室の独占。これとむすびついた一部の大商人によって統制。
 国内の産業が発展する基礎が欠いていて、貿易の利潤は他の国々への貿易差額の支払いや、膨大な軍事費・宮廷費に消えていく。王室は、植民地支配とむすびついて富裕となるが、国内産業は貧弱な状態にとどまる。また多くの人的資源が植民地に消費されて、国土と国民はやせていった。  
 植民地からの富の収奪は、スペインの国家の増大に結びつかなかった。
   
 新大陸の殖民と開発が進むと、必需品をヨーロッパからもってこなければならず、新大陸はヨーロッパの製造業の市場となる・  
 東インド貿易では、金・銀・銅の輸出で香料などをかったが、新大陸貿易では毛織物を輸出して銀をもちかえった。つまり、工業製品の輸出貿易である。  
 スペインは毛織物工業があまり進んでいないので、本国の製品ではなく、ネーデルランドやイギリスの毛織物を再輸出する中継貿易。ネーデルランドやイギリスが直接新大陸貿易にのりだすと、スペインの地位はゆらぎだす。こうして新大陸と東インド貿易は、イギリス・オランダという二つの新興国家に移ることになる。
   
 オランダの独立   戻る  
 16世紀のネーデルランドは現在のオランダ・ベルギー・ルクセンブルク・フランスの北部を含む細長い地帯。北部にはドイツ文化の影響、南部はラテン文化の影響が強い。この時期の重要な産業である毛織物工業が、とくに発展していた。  
 15世紀後半にハプスブルク家の所領となり、同家のカールが1516年カルロス1世としてスペイン王に、そして1518年カール5世として神聖ローマ皇帝となると、ハプスブルク帝国を財政面で支えた。カール5世自身もネーデルランド人であった。1555年、息子フェリペ2世にこの土地をスペイン王位ともに譲って引退。スペインの属領となると、経済上・宗教上の利害の対立が表面化し、スペインに対する反抗の気運が高まった。ネーデルランドはカール5世のときから実質的に自治をおこなう。  
 この地域の人々は、何百年もの間、海を堰きとめ、土地を干拓する仕事で鍛え上げられてきた。地理的条件と自然とに恵まれていたので、国は豊かであり思想の花が咲き乱れていた。  
 この地にはカルヴァン主義が深く根をおろす。「職業」にいそしむことは神に通じるとの職業倫理を説いていた。倹約・勤勉を重んじ、他人に頼らぬことを強調するこの主義は、海と闘い土地を埋め立てながら、まさにその主義に通じる性格を養ってきた人々にとって、まさにぴったりしたのもであった。
   
 カール5世はドイツと同様、このネーデルランドでも新教弾圧の挙にでたが、彼自ネーデルランド人であったこともあり、人々との心の交流もあって、その圧迫は厳格なものではなかった。まt、ネーデルランド人も皇帝カール5世に深い愛情を抱いていた。しかし、スペインで育った息子のフェリペは、ものの考え方と気質はスペイン人さながらで、ネーデルランド人の性格を理解することはできなかった。  
 フェリペ2世は商業に課税し、そのうえ、自分の部下を世俗と聖職の役職に任命し、ネーデルランド人が100年以上にわたって発展させてきた行政権と裁判権を彼らの手から奪い、最後にはスペイン人の軍隊を常駐させた。  
 異教徒との戦いは、スペインに与えられた天命のようなものであった。数百年間カトリックを奉じるスペインは、異教のイスラム教徒と残忍な戦いをおこなってきた。その結果、こちこちの正統的信仰、異教徒を許すまいとする緊張のなどが、スペイン人の精神に注ぎ込まれた。  
 フェリペはネーデルランドの異端者を根絶やしにしようと、宗教裁判(異端審問)の制度をつくりあげた。この制度は100年前にスペインで、ユダヤ教徒とイスラム教徒を撲滅するために、彼の曾祖父母にあたるフェルナンドとイサベルがはじめたものである。  
 1566年、スペイン王フェリペ2世に圧制に憤慨するネーデルランドの中・下級貴族数百人が、ブリュッセル宮廷(政庁)に押しかけた。彼らの請願は、「宗教裁判制度の廃止」「宗教問題をあつかう連邦会議の召集」等であった。このとき、執政の側近の一人は彼らをあざけるようにいった。「彼らはたかだか乞食の群れにすぎません」、と。ネーデルランドの貴族の一派は、この侮辱的な言葉を逆手にとって、「これは面白い」と自らの栄誉の呼称とした。このとき、かれらは「ゴイセン万歳」と杯を交わしたという。以後、彼らは「ゴイセン」(乞食党)と名のり、乞食の銭入れと食器が反乱にあたってのシンボルとなった。
   
