七月革命とその影響
イギリスの諸改革
二月革命とナポレオン3世
三月革命
三月革命の影響
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7月29日、2日前に起きたパリの暴動は、前日大規模な市街戦に発展し、この日には、蜂起した市民がパリを完全に掌握し、ブルボン王朝の復古王政は崩壊した。1824年に王となったシャルル10世は、旧貴族と教会寄りの復古的な政治、言論弾圧と教権拡大の反動政策をすすめた。前年に指名した内閣も不人気な顔触れで、首相も典型的な反動貴族だった。そのため議会で反政府運動が高まり、この年3月には議会の過半数が内閣不支持に回った。首相は議会を解散させ総選挙に打って出たが、反政府派が勝利、王は7月26日、議会の解散選挙法の改悪、事前検閲の復活を内容とする7月勅令で世論に挑戦した。 これに対し7月27日、民衆が立ち上がった。多くの工場主が抗議の意思表示として工場を閉鎖し、労働者や学生が街頭でデモを展開すると、軍隊がデモ隊に発砲、流血の惨事となった。夜になると、民衆は街灯を破壊し、暗闇のなかで襲撃を行った。一夜明けると、民衆が住む街区にはバリケードが出現していた。バリケードの中で孤立したり、周辺農村からの食糧補給が不可能となる部隊も出て、市民の側につく部隊も続出した。 こうして、パリは蜂起した民衆の手に落ちた。この間、自由主義派の議員が協議を重ね、新君主としてオルレアン家のルイ・フィリップ(57)を立てる。「栄光の3日間」は共和政を実現せず、七月王政を誕生させる。この革命は、ヨーロッパ各地の自由主義運動や独立運動を刺激し、ウィーン体制の弱体化を促す。
ベルギーの独立
10月4日、ウィーン会議によって、ネーデルラント王国に併合されていた南部のカトリック地域が独立を宣言し、新国家ベルギーを建国した。1828年以来ベルギーでは、プロテスタントの国教会制度に不利益を被っていたカトリックと、中央集権化と議席の不均衡に不満をもつ自由派とのあいだに同盟が成立していた。 7月革命の報を聞くや、8月末にカトリックと自由主義者がブリュッセルで蜂起し、9月には市民の支持を得てベルギーのほぼ全土を掌握、独立にむけて議会を招集した。独立後ただちに、王制を採用し、憲法制定に着手する。議会制民主主義国家として、国民主権、三権分立などを定めたベルギー憲法は、西欧の自由主義のモデルとなる。
ポーランドの反乱
ワルシャワの愛国的な学生や士官学校のグループが、ワルシャワ総督コンスタンティン大公邸を襲撃し、反ロシア蜂起が始まった。まもなく、武装した市民がこの動きに加わり、翌朝には大公とロシア兵を駆逐し、全市を制圧下におくことに成功する。
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ナポレオン戦争中に発生したラダイツの運動。機械を破壊する労働者とこれを抑圧する当局との争い。労働者の失業の原因を、機械に帰する。労働者の苦悩の深刻さを反映したもの。
チャーティスト運動
このような情勢のもと、コベットは労働者に選挙権の必要なことを力説し、ハントをはじめとする急進主義者たちは、実際運動の面からさかんに扇動した。
労働者は各地に団体をつくり、大集会をひらいた。彼らの集会はおおむね平和的であったが、なかには蜂起をするものもあった。これに対してトーリー党政府は強圧策をとったが、このような弾圧の極点に達したのが、1819年におこった、ウォータールー(ワーテルロー)の戦いをもじって「ピータールーの虐殺」とよばれるものであった。セントピーターズ広場の5・6万人の大集会で兵士が発砲。11名の死者と約400名にのぼる負傷者をだしたもの。
内政改革に理論的根拠を与えたものはベンサムの功利主義である。ベンサムは一切のものに「その効用は何か」という問いを発し、すべての制度を「最大多数の最大幸福」という原理によって吟味したのである。彼の哲学は18世紀末にはじまる。
腐敗選挙区
人口の都市集中。イギリスの人口の分布は大きな変化をした。その結果、人口が希薄な選挙区が議員の選挙権を持つのに対し、人口の密集した新興の都市が選挙権を持たないという不合理な状態がつづいた。
中産階級も労働者も参政権を求めた。1815年から1834年における議会改革の運動において、労働者階級と中産階級は一時期手を結んだのである。
