2 フランス革命とナポレオン
財政改革と三部会
革命の勃発
人権宣言
ヴェルサイユ行進
国王の逃亡計画
ラ・マルセイエーズ
ヴァルミーの戦い
革命の激化
恐怖政治
テルミドールのクーデタ
国王の財政改革と三部会 戻る
革命の初期、立憲議会の政治家たちはモンテスキューとケネーの思想によって影響されていた。その後、ヴォルテールと百科全書派、さらにルソーの影響力が大きくなり、モンターニュ派の指導者たちを動かした思想は、もっぱらルソーであった。
ルソー、「人間は自由なものとして生まれた。しかも、いたるところで鎖につながれている」。どうしてこの状態をあらためることができるか。それは、既存の国家をくつがえして人民主権の国家をつくることによってである。これが「社会契約論」のテーマ。
カロンヌの計画した改革は、前任者たちが高等法院の反対にあって失敗したことを知っていたので、自分が選んだ名士たち ― 司教・大領主・高等法院の有力者などからなる「名士会」を招集し、その承認を得て後、高等法院に押し付けるという方法をとった。しかし、「名士会」はカロンヌの提案を認めず、これをみたルイ16世は即座に辞職させた。
ルイ15世の治世の間、改革らしきものはほとんどおこなわれなかった。大臣たちに要請されて。ルイは聖職者に税の支払いを認め、貴族にも規制を課したが失敗に終わった。
ルイ16世は、哲学者テュルゴーを財務統監に任命した。税をあらゆる階層に均等に課する税制改革を唱え、また新教徒に完全な市民権を与えようと提案した。これで彼の立場は、まったく悪くなってしまった。1774年8月に任命され、1775年5月に早くも解任された。
政府内にはびこる利己的な勢力に立ち向かえないとしたら、いったい改革が成功することがありうるだろうか。
1770〜80年代にかけて、フランス国家は破産状態にあった。ルイ16世はなんとかして国勢を立て直そうと考え、1787年名士会を招集したが、うまくいかなかった。
ついで1789年、ルイ16世は三部会を招集した。これは、フランス社会を伝統的に区分していた、聖職者・貴族・平民の三つの身分の代表で構成される国民議会である。
ところが、この議会の運営方法をめぐって議論が沸騰した。なにしろ、175年ぶりに招集されたのではっきりした取り決めがなかったからである。
貴族と聖職者は、各身分が一つの単位として投票することを望んでいた。こうすれば、議会の主導権を上流階級が握ることができるからであった。
これに対して、第3身分を構成する平民は、各人が個人投票することを主張。議会における平民の代表の数が50%にあたっていたことから、そうすれば、第3身分が多数の力で主導権を握ることができると考えていたからであった。
そして、王が第3身分の要求を拒否するや、平民たちは三部会を離れて自分たちの国民議会をつくた。
革命の勃発 ─ バスティーユ牢獄襲撃 戻る
国王は軍隊2万をパリ近郊に集結させ議会を制圧しようとした。そして、7月11日、民衆が期待をかけていたネッケルを突如解任した。パリの民衆はこれに怒り、12日これを知ったみずから武装を始めた。まず民衆は、廃兵院へ押しかけて約3万丁の小銃を奪い、7月14日バスチィーユ牢獄を襲撃した。騒乱はただちにフランス全土に波及した。このときルイが「暴動か」と尋ねると、側近は「いえ、革命でございます」と答えたという。
バスチィーユ牢獄は本来要塞で、14世紀にパリ防衛の目的で築かれたが、ブルボン朝のもとでは政治犯を投獄する牢獄として使用され、専制政治の象徴とみられていた。押しかけた民衆に守備兵が発砲して戦闘となったが、百余人の死傷者を出しながらこれを陥落させた。パリのこの動きは、地方に波及し農民がその領主の館を襲うなどの大規模な蜂起をひきおこした。
人権宣言 戻る
8月4日、議会は封建的諸特権の廃止宣言を可決。これは、免税特権や教会十分の一税の廃止、領主裁判権等の廃止などを宣言していた。しかし、地代徴収権などは、領主から農民が買い戻す有償廃止にとどまった。この宣言により、全国の農民反乱は終息したのである。
