第11章 アジア諸国の繁栄
1 中国文化圏の拡大
明の統一
永楽帝の政治
北虜南倭
清の中国支配
明清の社会
明の統一 戻る
13世紀以来、東アジアに君臨した元は、14世紀半ばに急速にその勢力を衰えさせる。各地に反乱が続発し、1351年には白蓮教徒の乱がおこる。彼らは赤い布を頭巾として仲間同士の目印としたので、紅巾軍、あるいは紅軍とよばれた。その中からおこって中国人の中国を回復し、元をゴビ砂漠の北に追い払ったのが朱元璋である。そして、そのたてた王朝が明である。
朱元璋は1328年10日21日、濠州(安徽省鳳陽県)の貧農の4人兄弟の末っ子として生まれた。彼は16歳のとき、両親と長兄を飢謹と疫病で失い、近くの皇覚寺に小坊主に出された。しかし、寺でも食べることができず、50日あまりで托鉢に出なければならなかった。全国的に水早・飢饅が続き、多くの人々が家や土地を捨て、流浪するというひどい状況が続いていた。これに対し、元朝政府は有効な対策をとらなかった。民衆に搾取と重税を強いるだけでなく、通貨である交錯を乱発したため、慢性的なインフレをひきおこし、民衆の不満はつ
のるばかりであった。
この状況のなかで、「モンゴル支配打倒」を叫ぶ白蓮教が民衆の心をとらえ、ついに1351年5月、白蓮教主韓山童の門人劉福通が蜂起した。紅巾の乱である。これに濠州の教徒郭子興も呼応した。24歳になった朱元璋は郭子興の軍に加わり、またたくまに頭角を現し、郭子興の養女と結婚する。のちの馬皇后である。その後、自分の部隊をもった朱元璋は、紅巾軍の主力が大都(現北京)をめざして元朝軍との対決を急いだのに対し、江南に南下して勢力を固めた。このとき建国の功臣となる徐達、湯和ら同郷の人を集め、さらに劉基、宋澱ら4人の知識人を招いて儒教も学んでいたといわれる。 1356年に集慶を占領して応天府と改名。ここを本拠とした朱元璋は、蜂起軍のリーダー同士の競り合いのなかで、最後に残った陳友諒・張士誠を倒すとモンゴル勢力駆逐の北伐を開始した。即位した朱元璋は、政権の確立のために多くの粛清を行う。31年の在位中に10万人以上を処刑、なかでも有名なのは胡惟庸の獄、藍玉の獄で、建国の功労者をつぎつぎと謀反の罪で粛清、独裁体制をつくっていく。朱元璋は年号をもって洪武帝、廟号によって太祖とよばれ、これ以降、「一世一元の制」がとられる。
まず政治体制の上からみれば、宋以来の傾向である中央集権的な皇帝独裁体制がいっそう徹底し、特に政治を統括していた宰相が廃止され、一切の政務が皇帝によって決議される体制を確立した。ただし、皇帝がすべて決裁するのは物理的に困難であるので、仕事を助けるために、やがて内閣大学士の制度が発足した。そして、すすんで首席大学士が宰相の役割をやがて果たすようになる。
大明律 ─ 唐律の体系はすでに不便なものなっていたので、1397年から始まり、明清時代の約500年間を通じて刑律の根本となった。
大明令 ─ 令は中国における根本法典で、現在の憲法にあたるもの。行政法規。
年号は洪武として、終世改元することはなかった。以後、中国においては、一世一元制が確立する。そこで、皇帝を呼ぶ際にも、従来の諡号にかえて年号でよぶようになった。
明のはじめ、行政機構の末端に、農村支配の体制として里甲制の組織がつくられる。これは、租税・徭役の徴収が目的とされるが、じつは民衆を全面的に支配するための組織であった。そして、明代後期以降には、次第に解体していく。
魚鱗図冊 ─ 一種の土地台帳。区画をしめした地図をつくり、これに各土地の番号、位置、境界、種類、所有者、公課の負担額をあわせて表示したもの。
