アメリカ独立革命

 

                第12章 市民社会の成長  
 
                  1 アメリカ独立革命
 
 ピルグリム=ファーザーズ  イギリスの植民地政策と植民地の反抗
 独立戦争
   
 
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 1620年の秋9月、イギリスから大西洋へ、巡礼の始祖(ピルグリム=ファーザーズ)を乗せた3本マストの帆船である。メイ=フラワー号「5月の花」は、長さ27メートル、180トンの小型船。もともと人を乗せる客船でなく、フランスからイギリスへワインを運ぶ使い古した商船である。死ととなりあわせの命がけの航海。すしずめに乗った102人の船客のうち41人が清教徒。また、102人のうち29人が女性であった。
 大嵐にあって目的地にたどりつくことができず、ずっと北のマサチューセッツ州のコッド岬についた。  
 当時、イギリスでは宗教として国教会しか許されていなかった。清教徒たちは「宗教改革」を未完成のまま終わらせては断じてならないと立ち上がった。当時の記録によれば、「四方八方から追い立てられ迫害された。ある者は連れて行かれて牢にたたきこまれ、またある者は、家を包囲されて、夜となく昼となく監視され、その手から逃れることはほとんどできなかった。そして、たいていの者は、住み慣れた家と土地を残し、生計のすべてをすてて、やむなく立ち去らねばならなかった」という弾圧の連続であった。  
 そうしたなかで、オランダに逃げていた分離派という一部の清教徒たちは、新大陸アメリカへの移住を決心した。自分たちの理想の国土を、自分たちの力でつくろう、と行動をおこしたのである。  
 中心のリーダーであったブラドフォードという青年は、聖職者でもなければ大学出でもなかった。父がいないなか、苦労して人格を鍛えあげた人物である。30歳。  
 船の上では、自由と平等を重んじ法に基づいて、「結集して理想の社会を建設しよう」という誓約が結ばれた。これが「メイフラワー契約」である。  
 長く苦しい航海の果てに、ボストン近くのプリマスに上陸。  
 彼らを待ちかまえていたものは何であったか。それはただの荒野であった。しかも苛酷な冬がきていた。最初の冬だけで生き残ったのは102人の半数の50人わずか23世帯だけとなってしまった。やがて春になると、地元の先住民からとうもろこしの栽培やタラの漁の方法も学んだ。  
 その後、幾万・幾十万の移民がつづく。あのハーバード大学が創立されたのは、この第一歩からわずか16年後であった。彼らがわたったアメリカは、日本でいえば北は北海道の端から南は九州の端まで、北と南では気候が全く違っていたのはもちろん、土地も風景も全く違っていた。南の方は黒い土地が広がり、北の方はすぐ近くに山があり、そこには寒い地方特有の森林がうっそうと茂っていた。  
 南部では、与えられた土地を開発するため、この地に住みついた金持ちの投資家たち(プランター)が広い土地でタバコをつくり、それをイギリスに売って儲けていた。1660年代にアメリカでさらわれた黒人奴隷として、プランターに売られるようになった。奴隷は南部のいたるところで使われるようになった。  
 北部では南部のように土地が豊かでなくプランテーション制度は行われにくかった。一人一人が自分の家族を養うに足るだけの土地を持って、それを耕した。大規模な農業には適さなかったが、船をつくる木材とか魚・毛皮は豊富にあり、海岸線が入り組んで良港に恵まれた。
  