8月26日、憲法制定国民議会は、「人間および市民の権利宣言」(人権宣言)を採択した。アメリカの独立宣言を模範としながら、人類全体にとっての普遍性を強く謳った宣言は、まさしく旧体制(アンシャン・レジーム)の死亡証書といえる。
第1条で「人間は生まれながらにして自由であり、権利において平等である」ことをうたった。圧政に対する抵抗権、主権在民、法の前での平等、表現・出版の自由、財産権の神聖不可侵などの、近代市民社会の基本原理が明確にされた。
ヴェルサイユ行進(10月5日) 戻る
封建制度廃止の法令と人権宣言に対して、ルイ16世は裁可を与えようとしない。国王が裁可しないかぎり、これらは発効しないため、パリ市民は、国王の態度に激しい怒りを抱いていた。かわりに、1000名にフランドル連隊を王宮の防衛強化によびよせようとした。10月1日到着したフランドル連隊の歓迎宴会で、軍人たちの言動が誇大に報道されたことから、民衆の怒りが沸騰した。
10月5日早朝、主婦を中心とする数千人の群衆は、国王ルイ16世にパンを要求するために、ヴェルサイユヘの行進を始めた。婦人たちの行進。そのあとに国民衛兵・他の市民もあわせて、2万にのぼる大行進となった。雨と泥にまみれたデモ隊は、ヴェルサイユに到着し、国王にパンの供出を約束させた。翌早朝、民衆の一部が王宮に侵入して流血の騒ぎとなり、民衆の要求で国王はパリヘの帰還を承諾する。ルイ16世と妃マリー・アントアネットら国王一家は、パリヘと連れ戻され、チュイルリー宮に入る。この事件ののち、国民議会もパリヘと移る。
1791年9月3日、フランス最初の憲法三権分立・一院制の議会、国王は議会の立法権に対して拒否権のみを有する。納税額による制限選挙制がとられた。財政難打開のため、アッシニア紙幣が発行された。
議会と国王の間は、ミラボーなどの仲介で一応の安定を得ていた。ミラボー死す。「王妃だけが王家のなかでただ一人の男だ」、気弱な国王。
だが、1791年以来反革命勢力はしだいに増大しつつあった。亡命貴族(ユミグレ)たちは、革命の波及を恐れるオーストリアなどの援助のもとに、コブレンツやマインツなどに集結して革命の打倒を画策し、聖職者たちは国内各地で反革命を扇動していた。
国王の逃亡計画 戻る
こうした状況のなかで、国王ルイ16世はひそかにパリを脱出して国外逃亡をはかる。1791年6月、チユイルリー宮の国王の寝台が空になっているのを発見。
サント=ムヌーの宿駅の駅長ドゥルーエはむかし近衛兵で、国王の顔を覚えていた。疑念をもった彼は村役場の仲間に相談し、村民を非常呼集した。そして、王家を追い越してヴァレンヌについたドゥルーエは、居酒屋に飛び込んで事情を説明した。たちまちのうちに、橋に通行止めのバリケードが築かれ、国王一行は沿道の群集の怒声のなかをパリに引き返さざるを得なかった。これで、国王が外国と通謀していることがはっきりした。
国王逃亡事件で衝撃をうけたオーストリアのレオポルト2世は、プロイセンと共同でピルニッツ宣言を発した。フランスにおける秩序再建のため、必要とあらば軍事行動を取る、と武力干渉を示唆した。フランス人はこれを文字通りにとり、戦争が切迫していると考えた。
1791年9月憲法制定会議は解散し、10月には立法議会が開会された。新人のみ(前議員は再選禁止)からなるこの議会は、右翼のフィアン派(自由主義貴族や上層ブルジョワジーで、ほとんどが大地主)、中間派、左翼はその指導者の名前をとってブリソ派とよばれ、のちジロンド県選出の議員が多かったのでジロンド派(商工業ブルジョワジーとの結びつき)と名づけられることになった。
92年をむかえると、亡命貴族が軍隊を国境に集結しはじめるなど、内外の危機がしだいに深まった。そこで、この頃議会をリードし始めたジロンド派は、2月亡命貴族の財産没収をするとともに、戦争によって反革命を駆逐し、かつ自己の権力を強化しようとした。
国王が戦争を拒否しなかったのは、フランスの敗北による反革命の成功をひそかに期待したからである。
4月20日、国王はオーストリアへの宣戦布告を提案し、ほとんど満場一致で承認された。
ラ・マルセイエーズ 戻る