賦役黄冊 ─ 明代の戸籍。里を単位として各戸の家族の氏名、年齢、財産などを記入。戸部では、その表紙に黄色の紙を使うので黄冊という名がおこる。戸籍であるとともに、田賦や徭役の割り当ての原簿でもあったので、賦役黄冊とよばれる。
軍戸 ─ 元朝において軍隊の基幹となったのはモンゴル部隊であったが、そのほかに、漢人部隊も編成。その場合、兵士徴収の母体になるのが軍戸で、戸籍上、一般民戸と区別された。明も元にならい、衛所に属する軍戸を設置して、戸ごとに一丁を兵士とした。
永楽帝の政治 戻る
洪武帝は元朝を倒したけれど、モンゴル高原には、その残存勢力が北元をたてていたので、北方に強大な軍事力をおく必要があった。洪武帝には男子が25人もあり、全国にそれぞれ国を与えられていたが、とりわけ北方の防衛上、華北の国には多くの軍事力が与えられていた。1398年洪武帝が死に孫の建文帝が即位すると、これらの諸王を取り除こうとした。このような中央政府のねらいが自分にあると察知した燕王は、1399年に挙兵した。4年にわたる内戦ののち、1402年長江を渡って首都・南京を攻略した。こうして即位したのが成祖・永楽帝である(靖難の変)。
永楽帝はいったんは南京を占領して都としたが、モンゴル高原の元の残存勢力との対抗上、南京にいては敏速に対応できない。そこで北平を改めて北京として首都とした。これ以後は、次の清代をへて民国の初期まで、北京が中国の首都としての地位が確立した。明に靖難の変があり数年にわたる内戦がつづくと、モンゴル人は再び勢いをもりかえし、さかんにお活動をはじめた。
そのころ、モンゴル諸部族の中で、西北のオイラートと東南のタタールが勢力を二分していた。1410年永楽帝は第1次モンゴル遠征で、タタールをオノン・ケルレン河畔に破った。タタール部が破れると。これにかわって、オイラート部が強盛となった。1414年、永楽帝は再び親征して、オイラートの主力を破った(第2次遠征)。オイラートが破れると、再びタタールが強くなり、永楽帝はまたまた1422年に第3次の遠征をおこない、外モンゴルのフルンノールでタタールのアロクタイを破った。そして、永楽帝は第5次の最後の遠征から帰る途中、病を得て内蒙古で死んだ(1424年)。中国人の皇帝で、再三にわたりみずからモンゴル高原に遠征したのは、永楽帝ただ一人である。永楽帝の5回のゴビ砂漠を越えての遠征に、モンゴルは大打撃をうけて、彼らの中国への南下は阻止された。
永楽帝は、南方に対しても積極的であった。ベトナムを併合して、中国化を図った。これには激しい抵抗がおこり、永楽帝の死後のには、黎氏の独立を認めざるを得なかった。ついで、鄭和に命じておこなわせた南海遠征は、1405〜1438年まで前後28年にわたる中国史上かつてない大規模な海上での遠征であった。鄭和は永楽帝に仕えた宦官でかつ部将であった。彼の先祖は西域から中国に移住した代々のイスラム教徒であるが、彼は仏教に対する信仰があつかった。これらの遠征は数千隻の大船を率い、派遣した国が30余国という、中国史上かつてない大規模な海上行動であった。これによって多くの南海の国々を招き寄せた。別働隊は、インド洋をへてアフリカ東海岸やアラビアにまで到達した。これは、中国人の東南アジアに対する知識を向上させ、その後の華僑の南洋方面への移住をうながした。
北虜南倭 戻る
