ナポレオン

 

   
 
 ナポレオンの登場  エジプト遠征  統領政治  第一帝政
 プロイセンの挑戦  大陸封鎖令  ロシア遠征  ワーテルローの会戦  
   

 ナポレオンの登場   戻る
 「私の生涯にまさる小説があるだろうか」  
 34歳でフランス皇帝、38歳で全ヨーロッパに君臨、45歳で没落、51歳で大西洋上の孤島で死。
   
 1769年コルシカ島で生まれる。フランスの士官学校をむしろ不良な成績で卒業し、ロベスピエールの弟オーギュスタンの知遇を得て将軍となる。わずか25歳で少将となる。
 テルミドールの反動のとき、ジャコヴァン党員として一時投獄されたが、1795年10月5日「ヴァンデミエール事件」という王党派の反乱を鎮定して、イタリア方面軍総司令官に任命された。
 イタリアでの戦闘はオーストリア軍が相手であった。「ナポレオン戦法」といわれる食料現地調達の軽快な戦闘指導は、旧式なオーストリア軍を圧倒した。そして、何よりの収穫は、ナポレオンは指揮官として兵士たちから絶大の信頼をうけたことであった。
 1797年秋、カンポ=フォルミオ条約でオーストリア領ネーデルランド(ベルギー)を割譲させるという大成功をおさめ、パリに帰ったナポレオンはフランスで一流の人物になっていた。
 
 これからさきのナポレオンは歴史上まれにみる英雄である。
 1800年5月有名な「アルプス越え」は革命家を歌う4万の兵士のアリのような営みで成功した。1門の大砲に100人の兵がつき、雪と氷の危険な山道をよじ登り、さらに危険な下り坂をおり、北イタリアの平野にあらわれた。ついで、7月「マレンゴの戦い」におけるオーストリア軍に対する勝利である。
 
 ルソーは、その著「社会契約論」のなかで、「漠然とした予感なのだが、私はいつかコルシカ島がヨーロッパ中を脅かすだろう、という気がしてならない」。ナポレオンの生まれる7年も前のこと。
 
 1769年、イタリアのジェノヴァ領からフランスに占領されたばかりのコルシカ島に生まれた。彼の父ははじめコルシカ島独立運動に従事。やがて支配者フランスに迎合し貴族の仲間入り、ナポレオンはそのおかげでフランスの兵学校に入ることができた。
 士官学校卒業の成績は、58人中42番。数学と歴史には抜群の才能をみせた。
 1789年にフランス革命に際し、熱狂して迎えた。イギリスの後押しでコルシカの完全独立を主張する一派と衝突して敗れ、一家をあげてマルセイユに亡命。
 
 軍人ナポレオン
 ツゥーロン占領中のイギリス軍を破って、軍事的才能を発揮。25歳で少将に昇進。
 テルミドールの反動でロベスピエールの一味と見られて、1794年幽閉される。しかし、激動の時代が彼を放っておかなかった。
 1795年王党派によるヴァンデミエールの反乱が起こると、総裁政府は彼を鎮圧の指揮官とした。じつに際立った指揮で翌日には反乱軍を鎮圧した。
 
 社交界のマ名花で未亡人であった(恐怖政治のもとでギロチンの犠牲となったボーアルネ子爵の未亡人)ジョゼフィーヌと結婚(33歳でナポレオンより6つ年上であったが28歳といつわっていた)。
 結婚して2日後。彼はオーストリア軍と戦うため新妻のもとを離れた。
 
 彼は兵力の集中、敵陣の中央突破、白兵戦などの新しい戦術を駆使してオーストリア軍を圧倒。ナポレオン軍の怒とうの進撃。北部イタリアを征服。
 ナポレオンは、オーストリアへの進撃を開始し、ウィーンを脅かした。ナポレオン来たるとの報せに驚いたオーストリアは、フランスとの和平交渉に入り、1797年4月レオーベンで休戦の仮協定をした。
 10月7日、全権を委任されたナポレオンは、カンポ=フォルミオにおいてオーストリアと和平条約を結んだ。
 