 イギリスの植民地政策と植民地の反抗   戻る  
 イギリス本国の地主貴族と商人と工場主は政権を握ると、アメリカ植民地を「食いもの」にしてお金を儲けようとした。イギリスの製品は本国だけでは消費しきれず、植民地に商品を消費させねばならなくなった。17・18世紀の変わり目ころから、イギリス本国はアメリカ植民地の産業を押さえる法律を出すようになった。
 1699年、ホイッグ党政権(イギリス商人の利益を代表)は、北部で発達し始めていた毛織物の生産を止めようとした。アメリカの毛織物を輸出することを禁止。生産地以外では植民地製の毛織物を売ることを禁止。
 1704年、ペンシルバニアが靴の製造を奨励する法律を出したとき、本国政府はそれを廃しさせた。
 1732年、ボストン・ニューポート・ニューヨークが帽子製造の中心になったときには、帽子条令をだして帽子製造を禁止。
 1732年、糖蜜条令。西インド諸島のフランス領やオランダ領から糖蜜を植民地が輸入することを禁止した。
 1750年、鉄条令はイギリスの製鉄産業の利益を図るものであった。植民地の棒鉄・銑鉄を無関税で輸入できる。しかし、植民地で鉄板をつくること、鋼鉄をつくることは禁止された。
 しかし、北と西にフランス植民地が隣接し、その脅威があったため、それほど厳格に適用されたわけではない。有益な怠慢。
 しかし1763年七年戦争でイギリスがフランスを破ったことは、イギリスの植民地政策をかえることとなった。1766年イギリスで飛び梭が発明。産業革命のはじまりで、生産した商品を売りさばく場所を必要とした。それと、本国の外債は戦争中に2倍になり、1500万ポンドとなった。それを支払う財源も必要となった。
 1763年、国王は西部の土地を国王のものだと宣言して、西部への植民地の人々の移住を禁止した。
 1765年印紙条令がだされた。植民地では、法律文書・新聞・パンフレット・卒業証書・カレンダー・トランプなど一切の印刷物に印紙を貼らねばならなくなった。とくに印紙条令は植民地の人々を怒らせた。「代表なくして課税なし」というモットー。
 バージニア議会では、パトリック=ヘンリーが「シーザーはブルータスを、チャールズ1世はクロムウェルを、そしてジェームズ3世は(このとき議長は発言中止を命じ、議員席からは「反逆、反逆」の叫び声)、彼らの例から学ぶものがあろう。もし、これが反逆なら、思い切ってやれ」と述べた。
 九つの植民地が代表を送って、ニューヨークで「印紙条令会議」が開かれた。植民地の婦人は「自由の娘」(ドーターズ=オブ=リバティ)と名乗りイギリス商品をボイコットした。これらの人々の圧力によって、翌年イギリスは印紙条令を廃止した。
 1767年には、タウンゼント法がつくられ、いろいろな商品の輸入税を植民地に課した。
 1773年、東インド会社は1700万ポンドの茶の荷物をもてあまして破産寸前にあった。それを救うために新しい茶税を課す法令が出された。これで会社は茶を無税でイギリスに輸入することができるようになり、茶は会社から直接、植民地の小売人に売ることができるようにされた。
 1773年12月ダートマス号で茶がボストン港に運ばれてきたとき、ボストン茶会(ティー=パーティ)が組織され、彼らはインディアンに化けて茶を海中に投げ込んだ。これに激昂した本国政府は、ボストン港を封鎖。マサチューセッツ州を王領とすることを決めた。ボストンの町の人々が職を失い、生活に困っていることを聞いて、各地から食糧や衣料が送られてきた。
  
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 1774年には第1回大陸会議がフィラデルフィアで招集され。「権利の宣言」が可決された。国王は大陸会議の決議に取りあわなかっただけでなく、かえって植民地を反乱状態にあるとして、軍隊による鎮圧を準備した。
 植民地のこれに対抗して、民兵を訓練し、「1分間兵」(ミニットメン)を組織し兵器もあつめた。一般人が1分間で軍隊に編成されたからこの名がでた)。これがコンコードに集結していると聞き、ゲイジ将軍はただちに軍隊をさしむけた。この軍隊がコンコードにむかう途中、レキシントンで「一分間兵」と衝突した。
 この問題を論ずるために、1775年5月、第2回大陸会議が開かれた。プランターの指導する会議は国王にふたたび誓願するにとどまった。ジョージ3世は、アメリカの「反逆者」に対し戦いを宣言した。6月にはバンカーヒルでイギリス軍と民兵が衝突し、半日後愛国者のプランターで、七年戦争の経験のあるワシントンが植民地の司令官に任命された。
 