当時モンゴルでは、東のタタール部と西のオイラート部が、明の軍事行動を支点として、シーソーゲームを繰り返すが、英宗の時代になると、オイラートがエセンの指導下にモンゴル高原を統一し、東は満州、西は中央アジアに勢力を拡大し、国境の馬貿易の確執から大挙して中国に侵入した。英宗は親征して山西の大同にいたったが、敵の勢いが盛んなことに恐れをなし、引き返そうとして北京にかえる途中、居庸関の土木堡でオイラート部の包囲をうけて全軍潰滅した。英宗は捕虜となり、連行されてしまった(土木の変)。
オイラートが内乱のために衰えると、かわって東方のタタールが力を盛り返した。チンギス=ハンの系統を引くダヤン=ハンとその孫アルタン=ハンが、南方の倭寇と時と同じくして侵入。明は、万里の長城の大規模な修築工事をおこない、ひたすら防備に努めた。今日残っている長城はこのとき造られたものである。
洪武帝は鎖国主義をとり、貿易も朝貢貿易の形をとった。これは、中国と貿易をしたい国は、明の属国となり朝貢をおこなえば、それに付随して貿易を許すというものであった。元の時代には交通貿易が自由に行われたが、明の朝貢貿易では厳重な統制が加えられ自由な貿易は許さなかった。日本の足利義満は永楽帝から日本国王に封ぜられ、これによって朝貢貿易をおこなう権利を得たが、この貿易はきわめて限られた範囲の特権階級に利益をもたらすものでしかなかった。これに不便を感じた両国の人々の間に密貿易が行われるのは必然の勢いで、しかし、政府は密貿易者を片っ端から取り締まった。これに反抗し武装したのが倭寇で、実体は中国人が多く、日本人はこれに加勢したにすぎない。
日本を統一した豊臣秀吉は、1529年突如朝鮮に侵入。明はこのころ勢力を増しつつあった建州女直の勢力を警戒していたが、この戦争で女真族監視の兵力が朝鮮にまわされ、また、朝鮮も女真どころではなかったので、女真族にとっては絶好の飛躍の機会であった。
清の中国支配 戻る
女真族は、12世紀に北中国を征服して金を建てたが、やがて1239年オゴタイ=ハンに滅ばされた。その後、元が建てられると、満州に残留していた女真族はその支配をうけた。元にかわって明がおこると、内地にならって部族単位で衛所制度をしいた。16世紀後半、これらの衛の一つである建州左衛からあらわれたのがヌルハチで、1616年全女真族を統一して、後金と称した。後金というのは、かつての金帝国の復興という意味。明はこれに対して遠征軍を差し向けるが、サルホの戦いで全滅した(1619年)。これによって、満州はヌルハチによって支配されることになった。
ヌルハチの死後、第8子の太宗・ホンタイジが位についた。
1644年4月25日紫禁城の北の景山で、明朝最後の皇帝崇禎帝が首をくくって自害した。ここに、明朝が滅亡した。前日、農民反乱の首領李自成の軍に北京の城門が破られると、皇帝は死を覚悟し、この日、3人の皇子を脱出させ、皇女をわが手にかけたあと、盲官らに伴われてみずからの死に場所に選んだ景山におもむいた。白衣に記された遺書には、「朕の屍は賊の分け裂くにまかせども、わが百姓万民をひとりたりとも傷つけるなかれ」とあった。
李自成は前年、河南から湖北に侵入したころ、明朝を打倒して政権を樹立する意志を明確にした。11月に西安を占領した彼は、いよいよ政権構想に着手。西安を都として大順国を建て、年号を永昌とし皇帝に即位した。この報に驚いた崇禎帝は、臣下を集めて対策を協議させたが、妙策は出なかった。
当時、明軍の精鋭は北方の清の侵入に備えて山海関方面にあり、首都の防備は手薄だった。そこへ李自成は大挙して進撃し、この日、北京への入城をはたしたのである。