 エジプト遠征   
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 1798年5月19日、ナポレオンは戦艦60隻、輸送船280隻、将兵38,000、水兵1,6000をこす遠征軍をつれて、こっそりとトゥーロン港を出発した。目的地はエジプトである。大陸に平和がよみがえった今、唯一敵はイギリスであった。しかし、制海権をもつこの国に対し、本土上陸作戦は不可能であった。そこで、ナポレオンが総裁政府に進言したのがエジプト遠征であった。
 イギリスのインドへの道を封じようというのである。200人近い学者が同行。古代エジプト学が一段と進む。
 7月1日エジプト上陸。
 「兵士らよ、このピラミッドの上から、4000年の歴史が諸君を見ている」というナポレオンの激励の言葉にはじまるトルコ騎兵軍団との「ピラミッドの戦い」はフランス軍の圧勝。そのままカイロ入城となった。
 しかし、それから1週間後の8月1日、フランス艦隊はアブキール湾でネルソンのイギリス艦隊の襲撃を受うけ、全滅に近い打撃をうけた。これで遠征軍は孤立してしまった。
 ヨーロッパ各国は、イギリスがフランス艦隊を撃滅するや、それをきっかけに第2次対仏大同盟が結成(イギリス、トルコ、ロシア、オーストリア)。
 1799年になると、フランス軍は各地で敗退したのである。ナポレオンはエジプトにいて身動きできない。イタリアはすべて崩壊し、フランス国境あたりで戦線は膠着状態となった。
 ナポレオンがイギリスの封鎖を破って、フランスへもどる決心をしたのは、このような時である。8月23日、ポレオンは部下のクレーベルに後事を託し、少数の幕僚や学者のほかには、500人だけの兵士を連れて脱出した。10月9日フレジュスに上陸。そこに「無敵の人」が帰ってきたのだから、熱狂的な歓迎の嵐とあった。「ナポレオン帰る」の知らせに感激して、心臓麻痺を引き起こしショック死した議員もあったという。
 
 統領政治   
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 ブリュメール18日のクーデタ
 総裁政府は解体。軍隊の実力行使。3人の統領が選ばれた。
 
 1800年5月、ナポレオンは2度目のイタリア戦争を決心。有名なアルプス越えはこの時のことである。
 ナポレオンはジェノヴァに布陣していたオーストリアの裏をかき、吹雪のサン=ベルナール峠を越えて、いっきょに入城した。
 
 6月14日、両軍はマレンゴ平原で衝突した。結果はフランス軍の圧勝。
 もはや戦力を使い果たしたオーストリアは、翌1801年2月19日リュネヴィルで屈辱的な和平条約を調印した。第2次イタリア遠征はみごとに成功し、ナポレオンの権力はゆるぎないものとなり、第2次対仏大同盟も自然消滅したのである。
 
 イギリスの首相ピットは、戦争継続を主張していたが、主戦論者ピットが退きかわって和平論者のアディトンがあとをついだ。
 1802年3月25日、宿敵の両国間で「アミアンの和約」が結ばれた。しかし、ナポレオン自身、この平和が長続きしないと感じていた。フランス優位をイギリスがいつまでも放置しておくわけがなかった。それは、ピットも同じであった。
 
 さて、ナポレオンは、国民の熱狂的な信望を背景に、人民投票の結果1802年8月終身の統領となった。
 
 第一帝政   
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 ナポレオン法典。「私の真の栄誉はいくたびもの戦いの勝利ではない。・・・永久に生きつづけるものは私の民法典である」。
 1804年5月、人民投票によってナポレオンは皇帝の称号を得て、ナポレオン1世となる。34歳の青年皇帝。
 
 同時代の偉大な作曲家ベートーヴェンは、帝政宣言の報せを聞くと、「第3交響曲」のナポレオンへの献辞のページを引き裂いたという。その時、「彼もまt、ふつうの人間にすぎなかったのか」という言葉ほど、ナポレオンの限界をついたものはない。
 
 1804年12月、ナポレオンの戴冠式。ピウス7世を招いてノートルダム大聖堂でおこなわれた戴冠式の様子は、ダヴィッドの絵でうかがうことができるが、人物の表情は一様ではない。
 ナポレオンは教皇の手をかりず、自ら帝冠を自分の頭にいただいたという。
 
 ピットは1804年再び首相になった。ピットの復帰によって、フランスに対抗して同盟をつくる気運がもりあがった。1805年、ロシア・イギリス・オーストリア・プロイセンの間に第3次対仏大同盟が結ばれる。
 
 ナポレオンの構想
 イギリス艦隊をヨーロッパから遠い地点に引き寄せたうえ、イギリスと目の鼻の先のブーローニュに軍を集結するというもの。3月、ヴィルヌーヴ提督は、トゥーロンを出発して途中スペイン海軍の補強をうけて西インド諸島に到着。イギリス艦隊の追撃をかわして、7月帰途についた。しかし、フィニスラール岬で、イギリス艦隊と戦闘に入り、カディスに逃れた。
 10月21日、トラファルガー海戦でヴィルヌーヴがネルソンによって壊滅させられた。もはや、海上にフランス海軍は存在しなかった。
 
 12月2日、アウステルリッツでオーストリア・ロシア連合軍と大会戦。この勝利は彼にとって最大のものであった。ロシア皇帝アレクサンドル1世はあわててロシアにもどった。
 12月6日、ナポレオンはカンポ=フォルミオ、リュネヴィルにつづく3度目の和平条約をオーストリアに調印させた(プレスブルクの和約)。
 