 一冊のパンフレットがアメリカを変え、世界を変えた。「コモン=センス」。「常識」と訳される。作者はトマス=ペイン。このパンフレットの売れ行きはすさまじかった。わずか数ヶ月で10万部以上、ついには50万部はうれたという。文字の読めるアメリカ人はほとんど誰もが読んだという。この一冊のパンフレットは、植民地の古い常識にしばられ、萎縮し、臆していた人々の心を一変させた。独裁や世襲などの権威に屈してはならない。「自由」と「独立」の道へと勇んでふみだすことこそが、新しい正しい「コモン=センス」であると。ワシントンは「コモン=センス」を肌身離さず、表紙のすりきれるまで読んだという。
 トマス=ペインは自ら一志願兵として、独立の戦いに身を投じた。彼は当時39歳。自発的な「志願」こそ自主・独立の精神があり、他人にいわれて動くのは精神の「奴隷」である。
 当時、ワシントン将軍のアメリカ軍は重大な窮地にたたされていた。敗走につぐ敗走。後退につぐ後退。兵士のなかにも脱走するものが後をたたなかった。そして、ある厳寒の冬の晩、トマス=ペインは野営のかがり火のもとで何かをつづっていた。それは「今こそ人間の魂にとって試練のときである」という有名な一文ではじまる「アメリカの危機」という文章である。
 その年の暮れの吹雪の日、ワシントンは兵士たちを集める。敗走につぐ敗走で意気を喪失し、疲れきった兵士たち。ワシントンは戦いの第一線にたつ兵士たちにこの文章を読み聞かせることにした。兵士たちの心に熱いものが走った。こうしてアメリカ軍は大攻勢に転ずる。凍てつく川を渡り、クリスマスに酔いしれた敵の兵士を一気に打ち破った。そして、この戦いが大きく流れをかえ、やがて、独立の勝利へとつながっていった。ぼろ服の寄せ集めようなアメリカ独立軍は、1776年クリスマスの夜から新年にかけてトレントンで勝ち、1777年10月にはサラトガでイギリス軍1200人を倒し、5700人を降伏させる。しかし、1777〜78年の冬、ヴァレーフォージにあった独立軍は再び食糧と衣服が欠乏し、武器弾薬は不足し、毎日逃亡兵が絶えなかった。イギリスのハウ将軍がヴァレーフォージに総攻撃を加えたら、独立軍はひとたまりもなかったといわれる。しかし、アメリカとフランスの同盟が成立し、夏に植民地の民兵が集結すると、ヴァレーフォージに残った4千人は、1万2千人となった。
 
 「独立宣言」の起草者はトマス=ジェファソン。後の第3代大統領である。5人の委員の中で一番若いジェファソン(33歳)に起草の大任が任されたのである。執筆に際してジェファソンが最も苦心し、心がけたことは何か。彼はただ一点、「アメリカの精神」をそのまま「独立宣言」に結晶させたいと願った。ジェファソン自身が、その「アメリカの精神」を生涯、生き生きと持ち続けた一人であった。
 1800年、57歳のジェファソンは、ある手紙の中でこんな心情を語っている。「人間の精神の上からおおいかかる、あらゆる形態の暴政に反対し、永遠にこれと対決する」と。1801年、ジェファソンは大統領に就任する。58歳のときであった。大統領としての最大の功績は、外交の手腕を発揮して、それまでフランスの領土であったルイジアナを購入。アメリカの領土は一挙に2倍に拡大したことだといわれる。
 また、彼は生涯で5万通の手紙を残したという。ジェファソンは39歳で妻に先立たれている。
 
 ジェファソンは自分の奴隷のほとんどを解放し、ワシントンも遺言にそう書きとめている。1775年、アメリカ最初の奴隷制反対協会がベンジャミン=フランクリンによってフィラデルフィアに創設。
 
 ラファイエット
 20歳。1777年、義父の反対をかえりみず、アメリカにわたり独立軍に参加。独立軍はこの少年を少将に任命した。コーンウォリスに対するヨークタウンの戦いで大功をあげた。
 
 コシューシコ
 ポーランドの愛国者。ポーランドの士官。アメリカ独立戦争がはじまって2年目の1776年、アメリカにわたり、ワシントンの副官となり戦功をたてる。工兵大佐となり、数々の戦闘に参加。
 
 
   
 【イギリスの植民地政策】
 A アメリカ東部の13植民地
  1 最初の植民地 − (1        )(1607年最初の植民地)
   → 1620年、(2             )(ピューリタン、メイフラワー号)が、プ   リマスに定住、(3            )植民地の基礎
   → 1732年、ジョージアを最後に13植民地が成立
  
  → イギリス植民地の特色
 @ 信仰の自由、貿易・開拓の利益を求めて来る → 自主独立の精神
   A 自営農民が多い
 B 植民地議会を設ける(1619年、ヴァージニアが最初)  → 自治的な政治体制 
  
  2 北部 − 自営農民による農業、商工業が発達
    南部 − (5     )奴隷を使用(1619年から) する(4        
             )(たばこや藍)
     
 B イギリスの植民地政策と独立革命の要因
  1 (6       )政策
   植民地の商工業を抑える − 糖蜜条令(1733年) 、鉄条令(1750年)
 植民地産品を外国へ売ることを禁止 − (7     )条令(1751年)
   → 植民地は、本国の援助が必要 → 紛争はおこらず
  2 (8    )戦争(1756〜63年)終結の影響
   @ 植民地でのフランスの脅威がなくなる(フランス領なし)
   A イギリスは財政難と拡大した領土維持のため重商主義政策を強化 
   B 本国の政治的圧迫に対する不満
    国王の宣言(西部移住を禁止)、自治植民地を王領に変更など
  
