ヨーロッパ近代国家の形成

 


 
 神聖ローマ帝国  三十年戦争  ワレンシュタイン  グスタフ=アドルフ
 ウェストファリア条約  プロイセンとオーストリア   イヴァン4世(雷帝)  
 ピョートル大帝     
   
 
 神聖ローマ帝国(ドイツ)   戻る
 ヴォルテールの言葉、「神聖でも、ローマ的でも、帝国でもない」
 イギリス・フランスでは国王による国家統一が実現されたのに対して、ドイツでは皇帝権力は弱体化の一途をたどる。神聖ローマ帝国は、16世紀には300余にのぼる領邦国家と帝国都市からなる。帝国の大部分の人々はドイツ語を話していた。約2100万人の人口を擁し、もし国家としてまとまっていれば疑いなくヨーロッパ最強国であったろう。しかし、それは国家とよべるものではなかった。
 帝国内には公国・自由都市・司教領・封土など地方的権力が割拠していた。これらのなかで最も勢力をもっていたのは皇帝を選ぶ権利をもつ7人の選帝侯であった。そのうち3人はカトリックの聖職者である。マインツ・トリール・ケルンの大司教。他の3人は、ザクセン・ブランデンブルク・ラインラント(ファルツ選帝侯)の世俗諸侯、残る一人はべーメン(ボヘミア)王。しかし、最大の実力をもつものはオーストリアのハプスブルク家であった。ハプスブルク家はオーストリアとハンガリーの一部を含む帝国最大の領土を所有していた。神聖ローマ皇帝の座は、ハプスブルク家が世襲的に継ぐことが暗黙の了解事項となっていたが、皇帝はいぜん選挙によって選ばれるという形をとっていた。
 
 三十年戦争   戻る
 1555年アウグスブルクの和議は妥協の産物であった。
 カトリックかルター派のいずれかを選択する権利を領邦君主と帝国都市当局にのみ認め、人々はその宗派の信仰を強制される。
 「宗教領保留条項」
 帝国直属の大司教や司教たちが新教に改宗する場合には、領地はカトリック側に保留されるという内容。16世紀末から、この条項の適用をめぐって新教派諸侯と旧教派諸侯との間に紛争が相次ぎ、このような対立の激化のうちに1618年三十年戦争がはじまる。
 
 ベーメン(ボヘミア) ─ ベーメン王はハプスブルク家出身の者が閉める。豊かな農場・鉱山・商業から取り立てられる税金。  
 ベーメンの人々はプロテスタント。とくにハプスブルク家からやってくる次の王が熱烈なカトリックであるフェルディナンドと決まったときは、いいしれぬ不安を感じていた。
 彼が国内のプロテスタント弾圧に乗り出したため、国内の反対派が結束してハプスブルク家の支配に反抗した。
 1618年5月21日、ベーメンのプロテスタントは、プラハで大集会を開いた。不在中のフェルディナンドの代理をつとめていた二人の代官は、ただちに集会の解散を命じたが、これに怒った民衆は暴動を起こした。
 5月22日の朝、反乱の指導者たちは、二人の代官と書記につかまえ悲鳴をあげる代官と書記を窓の外の20m下の中庭へ放り出した。3人は奇跡的に命をとりとめたが、「プラハの窓外放り出し事件」として知られる。
 「ベーメンの反乱」に、ハプスブルク家は反乱鎮圧のためベーメンに2個連隊を派遣した。ファルツ選帝侯フリーリヒ5世とサヴォイア公のカルロ=エマヌエレが派遣したプロテスタント軍によって、帝国軍は後退し、ベーメンは一時危機をまぬかれた。
 1619年8月、皇帝マティアスが死に、七選帝侯が集まって後継者の選挙をおこない、新皇帝にはフェルディナントが選ばれた。ベーメンの叛徒に対するフェルディナンドの報復は、迅速にかつ残忍になされた。首謀者はプラハの大広場で吊るされ、その首はカレル橋の欄干にさらされた。
 ドナウ川沿岸にある自由都市ドナウヴュルトのカトリック教徒が、市民の大半を占めるプロテスタントを無視して、宗教行列をおこなったことをきっかけに、カトリックとプロテスタントとの間に暴動が起こった。これに対し皇帝は、ドナウヴュルトを帝国から追放し、カトリックによる市参事会支配を承認するよう命令した。  
 プロテスタント諸侯にとっては、これは明らかに宗教上の自由を侵略するものであり、そこで彼らは手を結んでプロテスタント同盟(ユニオン)をつくった。これに対してカトリック教徒も、バイエルンのマクシミリアンを発起人として同じようなカトリック連盟(リーグ)を結成した。
   
