2 イギリス立憲政治の発達
国王と議会の対立
清教徒革命
王政復古と名誉革命
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エリザベスは生涯独身を通して子どもがなかった。1603年、死の床にあった女王エリザベスは、後継者を指名してほしいとの願いに対して、王以外のものに自分の後を継がせてはならぬという答えをした。後継者に選ばれたのは、ステュアート家のスコットランド王ジェームズ6世。彼はエリザベス女王のいとこにあたる薄幸のスコットランド女王メアリー=ステュアートの息子である。
エリザベス女王は、実体を重んじる人であった。議会が自分の思い通りになるかぎり、たとえ議会が支配者のように思っていても、意に介さなかった。ジェームズはイギリスの情勢、とくに議会に対する理解がなかった。ジェームズは外見上も、また実質上も、自己の権力を分かちあたえるつもりはなかった。彼は、王とは「この世の至上のもの」と議会に言明していた。
17世紀のイギリスでは、国王と議会の権限がわけられ、議会の権限として、課税の承認権があった。歳入を増やすためには王も議会に頼らざるを得なかった。また、この時代にはカルバン派が清教主義として中産階級を中心に普及していたので、国王と議会の対立には宗教問題もからんでいた。
ジェームズのあとを継いだチャールズ1世は、ジェームズと同様にイギリスの議会の伝統を無視し、また清教徒を弾圧したので、対立は1層深まった。またチャールズ1世は、気が小さく意志が弱かった。ジェームズは国家という船をまっすぐ岩に向けて走らせたが、難破するのは息子にまかせた、といわれる。
議会は1628年、「権利の請願」を国王に提出し、国民の権利を保証するよう要求した。王はついに議会の提出した「権利の請願」を承認することによって経費支出の協賛を得た。しかし、チャールズ1世はその後11年間、議会を開くこともなく専制政治をおこなった。なかでも種々の名目で議会の協賛を経ない課税を徴収した。
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1637年、チャールズ1世はカンタベリー大司教の助言に基づいて、イギリス国教会をスコットランドにも及ぼすことを決めた。これに対してほとんどが長老派であったスコットランドは、王に徹底的に抵抗した。チャールズは妥協する気はなく、軍を差し向ける準備にかかった。それには100万ポンド資金がいる。その金の財源は、議会に承認してもらうしかない。そこで、1640年、11年ぶりに議会が召集された。
しかし、議会は王に対する不満をぶちまけようとしたので、王は3週間もたたないのに、議会を急いで解散した。これが「短期議会」である。その数ヶ月後、スコットランド軍がイングランド北部に侵入して、さらに窮地に追い込まれたチャールズは、再び議会を召集する。
1640年11月3日に開かれたこの議会は、13年続いたので「長期議会」として知られる。王に対する議会の批判は強く、チャールズ1世は武力で議会を抑圧しようとして失敗し、ついに内乱に発展した。
宗教問題
イギリスの公認宗教はプロテスタントで、ヘンリー8世がローマ=カトリックとたもとをわかってつくった国王を首長とするイギリス国教会であった。だが、それは妥協の産物で、教義はプロテスタントの教義でも、儀式ではカトリック様式が残っていた。多くの教会ではカトリック流のミサが行われていた。
ピューリタン(清教徒)と名乗る熱狂的なプロテスタントの一派は、カトリック的な慣行を廃止するよう要求していた。一方で、カトリックのイギリス人の中には、イギリスがカトリックに再び帰ることをもくろむ人もいた。ジェームズは、イギリス国教会を守る道を選んだ。いっぽう、ピューリタンは議会に多数の代表を送っていた。ジェームズの後こどものチャールズがあとを継ぐ。国王と議会の関係はますます険悪となり、チャールズは1642年、宮廷をロンドンからヨークに移した。議会は軍・教会・国家に対する支配権を求め、そのかわり国王に対する資金援助を約束したが、国王はこれをはねつけた。1642年7月議会は挙兵を決議し、8月には国王もノッティンガムで旗揚げをして、王に従うものは参加するように呼びかけた。こうして、内乱がはじまった。議会派の地盤はだいたい南東地方の都市や織物工業地帯で、中産階級が主でピューリタンが多かった。王党派の地盤は西北地方の田園地帯で、国教派やカトリックが多かった。
