3 トルコ世界とイラン世界
ティムール
オスマン=トルコ帝国
ムガル帝国
ティムール 戻る
1369年、チャガタイ・ハーン国の没落貴族の息子ティムールが、ライバルのフサインに決戦を挑み、アフガニスタン北部にあるフサインの居城バルフを包囲し、これを破った。1340年代の後半に、チャガタイ・ハーン国の暴君カザン・ハーンがアミール・カザガンに殺害され、ハーンの権威が低下した。かわってモンゴル・トルコ系のアミールとよばれる封建的地方勢力が割拠するようになった。そのなかからオクサス(現アム・ダリヤ)川をはさんで北に勢力をもつティムールと南に勢力をもつフサインがしのぎをけずることとなった。
ついにフサインとの決戦を決意したティムールは、バルフヘの進軍を開始した。オクサス川を渡った直後、ティムールは、チンギス・ハーン家のソユルガトミシュをハーンとして即位させ、自分はハーンを補佐するアミールの地位に甘んじてバルフに向かった。この結果、他の多くのアミールがティムール軍に合流。フサインを破ることができたのである。戦いに勝ったティムールはフサインの後宮にいたカザンの娘サライ・ムルク・ハヌムをめとり、キュレゲンとよばれるハーンの女婿としての地位を獲得した。
翌年の4月9日、ティムールはトランスオクシアナよばれていたサマルカンドを中心した地域の支配者となる。ここに140年わたるティムール朝が始まる。こうして西トルキスタンの事実上の支配者となり、サマルカンドを首都とし豪華な建造物でこれを飾った。
教科書の写真は、遺骸によって復元したティムール像。
当時、領土を拡大するには絶好の機会であった。チャガタイ=ハン国は東西に分立して無政府状態。キプチャク=ハン国・イル=ハン国・南のインドのデリー=スルタン朝も弱体であった。
1380年、ティムールは東西トルキスタン統一をほぼ完了した。チャガタイ・ハーン国の東半分を占めるモグーリスターンは、モンゴル系のドグラト部のアミールが1360年代末以来、ハーンにかわって実権を握っていた。一方ホラズム地方では、代々モンゴル系のオンギラト部の指導者がこの地を治めていた。ティムールはモグーリスターンに5度、ホラズムには4度にわたって軍隊を送ったが、その征服は容易ではなかった。しかし前年の第4次遠征でホラズムの征服を完了すると、東西トルキスタンはほぼ統一された。その後ティムールは、イランの征服に着手、軍隊をイラン東北部のホラーサーン地方に派遣した。これは、彼が目を中央アジアから西アジアに転じたことを意味する。
ティムール(タメルラン。びっこのティムール)が中央アジアから中東に攻め込む。その征服地の広さと征服した民族に対する残酷な仕打ちにおいてチンギス=ハンをしのいでいた。彼は2回にわたりロシア遠征をおこない、その一つにおいてはモスクワに1年間滞在している。また、彼はインドに遠征し東のインダス川にまで足を伸ばしていた。チンギス=ハンと同じようにティムールも大規模な虐殺をおこない、いつも犠牲者の首をつみあげて大きなピラミッドをつくった。デリー郊外では8万個の頭蓋骨のピラミッドがつくられたという。1392年ティムールはかつての栄華の都バグダードを襲い、1400年にはダマスクスを陥落させた。彼はさらに進んでオスマン帝国領のアナトリアに入った。
オスマン=トルコ帝国 戻る
ルーム=セルジューク朝の末期、アナトリアにはトルコ系諸侯領が並立した。その一つに、モンゴルの西進におされてホラサーンから小アジアに入ったカイウ部に属するオスマンとよばれる部族があった。ビザンツ帝国の衰退に乗じて、オスマン族は急速に発展した。王朝の創始者はオスマン=ベイ(1258〜1326年)。