 1806年7月、ライン同盟。16のドイツ国家が神聖ローマ帝国から分離することを宣言。ナポレオンは同盟の後見人となる。ライン同盟が成立して、神聖ローマ皇帝フランツ2世は帝位を放棄した。しかし、1804年以来のオーストリアの世襲皇帝の称号はフランツ1世の名で保持した。
 
 プロイセンの挑戦   
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 プロイセンのフリードリヒ=ヴィルヘルム3世はドイツにおけるナポレオンの領土拡大に対して、戦う以外に道はないと判断した。9月26日、プロイセンはナポレオンに対して、ライン左岸の明渡しを求める最後通牒を送った。
 10月14日、イエナでナポレオン軍はプロイセン軍を破り、10月25日にはナポレオンはベルリンに入った。
 1807年2月8日、ナポレオンはアイラウにロシア軍を破ったが、決定的な勝利とはいえなかった。6月14日、ロシア軍をフリートラントに破ったため、ロシアは休戦を求めざるを得なかった。
 ナポレオンとアレクサンドル1世はティルジットで会見し、7月7日に和平条約を結んだ。プロイセンは領土を縮小され、エルベ川の西の諸州はジェローム=ボナパルトを王として、新しいウェストファリア王国が形成された。そして、ポーランドのプロイセン領はワルシャワ大公国となった。
 
 大陸封鎖令(ベルリン勅令)   
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 ナポレオンがベルリンについた直後の1806年11月「ベルリン勅令」が発せられた。イギリスとその植民地から来る船に対して、すべての港の閉鎖を義務づけた。イギリスに対する経済封鎖。
 ヨーロッパは二者択一を迫られた。ナポレオン側につくか、敵にまわるか。
 大陸封鎖は、イギリスを経済的に苦しめるとともに、フランスの産業を繁栄させようというユニークな政策であった。
 しかし、海上権を握るイギリスは、フランスとその同盟国に対する逆封鎖で対抗し、新大陸との貿易で必ずしも大きな打撃をうけなかった。しかも密貿易がおこなわれ、大陸からイギリス商品をしめだすことはできなかった。
 しかも、イギリスとの貿易を絶たれたヨーロッパ諸国を苦しめるものとなったから、それらの諸国のフランスに対する反抗を招いた。結果的には諸国の反抗を招いて、ナポレオンのヨーロッパ支配を動揺させる結果となった。
 
 スペインのゲリラ戦
 フランスに対する民衆の蜂起が拡大。イギリスはナポレオンに対抗すべくポルトガルに軍隊を上陸させた。
 
 1809年はじめ、オーストリアが動く。7月ワグラムの戦いで、オーストリア軍を破る。10月シェーンブル条約でオーストリアの領土は縮小され、多額の賠償金を支払う。
 
 こうして勝利をおさめたナポレオンは、帝国を強固なものにするため、後継者の問題を片付けようとする。1809年12月、息子を産めなかったジョゼフィーヌを離婚。1810年2月、オーストリアの皇女マリア=ルイザと結婚。翌年、ナポレオンにはじめて息子が誕生した。
 
 ロシア遠征   
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 ナポレオンとアレクサンドル1世の対立は、大陸封鎖をめぐって決定的となった。1810年12月31日、アレクサンドル1世は、ロシアのすべての港を開くこと、陸上経由でロシアに輸送されるフランス商品に課税することを命じた。これはロシアがイギリスに手を差しのべたことを意味している。ナポレオンはこれを黙認しているわけにいかなかった。
 1811年、ナポレオンとアレクサンドル1世がともに外交と戦争準備に費やした1年であった。
 1812年6月24日、ナポレオンがロシア国境をこえる。彼はロシア軍の追撃を開始したが、ロシア軍は野戦に応じようとせず、広野のかなたに退却していった。このとき、短期間で決着をつけようとするナポレオンの期待ははずれた。
 そのためナポレオン軍は困窮におちいった。補給線はのびきり、フランス軍は占領地からの物資補給に頼るが、ロシアの地が提供できる物資はほんのわずかであった。
 
 8月16日から18日のスモレンスクの戦いは、血みどろの戦闘にあけくれ、勝負がつかなかったが。このあとフランスの戦闘可能な軍勢は16万人に減っていた。
 ナポレオンはモスクワを占領すればアレクサンドル1世は譲歩するという確信があった。モスクワを目前にした、ボロジノの戦い。
 