フランス軍のモットーは「敗北か、しからずんば潰走」とバカにされた。もともと軍の幹部は戦う意志はなかった。前線では、オーストリアの同盟国プロイセンの軍隊が、フランス国境に切迫しつつあった。ジロンド派は議会で、「祖国は危機にあり」との非常事態宣言を発した。
義勇軍はぞくぞくとパリに到着してきた。
「いざ、祖国の子らよ。栄光の日は来た・・・」(ラ=マルセイエーズ)は、ことき、マルセイユ連盟兵が勇壮に歌いながらパリに入城してきたものである。
「ラ・マルセイエーズ」フランスの国歌である。ある将軍は言った。「私は、戦闘に勝った。この歌が、私とともに、勝利の指揮をとってくれた」と。あのナチスとの戦いにあって、レジスタンスの勇気ある者たちは皆、この曲を歌いながら戦った。
8月10日、連盟兵をまじえた民衆はチユイルリー宮にデモをかけはじめる。
やがて数をました群集は王宮に侵入し、守備兵とのあいだに戦闘がはじまった。貴族や守備兵など王宮側の死者は約800人。デモ側の死者は373人。
この一部始終を、王宮に接したカルゼル広場の家具商の店先から注意深く眺めていた一人の士官があった。彼は抵抗もなく退避する国王に対して「あのばかめ」とはきだすようにつぶやいた。ナポレオンであった。ナポレオンの軽蔑は群集におめおめと屈服した点にむけられていたのである。
戦闘の決着がつくと、デモの圧力におされて議会は王権の停止と新憲法をつくるための国民公会の召集を決定する。そのうえ、国王一家をタンプル僧院の塔へ幽閉する。事実上の王政廃止を意味した。
ヴァルミーの戦い 戻る
前線の将軍たちのサボタージュのもとに、戦況はいちだんと悪化。8月23日にロンウィが陥落した。この急報をうけて、パリは義勇軍を募集し始める。
将軍を更迭し、義勇軍を加えて陣容を立て直したフランス軍は、9月20日ヴェルダン西方のヴァルミーで対決した。
敵の歩兵の進撃をむかえたケレルマンは、帽子を剣の先につけ、「国民万歳」と叫びながら兵士の間を激励していった。「ラ=マルセイエーズ」の合唱がフランス軍から湧き上がる。
ゲーテはワイマールから当時フランスに侵入していたプロイセンとオーストリアの連合軍の一員としてフランスと戦っていた。9月20日、フランス軍はドイツ連合軍をヴァルミーで破った。戦いのあと、うち沈んだ戦友たちも車座を組んでいた。ゲーテは、予言するかのように、その日の出来事の意味を一同に語った。
「今日、ここで世界史の新しい時代がはじまったのだ。いつか君たちは、それが誕生したとき、その場にいたのだということに気づくであろう」。
「ここから新しき歴史が始まる」
「この地から、しかも今日から、世界歴史を画する一つの新しい時期が開けるのだ」。文豪ゲーテの感嘆〈「滞仏陣中期」『ゲーテ全集』第十二巻所収、〉永井博、味村登訳、潮出版社〉
ゲーテが見たのは、今から約二百年前の一七九二年九月。有名な「ヴァルミーの戦い」―ヴァルミーと呼ばれる丘での戦闘があった。
この時、フランス周辺諸国の連合軍は、「フランス革命」の台頭を押しつぶそうとしていた。国境を突破し、首都パリに襲いかかろうとした。その最中の戦いである。連合軍(プロシア軍)は、当時、ヨーロッパで随一の強さを誇る、貴族の軍隊。十分な武器もある。勝つに決まっていると、傲り高ぶっていた。
一方、最強の敵を迎え撃つフランスの革命軍には、正規軍とともに、義勇兵が、たくさんいた。連合軍は、「浮浪者」たちの集まりとバカにして、「脅せば、庶民ともは逃げ去っていくだろう」と、たかをくくっていた。
連合軍は、激しい砲撃を浴びせた。しかし、フランス軍は屈しなかった。ここで自分たちが敗れてしまえば、革命は挫折し、貴族たちの天下だ。庶民は、また馬鹿にされる。「自由」「平等」「友愛」という革命の理想もなくなる。それでは、あまりにも不幸だ―そういう覚悟であったかもしれない。庶民の英雄たちは「革命精神」で武装していたのである。
フランスの慣れない新兵の中には、最初は砲弾に驚き、たじろいで逃げようとする者もいた。しかし、歴戦のケレルマン将軍がいた。五十七歳。将軍は厳然として、こう叫んだ。「一歩も引いてはならない!私は、ここにいる!君たちと、ともに!」。将軍は、皆を励ましながら、態勢を立て直して前進していった。
