自由のための戦い

 

              第13章 自由主義と国民主義
 
 
                 1 自由のための戦い
 
 
 ウィーン会議
 1814年9月18日、ナポレオン帝国崩壊後のヨーロッパと世界の新たな秩序を協議するため、全ヨーロッパの代表者がに参集した。オーストリア外相メッテルニヒを議長に、ウィーン会議は始まった。会議には、百数十か国の君主や外交官などの代表が参加したが、結局、全体会議は一度も開かれない。オーストリア、イギリス、プロイセン、ロシア、フランスの5大国委員会が実質的な決定機関となり、そこで領土再編の具体案が作成され、ヨーロッパの勢力均衡が図られる。
 しかし、領土再編と配分については、諸国の利害が対立し会議は紛糾する。しかも、具体的な交渉は、宴会やサロンなど舞台裏の会合で行われる。のちにフランス代表のタレーランは、1日の大部分は舞踏会と宴会に費やされたと回想している。ウィーン会議はヨーロッパに[復古の時代」をもたらすことになる。しかし、時代を逆行できないことは伝統主義者も革命派も認める。ウィーン体制の確立に主導権を握るメッテルニヒは革命後の新時代に復古主義をかかげた。
 1815年、ヨーロッパの領土的新秩序の建設を目的としたウィーン議定書が締結され、ウィーン会議が終わった。ウィーン会議の主導原理は正統主義だった。正統主義は、フランスのタレーランの唱えた原則で、ブルボン王朝の復活と敗戦国フランスの立場を向上させることに寄与した。また、オーストリアのメッテルニヒは、各国君主が連帯して革命を防止することに腐心した。会議はロシアのポーランド、プロイセンの全ザクセン併合要求で紛糾したが、勢力均衡の原則が働き領土に関する決定がなされた。
 @ロシアはポーランドと同君連合を形成する。
 Aプロイセンはザクセンの一部、ライン地方とヴェストファーレンを獲得。
 Bオーストリアは南ネーデルラント(ベルギー〕を放棄し、北イタリア、ガリツィア、ダルマチアを獲得。一方、ベルギーはネーデルラント王国に併合。
 Cイギリスはマルタ島セイロン島ケープ植民地を領有。
 Eスイスは永世中立を承認される。
 
 「神聖同盟」の協約 1815年9月26日
 聖書の原理に基づいて、人類の平和を確定するために共同行動をとることを君主たちに約束させようとするもの。
 
 タレーラン フランスの外交官
 タレーランはフランス革命の発端となった最初の運動に参加し、やがて亡命。そして総裁政府、統領政府の外務大臣、帝政時代の侍従長をつとめた。1814年ブルボン朝の復帰に尽力するが、1830年には革命派に加担しルイ=フィリップの擁立に力をかした。そうした彼の変節ぶりは有名である。
 
 ドイツの学生たちが「ブルシェンシャフト」とよばれる同盟を結成したとき、「カールスバート」(メッテルニヒが召集したドイツ諸国間会議)は学生運動を弾圧。ドイツの動乱は、カールスバート決議にしたがって、オーストリアとプロイセンの手で鎮圧された。
 
 イタリア
 「カルボナリ」は1700年代後半の職人組合の「炭焼きの意」に由来。その政治目標は、自由主義・立憲制の確立にあった。「カルボナリ」の蜂起は、ナポリでは国王に憲法の遵守を誓わせ、ピエモンテでは摂政カルロ=アルベルトは、憲法を承認した。しかし、オーストリア軍がナポリ王国に侵入して君主制を復活させ、ピエモンテでもオーストリア軍が介入した。
 
 ギリシアの独立
 ヨーロッパ文明の発祥の地ともいえるギリシアは、15世紀以来、オスマン帝国の支配下にあった。1821年4月、ギリシア人はトルコに対して蜂起した。1822年1月、ギリシアの独立を宣言し憲法を制定した。しかし、戦争は継続しており、トルコとこれを援助したエジプトの軍隊に苦戦をしていた。1826年から翌年にかけて、アテネが陥落し、トルコとエジプトの勢力によって再び制圧されたとき、ギリシアを救援するための声がヨーロッパ中に高まった。
 1827年10月20日、ナヴァリノ湾において、トルコ・エジプト艦隊が、英仏露の連合艦隊に撃破された。、ギリシア南部のナヴァリノ湾で、一触即発の状況で向かい合っていたオスマン・エジプト艦隊とイギリス・フランス・ロシア連合艦隊が、この日午後、砲撃を開始した。数時間で大勢が決し、オスマン・エジプト艦隊がほぼ壊滅の大敗北を喫した。1,821年に始まったギリシア独立戦争をめぐって、ギリシアを支援する列強3か国とオスマン帝国は激しく対立していた。とくに25年以降エジプト軍がギリシアに上陸して独立運動が鎮圧されそうになったため、列強は軍事介入を決意した。この海戦を契機として、オスマン帝国は列国の圧迫を受けて、ギリシア独立の承認へと追い込まれる。列強3か国のうち、とくにロシアは南下政策をすすめるため、オスマン帝国に軍事的攻勢をかけて、1829年には有利な条件で講和条約を結ぶ。
 