 三十年戦争をとくに恐ろしいものにしたのは、略奪をほしいままにした傭兵の大部隊であった。  
 17世紀の傭兵隊  
 大砲とマスケット銃の発達。がっちりした隊形を組んだマスケット銃兵と槍兵の攻撃。マスケット銃兵や槍兵が十分に威力を発揮するためには、十分な訓練が必要である。弾丸を発射するときには、ふたまたになった木の支えに銃身をのせて安定させる。戦争は商売になっていた。彼らは給料をもらえるところであれば、どこでも雇われた。最高の報酬を出すものに軍隊業務を売る商売人、戦争企業家に頼る。相手が誰であろうと、カトリックであろうとルター派であろうとカルヴァン派であろうとほとんど問題にしない。給料がもらえなければ略奪を働く。忠誠心などはなく、言語・国籍はばらばら。こんな兵士からなっている軍隊では、規律を保持することは容易ではない。
   
  傭兵隊長ワレンシュタイン   戻る  
 17世紀の天文学者ケプラーは生活費を稼ぐためにも運勢判断としての占星術を始めた。そしてこの時、25歳のワレンシュタインの運勢を見ている。そして、彼が与えた助言の通りに出世したワレンシュタインの後押しから、ケプラーの生活は何とか上向いていくことになる。
 「言葉や顔にあらわすよりは、ずっと多くのものを内に秘め、・・・魔術の類に対する適性をそなえ、人道や伝統に対して軽蔑と無関心を示し、兄弟愛と夫婦愛をもたぬ無慈悲な人間で、部下には厳しく、駆け引きにおいては貪欲で、ふだんは寡黙であるが、脅かされぬようにするため、しばしば暴力をふるうであろう」。彼は長身でやせていた。そして、いつも一点だけ赤でアクセントをつけた黒い服を身につけ、神秘的な雰囲気をただよわせていた。
 
 1625年デンマーク王クリスティアン4世が、神聖ローマ帝国におけるプロテスタントの盟主の地位についたが、デンマークの活躍はわずか1年足らずで終わった。ドイツ中部のルッテルという村でカトリック連盟軍と戦い、敗北を喫した。
 諸侯はワレンシュタインの罷免を要求し、皇帝フェルディナントはワレンシュタインを罷免。
 ルイ13世の宰相リシュリュー
 ハプスブルク家の勢力を弱めることが目的。ドイツにおける戦争を長びかせ、それによってハプスブルク家の力をすり減らそうと考えた。そして、スウェーデンのグスタフ=アドルフを援助した。
 
 スェーデン王グスタフ=アドルフ   戻る
 1630年、スウェーデン軍は北ドイツに上陸。フランスの援助もあって優秀な装備・訓練・戦力をほこっていた。軍隊内の規律の高さも特筆すべきものであった。グスタフは病院・教会・学校などを攻撃することを禁じ、軍もこれを守った。王は兵士とともに前線にでて戦い、苦難を分かち合った。そして、何よりも気高い自信に満ちていた。
 グスタフは次々と勝利を重ね、まもなくドイツ北部を支配下においた。絶対絶命に追いやられたフェルディナントは、ここでワレンシュタインに援助を求めた。
 しかし、罷免の件で怒っていたワレンシュタインは、数ヶ月間聞き流したあと、ようやく要求を受け入れた。
 1632年リュッツェン近郊の平野で戦いをまじえた。夕方、戦いはスウェーデン有利のうちに終わったが、グスタフ=アドルフは戦死していた。
 