北京に入った李自成はあらためて皇位に就き、紫禁城に居を構えて官制を整える作業に入る。山海関に駐屯して清への防備にあたっていた武将の呉三桂は、李自成に従わず、これまで敵だった清に援軍を求めた。清では前年、太宗ホンタイジが没し、次の順治帝は5歳で幼少だったため、実権は執政のドルゴンが握っていた。呉三桂の求めに応じたドルゴンは、呉三桂に導かれて山海関を抜け、李自成への攻撃を開始した。形勢不利とみた李自成は、紫禁城に火を放って西安に逃れる。李自成の天下も40日で終わり、順治帝が紫禁城に入城、以後、清が中国を統治することになる。
中国征服後、南方に三藩の存在。明の将軍で、早く清に投降し、強力な軍事力をもっていたので、清はそれぞれ藩王として、南方の明の残存勢力を討伐にさしむけた。あたかも封建諸侯のような存在であった。雲南の平西王・呉三桂、広東の平南王・尚可喜、福建の靖南王・耿継茂はあわせて三藩といわれ、当時、中国支配の障壁となっていた。
康熙帝は8歳で帝位につく。在位61年という中国史上、かつてない長さの記録である。この間に、清の中国支配は不動の態勢を確立することになる。康熙帝が即位した頃、中国内部はほとんど清のもとに平定されていたが、中国支配の最大の壁は三藩であった。康熙帝は、まず三藩の撤去にのりだした。このような異分子が存在しては真の統一とはいえないからである。1673年、呉三桂は反乱をおこす。8年かかって、これを苦戦のすえ平定した。
鄭成功は、中国沿岸の水軍の指導者である。海を領土とし、船隊を国家とする一大海上勢力であった。彼はオランダ人を追い出して、台湾に拠る(1661年)。台湾の鄭氏の政権は、北は日本、南は南洋諸国と連絡し、時には大陸へ進攻をはかるが、これは失敗におわり、台湾の割拠政権として鄭成功から3代23年にわたって清に対抗した。清は三藩を平定した勢いに乗じ、オランダ海軍の援助をかりて、鄭氏の海軍を破った後、台湾に進攻した(1683年)。台湾が中国の領土に入ったのは、これが最初である。これによって、清は中国全土を真に統一することになった。
清の歴史は北方民族からおこって中国を征服した点で元の繰り返しであるが、しかし、その政治は元よりはるかに卓越していた。清は、女真人と中国人が協同して政治をおこなう方式をとった。
緑営 ─ 中国人兵士からなり指揮系統は満漢併用
八旗 ─ 八部にわけ、各旗から一定数の壮丁を挑発して軍隊を編成
女真人(満州人)の人口について、30万人前後という推定があるが、それだけの力であれば、男子全員が武器をとってもしれている。実際のところは、蒙古と漢軍の八旗をあわせて兵力は20万といわれる。このような少数の人数で、満州人の優位を確立するために、さまざまな工夫をこらしている。
異民族支配の強圧的な面
薙髪令 ─ 「髪を留めるものは、頭をとどめない」という強行策。辮髪は北方民族の風俗で、これをすることは中国人には大きな心理的抵抗があったが、多くのひとは、命にはかえられないということで、命令に従ったものと思われる。
文字の獄 ─ 清にとって不利不快な内容を含んだ著述は、すべて処罰の対象となる。
以上は清の強圧的なやり方であるが、もちろん、それだけでは支配できるわけがない。知識人に対しては科挙をそのまま行い、中国人を最高位までつけることや、多くの書物の編纂事業をおこなって多数の学者を参画させ、知識人に満足する仕事を与えて懐柔をはかった。