ムラト1世のときバルカン半島を征服。
イェニチェリ
被征服地のキリスト教徒の子弟から優秀な幼少年を、デラシルメ(強制徴集)という形で家族から切り離し、幼時よりムスリムとして特殊の訓練を施して養成するもので、オスマン君主の側近に奉仕する、忠誠にして献身的な奴隷身分の軍団である。彼らはオスマン軍団の花形として軍事面で活躍しただけでなく、一部のものは新興支配層にのし上がって高級官僚となり、国政を左右して政治面でも大きな役割を果たした。
1402年捕虜となたバヤジットはその死までの7ヶ月間、2頭の馬の間に吊るされた鉄の檻のなかに入れられて、各地を転戦するチムール軍にともなったと伝えられている。
1453年、オスマン帝国はコンスタンティノープルを陥落させる。
オスマン帝国の南と東には二つの強大なイスラム国家、サファヴィー朝のペルシアとマムルーク朝のエジプトがあった。1512年スルタンとなったセリムは、この両国を討伐しようと決意を固めた。そして約1年後サファヴィー朝の首都タブリーズを占領して、さらに東進してペルシアの残る地域を攻めようとした。だがそのとき、西の方にマムルーク朝の軍が姿を現したので、彼は引き下がらざるを得なかった。1516年シリアのアレッポの近くで、セリムはこのマムルーク軍を破った。そしてシリアを通ってエジプトに攻め入った。1517年、エジプトと北アフリカの大部分をオスマン帝国の領土とした。
セリムはコンスタンティノープルに帰るとき、一人の重要な人質を連れていた。それはアッバース家の最後の生き残りで、それまでカイロで名目上のカリフとして存在していた人物で、のちにオスマン帝国は自国の衰退に直面したとき、このカリフがその神聖な権利をオスマン家に譲ったと主張する。しかし、オスマン家は預言者マホメットの後裔ではなく、本当のカリフの資格は持っていない。
スレイマン1世の即位 1520年9月30日、スレイマン1世(25)が父セリム1世の跡を継いで、オスマン朝の第10代スルタンとして即位した。セリム1世(50)が首都のイスタンブルからエディルネへ向かう途上で没したため、王子スレイマンが即位した。彼の即位と同時に、父セリム1世が併合した旧マムルーク朝領のシリアで反乱が起こるが、スレイマン1世は大規模な討伐軍を派遣してこれを鎮圧。即位後の危機的状況から脱するとすぐに、みずから軍を率いてバルカン半島への遠征を試み、翌年にはハンガリー攻略への足がかりとしてベオグラードを陥落させる。スレイマン1世は以後13回の親征を行い、アジア・アフリカ・ヨーロッパ3大陸にまたがる大帝国を築き、さらに地中海の制海権を掌握し、ヨーロッパの政局を左右するようになる。
1522年、イスラム教徒に敵対して海賊行為を行っていたキリスト教徒のヨハネ騎士団が、オスマン朝による6か月の包囲攻撃の末、根拠地のロードス島を明け渡した。
ロードス島は地中海の海上路の要衝で、オスマン朝のアナトリアの西南端に近接しているため、スレイマン1世(27)はみずから兵を率いてこの島の攻略にのりだした。そして、ついにこの日、ヨハネ騎士団が降伏勧告を受け入れ、安全を保障されたうえでロードス島を退去したのである。こののち、ロードス島がアナトリア州の1県に編入されることにより、首都イスタンブルをはさんで黒海と地中海が結ばれ、さらに遠く紅海・インド洋にもつながる海上交易路の安全が確保されるようになり、イスタンブルには世界各地の産物が集中し繁栄をきわめる一方、ヨハネ騎士団は1530年にマルタ島を新根拠地とし、65年に再びスレイマン1世と対決する。
モハーチの戦い