 連年の戦乱にドイツは完全に疲弊した状態にあり、三十年戦争の主要人物もおおかた死んでいた。1634年ワ、レンシュタインが部下の一味に襲われて殺された。この暗殺は、ワレンシュタインに反逆の動きがあると疑ったフェルディナントがそそのかして襲わせたといわれている。1637年にはフェルディナント自身が世を去る。その5年後にはリシュリューがルイ13世にみとられながら息をひきとる。死の直前、ルイ13世は病気のリシュリューを見舞い、栄養をとらせるため自ら卵をも飲ませてやった。
 これらの人々が没するに及んで、やっと平和の見通しがたち、ヨーロッパ史上最初の国際会議が開かれることになった。会議はウェストファリアにあるミュンスター・オスナブリュックの両都市で、1644年から1648年まで4年にわたっておこなわれた。
 
 ウェストファリア条約   戻る  
 領邦主権の完成と帝国の領土的喪失。「帝国の死亡証書」といわれる。
  @ 諸侯は完全な国家主権を保証される。
  A フランスはライン川まで領土的進出をはたす。
  B スイスとオランダは正式に独立が認められて、帝国から最終的に離脱。  
 戦争のもたらした荒廃は、第2次世界大戦を除けばドイツ史上最大といわれる。1700万人の人口が700万人に激減したとさえいわれる。「ドイツが三十年戦争のはじめころ持っていた経済的水準に立ちかえるまで200年を要した」(F=メーリング)とさえいわれるほど深刻な打撃をうけた。
 ルイ14世の大敵は、神聖ローマ皇帝レオポルト1世(ハプスブルク家)  
 レオポルト1世は神聖ローマ帝国ではなく、ハプスブルク家の領地を近代的な中央集権国家に変えることに努力した。ハプスブルク家の所領は、オーストリア・ハンガリー・ベーメンの大部分を占め、さまざまな言語・宗教が入り乱れていたが、レオポルトはウィーンを中心とする強力な機構をつくりあげた。
   
 ルイ14世はトルコの宰相カラ=ムスタファとはかり、両方面からハプスブルク家を圧迫しようとした。1682年、ムスタファはルイ14世の後押しをうけて、20万の軍隊でハンガリーとオーストリアに攻め入った。1683年7月14日ウィーンは包囲された。2ヶ月間ウィーンは耐え抜き、飢餓のため崩壊寸前まで追いつめられたが、そのとき救援軍があらわれた。ポーランド王ヤン=ソビエスキーである。この救援軍は、異教徒のトルコ人をヨーロッパから追い出すため、ポーランド・オーストリア・ヴェネツィアが結成した神聖同盟の軍隊であった。教皇から豊かな資金を提供され、ヨーロッパの国々から参加した義勇兵でふくれあがった神聖同盟軍は、1697年、セルビアのゼンタの戦いでトルコ軍に壊滅的な打撃を与えることに成功した。  
 1699年1月には、カルロヴィッツ条約が調印される。ハンガリー・トランシツヴァニア・クロアティア・スロヴェニアに対する領有権が確認される。
 
 プロイセンとオーストリア   戻る  
 スペイン・イギリス・フランスなどが時期は異なっても絶対主義国家を形成していったのに対し、ドイツでは皇帝にそのような力はなく、絶対主義は領邦国家の次元で考えられる。また時期もはるかに遅くて17世紀末から18世紀にかけてのことである。  
 そのなかで、ハプスブルク家のオーストリアと新興のプロイセンが最も重要な役割をはたす。  
 16〜17世紀にかけて西ヨーロッパでは農奴制が崩れる過程で民富の蓄積がみられ、資本主義が成長するのに対し、東ヨーロッパでは農奴制がかえって強化されて社会の停滞がみられ、東西の社会発展の路線がこの時期にはっきりとわかれ、東ヨーロッパに全体的に後進地として印象づけられる。  
 東北ドイツ(東エルベ)ではユンカーと呼ばれる地主貴族が、農民の保有地を取り上げ、直営地の強制労働に縛り付ける。農民に対する無制限な支配権を獲得する。免税の特権と自領の農民を搾取する特権を認められた。プロイセンで社会的特権層を構成し、プロイセン国家の支柱とされた。  
 プロイセンは1618年にホーエンツォレルン家のブランデンブルク選帝侯がプロイセンの領地をつぐことによって生まれた国である。対ルイ14世の大同盟に参加することと引きかえに、プロイセン国王フリードリヒ1世の称号を得た。  
 フリードリヒ=ヴィルヘルム1世 ─ 軍隊の養成に力を注ぎ、軍人王とあだ名される。豊富な国庫と強力な軍隊が次のフリードリヒ2世の活躍の基礎となる。
   