 「ゴイセン」の結成と蜂起  
 ゴイセンには、エグモント伯ラモーラルやオレンジ公ウィリアムなどが控えていた。エグモントは、ゲーテの戯曲「エグモント」をベートーヴェンが200年後に作曲して有名となった。エグモント伯は聡明で、戦場においては勇猛果敢。オレンジ公は自分の滅多にもらさぬ人だったので、沈黙公ウィリアムと呼ばれていた。   
 スペインの圧制にたいして、1566年アルマンティエールに暴動が勃発し、オランダ北部に波及していった。反乱を粉砕するため、フェリペはアルバ公を派遣した。彼は情け無用の残忍な性格の男だった。59歳。1567年、アルバ公は1万人の兵士を率いてネーデルランドに進軍。アルバ公は騒擾評議会(血の評議会)を設けて恐怖政治を展開した。エグモント伯をはじめ8千人に及ぶ貴族・市民を処刑した。こうした弾圧の嵐に約10万人もの人が国外へ亡命・避難したという。長い戦いの結果、多くの人間が命を失い、国土は略奪しつくされ、何百年もつづいてきた繁栄は消えてしまった。乞食党も大打撃をうけ、処刑を免れたものも大量に海外に亡命した。オレンジ公もアルバ公の逮捕の手を逃れてドイツに亡命した。  
 亡命者たちは「海乞食」と称して運動を継続。また国内に潜んだものは「森乞食」となって教会や修道院を攻撃するなど、急進的なゲリラ活動を繰り広げた。  
 1572年「海乞食」の一団はブリーレを占領する。更にホラント・ゼーラント両州の都市を次々と占拠する。これが契機となって、1581年北部の7州は独立を宣言して新政府を樹立した。総督となったのはオレンジ公であったが、彼はフェリペによって首に賞金がかけられ、総督として3年目に狂信的なカトリック教徒によって自宅で射殺された。それから流血沙汰が何年も続くが、彼らはついに「日本の九州より小さな国」ネーデルランド連邦共和国を建国する。
   
 ラテン文化の影響が強く、経済的には弱体であったネーデルランドの南部は、スペインに征服されたまま、スペインの属領にととまった。19世紀になってようやく、ベルギーとルクセンブルクという国家として登場する。  
   
 エグモントを、のちゲーテが戯曲として感動的に描いた。エグモントの死から約200年後の1787年9月、ゲーテ38歳のときである。  
 彼はアルバ公の策略にかかって捕らわれ、死刑の宣告をうける。しかし、彼は信念を曲げない。彼の恋人であったクレールヘンは必死に彼を救おうとするがかなわず、絶望のあまり毒を飲んで命を絶つ。  
 死刑を前にしたエグモントの獄屋にクレールヘンの幻影が現われ、彼の正義の死を祝福する。エグモントは愛国の志士たちの流した血は無駄ではないとし、今、「おれは自由のために死ぬのだ」と語り、力強い足取りで刑場に向かうのである。「きみたちの最愛の者を救い出すためには、喜んで倒れよ。いまおれが実例をしめすように」。
     