1643年暮れまでに国王軍は国土の3/4を占領した。当時、クロムウェルは、ごく普通の裕福なジェントルマンとして生活していた。クロムウェルが郷土で組織し訓練した軍隊は、戦場で大いに活躍し、議会派の戦力の中核となった。1644年7月、彼の率いる軍隊は内乱最初の大決戦であるマーストンムーアの戦いで王の軍勢を打ち破った。この戦いのあと、敗れた国王軍の将はクロムウェルの軍隊を「鉄騎隊」とよぶようになった。クロムウェル軍は打ち破ることも出来ないし、乱れさせることもできないからであった。
まもなくクロムウェルは、議会軍の副司令官となって、議会軍をすべて「鉄騎隊」をモデルにして新型軍に変えようとした。これが「新模範軍」である。新模範軍は、1645年春に登場して以来、無敵の威力を発揮することになる。
1645年ネーズビーの戦いののち、チャールズは降伏した。といっても、チャールズはスコットランド軍に降伏したのである。スコットランドの長老派のほうが、クロムウェルのピューリタン軍よりも寛大に扱ってくれるだろうと思ったからである。こうして、内乱は議会側の勝利に終わったが、議会内部において対立が生じた。
長老派も独立派もいずれもカルヴァン派の流れをくむピューリタンであったが、両者の対立の根本には教会組織をめぐる見解の相違があった。長老派は国教会を廃止した後、その教会組織をそのまま利用して長老主義に基づく教会制度をうちたてようと考えていた。一方独立派は、あくまでも一つ一つの教会の自主独立を尊重することを考えていた。議会の代表の大多数は、立憲君主制と長老派の国教会に賛成していた。ところがクロムウェルの新模範軍は、国王も国教もいらないと主張して妥協を拒んだ。
議会と軍隊が言い争っているすきに乗じて、チャールズはひそかにスコットランドと手を結び、長老派の国教を創設すると約束してスコットランド軍に支持され、第2次内乱がはじまることになった。
クロムウェルは新模範軍を率いて王党派のスコットランド軍を攻撃し、1648年8月プレストンの戦いで敵を大敗させた。その後、政府の支配権はピューリタンの手にしっかりとにぎられた。この中で、軍の一部は過激となり水平派を結成し、王政の廃止・普通選挙などを要求した。長老派に属する140人の議員は議会から追い出され、60人のピューリタンからなる「残部議会」がイギリスを統治することになった。
1648年、残部議会は国王を裁判にかけることを決議した。1649年1月、国王は斬首による死刑に処せられた。その後、権力は軍の手に握られ、その軍はクロムウェルの支配下にあった。
ピューリタンたちの狂信的な態度。
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1658年にクロムウェルが亡くなると、再び王政に復帰した。イギリス人は、ピューリタンの新模範軍の将軍たちの急進主義、狂信ぶりには、もうあきあきしていた。人々は、昔の体制に戻ることを望んでいた。そんなわけで、ヨーロッパに亡命していたチャールズ2世が立憲主義によって統治していくことを約束するや、イギリス人は喜んで彼を迎え入れた。
チャールズ2世は、父や祖父と同じように、王権神授説を信奉し、絶対主義を夢見ていた。亡命期間の大半をフランスで過ごし、ルイ14世の庇護をうけて、復帰にさいし「ドーバーの密約」とよばれるかなりの資金援助をルイ14世から送られていた。
1685年チャールズが死ぬと、弟のジェームズが後を継いだ。トーリー党の支持で王位に就いたジェームズ2世であったが、彼はカトリックの復帰を図り、議会の猛烈な反対を押し切って、陸海軍を将校をカトリックで補充し始めた。トーリー党はどちらを支持してよいのかわからなくなった。ジェームズは老齢であり、男子の世継ぎがなかったから、なんとかしばらく我慢することにしていた。ところが、1688年なんとジェームズは男子の父親となった。トーリー党はあわてふためき、ホイッグ党は恐れおののいた。カトリックの君主がこのあとも続くかもしれない。6月30日、ホイッグ・トーリー両党はオレンジ公ウィリアムに手紙を送った。ウィリアムはプロテスタントのオランダの支配者で、ジェームズと最初の妻の間に生まれたプロテスタントの王女メアリーの夫であった。