 C イギリス本国の課税と植民地の反抗
  1 (9     )条令(1765年)
   → 植民地側の激しい反抗、「10             」
   → 翌年、(11    )条令は撤廃
  2 タウンゼンド諸条令(1767年)
   ガラス・紙・ペンキ・茶などに課税・→ 茶税以外廃止
  3 (12   )条令(1773年。東インド会社救済のため)
   → 1773年、(13        )事件
   → イギリスの報復(ボストン港封鎖、西方移住禁止(ケベック条令)など)                 
 
                   
 【独立戦争】 − 当時の国王はジョージ3世
 A 独立戦争の発端
  1 第1回大陸会議(1774年)、(14         )で開催
   → 本国に抗議
  2 1775年、レキシントンの戦い − 独立戦争のはじまり
   → (15       )を総指令官に任命(第2回大陸会議)
  3 (16         )が「17         」を出版(1776年)
   → 独立の必要と共和政の長所を主張、独立の気運高まる
  4 独立宣言 − (18    )年(アダム=スミスの「国富論」発刊の年)
   @ (19        )で発表、(20           )ら起草
   A 内容 → (21    )の思想的影響
    人間の自由・平等
    社会契約説に基づく政府樹立権=人民主権
    圧政に対する革命権を肯定
  
 B 独立戦争の展開
  1 独立軍は、はじめ苦戦 → サラトガの戦い(1777年) で本国軍破る 
   → 連合規約でアメリカ合衆国と命名
  2 フランス(1778年) 、スペイン(1779年) 、オランダ(1780年) が参戦
  3 (22          )(ロシア女帝) が提唱し、(23       )結
   成(1781年)
  4 1781年、ヨークタウンの戦いで独立軍の勝利が決定的
  5 (24    )年、(25    )条約で独立承認
   @ アメリカは、(26        )川以東のルイジアナ獲得
   A ヴェルサイユ条約でイギリスはフランス(→ セネガルなど)、スペイン(→フロリダ・ミ
    ノルカ島) に領土割譲
  
  → 活躍した人々
   1 独立軍に参加  
   (27       )(フランス、「人権宣言」の起草者) (28      )(ポーランドの愛国者)
   2 外交官(駐仏大使)として活躍 
   (29         ) − フランスの援助獲得  
   
 【合衆国憲法の制定】
 A 憲法制定
  1 連合規約の時代(1781〜87年)
   @ 連合規約(各州の自主権重視) − 13州のゆるい連合体
    → 中央権力は弱い
   A 独立後、政治的・経済的困難(シェイズの乱、1786〜87年)
    → 強力な中央政府の要求
  2 1787年、(30        )で憲法制定会議 → 憲法制定
   @ 世界最初の成文憲法
   A (31    )主義
     各州の大幅な自治を認めながら、中央政府の権限を強化
   B (32      )の原則 − モンテスキューの理論を実践
   C 民主主義 − 白人にのみ適用、黒人・インディアンは無視
  3 政党の起源
   @ (33     )派 
     (34       )(第3代大統領)が中心、憲法に批判的、州権を重視 
   A (35    )派(フェデラリスト)
    ハミルトンが中心、憲法を支持
  
 B 合衆国の発展
  1 1789年、(36      )、初代大統領就任
   → 1800年、ワシントン市が首都(それまではフィラデルフィア)
  2 中立政策 → ヨーロッパから移民増大 → 開拓・発展
 
    
 ☆ 重要語句
 13植民地 ピルグリム=ファーザ−ズ プリマス植民地
 ニューイングランド植民地 イギリス重商主義政策 七年戦争
 フレンチ=インディアン戦争 印紙条令 代表なくして課税なし
 ボストン茶会事件 大陸会議 レキシントンの戦い ヨークタウンの戦い 
 ワシントン フィラデルフィア コモン=センス 独立宣言 フランスの参戦
 武装中立同盟 トマス=ペイン トマス=ジェファソン フランクリン 
 ラファイエット コシューシコ パリ条約 合衆国憲法 連邦派 反連邦派  
 
 
 ☆ 重要年代
 メイフラワー号の一団がプリマス海岸に上陸 印紙条令の発布
 独立戦争の開始 独立宣言の発表 パリ条約の締結 合衆国憲法の制定    

 


 

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