 中継貿易の繁栄 → オランダ商業の中心は、バルト海中心の中継貿易
   
 17世紀後半衰退の原因  
 @ 国内産業は生産を増して発展していったが、オランダの中心勢力であった商業資本家は、中継貿易の利益が減少するのを恐れて保護政策をとらなかった。海外植民地戦争にやぶれ、フランス・イギリスに市場を奪われていった。  
 A 中継貿易の後退  
 イギリスの「航海条例」によって中継貿易から締め出され、バルト海貿易もイギリス・スカンディナビア三国・ロシアの海運によって脅かされるようになる。
 
 エリザベス時代   戻る
 ヨーロッパが宗教闘争で苦しんでいたころ、イギリスではエリザベス女王が寛容なプロテスタントを採用し、鋭敏な政治的手腕と女らしい魅力とで国民を統一していた。45年におよんだ治世のあいだ、イギリスは繁栄の一途をたどり、平和のひと時を過ごしていた。
 女王は未婚であることを武器に、ヨーロッパの王侯たちに結婚してもいいようなそぶり見せては気を引き、彼らをうまく御していた。
 王が教会の最高統治者となり、その下に大主教・主教・司祭という制度をとり、教会を絶対主義の重要な柱とした。
 一方では強力な海軍をつくり、恐怖の的であったスペインの無敵艦隊を撃破し、イギリスに制海権をもたらした。
 スペインと国際的に対立していた。オランダの独立軍に援助を送る。新大陸からもたらされる銀はスペインの繁栄のもとであった。ところが、イギリスの海賊(私拿捕船)がアメリカのスペイン植民地と密貿易をおこなったり、アメリカから帰ってくる「宝船」を途中で襲ったりした。この海賊はエリザベス公認のものであった。世界一周に成功し、騎士に列せられたフランシス=ドレークなどがその代表であった。
 もう一つの対立の理由は宗教的なもである。
 カトリックの擁護者を誇りとするフェリペにとって、イギリス独自の国教会を主宰するエリザベスの存在は許すことができなかった。1587年エリザベスが、元のスコットランド女王でカトリックのメアリー=スチュアートを処刑したとき、フェリペのイギリス攻撃の心は決まった。
   
 1587年、ドレークのカディス侵入で無敵艦隊は38隻の輸送船を失う。1588年、130隻の無敵艦隊がリスボンを出発した。イギリスでは司令官ハワード卿のもとにドレークらがしたがい、無敵艦隊をカレーに追い込んだ。その当日の28日の夜、火薬などをつんだ8隻の船がカレーに進入し、スペイン側は2隻の戦艦を失った。この奇襲でパニック状態になった無敵艦隊は、あわてて錨を切り離して港外へ逃れた。翌29日のグラブリーヌの海戦で無敵艦隊は大損害をうけ、戦死者4千人を数えた。イギリス上陸をあきらめ、さらに、北海にでてスコットランド北端を回ったときに嵐にあい、翌年スペインにたどり着いたのは約半数(艦船131隻のうち57隻)であったと伝えられる。
   
 イギリスでは14世紀後半から賦役の金納化が進行、15世紀には貨幣地代が国民的に成立 → 事実上の土地所有農印、すなわち独立自営農民(ヨーマン)化した。  
 15世紀半ばから囲い込み(ジェントルマン―地主が中心)  
 農民保有地・共同地を囲い込み、大規模な牧羊業をおこなう。毛織物工業の発展で羊毛に対する需要が増大していた。
   
 オランダとイギリスの海外進出は、スペインとポルトガルと違い、「会社(カンパニー)」という企業組織体によっておこなわれていた。  
 海賊行為「私掠」 ― 自分たちのために海賊行為をやったわけだが、多くの場合、女王の暗黙の許可を得ていた。
   