 ギリシア独立戦争は、ヨーロッパ中のロマン主義の魂を揺さぶり、文学や絵画の傑作が生まれる源泉となった。さらには、独立戦争にみずからの参加するものも現れた。ギリシアの古典文化に対するロマン主義的憧れをいだいていた芸術家たちは、独立戦争が勃発すると、この大事件を作品の題材として取り上げた。ギリシア独立戦争に参加した人物でもっとも有名なのは、イギリスのロマン主義詩人バイロンである。1822年、親友シェリーを亡くし、また伯爵夫人テレサとの不倫の恋から冷めたバイロンは、ギリシア独立運動に情熱をそそぎ、義勇軍を組織して戦列に加わった。しかし、24年に熱病に倒れる。その最期は、芸術家はもちろんのこと、ヨーロッパ中の若い世代に衝撃を与える。
 また、フランスの画家ドラクロアは、この年のオスマン帝国によるギリシア人虐殺の事件を、2年後に「キオス島の虐殺」として描き、ロマン主義絵画の代表的旗手となる。ギリシア独立戦争そのものは、イギリス、フランス、ロシアの介入により、1829年にギリシアの勝利で幕を閉じることとなる。
 
 ポーランド革命
 1831年9月、ワルシャワはツァーリの軍隊の前に屈服した。それにつづいて、きびしい弾圧が始まり、音楽家のショパンや詩人のミツケエヴィッチのように、多くのポーランド人は亡命への道を選んだ。
 
 イタリアではオーストリア軍の侵入で革命勢力が一掃された。
 
 ラテン=アメリカの独立
 ヨーロッパの絶対主義が、特にフランスやスペインで強化されると、専制を嫌う人たちが新しい大陸に移ってくる。本国の干渉が強まれば、アメリカ人の不満はますます固まってくる。本国の重商主義により、同じ同胞でありながら植民地人は経済的に不利であり、また、植民地生れのスペイン人すなわちクリオーリョは、本国人と社会的に差別待遇を受けていた。18世紀の後半になると、クリオーリョはヨーロッパの啓蒙思想の影響を受け、その植民地にこれをひろめた。アメリカの独立革命には、スペインがイギリスに対抗して植民地人を援助したことから、このころ多くのクリオーリョがアメリカ合衆国を訪れており、トマス・ジェファソンやトマス・ペインの書いたものなども、植民地の人たちに読まれている。フランス革命は、もっと大きな影響を植民地に与えた。
 
 ミランダの反乱
 ラテン・アメリカ諸国の独立の直接の動機となったのは、1807年から8年にかけての、ナポレオンのイベリア半島侵入。フランスは、ポルトガルに対しイギリスとの通商を断絶するよう命じたが、これが拒絶されたため、1807年フランスはポルトガルに侵入した。これがブラジルの独立のきっかけになる。一方、ナポレオンはスペインをも攻撃した。このため内紛を生じカルロス4世は退位し、ナポレオンは自分の兄ジョセフをスペイン国王にした。この報せはスペイン領各植民地に伝えられた。クリオーリョは好機会が来たとして、一挙に反スペイン運動にまで発展させたのである。
 18世紀の後半から19世紀の初めにかけて、クリオーリョが一部のメスティソあるいはインディオの助けをかりて、しばしば反乱を起した。
 ベネズエラのカラカスで1806年クリオーリョのフランシスコ・デ・ミランダが起した反乱。かれの目的はベネズエラの独立にあった。かれはアメリカ独立革命に際してスペイン軍の一員としてワシントンの軍隊に加わり、また、フランス革命の革命軍にも加わった。最後にイギリスに落着いて、ベネズエラ独立のためイギリスの援助を得ることに努力したが、失敗し、ニューヨークに渡ってアメリカの助けを求めた。1806年2月、アメリカ人約200名の義勇兵と軍需品を積んでニューヨークを出帆し、さらに、西インド諸島で2隻の船を加えた。しかしこの2隻は直ちにスペイン海軍に捕えられ、ミランダはバルバドスに逃れた。ここでかれは、イギリス海軍の元士官アレクサンダー・コクランに会い、かれの援助を得て再びベネズエラに向つた。しかしベネズエラの植民地人の協力を得ることができず、引き返さざるをえなかった。かれは再びイギリスに戻り再挙の計画を練った。
  