昔の町がとうの昔に海になってしまっているのに、2名の議員を選ぶ権利だけが残っていて、選挙のときなると候補者が船に乗って昔の町であったところまで漕いでゆき、誰もいないところで当選を決めるという有様であった。逆にマンチェスターのような新興都市には議員を選ぶ権利はなかった。
労働者の権利を守るためにはどうすればよいか。労働者にも選挙権を認める改革が必要となる。六項目の要求は、ピープルズ=チャーター「人民憲章」と名づけられ、これを支持する人々はチャーティストとよばれた。人民憲章を議会に提出するための一大署名運動が1838年からはじまった。
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七月王政は、形は立憲王政だが少数の銀行家・大商人らが政権を握る。1840年代に入り、フランスでは産後革命の進展により、一般市民の成長が著しく、また労働者階級も現状に対する強い不満をいだき、とくに選挙権の獲得を要求した。これに対し、支配階級は依然として国家権力の独占を望み、新興階級に選挙権を与えようとしなかった。
1846年は夏の天候が不順で、10月にはロアール川流域とその南部は流域は大洪水にみまわれ、大凶作となった。その年の穀物の出来が非常に悪かったため、パンの値段が暴騰した。食糧は値段が上がっても生きてゆくために買わねばならない。さらに1847年全ヨーロッパに広がっていた資本主義史上最初の恐慌が加わり、失業の増大・経済の破綻がみられた。
ギゾー内閣では、有権者の納税額が300フランから200フランに引き下げられただけであった。有権者の数は全人口の1%であった。ごく一部の人々しか選挙に参加できなかった。さらに議員として選挙されるためには有権者の場合よりもきびしい条件を課せられた。フランス革命以前の時代にくらべるとまだましだが、ギゾー内閣は国王ルイ=フィリップのもとで銀行家などの特権的な人々のための政策を繰りひろげたのである。
ギゾーが選挙権を持たない人々に、「働きたまえ、そして金持ちになりたまえ。そうすれば君たちは有権者になれるのだ」といった。
ギゾー内閣は選挙法改正案を議会で否決。選挙権を100フラン以上のものに与え、選挙人の人数を20万人増やそうというものであった。この結果、「宴会キャンペーン」がはじまった。公開の集会が開けなかったので、宴会で乾杯をしたときに演説して宣伝活動を繰り広げた。「改革宴会」という名前で知られる運動である。「改革宴会」というのは安い会費を払って入場する人に政治宣伝をおこなう会で、政府の集会の取締りがきびしいため、その裏をかいて宴会にことよせて集会を開いたものである。
ギゾー内閣は1848年2月22日、改革宴会が危険なものになりそうだとして、禁止命令をだした。しかし、しかし当日になると、民衆がフランス国家「ラ=マルセイエーズ」を歌い、「ギゾーくたばれ、共和国万歳」と叫びながらマドレーヌ広場に集まった。人数は増える一方であった。膨れ上がった人数は、議会に向かった。そして、軍隊と衝突し数十名の犠牲者がでる。もはや中途半端な改革では問題はおさまらなかった。
パリ市内には大小1500ものバリケードが築かれ、2月23日軍隊がデモ隊の発砲し、100人以上の死傷者をだした。そして2月24日、ついにルイ=フィリップは退位を余儀なくされてパリを脱出してイギリスに亡命、ここに王政は再び崩壊した。
臨時政府はただちに第2共和政の宣言をおこなう。臨時政府にはラマルティーヌ(詩人)や社会主義者のルイ=ブランが参加した。二月革命の大きな原動力であった労働者の要望を考慮し、フランス史上はじめて労働者の代表が政権に参加したのである。
臨時政府は失業対策のために「国立作業場」を設置。普通選挙制を宣言する。
4月に憲法制定議会の選挙がおこなわれる。最初の普通選挙による議会である。この選挙では穏和な共和派が圧倒的勝利をおさめる。新しい政府には一人の社会主義者も、加わることはなかった。
国立作業場の廃止をきっかけに、労働者の歴史上最初の大規模な武装蜂起となった。6月23日朝から市街戦がはじまり、正規軍と10万の蜂起労働者との間に3日間の市街戦がおこなわれるが、蜂起側の敗北に終わる(6月暴動)。
11月1848年の憲法が制定。12月直接普通選挙による大統領選挙がおこなわれた。ナポレオンの名声に便乗した甥のルイ=ナポレオンが投票総数の3/4をあつめて圧勝した。彼は安定を求めた農民やブルジョワによって支持された。