 フランスの内乱と絶対主義   戻る  
 国民の大多数はカトリックであったが、ユグノーとよばれるカルバン派もいた。フランスの1/3がユグノーでしめられたといわれる。大部分は他国と同じように商工業者であったが、貴族の中にも有力な支持者はいた。
 16世紀初め、フランソワ1世はカール5世とイタリア領をめぐり争った。フランソワ1世をついだアンリ2世が1559年に没すると、ひ弱なン3人の嗣子が残され、次から次へと3人が王位につき、相次いで死んでいったが、皇后カトリーヌ=ド=メディシス(有名なイタリアの銀行家の出で、教皇クレメンス7世の姪にあたる)が実権を握っていた。彼女は策略にはたけていたが手配に堅実さがなかったといわれ、君主権はしだいに弱まっていった。
 カトリック教徒は異端者の一掃を主張し、国王を支持した。彼らの代表はギーズ公でフランス軍の指揮官であった。
 ユグノーはカルヴァン主義者であり、数こそ少ないが団結力が強かった。カトリックとユグノーは互いに相手を攻撃しあい、ユグノーになんらかの配慮をしなければ国内の混乱がおさまらないと、カトリーヌは考えていた。1560年代のはじめには、ユグノーにはかなりの自由が与えられていた。1562年から武力衝突がはじまる。カトリーヌはさらにユグノーの好意を得ようとして、娘のマルグリットをユグノー派の指導者ナヴァル王アンリと結婚させようとした。(ナヴァル王アンリは、フランソワ1世の姉の孫でカトリーヌの子供につぐ王位継承権をもっていた)。ところが、この平和をもたらすはずの結婚が、最も多くの血を流した惨事を引き起こした。  
 マルグリットとナヴァル王アンリの結婚式に列席するため、ユグノーの貴族はパリに集まった。ユグノーの指導者を一挙に殲滅する好機であった。ナヴァル王アンリともう一人の王位継承者のコンデ公を除き、ユグノー派の貴族全部を殺害するという陰謀が企てられた。1572年8月24日聖バーソロミューの祝日の朝、サン=ジェルマン=ロクゼロワの教会堂の鐘が鳴ったのを合図に、パリ市民は市内のいたるところでユグノーを殺戮した。セーヌ川は数千人もの血で真っ赤にそまったという。パリでの大虐殺はフランス中に連鎖反応をおこし、6週間のうちに1万人ものユグノーが殺害された(聖バーソロミューの大虐殺)。だが、ユグノー派はひるまなかった。ただ戦いに目覚めさせられただけであった。  
 1589年カトリーヌの最後の子供が死ぬと、王位の継承者はナヴァル王アンリとなった。しかしユグノー派であった彼をフランス人の多くは受け入れない。そこでアンリは平和のために自分はユグノーをすててカトリックに改宗し、1598年ナントの勅令を発布し、プロテスタントを正式に認めて宗教における流血沙汰を終結させた。  
 1610年、「日曜日ごとに、すべての農家の鍋にヒナ鳥を」という言葉で知られるフランス王アンリ4世が、一人の狂信者によって暗殺された。王はカトリック教会を打ちこわそうとしている、というのが暗殺者の言い分であった。  
   
 リシュリューとマザランの時代は、絶対王政の体制固めの時代。枢機卿でありながら、教皇よりも君主に献身的に仕える。
   
 マザラン   
 イタリア人であったが、リシュリューの信頼を得てフランスに帰化し、枢機卿になった。リシュリューの残した三十年戦争の遂行と絶対王政の強化に全力を注ぐ。  
 
 フロンドの乱
 1648年から1652年にかけてフロンドの乱として知られる一連の反乱がおこった。リシュリューの政策によって権力を抑えられ、不満をいだいた貴族たちの大反乱。「貴族のフロンド」。
   