 ボロジノ・パノラマ博物館。ロシア軍とナポレオン軍が戦った「ボロジノの戦い」の戦闘風景を、そのまま再現した巨大なパノラマ画。このパノラマ画は、縦十五メートル、横百十五メートルという壮観なものであった。「ボロジノの戦い」とは、一八一二年九月七日、モスクワの西百二十四キロにあるボロジノという村で行われた、ナポレオン軍とロシア軍との戦いである。そのときナポレオン軍十三万五千、ロシア軍は十二万であったと伝えられる。ナポレオンは、一生のうち六十回もの戦いをしている。そのなかでこの「ボロジノの戦い」は、彼をして"生涯最大の戦闘"と言わしめるほど苛烈なものであった。犠牲者は、一説によれば、ナポレオン軍三万、ロシア軍三万五千といわれる。この戦いは双方とも「わが軍勝利」としているが、実際には勝敗はつかなかった。ただ、この戦いで、ナポレオン軍の〃無敵"の神話は崩れたといってよい。ともかく、祖国を守ろうとするロシア軍の士気は高かった。トルストイの名作『戦争と平和』で述べられた「戦いに勝つのは、必ず勝とうと堅く決心した者だ」(米川正夫訳、岩波文庫)との一文は、この「ボロジノの戦い」に臨んだロシア人の心意気でもあった。
 「ボロジノの戦い」のあと、クトゥーゾフ将軍の率いるロシア軍は撤退する。そして最後の勝利を得るために、クトゥーゾフ将軍はモスクワを明け渡すという大胆な作戦をとる。ナポレオン軍はロシア軍の撤退した翌日、モスクワに入る。しかし住民のほとんどはロシア軍とともに疎開。その日の夜から大火が起こり、モスクワは焦土と化す。その後、一か月余、ナポレオン軍はなすすべもなくモスクワに滞在する。しかし、迫りくる飢えと"冬将軍"(寒さ)に、さすがのナポレオンもいかんともできず、ついにモスクワから退却する。今や後退に後退を続けるナポレオン軍。だがクトゥ:ゾフ将軍に率いられたロシア軍の追撃、更に飢えと寒さのため壊滅的敗北を喫し、パリに帰還した兵は、わずか二万ないし三万といわれている。
 「ボロジノの戦い」は、九月七日の夜明けから夕方まで十五時間に及んだ。パノラマ館では、そのなかでももっとも戦闘の激しかった正午すぎ、十二時三十分の瞬間をそのまま再現している。パノラマの舞台は、陽光のふりそそぐロシアの黄金の秋である。空は抜けるように青く、地平線の彼方まで広がる緑野には森が点在し、一輪草も見えかくれする。川は音を立てて清例に流れている。そののどかな自然のなかに、二十五万もの人間たちの修羅の戦場が、壮大な絵巻として、絵と模型を使って克明に描かれている。
 ロシア軍の総司令官クトゥーゾフ将軍は、ボロジノの戦いの折、兵士たちに次のように呼びかけた。「あなた方が成し遂げた偉業と功績は消えてしまうことはないであろう。子孫が記憶にとどめるであろう。あなた方は、自らの血をもって祖国を救った……」と。
 ナポレオンを撃退したロシアのクトゥーゾフ将軍は、じつに多くの人々から慕われていた。だが、ロシア皇帝アレクサンドル一世からは、どういうわけかうとんじられた。一八〇二年には、クトゥーゾフ将軍はいったん退任をさせられる。また一八〇五年、当時のオーストリアのアウステルリッツで、司令官として派遣されたクトゥーゾフはナポレオンに敗れる。しかしその背景には、皇帝アレクサンドルの命令のため、クトゥーゾフが自らの考えた通りに指揮をとることができなかったという事情があった。この敗北の責任をとらされ、クトゥーゾフはそれから六年間も冷遇されたのである。ともあれ、皇帝はこの人望のあった将軍に好意をもたなかった。
 ところで一八一二年、ナポレオンがロシアに侵入、かってない苦境に立たされても、皇帝はクトゥーゾフを起用しようとはしなかった。しかしロシア軍が後退につぐ後退の戦況に陥り、ナポレオン軍がモスクワに迫ろうとするに及んで、やむなくクトゥーゾフを総司令官に任命せざるをえなかった。トルストイは、それは"ロシアの国民的感情がもたらした"としている。待望のクトゥーゾフの到着は軍隊内に新しい信頼を呼びさまし、士気が一気に高まった。そして「ボロジノの戦い」へと向かう。