=ナポレオンにとって最大の障害は、大統領の任期を4年と定め、かつ重任を禁止している憲法の条項であった。1851年ルイ=ナポレオンはクーデターをおこない、人民投票の圧倒的多数の支持で憲法改正をおこない、任期10年の大統領となった。そして、1852年ふたたび国民投票によって帝政を復活し、ナポレオン3世と称した。
ドイツ・オーストリアの三月革命 戻る
フランスの二月革命の知らせは、ヨーロッパ中をかけめぐる。パリに続いてウィーンでもベルリンで革命がおきた。
ウィーンは3月13日改革を要求する市民・学生たちが朝から議会にデモをかけた。軍隊が出動してデモ隊に襲いかかった。市内各所で民衆と軍隊の衝突がおきた。メッテルニヒはこれを弾圧しようとするが、皇帝フェルディナント1世の許可が得られず、夜に入ってメッテルニヒの辞任が公表された。1815年以来の反動的ウィーン体制の代表的存在のメッテルニヒがついに失脚したのであった。15日には憲法制定を約束する皇帝の告示が街中に貼り出された。
当時のオーストリアは、ロシアやトルコとともに東ヨーロッパを支配し、さらに北イタリアをも領土とする大国であった。支配下にあったハンガリーやボヘミアやイタリアなどで、オーストリアからの解放や自治をめざす人々が立ち上がった。
マジャール(ハンガリー)人の場合、彼らはオーストリア帝国からの解放はめざしていたが、一方でクロアティア人やルーマニア人に対して支配を及ぼそうとしていた。
このウィーンの騒ぎが伝わると、プロイセンの首都ベルリンでも学生や民衆が立ち上がった。国王は憲法の制定や議会の召集を約束した。
5月にはフランクフルトに国民議会が開かれて、全ドイツから代表があつまって協議を重ねたすえ、ドイツ憲法をつくりプロイセン王をドイツ皇帝にいただくことを決議した。しかし、ドイツではなお封建的勢力が強大であり、統一のこころみも、プロイセン王がフランクフルト国民議会の帝冠を拒否したため成功しなかった。
三月革命の影響 戻る
イタリアではナポレオンが没落した後、フランス革命以前の旧秩序が復活。イタリア半島は全体としてオーストリアの強い圧力下におかれることになった。各国ともフランスの支配下に導入された制度の大半は破壊された。フランス人が導入したというだけで、教皇領では種痘や街灯が廃止されたり、モデナ公国では火をつけるマッチの使用が禁止されたりした。
自由主義の運動
それまでの秘密結社カルボナリ党の、入党時のもったいぶった儀式や党内の上下関係のやかましさ、また民衆に積極的に働きかけないやり方に疑問を感じていたマッツィーニは、1831年。亡命先のマルセイユで青年イタリア党を創設した。マッツィーニはすでに4年ほどカルボナリ党員として活動していた。使命感に燃えた青年に訴え、民衆に開かれた運動をつくろうと考えた。この青年イタリア党は急速に勢力を伸ばし、カルボナリ党にとってかわるリソルジメントの代表的勢力となる。リソルジメントとは「復興」を意味し、のちカヴールが1847年に新聞「イル=リソルジメント」を発行して、この言葉が呼び名となる。イタリア統一運動を意味する。
1848年、ローマにマッツィーニや南米独立運動での活躍でヨーロッパでも有名になっていたガリバルディがあつまり、「人民のローマ」を中心とするイタリア共和国をめざした。イタリア統一運動を裏切った教皇に対する民衆の運動が高まり、このため教皇は両シチリア王国のガエータに脱出。そのあと共和国が樹立された(1849年)。フランス大統領ルイ=ナポレオンは、ローマ共和国がカトリック教会を破壊しようとしているとし、教会の保護を名目にローマに派兵した。1849年7月にローマ共和国は崩壊し、その後教皇がもどった。