1526年8月、オスマン帝国のスレイマン1世(31)みずから率いる大軍が、ドナウ河畔の町モ八ーチの南西に広がる平原に陣をしいた。午後、オスマン軍とハンガリー軍は戦闘に突入、オスマン側は敵を深く引き寄せ、一気にたたく作戦に出た。これが功を奏し、戦いは一方的となり、夜までにハンガリー軍は潰走、国王ラヨシュ2世(20)をはじめ、おもだった者はほとんど戦死した。主力だけでも約6万、それに300門の大砲を擁し、4月にイスタンブルを立ったオスマン軍は、夏にはハンガリー国境に達し、ラヨシュ2世が待ち受けるモハーチに迫った。これに対しハンガリー軍はわずか3万で、しかも戦い慣れた騎士は少なかった。目前に迫る敵を見たハンガリー側は、トランシルヴァニア侯サポヤイ・ヤーノシュが率いる3万の軍勢も、ドイツとチェコからの援軍も待たずに開戦を決定したのだった。こののちスレイマンは、9月にハンガリーの首都ブダ(現ブダペスト西部)を占領して帰国する。また、この戦いにより瓦解したハンガリー王国は、以後、オスマン帝国とハプスブルク家の争奪の場となる。
ウィーン包囲
1529年9月27日、ハンガリーの領有をめぐって、ハプスブルク家のフェルディナント(26)と対立していたオスマン帝国のスレイマン1世(34)が、12万を超える兵員と300門近い大砲を率いてウィーンを包囲し、攻撃を開始した。フェルディナントに国を追われたハンガリー王サポヤイ・ヤーノシュ(42)の要請を受けたスレイマン1世は、みずから兵を率いてバルカン半島を北上、ハンガリーの首都プダ(現ブダペスト西部)をフェルディナントから奪回した。オスマン軍はこの日、退却するフェルディナントを追って、ウィーン城外に達したのである。フェルディナント側のウィーン防衛軍は五万数千人にすぎなかったが、守備は堅く包囲戦は長期化する。気候はしだいに厳しさを増し、冬に向かって物資の補給に不安を感じはじめたスレイマン1世は、10月14日に包囲を解くことを決意し、16日にブダに向けて退却する。このイスラム教徒によるウィーン包囲は西欧キリスト教世界に衝撃を与え、ハプスブルク家はただちに軍備増強に着手する。フェルディナントの兄の神聖ローマ皇帝カール5世(29)は、莫大な戦費調達のため対立していたルター派諸侯と妥協せざるをえなくなり、宗教改革の動きに拍車をかけることになる。
プレヴェザの海戦
1538年、ギリシアのプレヴェザ沖で、バルバロス・ハイレッディン(65?)の率いるオスマン艦隊が、ヴェネツィァ・スペイン・ローマ教皇の連合艦隊と激突し大勝利を収めた。バルバロスと提携して地中海制覇にのりだしたオスマン帝国に対し・脅威を感じたヴェネツィアとスペイン、ローマ教皇は神聖同盟を結び、地中海での形勢逆転をねらって反攻に出たのである。アンドレア・ドリア(70)の率いる連合艦隊は、ヴェネツィア船81隻、スペイン船50隻・教皇船36隻の計167隻で、一方のバルバロスの艦隊は120隻。数のうえでは連合艦隊が優勢だったが、結果はオスマン側の一方的な大勝利に終わった。こののち、フランスはオスマン帝国に急接近し、ヴェネッィァも多額の賠償金を支払って神聖同盟から離脱。一方のオスマン帝国は、地中海のほぼ全域に覇権を確立する。
ムガル帝国 戻る
ティムールは14世紀末西北インドに侵入し、トゥグルク朝支配下の首都デリーを占領し、北インドを荒らしまわったあげくサマルカンドに引き上げた。バーブルはアフガニスタン東部の小国の王で、ティムール5代の子孫と称した。また、ティムールがチンギス=ハンの子孫と称したので、そのためモンゴル人とよばれてこれがなまってムガルとなったのである。自らをムガルと称したが、必ずしもモンゴル族ではなかった。