 一方、クトゥーゾフが新しくロシア軍の総司令官になったことを聞いたナポレオンは、大いに喜んだと伝えられる。アウステルリッツの戦闘で、自ら戦い、勝った相手だったからである。ナポレオンも、クトゥーゾフの精神性は一応は評価していた。ただ、将軍としての指揮能力を"無能"と甘くみていた。ここにもナポレオンの"慢心"と"油断"があった。ナポレオンの心中に顔をのぞかせていた〃慢心"と"油断"。かたや"祖国を断じて守りぬく"との強い一念に貫かれていたクトゥーゾフ。
 この二人の一念の相違のなかに、その勝敗の帰趨は明らかであったといえよう。
 クトゥーゾフは、宮廷では「馬に乗ることもできなければ、会議でも居眠りばかりしている」(『戦争と平和』米川正夫訳、岩波文庫)などと批判されていた。にもかかわらず、広く民衆から信頼された理由は何か。トルストイは、クトゥーゾフは教養があって「フランスの諺を使ったりするにもかかわらず、どこまでもロシア人だからである」(同前)としている。
 ボロジノの戦いにおける両軍の指導者の年齢は、ナポレオンが四十三歳、クトゥーゾフが六十七歳であった。クトゥーゾフはその翌年に病没している。老将クトゥーゾフは、百戦錬磨の経歴の持ち主であり、かつ多くの外国語にも通じた教養ある人物でもあった。知力に富み、強い忍耐力をそなえた名将であった。
 クトゥーゾフは戦いぶりにも、深き人生と経験の年輪の輝きがにじみ出ていた。彼はつねに「時」が自身に味方することを信じた。この折の作戦でも、敵の消耗を待つという戦術を選んだ。はたしてその後の事態は、彼の信じた通りの結果となった。ご存じのようにナポレオン軍は、ロシアの"冬将軍"の厳しさに直面し、自滅の道を歩んでいった。
 トルストイは『戦争と平和』のなかで、クトゥーゾフをしてその哲学を次のように語らせている。老いたるクトゥーゾフが青年に対して語りかける。「忍耐と時─この二人の戦士より強いものはない」(米川正夫訳、前出)と。そしてその言葉通り、「時」を待ち、「時」をつくりゆく「忍耐」の力を発揮することによって、彼は強大な敵のカベを破り、勝利を収めた。
 これに対しナポレオンは、和平交渉をもっと早めに切り上げ、冬が来る前に引き揚げていればよかった。しかし彼には、かつての迅速な判断と対応がみられなかった。慢心にとらわれ、退くべきときには退くという「時」と「忍耐」の大切さを忘れていた。
 十九世紀のロシア最大の文芸評論家ペリンスキーは、ナポレオンのロシア侵攻に関連して、次のような言葉を残している。
 「一八一二年は、ロシア全土を震憾させ、眠っていた力を呼びさまし、これまで見られなかった新しい力を発揮させた。民衆の自覚と民族の誇りを呼びさました」と。つまり、ナポレオンの侵略という苦難が、ただ苦難であるにとどまらず、かえってロシアの民衆の潜在力を引き出す機会になったというのである。
 ボロジノ会戦のパノラマには、人と馬の、痛ましい死体の山が描かれるなど、まことに苛烈な悲惨極まる状況を写していた。かの『戦争と平和』のなかでも、会戦後のようすについて、印象的な描写がなされている。それは「朝日を浴びた銃剣の閃きと砲煙で、以前いかにも楽しげに美しく見えていた戦場」では、もはやなかった。血の匂いが漂い、やがて黒い雲が集まって小雨も、しとしと注ぎ始めた。「それはちょうど、『もう十分だ、十分だ。人間ども!やめろ……もう正気にかえるがいい。いったいお前たちは何をしているのだ?』とでもいうようであった」(米川正夫訳、岩波文庫)と。
 トルストイは、更につづる。「食もとらず休息もしないで疲れはてた両軍の士卒は、まだ互いに殺しあわなければならないのだろうか?という疑念を一様にいだきはじめた。(中略)『なんのために、また誰のために、俺は殺したり殺されたりしなければならないのだろう?(中略)俺はもうこれ以上いやだ!』夕方ちかくなったとき、この心持ちは人々の中で一様に熟してきた。今にも一同は自分たちのしたことに漂然として、何もかも投げ棄てたまま、どこでも足の向いたほうへ逃げ出しそうに思われた」(同前)と。戦場に倒れていった兵士たちの心情は、この文に描かれたままではなかったろうか。
 ボロジノの地は、この約百三十年後、第二次世界大戦でも、独ソ戦の激戦地となり、同じ悲劇を繰り返している。
 この戦いでフランス軍は3万人、ロシア軍は35,000人の兵士を失った。
 