 ルイ14世の時代   戻る  
 ルイ14世は5歳でフランス王位についたが、実際に政務をとりはじめるのは、宰相であった枢機卿マザランが死んだ1661年以後。23歳のとき。「それは私が待ちに待ち、かつ恐れていた瞬間であった」。
 1661年マザランが死ぬと、ルイ14世がみずから統治。それまでにフランスは、ルイシュリューとマザランの努力で、ヨーロッパで優越した地位を築いていた。そして、ルイ14世はコルベールの協力を得て絶対王政を完成した。
 「我々が統治している民衆は、物事の根本をなす真実を理解することができず、つねに目で見ることのできるものから意見を導き出す」。
 ルイ14世はその言葉どおり、その国家の権力と威光でヨーロッパの人々の目をくらませた。
 
 ヴェルサイユ宮殿
 宮殿の敷地として、パリから数キロ離れた荒野を選んだ。最高の材料、職人、建築家、画家、彫刻家、庭師を集める。
 415mの正面玄関の前、奥行き73mの鏡の間。
 宮廷に厳格で複雑な儀式を持ち込んだ。王が朝起きたり、夜床についたりすることまでもが、公の行事であり、フランスの貴族たちが王の服の袖をもつことを名誉と考える有様であった。
 だが、実際のヴェルサイユ宮殿の生活は、住み心地にいろいろと問題があった。
 サン=シモン公爵、「王の部屋は、実に不便にできている。便所は後ろから丸見えになっているし、暗くて悪臭のただよう部屋もあります」。
 宮殿は広く、廊下を数キロも歩かなければならないこともあった。王の居室と台所が離れていて、王の食事はいつも運ばれる間に冷え切ってしまった。
 下水設備もなく、不便であったので、貴族も平気で階段のところで放尿する。当時の人々の身体は、風呂などほとんど入らないので不潔きわまりなく、それを隠すために男女とも香水をふんだんにふりかけていた。
 また、貴族たちは自分の一族の娘を何とか王の寝室に送り込もうとした。というのは、王の愛人と姻戚関係にあることは、はかりしれない威信をもつことになったからである。息子しかいないものも、王の弟で同性愛的な傾向を持ったオルレアン公フィリップに取り入るチャンスはあった。
 
 ルイ14世が着用したダイヤモンドをちりばめた90億円相当の衣装。
 宮廷衣装をととのえるために、全財産をなげうつ貴族も多かった。
 フランスの貴族たちはヴェルサイユで暮らす特権を求めて争った。いまや、貴族にとっては宮廷を離れることは社会的な死を意味した。ルイ14世が「このごろ、彼の姿を見ないが」といえば、それは、その人の廷臣としての役割が終わったことであった。
 
 フランス語は外交上の国際用語となり、フランスの美術と建築はヴェルサイユからはるかに離れたロシアやプロイセンにおいても模倣された。ロシアのピョートル大帝は、ルイ14世の建築家の一人をやとって、首都ペテルブルクを設計させている。
 
 ナントの勅令の廃止
 およそ100万のユグノーは、とりわけ金融・商業の分野で影響力のある地位につく。1685年ルイ14世はナントの勅令を廃止。カルヴァン派の禁止。ユグノーは強制的にカトリックに改宗させられるか、さもなければ追放された。フランスの産業界は多数のプロテスタントの人材をうしなった。膨大な数の移住者が、北方のプロテスタントの国へ移る。こうしてフランスのユグノーは、ジュネーヴ・イギリス・オランダ・ドイツのブランデンブルク選帝候領などヨーロッパ中へ。フランスは数年のうちに、有能な職人・商人などの人材・資材の流出をという痛手をこうむる。
   
 コルベール  
 マザランがルイ14世に推挙。1665年財務総監となり、事実上の宰相の役割。ルイ14世の大臣になるまでに腕利きの財政官としてマザランに仕えている。
 重商主義の目標は金と銀。「一国の富を決定づけるのは貴金属の保有量。そのために、輸入を制限して貴金属の流出を防ぎ、国内の産業を振興して輸出を増大。その貿易収支の黒字によって貴金属を蓄積しなければならない」。国家がその生産物を輸出し、金や銀に交換すればするほど国家は富み栄えるということ。この考えにたって、強力な経済政策を推進。コルベール主義は、重商主義の代名詞となる。1683年の死後、ルイ14世は次の人物を見つけることはできなかった。
   