 オーストリア継承戦争(1740〜48年)  
 フリードリヒ2世の即位後まもなく、皇帝カール6世(在1711〜40年)が男子の相続人を残さず亡くなると、シレジアを占領して同地をマリア=テレジアの相続の条件として要求。プロシアのシレジア占領は既成事実として残る。1740年ごろのプロイセンの人口が225万人であったところに100万人の人口をもつシレジアを加えたことは大きな成果であった。
   
 オーストリアにとっては、このままではすまされない損失。マリア=テレジアはシレジアを奪回するために、フランスに接近。フランスとハプスブルク家の同盟が成立。長年にわたって宿命的ともみえる敵対を続けてきたフランスとハプスブルク家の同盟は、当時の大事件であって、「外交革命」とよばれている。  
 フリードリヒは機先を制して、1756年8月ザクセンに侵入、七年戦争がはじまる。シレジアをめぐるプロイセンとオーストリアの対抗であると同時に、植民地の争奪をめぐる英仏両国の戦いという意味をもつ。1763年フベルツスブルク条約によって終了。シレジアの領有を確認。プロイセンはヨーロッパ列強の一つとしての地位を確立。18世紀後半になって、それまでドイツの一領邦であったプロイセンはフリードリヒ2世(大王)の力でヨーロッパ一流の強国にのし上がったのである。
 
   
 イヴァン4世(雷帝) ─ 1547年、17歳で即位   戻る  
 神の名を口に唱えながら多くの人間を苦しめ抜いて殺すように命令したり、拷問の方法を考え出したりした。非常に頭がさえているかと思えば、次の瞬間には怒り狂って、自分の前にひざまづかないからといって、象を殺せと命令したりする。心理学でいうところの超「爆発性」の人か。  
 彼はイヴァン3世の孫で、貴族たちはイヴァン3世のもとで皇帝の専制政治をいやというほど思い知らされていたので、孫のイヴァン4世を冷遇した。彼の子供のころの楽しみは、クレムリンの塔の高いところに登って、窓から小さな動物を投げ落とすことであった。記録によれば、「たまたま会った男の顔や姿が気に入らなかったり、彼を眺めているものがいたりすると、その男の首をはねるように命ずることがある。その命令はただちに実行され、首が彼の前に放り出される。
   
 農奴化が進む  
 領地から収入をあげるためには農民の労働力が必要であった。そのためには、農民が移住しないようにしなければならない。土地に縛りつけておかねばならない。農民をそのように束縛するために行われる方法は、農民に借金を背負わせることである(─ 今でも、大地主制に残るところではそうだが ─) 。領主が農民に金を貸す。農民はその借金が返済し終えるまで、その土地にとどまっていまければならない。ほとんどの農民は、借金の利子を支払うのがやっとであった。そこで、いつまでも彼らは奴隷と同じ状態からぬけ出せなかった。  
 この農奴化現象はゆっくりと進展し、わずかばかり残っていた農民の自由を蝕んでいった。
 
 コサック 
 自由な土地を求めて、ロシアの東方・南方のステップ地帯に移住し、大きな河の流域ごとにまとまった組織をもつようになったものである。
 農民の中でも勇気のあるものは、借金を無効にし自由を得るために国境の周辺へと逃れてゆき、その土地に住み着いたり、やがてはコサックとして知られるようになる辺境の無法者の群れに身を投じたのである。  
 コサックには、農民のほかに逃亡奴隷、犯罪人、タタールが入っていた。彼らは主としてロシアの南部及び南東部、とくにドン川流域とリトアニアが支配していたウクライナに多かった。おもに漁業に従事し、また海をわたってトルコ=ぺルシアの海岸を荒らしまわったり、ロシアの商人をおそったりした。  
 多くのコサックが金や毛皮を求めて北東部にむかった。ボルガ川で掠奪をしていたコッサクの首領イェルマクは、イヴァン4世の討伐をのがれストロガノフ家の保護をうけ、コサックを率いてシベリアにむかった。1000人足らずの武装兵を率いてウラル山脈の東にあったシビル汗国に入り、弓や槍に対して鉄砲というすぐれた武器を使って敵を打ち破り、征服した土地をイヴァン4世に献上した。イヴァンはその新しい領土をうけとり、援軍を派遣した。
   