 1812年9月14日モスクワに入ったナポレオンはペテルブルクのアレクサンドル1世に和平を申しいれた。しかし、彼はこの誘いにのらなかった。
 
 10月19日全軍に退却を命じた。天候は悪化し、雪が降り始めた。ロシア軍の司令官クツーゾフは、退却するフランス軍に攻撃をしかけた。
 
 ロシア戦役は大失敗に終わった。40万人の命が失われ、10万人が捕虜となった。ナポレオンは残った軍をミュラーに託すと、パリへ急いだ。
 
 ナポレオンはこの事態に対処するため、国民軍を集め、新たな軍を編成した。
 
 帝国の崩壊
 1813年6月27日、オーストリア・ロシア・プロイセンは同盟を結んだ。
 10月16日から19日までつづいたライプツィヒの戦いで、ナポレオンは決定的な敗北を喫した。こうしてドイツは解放され、12月5日、フランス軍はライン川を渡って帰らざるを得なかった。ついに大帝国の崩壊がはじまった。
 
 1814年、オーストリア・ロシア・プロイセンの同盟とイギリスが同盟。春にフランス国内に侵入した。ナポレオンは最後の勇敢な戦いを試みるが、3月31日同盟軍はパリに入城した。
 
 4月6日ナポレオンは無条件で退位し、11日にはエルバ島に流されることを承諾した。このとき彼は45歳であった。フランス王位にはブルボン家のルイ18世がもどる。
 
 ワーテルローの会戦   
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 1815年2月26日、エルバ島を脱出したナポレオンがフランスに上陸してパリに到着した。彼はパリで歓迎された。
 
 ウィーン会議は6月9日、大急ぎで最終的な決議を承認した。
 
 ユゴーは「レ=ミゼラブル」のなかでこういう。「1815年6月17日から18日にかけての夜に雨が降らなかったならば、ヨーロッパの未来は今とちがっていたであろう」。
 戦闘は11時30分に始まる。ブリュッヘルが5時にワーテルローの戦場にかけつけるだけの時間を与えた。なぜか、それは土地が湿っていたから、砲兵が動き出すために土地が固まるのを待った。大砲の優位、ウェリントン軍159門、ナポレオン軍240門。土地が乾いていたら、朝の6時に戦いは始まり、そして午後2時には終わっていたであろう。
 
 会戦の敗因
 さて、ロシアから敗走してきたナポレオンは、退位を余儀なくされ、一八一四年、エルバ島に流刑となる。しかし、まもなく島を脱出。パリで帝政を復活し、いわゆる「百日天下」が始まる(一八一五年)。そして、イギリス・プロシア連合軍との有名なワーテルローの戦いに敗れ、終幕を迎える。ナポレオンは、再び帝位を退き、セントヘレナ島へ流され(同年)、そこで没する(一八二一年)。ナポレオンにとって最後の敗北を決した"ワーテルローの戦い"が行われたのは、一八一五年六月十八日であった。一八一五年という年代は、日本でいえば江戸時代の後期にあたる。ちょうど、杉田玄白の『蘭学事始』の出版とほぼ同時期であり、ロシア、イギリス等の船が次々と訪れ、日本との通商を要求していた時代でもある。西洋との接触を通じて、医学など西洋学術の研究も行われるとともに、"海防問題"が大きな政治課題となり、開国への動きも始まろうとしていた時代であった。
 ワーテルローの会戦で、フランスの軍勢は、相手の連合軍のほぼ半分の勢力であった。しかし、装備や士気の面では、はるかに敵を凌いでいたともされ、ナポレオンも「勝利は私のものだ。百のうち、九十の勝算がある」(加瀬俊一、前掲書)と考えていた。それでも大敗を喫したナポレオンは、のちに流刑地のセントヘレナ島で、次のように回顧する。「宿命だったのだ。あの場合の事情を総合すると、おれが勝つべき戦争であったのだ」(鶴見祐輔『ナポレオン』潮文庫)と。フランス軍の敗因については、さまざまな分析がなされているが、だいたい次の三点に要約できよう。
 第一に、有能な人材がいなかった。第二に、過酷な状況で兵士を戦わせた。第三に、ナポレオンの命令がうまく伝わらず、作戦が後手、後手になったことである。
 まず「人材の不足」であるが、ナポレオンのもとには、彼とともに戦い、戦勲を重ねてきた元帥たちがいた。かつては若さと野望に満ち、大いに活躍したが、このころにはすっかり保守化し、多くが蓄えてきた財産を守ることに余念のない姿となっていた。そうした姿は、当然、若手兵士たちの不信をつのらせることになり、「つぎの戦役では、元帥たちは使わないでいただきたい」(長塚隆二、前掲書)との手紙が寄せられるほどであったという。変節の人生は自身の敗北ナポレオンも、腹心たちの堕落の姿に、気がついてはいたようだ。しかし、経験不足の後進の部下たちに指揮を託すことを不安に思い、昔からの元帥たちに、各軍の指揮を委ねたのである。その元帥の一人にネイがいた。ネイは、一度退位したナポレオンを裏切っていた。代わって即位したルイ十八世のもとに走り、忠誠を誓いながら、その後再びナポレオンにくみした、いわば豹変の徒であった。だがナポレオンは、彼を自陣の左翼軍の総指揮官に任ずるのである。
 ネイは、十九歳でフランス軍に入隊し、革命戦争に加わって武勲を立てた。その間は共和主義者であったが、ナポレオンの胎頭とともにナポレオン主義者へと豹変する。そして一八〇四年、最初の十六人の元帥の一人に選ばれ、その後の活躍はほんとうにめざましい。三十六歳のときにはオーストリア軍を撃破し、ウィーン入城への道を開く。そのあともプロシア、ポーランドで大きな戦功をあげ、"勇者のなかの勇者"ともたたえられた。しかし、ナポレオンの勢いの衰退とともに、ネイの背信の動きが始まる。一八一四年、連合軍がパリに入城し、ナポレオンが窮地に立たされるや、ネイをはじめ元帥らは、それまでの忠義の態度を変え、退位を勧める。君主であり、恩人であり、兵法の師でもあったナポレオンの恩義を忘れ、自らの栄誉や財産を守ることに腐心する。そしてナポレオンが退位し、エルバ島に流されると、ネイは即座にルイ十八世のもとに走り、生き延びようとするのである。更に、ナポレオンがエルバ島を脱出し、上陸したさいには、ネイは、ルイ十八世の前で「ボナパルト(ナポレオン)はわたしが引き受けました。あの野獣を攻撃してまいります!」(長塚隆二、前掲書)と胸をたたいたという。しかしその直後、ナポレオンの軍使が彼のもとを訪れると、再び心をひるがえし、ナポレオン軍に合流。ネイの背信はこうして数を重ねていった。ネイの、将軍としての戦いぶりは、どうであったか。それは、かっての精彩がまったくみられない、みじめなものであった。それもそのはずである。彼は、その直前に戦線に合流したばかりで、戦局の変化に通じてもいなければ、部下の幹部将校の顔すら、よく知らなかった。更に、その指揮ぶりは優柔不断であり、つねにナポレオンの心をいらだたせていた。しかし彼は、ネイを登用しつづけた。人材の不足は、だれの目にも明瞭であったといってよい。
 ワーテルローで敗れたあと、ネイはまたも背信の行為に出る。ナポレオンが再びの退位を決断する以前に、ネイはまたしてもナポレオンを裏切ってルイ十八世に身を寄せようとした。しかし、この変節が周囲に認められることはなかった。王党派も、彼の心根を熟知していたにちがいない。彼は結局、反逆罪をもって裁かれ、死刑を宣告され、一八一五年十二月、パリで銃殺されている。四十六年の人生であった。
 