 
     
 【ウィーン会議】
  → 1814〜15年
 A 目的 − フランス革命・(1        )戦争の戦後処理
  
 B 参加国 − (2         )を除くヨーロッパ各国
  ※ 司会 − (3        )(オーストリア外相、後に宰相)  
 
 C 基本原則 
  (4    )主義 → 革命前の状態を正統に、仏外相(5        )
            の提唱
   各国の利害が対立 → 「会議は踊る、されど進まず」
  
 D ウィーン議定書(1815年)
  1 フランス・スペイン・ナポリの(6      )家が復位
  2 ロシア
   皇帝が(7        )王を兼任、フィンランド・ベッサラビア領有
  3 プロイセン → ザクセン北半、ライン地方(工業地帯)を領有
  4 オーストリア
   @ 北イタリアの(8        )・ヴェネツィア領有
   A オランダに南ネーデルラント(現ベルギー) を割譲
  5 イギリス
   セイロン島、(9     )植民地をオランダより獲得
  6 オランダ 
   オーストリア領南ネーデルラント(現ベルギー)を併合 
   → ネーデルラント王国(立憲王国)
  7 スイス → 永世中立国
  8 ドイツ 
   35君主国・4自由市で(10      )が組織
  9 イタリア
   @ サルディニアはピエモンテ、サボイを領有
   A ローマ教皇領が復活    
 
                   
 【ウィーン体制とその動揺】
 A ウィーン体制
  → ウィーン会議の結果成立したヨーロッパの政治体制
  → 保守反動が基調 1 (11   )同盟(1815年)
    ロシア皇帝(12          )が主唱 
    → キリスト教の友愛精神に基づき平和維持。
 (13     )(14        )(イスラム)・ローマ教皇を除く各国
   君主が加入
  2 (15   )同盟(1815年)
   (16     )(17     )(18       )・オーストリア
   の4カ国 → フランスが参加して五国同盟(1818年)
  
   → オーストリアは多数の異民族を含むため自由主義・国民主義を恐れる
   (19        )が自由主義運動弾圧のため利用
  
 B 自由主義・国民主義の戦い
  1 (20         )(ドイツの学生組合)の運動
   → ドイツの自由と統一を要求
   → (21       )が弾圧(カ−ルスバート決議)
  2 イタリア
   (22      )党のナポリ(1820年) 、ピエモンテ(1821年) 革命
   → オ−ストリアにより鎮圧
  3 スペイン立憲革命(1820〜23年)
   → 自由主義憲法成立
   → フランスの干渉で失敗
  4 ロシアの(23       )の乱(1825年)
   → 皇帝(24       )が鎮圧
  
 C ウィーン体制の動揺
  1 ラテン=アメリカ諸国の独立 → スペイン・ポルトガル(ブラジルのみ)より
   → ラテン=アメリカ最初の独立国 − ハイチ(1804年、フランスから)
  
   @ (25        )(コロンビア・ベネズエラ)・(26       )(チリ・ペルー)
    らが指導 − 主体は(        )(現地生まれの白人)
   A (27       )の武力干渉の動き → 米・英が反対
    イギリス外相(28     )
     五国同盟脱退(1822年)  → 市場開拓をねらい独立を承認
   (29     )宣言、(30    )年
     アメリカ大統領モンローの非植民の原則、相互不干渉主義    
                 
  2 ギリシアの独立(独立戦争1821〜29年) − (31         )より
   → オーストリア(メッテルニヒ)が独立に反対
     ロシア・イギリス・フランスは独立を支援
   @ ナヴァリノの海戦(1827年)
    イギリス・フランス・ロシア艦隊が、トルコ・エジプトを破る
    → ロシア軍侵入 → アドリアノープル条約で独立(1829年)
   A (32     )会議(1830年) で、ギリシア独立を承認       
    → ギリシア王国(1832年)
  
    → (33      )(英、ロマン派詩人、義勇軍として参加)
     (34      )(フランス、「シオの虐殺」を描く)    
 
 
             
 ☆ 重要語句
 ウィーン会議 正統主義 自由主義 国民主義 ウィーン議定書 メッテルニヒ
 アレクサンドル1世 タレーラン ウィーン体制 神聖同盟 四国同盟
 ブルシェンシャフト デカブリスト カルボナリ党 ラテン・アメリカの独立
 モンロー宣言 シモン=ボリバル モンロー カニング ギリシアの独立 
 
 ☆ 重要年代
 ウィーン会議の開催 神聖同盟の結成 四国同盟の結成 デカブリストの乱 
 ギリシアの独立