初代皇帝となるバーブルは中央アジアの小国フェルガーナの王であったが、幾多の冒険の後カブールを占領してアフガニスタンを支配した。彼の最初の計画は、先祖に当たるティムールが支配していた大帝国の全土を奪還することだった。ところが、新興の強大なサファヴィー朝によって計画は阻止され、そのかわりに分裂状態にあった北インドに目標を変えた。16世紀はじめ、デリーのロディー朝のパンジャーブ総督ダウラット=カーンは、カブールのバーブルをに出兵。バーブルはヒンドゥークシ山脈をこえてパンジャーブ地方のラホールに進出。1526年デリーの西北パーニパットの野にロディー朝の大軍を破る。バーブルの軍勢はスルタン・イブラヒームの兵力の1/10に過ぎない。イブラヒームは戦死し、バーブルはデリーのアグラを占領した。バーブルはインド統治5年で死ぬ。
2代目のフマユーン
バーブルの人柄についての言い伝え。バーブルの息子フマユーンが病気で死にかけたとき、ある賢人がバーブルに世界中で一番貴いものを犠牲にすれば息子の命は助かるだろうといった。
フマユーンは父が勝ち取った領土の支配権をすぐに失った。アフガニスタンとパンジャーブ地方は兄弟の手に渡った。インド北東部の州にいたアフガン人総督が、バーブルのインドにおける領地を奪った。ペルシアに難を逃れる。ペルシアにはシーア派のサファヴィー朝があり、亡命したフマユーンを受け入れる。15年におよぶ亡命生活の後、1544年ペルシア皇帝の援助によってアフガニスタンに入り、ついでデリーを奪い返した。彼は1556年に死に、インドはきわめて不安定なまま13歳のアクバルに残された。
第3代アクバル
ヒンドゥー教徒であるラージプート族の支配に成功。ラージプート族は、イスラムの支配者にとって悩みの種であった。南方の進出することができない。また、帝国に反抗するものたちの絶好の逃げ場でもあった。
アクバルが選んだ手段は妥協であった。ラージプート族の首長の一人を打ち破ると、アクバルは彼を首長の座から降ろさずに同盟を結んだ。また、ラージプート族の王女を妃に迎え、その結果彼の子孫は半分ヒンドゥー教徒の血を引くことになる。ラージプート族の将軍を迎え入れる。その中で有名なのがマーン=シンクでカブールとベンガルの太守に任じられた。こうして、アクバルはラージプート族を味方に引き入れた。イスラム教徒以外のものに対する差別税であったジズヤも廃止された。
アクバルの49年の治世のあと、その後ムガル皇帝は凡庸な3人の皇帝ジャハンギール・シャー=ジャハーン・アウランゼーブのもとで100年にわたって発展をつづけた。
シャー=ジャハーンはデカンの広大な地域を版図に加えた。デカン高原を最終的に帝国に統合することは、シャー=ジャハーンの子アウラングゼーブの目標となった。
第6代アウラングゼーブ
ジズヤの復活・ヒンドゥー教寺院の破壊。彼は厳格な正統派のイスラム教徒であった。曽祖父の寛容な政策を遠ざけ、ヒンドゥー教寺院の造営を禁止し、ヒンドゥー教徒に対する差別税を復活した。彼は戦争と征服にあけくれて、その版図を最大のものとしたが、帝国を崩壊の瀬戸際に立たせてしまったのである。ラージプート族諸侯の離反、シク教徒の反乱、シヴァーシンに率いられたマラータ族の反抗により、ムガル帝国のインド統一は崩壊する。
ムガル帝国最後の皇帝は、1875年セポイの反乱にさいして擁立され、デリー陥落時にイギリス軍に捕らえられ、国事犯としてビルマのラングーンに送られて獄中で亡くなった。
軍隊で用いられていたあらっぽいペルシア語は、インドの諸言語と混合してウルドゥ語になった。ウルドゥ語は今日パンジャーブ地方ならびに北インドで一般に使われている。