 フランス軍のワーテルローの戦いにおける第二の敗因に、過酷な状況で兵士を戦わせた無理があげられる。ワーテルローの戦いの前日のことである。午後から豪雨が続いた。ナポレオン軍は、ワーテルローの南約七キロにあるブランスノワで一夜を過ごした。上級の幕僚たちは農場の二階で死んだように眠った。しかし将校たちは家の中にも入れずに、豪雨によって沼地のようになった路上で、体を寄せあって寝るという悲惨な状況であった。第一線の兵士といえば、外で立ったままぬれネズミとなり、一睡もできなかった者も多くいたという。そのうえ、道路状態の悪化から食糧の補給が遅れた。兵士たちは飢えに苦しみ、食をさがし回った。これでは十分な戦いを期待するほうが無理である。
 
 ワーテルローの敗戦は、ナポレオンの時代の終わりを決定づけた。その原因は、究極するところ、彼自身の一念の傲りにこそ最大の因があるといってよい。彼は肉体にも自信があった。一八一五年六月十七日、ワーテルローの決戦を前にして、ほぼ一日中、馬に乗りつづけて戦った。雨にもずぶぬれになった。そのなかでの進軍また進軍である。持病の痔と膀胱炎を再発するのは当然だった。四十代も後半の体である。いつまでも若いつもりで、二十代、三十代の時と同じに考えていては失敗する。これも慢心と油断の一つの表れであった。
 またナポレオンには「自分は百戦百勝の名将である。ヨーロッパには、自分に手向かいできる将軍は一人もいない」とのうぬぼれがあった。そこから強気な作戦に出た。しかしあまりに強引であり、繊密さに欠けていた。何より、ナポレオンの戦術自体が、すでに古くなっていた。彼の戦術は、なるほど当初は斬新であり、威力を発揮した。しかし、二十年間ヨーロッパ中を転戦するうちに、相手に研究しつくされてしまっていた。手のうちは知られ、各国の軍隊がナポレオンの戦術を取り入れていた。しかも彼自身は、その事実への自覚がうすく、同じ戦法での勝利を疑わなかった(鶴見祐輔、前掲書)。
 
 
 
 
 【ナポレオンとその帝国】
 A ナポレオンの登場
  → コルシカ島にうまれる。王党派の反乱を鎮圧して、総裁政府に信任
  1 イタリア遠征(1796〜97年)
 オーストリア軍を破り(カンポ=フォルミオ条約)、第1回対仏大同盟は
   崩壊
  2 (1       )遠征(1798〜99年)(→ ロゼッタ石発見、1799年)
 イギリスとインドとの連絡を絶つ → アブキール湾の戦いで敗北
    英首相(2      )の提唱で第2回対仏大同盟 → 帰国
  3 (3            )のクーデタ(1799年11月)
    総裁政府を倒し、(4     )政府を樹立(任期10年の3人の統領)
  