ヴァルミーの戦いは、「庶民と貴族の戦い」と呼ばれた。勢いを増す義勇兵たちは、戦いのさなか、大地を揺るがす大歓声をあげていった。「国民万歳!」「民衆万歳!」。どんな爆音があろうが、砲弾が来ようが、叫んだ。怒濤のごとく。雷鳴のごとく。 「国民万歳!」「民衆万歳!」。〈何万というフランス軍が、サーベルや銃剣の先に帽子を乗せ、それを打ち振りながら、叫び続けた〉
敵は驚いた。動揺し、足をとめた。民衆の朗らかさ。恐れなき心意気。これが勝利の源泉である。そして、悪天侯と病気と食糧不足に悩む連合軍のほうが、ついに撤退するにいたったのである。
革命の激化 戻る
1793年の春以来、政治情勢は急速に進んだ。
2月14日、戦争に備えて30万人の募兵が布告されたが、事実上の徴兵に等しいこの処置は、ヴァンデ地方の農民暴動。忌避僧侶、貴族たちは、これを利用して反革命的な内乱に発展させた。
6月2日、労働者は武装して、8万の軍隊がチユイルリー宮を囲んだ。国民公会は、ジロンド派の29人の幹部を逮捕することを承認した。ジロンド派とモンターニュ派の闘いは。パリに関する限り終わりを告げた。
ジロンド派の議員の多くは地方に逃れ、パリに対する反乱をはじめた。
ジロンド派の宣伝に動かされたノルマンディーの一女性シャルロット=コルデがパリにきて、マラーに面会を求め、浴室でマラーを刺し殺した。モンターニュ派の巨頭の一人が失われた。
ヴァンデの反乱はなお続いており、外国軍は国境を突破し始めていた。
1793年の憲法
その実施は緊急事態の故をもって棚上げにされた。ルソー的な民主主義を基調としている。それはモンターニュ派の理想を物語るものではあったけれど。
恐怖政治 戻る
1793年から、深刻な対立がはじまった。
右派はダントンを中心として、独裁の緩和・寛容政策を主張したのに対し、左派はエベールを中心に、反革命派とその容疑者に対する断固とした処罰と経済統制の強化を要求した。
公安委員会が1793年4月に、保安委員会が92年10月に、革命裁判所が93年3月に創設された。恐怖政治を支えた中心的機関。9月17日の反革命容疑者法によってギロチンの時代が始まった。宣誓拒否聖職者、外国や亡命貴族との共謀、穀物の買い占め、反乱参加などの容疑者が逮捕され、ギロチンにかけられた。10月にはジロンド派が、11月にはロラン夫人や最初のパリ市長だったバイイが、そして1794年3月24日には左派のエベール派が、4月6日には右派のダントン派が処刑された。
革命の指導者として活躍したダントン(35)は、現実主義的な妥協の政治家だった。革命前は弁護士だったが、革命開始とともに、パリのコルドリエ地区で活躍し、1790年にコルドリエ・クラブという政治的なクラブをつくった。彼の力は、大胆な政策と扇動にあり、1792年8月10日の蜂起を成功させた。ダントンは国民公会に選出され、1793年4月公安委員会に加わるが、7月解任される。ロベスピエール派の革命政府独裁が強化されると、その阻止に回ったためである。ついに94年3月逮捕され、4月2日から裁判が開始された。4月4日、ダントンが持ち前の雄弁と人気の高さで無罪になるのではないかと恐れたサン・ジュスト(27)は、ダントンの弁明を封じる法令を可決させ、4月5日死刑の判決を下し、ただちに処刑された。
プレリアル法の施行後、恐怖政治はさらに猛威をふるう。革命裁判所では、1793年4月6日から94年6月10日までの430日間に下した死刑判決が1251件なのに対し、6月11日から7月27日までのわずか47日間で1376件の死刑判決を下している。
戦局の好転
1793年の夏以来、65万人の軍隊が内外でたたかった。
前線ではカルノーの作戦が効果をあげ、イギリス軍の包囲からダンケルクを解放し(9月)、オーストリア軍とプロイセン軍を後退させた。ヴァンデの反乱も壊滅させた。