ウィーン革命とメッテルニヒ失脚のニュースが届くと、オーストリアに直接支配されていたロンバルド、ベネート王国のミラノ市民はただちに蜂起し、「ミラノの5日」とよばれる激戦ののちにオーストリア軍を追放した。この事件をきっかけにサルディニア王国がロンバルディアに軍を派遣し、独立戦争がはじまった。1848年、ピエモンテ(サルディニア)王国のカルロ=アルベルトはオーストリアに宣戦し、ロンバルディアに進撃した。教皇ピウス9世も、ローマの軍隊が国境に進軍することにいったんは同意するがその後裏切ることになる。トスカナの大学軍やその他の義勇軍も戦場におもむき、両シチリア王国も軍がポー川流域にむかうことをゆるす。全イタリアがたちあがった。イタリアの独立も間近に見えたが、ローマ教皇ピウス9世がこの独立戦争の途中で裏切った。イタリアの各王国が独立すると教皇の支配権が脅かされると考え、この戦争から離脱した。さらに両シチリア王国も撤退したので、ラデッキーの率いるオーストリア軍はピエモンテ軍を破り、独立戦争は敗北した。1849年3月、ピエモンテは再びオーストリアに宣戦するが、ノヴァラで徹底的な敗北を喫した。カルロ=アルベルトは敗戦の責任をとって王位を去り、亡命のうちに死んだ。
ウィーン会議後の30年間は、保守と自由の対立の時期であったが、二月革命の結果、自由主義は保守主義を圧倒し、先進諸国では市民階級の政治的参加や立憲政治をめざす運動は一段落し、以後、ヨーロッパは、先進国では民主化をさらに進めるとともに、国力を外に発展させる方向にむかい、後進国では統一国家の形成に全力をあげることになる。
【七月革命とその影響】
A (1 )朝の復古王政
1 (2 )は新憲法を発布(1814年、「憲章」)
2 (3 )は貴族・聖職者を重んじて議会を圧迫
@ 亡命貴族に補償金 → 反政府の議会解散
A (4 )出兵 → 国民の不満をそらす
B 七月革命、(5 )年
1 シャルル10世の反動的政策
@ 未召集議会を解散(← 自由主義者進出)
A 七月勅令を発布 → 選挙法改悪、出版の自由束縛(7月25日)
2 革命勃発 − 1830年7月27〜29日
(6 )(歴史家・政治家) 、ティエール、ファイエットら指導
パリ市民蜂起 = 「光栄ある三日間」 → シャルル10世、英に亡命
4 七月王政の成立
自由主義的な(7 )公(8 )を「フランス国民の王」として迎える
5 七月革命の影響
@ (9 )の独立(1830年オランダより)
→ (10 )会議で承認(1831年、永世中立国)
A (11 )の反乱(1830〜31年) → ロシアが鎮圧
B ハンガリー独立運動 → 失敗(オーストリアが鎮圧)
C (12 )で暴動
→ 一部小国では新憲法発布、プロイセン・オーストリアでは失敗
D イタリアでは(13 )党の反乱(ローマ・パルマ・モデナ)
→ オーストリアが鎮圧。
(14 )が青年イタリア党結成(1831年)
E イギリスの第1回選挙法改正(1832年)
【イギリスの諸改革】
A 宗教の自由主義
1 (15 )廃止(1828年) → 旧教徒以外の非国教徒に公職開放
2 (16 )成立(1829年)
→ (17 )らアイルランド人の努力
→ カトリック教徒に公職開放、アイルランドの宗教的差別撤廃
B 第1回選挙法改正、(18 )年
※ (19 )党グレー内閣
1 産業革命による人口の都市集中 → 人口の不均衡
七月革命と(20 )の功利主義の影響
2 (21 )選挙区廃止と新選挙区の編成
→ 産業資本家が議会へ進出、制限選挙で労働者の不満残る
→ (22 )運動(1837〜48年)
6カ条の(23 )を掲げ、男子(24 )選挙要求
C 経済的改革
1 東インド会社の(25 )廃止 −対インド(1813年)、対中国(1833年)
2 (26 )の廃止(1846年) − 保守党ピール内閣
産業資本家・労働者ともに不利益
→ (27 )(28 )ら反穀物法同盟を結成
3 (29 )廃止(1849年)
→ (30 )の原則が確立(アダム・スミスの主張)
【社会主義思想の成立】
※ 産業革命後の悲惨な労働者の生活
A イギリスの労働運動
1 (31 )運動 → 労働者の不幸の原因を機械と考える
2 (32 )運動(1837頃〜1848年)
→ 労働者最初の政治運動 → 弾圧
3 社会立法
@ 1833年、(33 )法が制定 − 年少者の労働時間が制限
A 10時間労働法(1847年)
B 社会主義思想の成立
(34 )
労働者の待遇改善(ニューラナークに紡績工場経営)、北米で協同社会建設 → 失敗
労働組合育成、(35 )法制定を提唱
(36 )(米独立戦争に参加)、(37 )(農業を基礎とする共同体)
(38 )(二月革命後の臨時政府に参加)
→ 無政府主義(アナーキズム)
(39 )(仏) は(40 )主義(一切の政治的権威を否定) をとなえる
→ マルクス主義