彼らはその手紙の中で、ウィリアムが軍を率いてイギリスに来て、イギリス人を国王から守ってくれるよう頼んだ。
ウィリアムの艦隊はデヴォンに到着。ウィリアムの軍勢はイギリスに上陸した。上陸のニュースが伝わると、ジェームズはフランスに逃れた。このようにして、いわゆる名誉革命は一発の銃声も発せられないままなし遂げられた。議会は王女メアリとその夫オランダ総督オレンジ公ウィリアムをイギリス王として迎えたのである。流血を見ずに行われた、この君主の交代をイギリス人は名誉革命とよんでいる。
ただ革命の意義はその後にあるのである。
1689年、イギリスに新しい政府を樹立するため、特別議会が開かれた。「権利の宣言」を可決。ウィリアムとメアリは、この条項を承認したうえでイギリスの王ならびに女王となり、ここにイギリスは憲法によって統治される最初の近代国家となった。
続く25年間、この新しい形の政府は、17世紀を代表する絶対主義国家であるルイ14世のフランスとの一連の戦争において、その強大な威力を発揮することになる。
1702年ウィリアム3世がなくなると、妻のメアリの妹アンが王位につく。1714年アン女王がなくなると、子がなかったため、ドイツのハノーバー選帝侯のジョージが王位につく。54歳のときであった。この王は英語がわからず、イギリスの国情もほとんど知らず、母国のドイツに長期にわたって滞在し、政治は大臣と議会にまかせっきりにした。こうして、首相とよばれるものが出現。当時、この役割を果たしたのがホイッグ党の指導者ウォルポールであった。
2 イギリス立憲政治の発達
【王権と議会の対立】
A 中産階級の成長
1 商工業の発達
2 農奴制が消滅 → 多数の(1 )(独立自営農民)がうまれる
農業のかたわら毛織物業をいとなむ
3 地主階級の(2 )(郷神)が地方行政や下院で活躍
→ 中産階級が成長 = 議会に進出、ピューリタン(清教徒) が多い
B (3 )朝の成立
1 1603年、(4 )の死 → テューダー朝が断絶
スコットランド王のステュアート家がイギリス王位をかねる
2 (5 )(1603〜25年)が即位(同君連合)
(6 )説をとなえて専制政治 → 議会と対立
→ 大抗議を可決(1621年)
3 (7 )(1625〜49年) → 父と同じ政策
(8 )年、議会は(9 )を可決
→ 議会解散、議会なしの専制政治
→ (10 )(カルヴァン派の長老派多い)の反乱
→ 戦費を得るため議会をひらく → 議会が課税を拒む
→ 解散(短期議会) → あらたに召集 = 長期議会
→ 議会は大諫議書(反省と政策変更要求、1641年) を可決
→ 王が武力で議会をおさえる → 内乱勃発
【ピューリタン革命】 1642〜49年
A 王党派と議会派
1 (11 )派 − ヨークなど西北部の経済的後進地域
→ 貴族・聖職者が中心で国教徒が多い
2 (12 )派 − ロンドン中心に東南部の経済的先進地域
→ 都市や地方の中産階級が中心で、ピューリタンが多い
B 経過
1 最初は(13 )派が優勢
→ 議会派の(14 )の(15 )(ヨーマン中心)が活躍
→ 新型軍を編成 → (16 )の戦い(1645年) で王党派を破る
→ 王を捕虜、議会派の勝利(1647年)
2 議会派の対立
@ 温和な(17 )派 − 長老制と立憲君主制
A 急進的な(18 )派 − 個々の教会の独立と議会主権
B もっとも急進的な(19 )派 − 財産と参政権の平等
C 共和政の樹立(1649年)
1 (20 )派の首領(21 )は(22 )派を議会から
追放 → (23 )年、国王を処刑 → 共和政の成立
2 クロムウェルの政治
@ 急進的な(24 )派(財産と参政権の平等を主張)をおさえる
A (25 )(ケルト人、宗教はカトリック) を侵略、植民地化
→ のちイギリスの重要な内政問題となる
B (26 )政策
→ (27 )年、(28 )を発布
イギリス(植民地を含む)との貿易を、イギリス船か、その商品の産
地国の船に限る
→ 航海条令のねらいは?