 1584年、イヴァン雷帝が死ぬ。イヴァンという長子がいたが、彼が腹立ちのあまり半狂乱になって杖で殴り殺してしまっていた。息子のうち生き残ったのは、病弱なフョードルとディミトリーという名前の幼児であった。フョードルが帝位についた。当時、イヴァンの恐怖政治とポーランドやスウェーデンとの戦いが、国民に激しい不満をあたえていた。  
 国の実権を握るのはボリス=ゴドノフという士族。彼の妹がフョードルの妻。この関係を利用してロシアの事実上の支配者となる。フョードルはいつになっても跡継ぎをもうけずに1598年に没し、600年以上も続いたヴァリャギ朝はここに断絶した。ボリス=ゴドノフは「全国会議」によってツァーリに選出された。ここから混乱した「動乱の15年」がはじまる。  
 ほどなく、自分がイヴァンの子ディミトリーであると名乗るものがあらわれた。彼はロシア史上「偽ディミトリー」という名で知られる。彼はポーランドの援助をうけてロシアに侵入した。ボリス=ゴドノフは彼と戦ったが、にわかに病気にかかり死んだ。「偽ディミトリー」はモスクワに入り、ツァーリの位についた。正体不明の若いツァーリはわずか13ヶ月間統治しただけであった。彼に従ってきたカトリックのポーランド人はモスクワの人々と反目。ロシア人兵士とモスクワ市民は、多くのポーランド人を虐殺し、偽ディミトリーを死刑に処した。偽ディミトリーの死体は、大砲につめられてポーランドの方角に向かって発射された。
   
 ロシアをさらに苦しくしたのはスウェーデンやポーランドがロシアの帝位を要求したこと。スウェーデンはロシアに宣戦し、ノヴゴロドまで軍をすすめ、国王の弟をツァーリの候補者としておしつけようとした。ポーランドはスモレンスクなどのロシア領を奪い取ってモスクワを占領し、国王ジギスムント3世をツァーリにたてようとした。このように外敵に攻撃され、領内におこる反乱によって混乱し、飢饉と伝染病によって悩まされたロシアは崩壊の一歩手前にまで近づいていた。
   
 国民の力  
 大規模な国民軍がモスクワをめざして進撃した。彼らはモスクワを占領していたポーランド軍を追い、まもなくツァーリを選出するための「全国会議」をひらいた。会議によってツァーリに選ばれたのは、16歳の少年ミハイル=ロマノフであった。
   
 ステンカ=ラージン  
 ロシア民謡に、ステンカ=ラージンのいかにもコサックらしい姿が歌われている。ある美しいペルシア姫を略奪し、彼女とただ一夜だけ過ごした彼は、部下たちが彼は気骨を失いかかっているとつぶやいているのを耳にする。彼は反省し、「ヴォルガよ、母なるヴォルガよ、この美女をご嘉納あれ」といって、振り返ることもなく彼女を神への捧げものとして川の中へ投げ込んでしまう。ひどい話だが、当時のコッサクのあるべき思いをあらわしている。  
 ドン=コサックの首領ステンカ=ラージンは、1667年海賊としてカスピ海でぺルシアの沿岸各地を略奪してまわり。莫大な戦利品をつんで帰ってくる。彼のもとには数千のコサックや農民が集まってくる。この雑多な寄せ集めを引き連れて、ラージンは北のモスクワをめざして進撃した。北に向かって軍を進めたラージンは、使者を先行させて農奴や労働者に蜂起するようによびかけた。各地に反乱の火の手があがった。1670年には彼の軍隊は20万となり、モスクワに進んだ。  
 しかし、反乱軍は粉砕され、南部に逃れたラージンは捕らえられた。彼の骨は一本ずつへし折られ、息のある彼は四つ裂きの刑に処せられた。公衆の前で行われたこの刑の間中、彼は叫び声を立てなかったし、どのような罪であれ認めようとしなかった。この頑強な忍耐力こそ、ロシア人がたたえる性格であり、彼の伝説の核心となるものであった。しかし、反乱を指導することが彼にできる精一杯のことで、社会革命の精神を人々に吹き込むことはできなかった。
   