(41 )と(42 )
「43 」(1848年、二月革命直前) − 「万国の労働者、団結せよ」
(44 )(国際労働者協会、ロンドンで設立、1864年)
【二月革命とナポレオン3世】
A 二月革命の背景
1 七月王政の性格 − 金融資本家の政権、極端な制限選挙
2 産業革命が進み、産業資本家・労働者の成長
3 凶作(1846、47年)・恐慌(1847年〜)による社会不安
4 外交政策の失敗(東方問題で外交上孤立)
B 展開
1 (45 )年2月、(46 )内閣が改革宴会(選挙法改正要求の集会)を
禁止 → パリ市民の蜂起 → (47 )はイギリスに亡命
2 臨時政府が成立
@ 有産市民の共和派(48 )らと、労働者を代表する社会主義
者(49 )らの連立政権 → 第2共和政(1848〜52年)
(50 )の設置(失業救済が目的) → 失敗
A (51 )総選挙
重税と社会政策に反対の農民 → 社会主義者は大敗
→ (52 )閉鎖 → 労働者の(53 )、鎮圧
B 第2共和国憲法制定(1848・11)
C ナポレオン3世の第2帝政(1852〜70年)
1 ルイ=ナポレオンの登場
@ 1848年12月、大統領選挙
→ (54 )(ナポレオンの甥) が当選
A 1851年、クーデターで独裁権をにぎる(大統領任期4年 → 10年)
B 1852年、国民投票で皇帝となる
2 第2帝政
@ 内政
国内産業の育成、社会政策の実施(「馬上のサン・シモン」) 、パリの都市計画、万
国博覧会を開催
A 外交
→ 国民の人気をつなぎとめるため、「対外冒険主義」
(55 )戦争(1853〜56年) → ロシアの南下阻止(パリ条約)
(56 )戦争(1856〜60年) ← 広西省の(57 )事件
(58 )(1859年。→P242)
→ (59 )を援助、(60 )(61 )
を得る
(62 )出兵(1858〜67年)
(63 )国より(64 )など領有
(65 )出兵(1861〜67年)
メキシコ人の抵抗と(66 )の反対で失敗
→ 国民の信望を失う
→ 普仏戦争(→P240) に敗れて退位
【ドイツ・オーストリアの三月革命】
※ 二月革命の影響
A オーストリアの三月革命(1848年)
1 ウィーンで暴動、(67 )亡命
→ (68 )体制は崩壊
2 オーストリア支配下の民族運動
ハンガリー(69 指導)、ベーメン、北イタリア(ロンバル
ディア)の蜂起 → 鎮圧
B ドイツの三月革命
1 ベルリンで市街戦(1848年) → 憲法発布
2 (70 )国民議会(1848〜50年。→P242)を開催
※ ドイツ統一と憲法制定を討議
→ プロイセン中心の(71 )主義による統一決定
→ プロイセン王フリードリヒ=ヴィルヘルム4世が帝冠を辞退
→ 議会解散(1850年) し、失敗
E 三月革命の影響
1 (72 )の独立運動 → ロシアが鎮圧
2 イタリア統一運動
@ サルディニアの対オーストリア開戦(1848〜49年)
A (73 )(青年イタリア党) が(74 )共和国建設
→ ともに失敗
3 イギリスの(75 )運動が最高潮(1848年) → 弾圧
☆ 重要語句
七月革命 アルジェリア遠征 オルレアン家 七月王政 ルイ18世
シャルル10世 ルイ=フィリップ 七月革命の影響(ベルギーの独立など)
審査律廃止 旧教徒解放令 腐敗選挙区 第1回選挙法改正 オコンネル
人民憲章 チャーティスト運動 穀物法 東インド会社の貿易独占権廃止
航海条令廃止 ラッダイト運動 コブデン ブライト 工場法 空想的社会主義
無政府主義 科学的社会主義 共産党宣言 資本論 ロバート=オーウェン
サン=シモン フーリエ ルイ=ブラン プルードン マルクス エンゲルス
二月革命 第二共和制 六月革命 国立工場 ルイ=ナポレオン(ナポレオン3世)
第二帝政 三月革命 二月革命の影響(ウィーン暴動・ハンガリー民族運動
・ボヘミア独立運動・イタリア統一運動・ベルリン暴動など)
フランクフルト国民会議 大ドイツ主義 小ドイツ主義 ローマ共和国
☆ 重要年代
ギリシアの独立 七月革命 旧教徒解放令 第1回選挙法改正 穀物法廃止
航海条令廃止 「共産党宣言」の発表 二月革命の勃発 第二帝政の開始
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