(29 )商船を、イギリスの貿易からしめだす
→ 中継貿易を主とするオランダに打撃
→ 第1次(30 )戦争(1652〜54年、その後、第2、3次)がおこる
イギリスがオランダをやぶる
→ オランダの制海権をうばい、世界商業で優位に立つ
C (31 )に就任(1653〜58年、統治章典による) − 独裁政治
→ 国民の不満(清教徒主義への反感)
→ 死後、長老派が王党派と妥協し、王政復古
【王政復古と名誉革命】
A 王政復古 − (32 )年
1 (33 )(チャールズ1世の子、在1660〜1685年) の専制政治
ピューリタンを抑圧、(34 )の復興をはかる
→ 議会(国教徒が多い)が対抗
@ (35 )(1673年、旧教徒排除が目的) − 官吏と議員は国教徒に限る
A (36 )(1679年) − 不法逮捕・投獄を禁止
→ 国王の専制はやまず
2 (37 )(1685〜88年)
旧教を支持、絶対主義を強化 → 議会は王の廃位を決議
B 名誉革命
1 (38 )年、議会は(39 )(ジェームズ2世の娘) とその夫オラン
ダ総督(40 )公ウイリアムを招く
→ (41 )は亡命 → 無血の革命が成功
2 1689年、議会の提出した(42 )を承認し、(43
)(オランダと同君連合) ・(44 )として即位
→ 権利の宣言を、(45 )として制定
「権利の請願」や「人身保護律」を受けつぎ、国民の生命・財産の保護や、
言論の自由を定めたもの
→ 名誉革命の意義
議会主権にもとづく立憲政治が確立した
【議会政治の確立】
A 政党の発生
王位継承問題(旧教徒のジェームズ2世) で、政党がうまれる
@ (46 )党
即位に賛成(ジェームズ2世の)、王権を重視、貴族・地主を中心
A (47 )党
即位に反対、議会の権利を主張(非国教徒多い)、中産階級を地盤
→ 名誉革命では、両者が手をにぎる
B 政党政治のはじまり
1 (48 )の時代
両党代表で連立内閣 → 17世紀末から多数党が内閣を組織
2 (49 )女王(メアリの妹、1702〜14年、「平凡以下の才知の持ち主」)の時代
@ 大ブリテン王国の成立
1707年、イギリスはスコットランドを合併
A アンの死で、スチュアート朝が断絶
3 (50 )朝のはじまり
@ 1714年、ドイツのハノーヴァー選帝侯が(51 )と
して即位
英語がわからず、政務を大臣にゆだねる → 首相の地位が確立
A (52 )党の(53 )(任1721〜42年) 首相のと
き、(54 )が確立
→ 「55 」のという伝統がうまれる
☆ 重要語句
ヨーマン ジェントリ ステュアート朝 ジェームズ1世 チャールズ1世
権利の請願 ピューリタン革命 スコットランドの反乱 王党派 議会派
鉄騎軍 長老派 独立派 水平派 共和政 航海条令 クロムウェル
護国卿 王政復古 審査律 人身保護律 ウィッグ党 トーリー党 名誉革命
権利の宣言 権利の章典 チャールズ2世 ジェームズ2世 ウィリアム3世
メアリ2世 大ブリテン王国 ハノーヴァー朝 責任内閣制 アン女王
ジョージ1世 ウォルポール
☆ 重要年代
権利の請願の可決 ピューリタン革命開始 共和政の開始 航海条令発布
王政復古 名誉革命 権利の章典発布
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