 ピョートル大帝   戻る  
 ピョートルは身の丈7フィート(約213cm)の大男。彼はまた、厚い銀の板を両手で握って紙のようにくるくると巻くことができたほど、強い腕力の持主であった。  
 西ヨーロッパを最初に訪れたロシアのツァーリであった。  
 使節団の一行の一人ピョートル=ミハイロフと名乗り、粗末な衣服をきて参加。オランダでは、普通の船大工として造船所で汗みどろになって働いた。オランダの造船、イギリスの商工業、プロイセンの兵制などヨーロッパの科学・技術を習得するうえで大きな成果があった。  
 3万5000挺の銃を手に入れ、700人をこえる技術者をロシアに連れ帰った。  
 また、彼はロシアを西欧世界の一員としてしまおうと、決意を固めていた。古いロシアの象徴であるあごひげをはやしたまま皇帝の前に出ることを禁じ、それを徹底するため自らかみそりをもって何人もの家臣のひげをそった。  
 1695年23歳のとき、トルコのアゾフ要塞を攻めた。アゾフは海上から物資を補給していたので、陸からの攻撃だけでは降伏させることができなかった。その年の冬から翌年にかけて、ロシア最初の海軍をつくった。春とともにアゾフを海陸から攻撃し、今度は要塞を陥落させた。失敗から教訓を学ぶピョートルの態度であった。  
 中央アジアにロシアの勢力を扶植するために、再三、調査隊や軍隊を送る。1724年、ベーリングに命じて北太平洋の探検をおこなう。
   
 北方戦争  
 当時のスウェーデンは、グスタフ=アドルフのあとカール10世、カール11世のもとで、フィンランド・バルト海沿岸の大部分を支配する大国となっていた。ピョートルはバルト海にヨーロッパへの窓」を確保し、ロシアを一流の海軍国にしようと思っていた。デンマーク・ポーランドと同盟して、スウェーデンと戦端を開いた。彼は当時の18歳のスウェーデン王カール12世を青二才とあなどり、簡単に策略に乗せられると思っていたが、ところがカール12世は少年ながら軍事にかけての天才であった。カールはいち早くデンマークをやぶると東方へ進撃し、1700年11月30日バルト海沿岸のナルヴァの戦いで、数の上ではるかに劣る軍をもってロシア軍を粉砕した。兵力8000のスウェーデン軍が、4万のロシア軍を徹底的に破った。しかし、カールのほうもピョートルをみくびっていた。彼はロシア軍を追わずに、最大の敵とみなしていたポーランドと対決するために南進した。こうして、彼はピョートルに回復する時間を与えてしまった。続く7年間、スウェーデン軍はポーランドをへて中部ヨーロッパを転戦した。この間、ピョートルは近代兵器で武装した新編成ロシア軍を編成した。こうして、カールが再びロシアに向かってくるのをまちかまえていた。1708年春、ロシアの厳しい冬の寒さに痛めつけられ弱っていたスウェーデン軍は、ポルタヴァの戦いでついに敗れた。ピョートルはこうしてバルト海沿岸に、「ヨーロッパへの窓」を確保したのである。戦争中の1703年、バルト海に面した新都ペテルブルクを建設。1721年、フィンランドのニスタッツ講和。
 
 
 
  4 絶対主義の動揺
   @ たび重なる戦争、宮廷の浪費 → 財政難
   A (73       )を廃止(1685年)
    → ユグノーの商工業者が国外へ → 産業の衰退
   B 国王(74       )(1715〜74年、ルイ14世の曾孫)
  オーストリア継承戦争(1740〜48年)・七年戦争(1756〜63年)で海外領土の大部
   分を失う、財政の悪化 → フランス革命の遠因
  
 【三十年戦争】1618〜48年
 → ドイツの分立状態 − 皇帝権が弱く、強大な統一国家になれない  
 
 A 発端 
  1 (76        )の和議(1555年)以後も、新教・旧教諸侯が
   対立(リガ-旧教徒同盟とユニオン-新教徒同盟)           
  2 1618年、(77     )で、新教徒が皇帝(当時は国王) の旧教主義政策
   に反抗 → 三十年戦争のはじまり
  