軍機処 ─ 国政の最高機関。はじめ清は、明にならって内閣を設けていたが、軍事の機密保持のために設置。その責任者を軍機大臣といった。はじめ、臨時におかれたが、その後常置の機関となり、一般政務の重要なものを取り扱うようになったので、内閣の実権は軍機処に移り、国家最高の機関となった。皇帝独裁の体制が一段と確立することになった。
理番院 ─ 藩部(内外蒙古・回部─新疆・チベット・青海の総称)。清はこれらの地方を服属させた後、従来の各地方の社会体制を維持し、地域的な自治を認め、王侯などの首長を通じて間接的に支配した。
女真人は少ない人数で中国人を支配するのであるから、清の基本方針は中国人に中国人を治めさせることであった。特に地方行政については、中国人に全く任せきった。しかし、すべてを中国人にまかせきってしまえば、実権を中国人に奪われてしまうので、そこで工夫されたのが満漢併用方式である。つまり、中央の重要ポストには女真人(満州人)と中国人(漢人)を併任した。
清の繁栄も乾隆帝の末年になると、しだいに衰退をしめし、やがて内外の圧力に対決を迫られることになる。国内では中国農民の反政府的な反乱が続発し、19世紀にはいって白蓮教徒の乱、さらに太平天国の乱をひきおこすことになり、対外的にはヨーロッパ列強のアジア進出がいちだんと激しくなり、イギリスとアヘン戦争を引き起すことになる。
明清の社会 戻る
明代に中国の商工業は大きな発展をする。7・8世紀以来、中国では長江下流地帯が米の主産地であり、「江浙みのれば天下足る」といういいならわしがされた。ところが、明代も16世紀になると「湖広熟すれば天下足る」と言い換えられるようになった。これは、米の供給地として湖広地方(今日の湖北・湖南省)が、長江下流域にかわるようになったことをものがたる。長江下流域では手工業が発達(絹織物・綿織物)して、多くの労働力を吸収していた。そして、むかしは米の生産地であった長江下流域が、供給地から消費地にかわったのである。つまり、内陸部で主食を生産し、長江下流から東南沿海地方は手工業の生産地となったのである。
16世紀にはヨーロッパ人が来航し、やがてポルトガルはマカオを根拠とし、スペインはマニラに拠って中国貿易に従事する。ことにメキシコの銀山が開発されると、メキシコ銀が大量に流入する。貿易による銀の流入量の増大は、国内の銀の流通量を増し、ますます産業を発展させることになる。
全国的な商品流通
会館・公所 ─ 同郷者や同業者が社交・相互扶助の目的でたてた建物
【明の盛衰】
A 明(1368〜1644年)の成立
1 (1 ) − (2 )の乱の首領
@ 金陵(現在の南京)を首都
A 1368年、太祖(3 )として即位 → 一世一元の制
B 元をモンゴル高原に退ける(→ 北元)
2 意義
江南を根拠地として中国を統一した、ただ一つの王朝
→ 江南の経済力が充実したことが背景
B 洪武帝の政治(1368〜98年)
1 漢民族による中国統一を実現 → 民族意識を高める
2 財政を確保 − (4 )(土地台帳)・(5 )(戸籍・租税台帳)
3 (6 )制 − 村落の行政区画
@ 連帯責任で徴税や治安の維持にあたる
A 110戸で1里
財力のある10戸を里長戸。のこり100戸を10甲(1甲は10戸)にわける
4 皇帝の親政体制を確立
@ (7 )省(政治の最高機関) を廃止。宰相の制をやめる
→ 六部を皇帝に直属
A 五軍都督府・都察院を皇帝直属とする
5 朱子学の官学化、科挙制を整える
6 兵制
(8 )制 − 民戸と区別した軍戸で衛所(軍隊)を編成
7 大明律・大明令をつくる
8 (9 )を定める − 民衆教化のための6カ条の教訓