1631年、シャー=ジャハーンの妃ムムターズ=マハルが14人目の子供の出産にあたって、39歳で死んでしまったのである。彼は妃を熱愛していた。悲しみにうちひしがれ、「空前絶後の世界の驚異」といわれるタージ=マハルを造営させた。
(未完)
【ティムール朝】
A ティムール朝(1370〜1500年)の成立
1 14世紀後半、(1 )国は崩壊状態
→ 1370年、(2 )が建国、東西トルキスタンを統一
都(3 )
2 ティムールの大帝国建設
@ 西アジアの(4 )=ハン国を征服
A キプチャク=ハン国、北インド(トゥグルク朝)に侵入(→ ティムールの部下がサイイド朝建設)
B 小アジア侵入 → (5 )年、(6 )(アンゴラ)の戦い
オスマン=トルコ(バヤジット1世を捕虜)を破る
C (7 )(永楽帝) への遠征の途中、ティムール病死
→ シャー=ルフ(第3代) の全盛時代 → 明と和す
※ ウルグ=ベグの頃から分裂・衰退
3 (8 )族(トルコ系)により滅亡(1500年)
B トルコ=イスラム文明の発達
1 ミニアテュール(細密画)・天文学・暦法の発達
2 民衆の支持をうけ、神秘主義教団が発展
【オスマン=トルコ帝国】
A オスマン=トルコ帝国(1299〜1922年)の発展
1 1299年、オスマン1世が小アジアに建国
(9 )派イスラム教
2 バルカン半島へ進出
@ ビザンツ帝国からアドリアノープルを奪い、首都(〜1453年まで)
A コンスタンティノープルを包囲(14世紀末)
B (10 )の戦い(1396年)
皇帝バヤジット1世が、ハンガリー中心のバルカン諸国とフランス・ド
イツ連合軍を撃破
→ 1402年、(11 )の戦い
ティムールに大敗、皇帝バヤジット1世は捕虜となる(→ 一時中断)
3 (12 )年(百年戦争終結の年)、メフメト2世が、(13
)攻略 = ビザンツ帝国滅亡
→ (14 )と名を改め、首都
4 クリム=ハン国(クリミア半島)を服属、ドナウ・ドニエストル川の下流域、セル
ビア・ボスニア・ヘルツェゴヴィナを領有
→ クルディスタン領有(サファヴィー朝より奪う) 、シリア進出
5 (15 )年(ルターの95カ条の論題発表の年) 、セリム1世が(16
)朝を滅ぼしエジプトを支配
→ メッカとメディナの保護権を得る
→ 18世紀後半以後、(17 )制成立
オスマン=トルコ帝国のスルタンが(18 )を兼ねる
B (19 )(1520〜66年)の最盛期
1 1529年、第1次(20 )包囲 → ヨーロッパに脅威
2 (21 )の海戦(1538年)
スペイン・ヴェネツィア・ジェノヴァ・ローマ教皇の連合艦隊を破る
→ 地中海の制海権を得る
3 領土の拡大
チュニジア・アルジェリア・イラク(サファヴィ朝より)、ハンガリーを征服・
4 フランス(フランソア1世)と同盟し、オーストリア(神聖ローマ皇帝22
)に対抗
→ フランス商人に(23 )を許可(居住と通商の自由など)
その後、イギリス・オランダにも認める → のち、不平等条約の口実
C 衰退のはじまり
1 1571年、(24 )の海戦(→P172)
スペイン海軍(ヴェネティア・教皇との連合艦隊) に敗北
2 第2次ウィーン包囲失敗(1683年)
3 1699年、(25 )条約
ハンガリー(オーストリアへ) ・アゾフ(ロシアへ)などヨーロッパの領土を失う
D 社会と文化
1 スルタン
絶対専制君主、イスラム法の施行と正統派の信仰を擁護
2 (26 )制の発展 → 軍事的封建制
@ 土地の徴税権を軍人に与える(世襲は不可)
A 軍人が直接農村(国家から授与された土地)を支配する
3 (27 )
@ 兵力増強のため、キリスト教徒子弟を強制的に徴集