1794年6月26日、ジュルダン将軍(32)率いるフランス共和国軍は、ベルギー国境の村フルーリュスでコーブルク元帥指揮下のオーストリア軍を撃退した。コーブルク元帥は、18万5000人のオーストリアの精鋭部隊をベルギー国内に展開し、リール侵攻をねらっていた。しかし5月18日、ピシュグリュ中尉率いる共和国軍がトゥールコアンで勝利を収め、元帥の野望をくじいた。そしてこの日、ジュルダン将軍は総数8万の兵を率いてフルーリュス村の近くでコーブルクの軍を背面攻撃し、みごとに勝利を収め、ベルギーからの退却をよぎなくさせたのである。戦闘は、朝の4時前から14時間も続き、双方の戦死者それぞれ約5万という激闘だった。このとき、はじめて熱気球が偵察に利用された。
テルミドールのクーデタ 戻る
1794年7月28日、午後7時ごろ、国民公会議長ロベスピエールは、その仲間とともに断頭台に上がった。前日、国民公会の議場は騒然たる雰囲気に包まれた。正午ごろ、公安委員会の一員でもあるビョ・ヴァレンヌ(38)が、ロベスピエールに対する弾劾を開始したからである。ロベスピエール派非難は数時間にわたって続けられた。こうしてロベスピエールは、「暴君くたばれ!」という怒号と混乱のなか、弟のオギュスタン、サン・ジュスト、クールトンらとともに逮捕された。これに対し、パリ・コミューン総評議会が国民公会への蜂起をパリ市民によびかけた。警鐘が鳴らされ、48のセクションに対して国民衛兵派遣の命令が出された。これにこたえて市庁舎前のグレーヴ広場に兵を派遣したのは、わずか16セクションにすぎなかったが、それでもこのときコミューン勢力は優勢だった。
一方、国民公会は午後7時に再開され、ロベスピエールらを「法の外におく」(裁判なしで処刑する)ことを決定し、各セクションに支持を求めた。多くのセクションが国民公会への支持を鮮明にした。これに対してロベスピエールは、グレーヴ広場の部隊になんの行動命令も下さなかった。グレーヴ広場の兵士たちは、命令もなく雨も降り出すという状況のなかで、この日の午前1時には広場から姿を消してしまった。午前2時ごろ、国民公会側の部隊が市庁舎に押し入り、ロベスピエールらを逮捕した。そしてこの日の夕刻、ロベスピエールらは、処刑された。
逮捕時、ロベスピエールはあごを負傷していたが.これがピストルによる自殺未遂の傷なのか、兵士に撃たれたものなのかは、わかっていない。
ロベスピエールが市庁舎の一室で署名しようとしていた書類に「RO」と書いたとき逮捕の兵士が入ってきたため、終わらざる署名が残されている。
【旧制度の矛盾】
A フランス革命前の社会
1 (1 )(旧制度)の矛盾
@ 第1身分 − (2 )
A 第2身分 − (3 )
第1・第2身分は、多くの土地を所有、官職を独占、免税などの特権
B 第3身分 − (4 )(人口の9割)
大部分は農民 − 領主への貢租と重い国税
商工業者や自由職業者 − 政治的無権利、自由な活動を束縛
B 思想的影響
(5 )の思想(旧制度の矛盾指摘) → 革新の気風
イギリス立憲政治の確立、アメリカ独立革命の成功
【革命の勃発】
A 財政の破綻
1 ルイ14世、ルイ15世時代のたび重なる戦争、贅沢な宮廷生活
→ ルイ16世の代に国家財政ゆきづまる
2 国王の財政改革
(6 )(重農主義者)・・(7 )(銀行家、平等課税を主張)・カロン ヌらの財政改革のこころみ
→ 特権身分の反対で失敗(名士会、高等法院の法服貴族が中心)
→ (8 )の召集を要求(「貴族の革命」)
B (9 )の開催(1789年5月)(1615年以来、開かれず)
1 アベ=シェイエス、「第3身分とは何か」を出版
2 議決方法をめぐり対立
→ 第3身分は分離して、(10 )と称する
3 「11 」 = 憲法制定まで解散せずと誓う
→ 憲法制定をめざし、憲法制定議会と改称
→ 国王ルイ16世、武力で議会弾圧の動き
→ 1789年7月14日、パリ民衆は(12 )を襲撃
= 革命開始 → 全国波及
C (13 )議会の時代(1789年6月〜91年9月−2年間)
1 (14 )の廃止宣言(1789年8月)
→ 封建地代は有償廃止、解放された農民は少ない
2 (15 )を採択(1789年8月)
(16 )らが起草
→ 自由平等、主権在民、言論の自由、(17 )の不可侵