→ 宋代以来発達した君主独裁の専制支配体制は、明代になって確立
C 永楽帝の政治(1402〜24年)
1 (10 )の変(1399〜1402年)
2代建文帝(洪武帝の孫) の諸王抑圧策
→ 燕王(のち永楽帝)が反乱、帝位を奪う
2 1402年、(11 )に都を移す
3 内政
@ 宦官を重く用いる
A 皇帝親政を補佐する(12 )を設置
B 江南と北京を結ぶ運河を整える
4 積極的な対外政策
@ 5回のモンゴル高原親征
A ヴェトナムを一時支配
B 宦官(13 )(イスラム教徒)の(14 )遠征
インド洋からペルシア湾やアフリカ東岸まで
→ 南海諸国の明への朝貢をさかんにする
→ 永楽帝の死後、明の海上進出はおわる
→ 永楽帝の死後、宦官の勢力が強大化。官僚の政権争い → 政治混乱
D 北虜南倭
→ 北での北方民族の侵入、東南海岸での(15 )の活動
1 北虜 − 北方民族の侵入(→P204)
@ 1449年、(16 )の変
オイラート部が侵入して、明の英宗(17 )を捕える
A 16世紀、(18 )が率いる韃靼部(タタール部、東モンゴル)
が侵入
2 南倭 − (19 )(海賊)の活動
前期の倭寇 → 海外貿易をめざす日本人が中心、明初におとろえる
後期の倭寇 → 貿易統制に不満の商人が海賊化、多くは中国人
E 明の衰退と滅亡
1 (20 )の改革(1572〜82年)
(21 )(在1572〜1620年) の初期に改革、政治の立て直し
→ 彼の死とともにくずれる
2 (22 )の朝鮮侵入(1592〜98年、→ 明は救援軍を派遣) 、東北地方の女真族
との戦い(→ 金を建国、1616年)
→ 軍事費による財政難、重税
3 官僚の(23 )と非東林派の党争。宦官の横暴
→ 社会不安の高まりと各地に暴動
4 (24 )の乱 → 1644年、北京を占領、明の滅亡
【清の統一】
A 清(1616〜1912年)の成立
1 ツングース系の(25 )族(女直。満州)
@ 12世紀、金を建国し、華北に進出
→ 金の滅亡後、元・明に支配される
A 1616年、建州女真の(26 )(太祖)が女真族を統一し、(27
)(金)を建国、東北地方を支配
軍制面 − (28 )を編成
文化面 − 満州文字をつくる
→ 八旗
満州族の軍事・社会・行政組織。旗人は、軍事の義務を負い、旗地を
支給される
2 2代(29 )(太宗、1626〜43年)
@ 内モンゴルのチャハル部を平定
→1636年、国号を(30 )と改める
A 李氏朝鮮を服属させる
B 満州八旗のほかに蒙古八旗・漢軍八旗を編成
B 清の中国支配
1 3代順治帝
@ 1644年、明が李自成に滅ぼされると、漢人武将の(31 )ら
を利用して華北に入る
A 呉三桂ら3人の漢人武将を雲南・広東・福建の藩王とする(→ 三藩)
2 4代康A帝(位1661〜1722年)
@ (32 )(1673〜81年)
藩王の呉三桂らの反乱を平定
A 1683年、(33 )の明の遺臣鄭氏(鄭成功)の一族を平定
→ 台湾を領有し、中国の統一を達成
B 1689年、(34 )条約
→ ロシアのピョートル1世と東北辺(シベリア)での国境を定める
C (35 )部へ親征
→ 清朝の最盛期 − 康A帝・雍正帝・乾隆帝の3代(1661〜1795年)
3 (36 )(位1722〜35年)
@ 1727年、(37 )条約
ロシアとモンゴル北辺での国境・貿易を取り決め
A 青海を平定
4 (38 )(位1735〜95年)
@ ジュンガル部・回部を征服 → のち、(39 )と改称