A スルタン直属の常備軍
4 文化
@ 建築 − (28 )
A チューリップ時代 → 18世紀前半、西欧趣味流行
B (29 )派が国教、異教徒に寛大
【サファヴィー朝】
A サファヴィー朝(1501〜1736年)の成立
1 1501年、イスマイル1世が建国(1500年、ティムール朝滅亡後) 2 ササン朝以来のイラン国民国家の成立
3 伝統的な帝号「シャー」を用いる → 民族意識の高揚
4 (30 )派を国教 − シーア派神学が完成
→ オスマン=トルコ(スンナ派)に対抗
→ (31 )(1588〜1629年)の時代 − 最盛期
@ 新首都(32 )を建設
A オスマン帝国からアゼルバイジャンとイラクの一部を回復
B イギリス・フランスと外交・通商関係を結ぶ
B 18世紀前半、アフガン人の侵入で滅亡 → イラン地方混乱
4 ムガル帝国
【ムガル帝国】
A ムガル帝国(1526〜1858年)の発展
1 16世紀はじめ、(33 )(ティムールの子孫)がアフガニスタンのカブー ルにうつる
→ パーニパットの戦いでロディー朝を破り(1526年)、デリー入城
ムガル帝国を建国
2 (34 )の統治(3代目・バーブルの孫、1556〜1605年)
@ ヒンドゥー教徒の(35 )族と和解
A デカン地方を除くインドの大部分とアフガニスタンを支配
B (36 )から(37 )に遷都
C 全国を州・郡・県にわける
→ 中央から官吏を派遣、封建領主化防止−土地を与えず、俸給支給
D イスラム・ヒンドゥー両教徒の融和をはかる
(38 )(人頭税) を廃止
諸宗教の折衷的宗教をはじめる(→ 失敗)
3 (39 )(アクバルの孫、1627〜58年)
@ デリーに遷都
A タージ=マハル廟建設
4 (40 )(1658〜1707年)
@ 最大領土 − デカン高原の大分を大部分を領有
A 厳格な正統派(スンナ派)の立場 − 人頭税(ジズヤ)を復活
→ (41 )族(インド北西部)の支持を失う
→ (42 )族(デカン西部のヒンドゥー勢力 → 後に、マラータ同盟結成)や(43
) 教徒(パンジャブ地方) の反乱
B 財政が悪化 → 官吏に土地の徴税権をあたえ、徴税請負もはじまる
B ムガル帝国の衰退
1 アウラングゼーブ帝の死後、急速に衰退
@ デカン・ベンガルに地方政権が自立
A マラータ同盟(マラータ族) が首都デリーにせまる
2 ヨーロッパ人の進出 → 領土縮小
【インド=イスラム文明】
A デリー=スルタン朝(1206〜1526年)
1 イスラム教を強制せず
神秘主義教団員による布教 → しだいに普及
2 (44 )教(パンジャーブ地方が中心)
ナーナクが創始、偶像とカースト制度を否定
3 混成言語(45 )語のはじまり
→ ムガル帝国の民衆の間で使用
→ 現パキスタン共和国の国語
B インド=イスラム文明の成立
1 イスラム文化とヒンドゥー文化が融合
2 建築
(46 )(アグラ、17世紀) − シャー=ジャハーンが建設
3 絵画
(47 )絵画 ← イランの細密画(ミニアチュール)の影響
ラージプート絵画 ← ムガル絵画の影響
☆ 重要語句
ティムール帝国 アンカラの戦い ティムール サマルカンド
オスマン=トルコ スルタン=カリフ制度 ウィーン包囲 プレヴェザの海戦
スレイマーン1世 イェニチェリ軍団 レパントの海戦 スレイマーン=モスク
サファヴィー朝 カージャール朝
☆ 重要年代
アンカラの戦い オスン=トルコのコンスタンティノープル攻略
スレイマーン1世時代の世紀
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