 B 経過 
  1 (78       )王(クリスティアン4世、新教徒側、イギリス・オランダが支援))の侵入
  → 皇帝軍の傭兵隊長(79          )が撃退    
  2 スウェーデン王(80          )の奮闘
    → 皇帝軍のワレンシュタインが反撃           
  
    → イギリス・オランダは新教側を、スペインは旧教側を援助
     旧教国フランスはハプスブルク家に対抗して新教派を援助(宰相リシュリュー) 
  
 C 1648年、(81         )条約で終結
  → 史上最初の大国際会議
  1 (84      )派の新教も認める
  2 フランスは(82      )などライン沿岸に領土獲得( → 仏・独の対立深まる) 
   スウェーデン(→ 西ポメラニア)、プロイセン(→ 東ポメラニア)は領土を拡大 
  3 (85    )・(86      )の独立が正式に承認
  4 ドイツの諸侯(→ 8選帝侯・96諸侯) と都市(→ 61自由市) は完全な主権を認められる
   → 神聖ローマ帝国の政治的分裂が決定的
  
   → ドイツの立ちおくれ
   都市の没落、農村の荒廃、人口激減(3分の2になる)
  
 【プロイセンとオーストリアの絶対主義】
 A プロイセンの発展
  1 (93         )選帝侯国(15世紀以来ホーエンツォレルン家が支配)
   がプロイセン公国(94    騎士団領にはじまる)を合併(17世紀初)  
   → スペイン継承戦争の際、プロイセン王国の名称をあたえられる(1701年)
  2 (95                )(2代目の王、1713〜40年)
    国内産業を奨励、軍備を増強、貴族を抑える
    → オ−ストリアにつぐ勢力
  
  3 (96         )(大王・1740〜86年)
   @ (97        )継承戦争(1740〜48年)
    オーストリアのカール6世が(98           )(国事詔書)を発
    布し、王女(99         )がハプスブルク家の全領土を継承
    → バイエルン・ザクセン・フランス・スペインが反対
     フリードリヒ2世は、(100        )地方を占領
    → イギリスはオーストリアを支援
    (→ 植民地での英・仏間のジョージ王戦争)
  
    → 1748年、(101      )の和約、でプロイセンはシュレジエ
     ンを併合
  
   A (102    )戦争(103      年〜1763年)
    マリア=テレジアは、シュレジェンの奪回をめざし、宿敵(104    
     )(→ 外交革命) ・ロシアなどと同盟
    → プロイセンは(105      )の支援をうける
     (→ 植民地で英・仏間のフレンチ・インディアン戦争)
  
    → 1763年、(106           )条約で、プロイセンはシュレジェンを確保
    → 1763年、パリ条約 − イギリスとフランス・スペイン間 
     インド・新大陸でのイギリスの優位が確立)
  
   B (107   )専制君主 → 「君主は国家第一の下僕」
    啓蒙思想家(108       )を招く
  
    → 東北部ドイツでは、16世紀ごろから、農民の領主貴族(109     )
     への隷属が強まる → 社会の近代化をさまたげる  
 
 B オーストリア 
   → (110       )人(アジア系)の侵入を防ぐためにおかれたオストマルク
   辺境領(10世紀設置)が起源
  1 (111         )家が13世紀以来、支配
   @ ハプスブルク家は、15世紀前半から、神聖ローマ皇帝の位を独占
   A チェック人(スラブ系)の(112       )、(113     )人(アジア系)
    のハンガリーなどを含む複合民族国家 → 国内の統一は弱い  
 
  2 マリア=テレジア(1740〜80年)
   オーストリア継承戦争、七年戦争でフリードリヒ2世に敗れるが、中央集
   権につとめる
  3 (114       )2世(マリア=テレジアの子、1765〜90年) − 啓蒙専制君主
    宗教寛容令、イエズス会の追放、貴族への課税、農奴解放など
   → 貴族や領内の異民族の抵抗で、あまり成功せず  
   
 【ロシアの台頭】
 A イヴァン4世(雷帝、1533〜84年)
  1 正式に(115       )の称号、専制政治を強化
  2 コサックの首領(116        )のシベリア征服(シビル・ハン国征服)
   → 東方発展への道をひらく
  
 B (117       )朝(1613〜1917年)の成立 
  1 1613年、ミハエル=ロマノフが動乱をしずめて帝位につく
  2 コサックの首領、(118           )の乱(1670〜71年)
  