A 最大領土となる
直轄領 − 中国内地・東北地方・台湾
藩部 − モンゴル・青海・東トルキスタン(のちの新E)・チベット
属国 − 朝鮮・ヴェトナム・タイ・ビルマ
C 清の政治
1 (40 ) − 雍正帝が設置、政治の最高機関
2 (41 ) − 乾隆帝が整備、藩部を監督
3 軍制 − (42 )
八旗以外の漢人で組織した常備軍、治安の維持にあたる
4 中国内地の統治
@ 懐柔策 − 漢人の任用
(43 )、科挙をさかんにおこなう、学者を優遇、学問を
奨励
A 威圧策 − 辮髪を漢人に強制、(44 )や禁書で思想統制
【明清の社会】
A 明代の社会・経済
1 江南を中心に大土地所有と佃戸制がすすむ
2 江浙地方(現在の江蘇・浙江省。長江下流域 → 宋代から米穀生産の中心地)
16世紀以降、綿織物・絹織物業など発達 → 綿花や桑の栽培が普及
→ 明末には穀倉地帯は、湖広地方(現在の湖北・湖南省。長江中流域) に移る
「(45 )熟すれば天下足る」 → 「湖広熟すれば天下足る」
→ 変化の背景 − ポルトガル・スペイン人が絹・茶・陶磁器を買いつけ
3 商業・手工業の発達
@ 山西商人(山西省出身) ・(46 )商人(安徽省出身) の全国的な活動
→ 主要都市に(47 )や(48 )を設立(同郷者・同業者の互助機関)
A 銀の流通
日本銀の流入。16世紀以降、(49 )が大量に流入
→ 貨幣経済の発展
→ 税制の変化
税の銀納 → 両税法にかわり(50 )が実施
地税と人頭税を銀で計算し、まとめて銀納する税法(16世紀中頃江南からはじまり全国へ)
4 社会
@ 地主の都市居住が増え、大都市は発展 → 貧富の差拡大
→ 15世紀以降、農民の暴動(51 )(佃粗をめぐる佃戸の地主に対する地代抗争)
(52 )(家内奴隷の主人に対する身分闘争) が各地でおこる
→ C茂七の乱(1448〜49年) → 代表的な抗租運動
A 広東・福建の貧困農民が海禁をおかして、東南アジアなどにに移住
→ のちの(53 )のもと
B 清代の社会・経済
1 外国貿易の繁栄 → 銀の流入が増加
@ 康熙帝が海禁を解除
A 1757年、乾隆帝が交易港を(54 )1港に限定。(55
)(特許商人の組合)が交易を独占
B 18世紀、イギリス東インド会社が、中国貿易(茶が中心)を独占
2 税制の変化
18世紀初め、康A帝の時代に、以後増加した人口に対するの人頭税を免
除(盛世滋生人丁、1713年)
→ (56 )制にかわる(雍正帝のとき)
丁銀(人頭税)を地銀(土地税)に含めて一本化。人頭税がなくなる。
☆ 重要語句
六部 大明律・明令 衛所制 朱元璋(洪武帝) 金陵 魚鱗図冊 賦役黄冊
七部 里甲制 六諭 靖難の変 内閣大学士 南海遠征 永楽帝 鄭和 北京
北虜南倭 オイラート部 韃靼部 土木の変 倭寇 一条鞭法 東林党
豊臣秀吉の朝鮮遠征 女真族 エセン=ハン アルタン=ハン 神宗万暦帝
張居正 李自成 ヌルハチ 八旗 三藩の乱 ネルチンスク条約 キャフタ条約
藩部 ホンタイジ 呉三桂 鄭成功 康A帝 雍正帝 乾隆帝 辮髪令
文字の獄 満漢偶数官制 軍機処 理藩院 緑営 湖広熟すれば天下足る
山西商人 新安商人 会館・公所 ネルチンスク条約 キャフタ条約 華僑
☆ 重要年代
明の建国 永楽帝の即位 張居正の改革の世紀 明の滅亡 金の建国
清の中国侵入 三藩の乱 清の中国統一 ネルチンスク条約
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