 ルイ14世に仕えた陸軍大臣ルーヴォア公爵は、ヨーロッパにおける最大かつ最強の軍事力をうみ出した。
 
 スペイン継承戦争   戻る
 17世紀の国際関係は、ルイ14世の侵略戦争に対して、他の諸国が連合して均衡を維持しようとする関係で展開。
 スペイン王位は16世紀以来ハプスブルク家に属していたが、1700年スペイン・ハプスブルク家の最後の王・カルロス2世が死ぬ。カルロス2世は、5歳まで乳離れをしない、歩けるようになったのは10歳という虚弱児であった。有名な「ハプスブルク家」のあごはものをかむことができないほど大きかった。跡継ぎがつくれないことは知られていて、誰が王位を継ぐかが大きな問題となっていた。スペインは、本国のほかにスペイン領ネーデルランド・シチリア・ナポリ・ミラノ・新大陸に広大な領土をもつ。
 王位継承を要求して名乗りを上げたのは、フランスのルイ14世とオーストリアのレオポルト1世であった。カルロス2世の祖父・フェリペ3世の二人の王女のうち、一人はルイ14世の母親で、もう一人はレオポルトの母親であった。フェリペ3世の子・フェリペ4世にも王女が二人あり、姉はルイ14世の妃、妹はレオポルトの妃となる。  
 しかし、フランスやオーストリアがスペインを支配することは、フランス・ブルボン家かオーストリア・ハプスブルク家の超大国が出現することになってしまう。 ヨーロッパ本土や海外に広大な領土・植民地をもつスペインを併合する危険、ことにフランスとスペインが併合されると、イタリア・ネーデルラント・アメリカの植民地がフランスの支配下に入ることになる。そこで、第3の王位請求者、バイエルンの幼少の選帝侯ヨゼフ=フェルディナンドが着目された。彼はスペインのフェリペ4世の曾孫であった。彼ならば、ヨーロッパの勢力均衡をおびやかす心配はなかった。  
 このような事情から、1698年10月、フランス・イギリス・オランダは条約を締結して、ヨゼフ=フェルディナンドをスペイン王と認めて王位請求権を取り下げるかわりに、イタリア内のスペイン領はフランスとオーストリアの間で分割することを取り決めた。  
 しかし、このヨゼフ=フェルディナンドが1699年に死んでしまったので、ルイ14世は自分の孫のフィリップをスペイン王とした。  
 これをもっとも恐れたのはイギリス。そこでイギリス・オーストリア・オランダ・プロイセンなどが同盟し、フランスと開戦。アメリカにおいても植民地の争奪をめぐって、英仏間に戦闘が展開した。この植民地戦争はアン女王戦争とよばれる。
 
   
   
 【絶対主義の成立】
 A 絶対主義とは
  1 中世末期以来、国王による中央集権化がすすむ
   → 近代にはいり、国王はあらゆる分野で絶対的な力をふるう(絶対主義)
  2 封建社会から近代社会への過渡期に成立
  
 B 絶対主義の時代
  1 封建的な身分制度が残る
  2 経済面での新しい変化 → 資本主義のはじまり
   @ 商人が手工業者に道具や原料を前貸しして生産をおこない、製品を買
    い占めて生産を支配 → (1      )
 A 資本家が仕事場を建て、労働者をやとって1ヵ所に集め、分業による
  生産をおこなう − (2          )(=工場制手工業)こ
    ともある
  
 C (3    )主義
   → (4    )軍と(5    )(=権力をささえる)を維持するため   多額の貨幣を必要
  1 鉱山の開発や植民地から搾取、金銀の輸出を禁止など(重金主義)
  2 保護関税政策などにより輸入を制限し、輸出をすすめる。国内の産業を
   保護・育成(→ 貿易差額主義)
  3 重商主義をとるヨーロッパ列強の(6      )(→ 原料の生産地・製品の市場)獲
   得の激しい争い   
 