 C (119          )(大帝、1682〜1725年)
  1 西欧化政策 → 国力を発展
  2 領土の拡大
   @ 1689年、(120        )条約 − 清(中国)の康A帝 
    外興安嶺(スタノヴォイ山脈)とアルグン川の線を国境
   A トルコを圧迫し、(121     )海に進出(1696年)
   B (123    )戦争(1700〜21年)
    ポーランド・(124        )とむすび、スウェーデン王(125  
            )を破る(1709年、ポルタヴァの戦い)。
    (126        )和約で、(127     )海東岸を領有
    1703年、新首都(128         )(現サンクトペテルブルク) を建設
  
   → ロシアでは、近代にはいり(129     )が強化
   → 近代化がはばまれる  
 
 D (130            )(女帝、1762〜96年)  −  啓蒙専制君主
  1 領土の拡大
   @ オスマン=トルコと戦い、ドニエプル河口地域と(131      )半
    島をうばう → 黒海進出
 A オホーツク海から、(132      )(のちにアメリカ購入) 、千島へ進出
    → 日本へ使節(133       )を派遣(1792年)
  2 (134       )の乱(1773〜75年、コサック首長) を鎮圧
    → 農奴制を強化
  3 ポーランド分割に参加
  
 【ポーランドの分割】
 A 背景
   16世紀後半、(135     )朝断絶
   → 選挙王制、貴族の争い → 国力衰退  
 
 B 分割の経過
  1 第1回(1772年)
   → (136          )(ロシア、3回の分割に参加)がポーランドの内政干渉
   → (137         )(プロイセン) が分割提案
   → (138         )(オーストリア)も参加
  
  2 第2回(1793年)
  (139 )革命のすきに、プロイセン、ロシアが第2回分割
 (140 ) → 愛国者(140        )がロシアと戦うが敗れる
  3 第3回(1795年)  
   プロイセン、ロシア、オーストリアが残りの領土を分割し、ポーランド滅亡
   → ロシアは西方に領土拡大 → 西ヨーロッパ諸国に脅威
  
  
  
 ☆ 重要語句
 絶対主義 官僚 常備軍 重商主義 貿易差額主義 問屋制 
 工場制手工業(マニュファクチュア) 資本主義 市民階級 ハプスブルク家
 フェリペ2世 レパントの海戦 無敵艦隊 オレンジ公ウィリアム
 ユトレヒト同盟 ネーデルラント連邦共和国 オランダ独立戦争
 アムステルダム エリザベス1世 ジェントリ(郷神) 毛織物工業
 東インド会社 シェークスピア ユグノー戦争 シャルル9世 
 サン=バルテルミの虐殺 アンリ4世 ヴァロワ朝 ブルボン朝 ナントの勅令
 リシュリュー ルイ14世 マザラン フロンドの乱 王権神授説 コルベール
 ナントの勅令廃止 ヴェルサイユ宮殿 スペイン継承戦争 ユトレヒト和約 
 フェリペ5世 ルイ15世 三十年戦争 ベーメン ワレンシュタイン 
 グスタフ=アドルフ ウエストファリア条約 スイス オランダ 
 神聖ローマ帝国の政治的分裂 プロイセン ホーエンツォレルン家 
 フリードリヒ=ヴィルヘルム1世 フリードリヒ2世 オーストリア継承戦争
 シュレジエン マリア・テレジア 七年戦争 外交革命 ポーランド分割
 啓蒙専制政治 ユンカー オーストリア ハプスブルク家 マリア=テレジア 
 ヨーゼフ2世 イヴァン4世 ツァーリ イェルマーク ロマノフ朝 
 ステンカ=ラージンの乱 ピョートル1世 ネルスンチスク条約 北方戦争 
 カール12世 ペテルブルク エカチェリーナ2世 プガチョフの反乱 
 ラクスマン ヤゲロー朝 コシューシコ
  
 ☆ 重要年代
 レパントの海戦 オランダの独立宣言 アルマダ海戦 ブルボン王朝の成立 
 ナントの勅令の発布 ルイ14世の親政開始 スペイン継承戦争
 ウェストファリア条約締結 ロマノフ王朝の成立 ネルチンスク条約の締結 
 北方戦争  

 


 

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