 B ナポレオン(第一統領)の政治
  1 第2次イタリア遠征でオーストリア破る(リュネヴィルの和約)
  2 イギリスと(5       )の和約(1802年)(←英首相ピット辞任)
   → 第2回対仏大同盟は崩壊
   → 終身統領となる(1802年)
  
   @ (6         )設立(1800年) → 財政を整理
   A (7        )と和解 − 宗教協約(1801年)
   B (8          )の制定(1804年)
    (9       )の不可侵、法の前の平等、契約の自由など、フランス
    革命の成果を定着 → 近代法の模範
  
 C 第一帝政とヨーロッパ大陸支配
  1 国民投票で皇帝に即位
   → ナポレオン一世、第一帝政(1804〜15年)
   → 第3回対仏大同盟を形成(イギリス首相ピットが提唱)
  2 大陸支配
   @ (10         )の海戦(1805年)
    英のネルソン提督に敗れ、イギリス侵入計画は失敗
   A (11         )の戦い(三帝会戦、1805年、現チェコ)
    オーストリア・ロシア連合軍を破る
    → 第3回対仏大同盟は崩壊(オーストリアとプレスブルクの和約)
   B (12       )を結成(1806年)
    西南ドイツ諸国をあわす。ナポレオンが保護者
    → (13          )(962〜1806年) は解体
   C イエナ=アウエルシュテットの戦い(1806年)
    プロイセン・ロシア連合軍を破る → ベルリン占領
   E (14       )条約(1807年)
    プロイセン・ロシアを屈伏させ、(15         )王国、(16 
          )大公国を建設
     → プロイセンの領土は半減
  
   → (17      )令(ベルリン勅令)(1806年)
     イギリスとの通商を禁止して経済的打撃を与え、フランスの産業のため
    にヨーロッパ市場を独占しようとする
     → 成果あがらず。かえって大陸諸国に打撃
  
  3 ナポレオンの絶頂期
   @ イギリス・トルコを除くヨーロッパを支配。教皇領占領(1809年)  
   A 兄ジョゼフをナポリ王、弟ルイをオランダ王、ハプスブルク家(オーストリア)
    の皇女と結婚(1810年)  
    
 【ナポレオンの没落】
 A ナポレオンの功罪
  1 フランス革命の成果である自由・平等の精神をヨーロッパに拡大
  2 被征服地の諸国に民族意識を呼びおこす
  
 B ナポレオンの没落
  1 (18      )の反乱(1808〜14年)
    解放戦争の始まり。ゲリラ戦(← イギリスが支援)
   → 鎮圧に苦しむ
  2 プロイセンの改革(1807年改革開始)
   @ (19       )や(20         )が農奴制廃止(1807、
    シュタイン)、徴兵制、行政改革、職業選択の自由などの改革
   A (21      )(哲学者) の精神運動、「22          」
   B フンボルトの教育改革 → ベルリン大学創設など
  3 (23     )遠征の失敗(1812年)
   ロシアが(24      )をやぶる → ロシアに遠征 → 焦土作戦
   → 「冬将軍」 → 兵力を失う
  4 第4回対仏大同盟結成(1813年− イギリス・ロシア・プロイセンを中心に、
   ほぼ全ヨーロッパの君主国が参加)
   → (25       )の戦い(1813年、諸国民戦争) でナポレオンを破る
   → パリ占領
   → ナポレオンは退位、(26     )島へ流される
   → (27       )(ルイ16世の弟) 即位 = ブルボン朝が復活(1814年)  
    → ウィーン会議が、戦後の秩序回復のため開催
  
  5 ナポレオンの百日天下
   エルバ島脱出(1815年2月) パリに帰還 
   → (28        )の戦い(1815年6月)で、イギリスのウェ
    リントンに敗北
   → (29         )に流される(10月)    
   
   
   
             
 ☆ 重要語句
 イタリア遠征 エジプト遠征 第2回対仏大同盟 ナポレオン
 ブリュメール18日のクーデタ 統領政府 アミアンの和約 ナポレオン法典
 第一帝政 第3回対仏大同盟 トラファルガーの海戦 アウステルリッツの戦い
 ライン同盟 ティルジット条約 ネルソンナポレオン1世 大陸封鎖令 
 プロイセンの国制改革 シュタイン ドイツ国民に告ぐ ハルデンベルク 
 フィヒテ ロシア遠征 諸国民戦争 ワーテルローの戦い ルイ18世 
 エルバ島 セント=ヘレナ島
  
 ☆ 重要年代
 ナポレオン法典発布 第一帝政開始 大陸封鎖令の発布     

 


 

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