 D 絶対主義をささえる政治思想 
  → (7       )説(フランス人のボシュエなどの主張)
 E 市民階級がさらに成長すると、政治への参加をもとめて君主の権力と対立
  → (8    )革命をおこす(イギリスが最初)  
 
 【スペインの強盛】
  → スペインは15世紀末、中央集権をなしとげる(→ 国土回復運動)
   新大陸の発見 → ラテン=アメリカの銀を独占して莫大な富  
 
  → 国王(9        )(1516〜56年)の(神聖ローマ皇帝10     
     )の退位(1556年) で、(11       )家はスペイン系、オー
   ストリア系にわかれる
  
 A (12        )(1556〜98年)の最盛期
  1 ラテン=アメリカの(13  )を独占して富強
  2 (14    )年、(15      )の海戦でオスマン=トルコを破
   る
  3 ポルトガルを併合(1580〜1640年)
   → アジア貿易も独占、「太陽の沈まぬ国」
   → (16    )(アジアの拠点)建設(1571年)  
 
 B 国力の衰退             
  1 イギリス女王(17       )と結婚
 → メアリの死後、女王(18        )に対する陰謀が失敗(→メア
     リ=ステュアート処刑)
   → (19    )年、(20      )が敗北(アルマダ海戦)
   → これ以後、17世紀にかけて世界商業の覇権を失う
  2 宮廷の浪費、貴族・聖職者への富の集中
   → 産業の発達をさまたげる
  3 カトリック政策 → 新教弾圧 → オランダの独立をまねく  
 
 【オランダの独立】
  → ネ−デルラント(今日のオランダ・ベルギー地方) → スペインの属領
 A 原因 
  1 商工業が発達 → カルヴァン派の新教徒(→ 21     )が多い
  2 スペイン王(22       )が新教徒迫害、自治権を奪う(総督アルバ公)
 B オランダ独立戦争
  1  1568年、(23            )を首領に反乱
    → スペインの懐柔策で南部10州(今日のベルギー地方) が降伏
    → 北部7州は(24       )同盟(1579年) を結び、イギリスの
     支持をうけ、抗戦
  2 1581年、ネーデルラント連邦共和国の独立宣言
   ( → 連邦で最も有力なホラント州の名から、オランダ)
  3 休戦条約(1609年) で、事実上の独立
  
  → 1648年の(25         )条約で正式に独立が承認  
 
 C オランダの繁栄 
  1 めざましい海外進出 
   → アジア貿易でポルトガル.スペインをおさえる
   → 17世紀前半が最盛期
    (26     )会社設立(1602年) 、バタビア建設(1619年)
  2 (27        )(アントワープにとってかわる) は世界商業・金融の中心、 
   → 学問(スピノザ、グロティウス) 、芸術(レンブラント)も繁栄
  
 D オランダの衰退
  1 (28     )家を総督とする連邦制 → 強い中央権力を欠く 
  2 (29   )貿易に重点をおく
   → 国民産業の発展に力を入れず。(30  )織物工業は加工業が中心。
  3 イギリスの(31     )の発布(1651年) を機に、(32          )
  戦争(1652〜74年、前後3回)  → 海上権を失い衰退
  
 【イギリスの興隆】
 A テューダー朝の絶対主義(← ばら戦争後、封建貴族の没落)
  1 国王(33       )
   (34   )戦争(1455〜85) の後、絶対主義へ(星室庁など)
  2 国王(35        )の宗教改革
   → 教会を王権に服属(首長令で教会支配)させ、国家統一を強化  
 
  3 (36         )(1558〜37    年) − 全盛期
   @ (38     )(1559年) によって国教会を確立
   A 私拿捕船(ドレーク・ホーキンズら)  → スペインの「銀船隊」攻撃
   B スペインの(39     )を破る(1588年)
   C (40  )織物工業を基礎に、貿易活動・
    (41     )会社(1600年)  → 東洋貿易
   D 徒弟法(1563年) ・救貧法(1601年) の制定
   E グレシャムが、貨幣改鋳
  