3 パリ市民の(18 )行進(1789年10月)
→ 国王をパリに移す。国民議会もパリにうつる
4 国民議会の改革
@ 行政区画を改める A 教会財産を没収 → アシニア紙幣を発行
B ギルドを廃止 C度量衡の統一 Dル=シャプリエ法制定(労働者団結禁止)
→ ミラボーやラファイエットなどの立憲君主主義者が国民議会を指導
【共和政の樹立】
A 革命の激化
1 (19 )の死(1791年4月) → 反革命の動き活発
2 (20 )事件(1791年6月、国王のオーストリア逃亡事件)
→ 失敗。国民の王に対する信頼を失わせる
3 (21 )宣言(1791年8月)
神聖ローマ皇帝(オーストリア王) レオポルト2世とプロイセン王が革命に干渉
4 1791年憲法を制定(1791年9月)
一院制の(22 )を定め、選挙権を有産市民に限る制限選挙
B (23 )議会(1791年10月〜92年9月、1年間)
1 憲法制定議会を解散、新憲法による選挙 → 立法議会
→ (24 )派(立憲君主主義)と(25 )派(穏和共和主義)が対立
→ 諸外国の干渉と反革命の動きが活発
2 (26 )派内閣、オーストリアに宣戦
→ オーストリア・プロイセン軍がフランスに侵入
→ 義勇軍がパリに集結(「祖国は危機にあり」を宣言)
「ラ=マルセイエーズ」(現フランス国歌)を歌う
3 (27 )事件(1792年)
パリ民衆・義勇軍がテュイルリー宮殿を襲い、ルイ16世を逮捕
議会は王権を停止 → 男子普通選挙による国民公会の召集
C (28 )(1792年9月〜95年10月、3年間)
1 (29 )の戦い → 義勇軍の最初の勝利(1792・9・20)
2 王政の廃止、第一(30 )政の成立
【ジャコバン派の独裁】
A ジャコバン派(急進共和主義)の台頭
1 指導者 − マラ−、ダントン、(31 )
→ 下層市民や農民が支持
2 国王(32 )処刑(1793・1)、フランス軍のベルギー占領
→ 第1回(33 )結成 − 英首相(34 )提唱
3 ジロンド派を追放 → (35 )派の独裁
@ (36 )憲法(1793年憲法。施行されず) − 男子普通選挙
A (37 )の無償廃止(1793年7月)
→ (38 )の形成
B 物価統制・徴兵制・革命暦・キリスト教廃止と理性崇拝の宗教・
(39 )法採用など
C (40 )会(執行機関)、保安委員会(警察機関)、革命裁判所を中心に
独裁制 = 恐怖政治
→ ジャコバン派への不満
4 ジャコバン派内部の対立 → (41 )の独裁
右派ダントン、左派エベールを処刑
B (42 )のクーデタ(1794年7月27日)
1(43 )の処刑。恐怖政治のおわり
→ 穏和共和主義者が有力
2 クーデタの背景
@ 貢租の無償廃止で土地をえた小土地農民の保守化
A 経済活動の自由を求める商工業市民の不満
【総裁政府】
A 総裁政府の成立(1795〜99年、5年間)
1 (44 )憲法を公布、(45 )公会解散
→ 総裁政府(二院制と5人の総裁)
2 混乱がつづく
@ 亡命貴族・王党派の策動
A (46 )の陰謀(1796年)
私有財産の廃止。政府転覆計画 → 失敗
B ナポレオン登場の背景
有産市民や土地をえた農民は社会の安定を希望
→ 社会秩序を回復させる軍隊指揮者への期待が高まる
→ ナポレオン登場の背景
☆ 重要語句
市民革命 旧制度 第1身分 第2身分 第3身分 三部会 ルイ16世
テュルゴー ネッケル 国民会議 バスティーユ襲撃 封建的特権の廃止宣言
人権宣言 ヴェルサイユ行進 ヴァレンヌ事件 1791年憲法 立法議会
国民公会 第一共和政 ミラボー ピットラファイエット 第1回対仏大同盟
ジロンド派 ジャコバン派 公安委員会 革命裁判所 恐怖政治
封建的領主権の無償廃止 ジャコバン憲法 革命暦 理性崇拝
テルミドールのクーデタ 総裁政府 共和国3年の憲法 マラー
ロベスピエール ダントン バブーフ
☆ 重要年代
フランス革命の開始 人権宣言の発表 第一共和政の成立
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