   → エリザベス朝時代の文化の繁栄
   (42         )(「ハムレット」) 、フランシス=ベーコン(哲学者-経験論))、
   エドモンド=スペンサー(詩人)らが活躍
  
 B イギリス絶対主義の特徴
  1 強力な(43    )や(44     )は形成されない
   → 地方行政で(45       )(郷神)の協力を必要
  2 議会が、立法や財政上の権利を失わない
  
 【フランスの内乱と絶対主義】
 A ユグノー戦争(1562〜98年)
  1 原因
    国内にユグノー(カルヴァン派)の勢力が増える
   → 歴代の王はユグノーを抑圧
   → シャルル9世と母后(46       )はユグノーに寛容な政策(貴
    族抑圧のため)
   → 国内の宗教紛争を強める
  2 経過
   @ 1562年、ユグノー戦争はじまる
   A 1570年、ユグノーの指導者アンリと王の妹の結婚で一時講和
   B 1572年、(47          )の虐殺
    カトリーヌが旧教側と結び、新教徒を虐殺 → 内乱再開 
  C 1589年、アンリ3世が旧教徒に暗殺される(→ ヴァロア朝断絶)
   → ユグノーの指導者(48       )(ブルボン朝) の即位
    → 旧教に改宗し、ナントの勅令をだす → 戦争終結
  
  → (49     )の勅令(1598年)
    ユグノーに信教の自由と、旧教徒とほぼ同等の市民権を認める     
 
 B ブルボン朝の絶対主義
   → (50       )がブルボン朝をはじめる 
   ナントの勅令(1598年) 、東インド会社(1604年) 、カナダ植民(ケベック建設)
  
  1 (51       )の時代 − 宰相(52        )
   @ ユグノーや貴族をおさえ王政を安定
   A (53     )戦争(1618〜48年)に介入 
    → (54       )家(スペイン・オーストリア両家) に対抗
   B (55    )は、1615年以後召集されない(〜1789年まで)
   C フランス学士院を創設(国語の統一と洗練に貢献)
  
  2 ルイ14世の時代(1643〜1715年) 「太陽王」
   @ 宰相(56      ) − 王権の強化
    (57     )の乱 
      → (58     )(法服貴族の牙城)・貴族の反乱を鎮圧
    (59          )条約(1648年。三十年戦争を終結)
      → 領土を拡大(アルザスの大半獲得)  
   A 親政
    (60     )説(ボシュエが代表) − 「朕は国家なり」と
    蔵相(61       )の(62     )政策(コルベール主義)
       → 東インド会社再建(1664年)、ルイジアナ植民地(1682年)   
    ルーヴォアがヨーロッパ最強の陸軍を編成
    (63        )宮殿(バッロク式) をつくる
  
  → 文化の黄金期(コルネイーユ、モリエールら活躍) 、フランス語が国際語となる
  
  3 ルイ14世の侵略戦争
   → (64        )家打倒、口実は自然国境説
   @ ネーデルラント継承戦争(1667〜68年)
   A (65      )侵略戦争(1672〜78年)
   B (66      )戦争(1689〜97年)(→ 英仏植民地戦争のはじまり)
   C (67      )継承戦争(1701〜13年)
    ルイ14世の孫フィリップがスペイン王位を継承(フェリペ5世)
    → オーストリア(ハプスブルク家) イギリス・オランダが同盟(ドイツ諸侯も参加)し、
     フランスに対抗  
    → 1713年、(68       )和約
 ブルボン家のスペイン王位継承
 イギリスはスペインからミノルカ島・ジブラルタル、フランスから北
 米のニューファンドランド・アカディア・ハドソン湾地方などを獲得 
  
    → ラシュタット和約(1714年)  
     オーストリアはスペインより南ネーデルラントなどを獲得  

 


 

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