2 自由主義・国民主義の進展
アメリカの発展
南北の対立
南北戦争
メキシコの混乱
イギリスの改革
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19世紀前半の合衆国は、いわゆる西漸運動によって、西部・南部にその領土を広げた。
1800年反連邦派の指導者ジェファソンが大統領に当選。ジェファソンは、新首都ワシントンで就任式をあげた最初の大統領。1803年にはフランスから広大なルイジアナを購入。のち大統領となるモンローが特使として派遣される。はじめニューオーリンズとその周辺の地を1000万ドルで購入の予定。
1800年、ナポレオンはミシシッピ以西のルイジアナをスペインから入手。ナポレオンはイギリスの制海権の前に、ルイジアナを保持することが困難と判断。ナポレオンは1500万ドルで譲ることを申しである。1500万ドルで当時のアメリカ全土に匹敵する土地をもち帰ったのである。5億3000万エーカー、1エーカー(4047?)3セント弱。 翌1814年、ジェファソンはルイスとクラークを隊長とする探検隊を、新しい購入地の探検に送った。彼らはロッキー山脈をこえて太平洋に達し、1806年に帰着した。
1804年の大統領選挙にジェファソンは大差で再選された。
1808年にマディソン大統領。
イギリスは、ヨーロッパとフランス植民地およびアメリカ間の貿易を禁止した。イギリスは1812年に通称制限令を撤廃したが、通信の不備な当時においては時すでに遅く、2日後にアメリカは宣戦した。こうして米英戦争がはじまった。ワシントンも攻撃されホワイトハウスも焼かれている。
この戦争の間接的影響は大きかった。この戦争によりイギリス製品の輸入途絶は、アメリカの産業革命をうながした。第2次独立戦争とよばれる。
1819年にはスペインからフロリダを買収。
1845年にはテキサス併合。
1836年、約2万人の移民がメキシコ政府に反乱をおこし、翌年テキサス共和国として独立させる。1845年テキサスを奴隷州として併合してしまった。1846年、ポーク大統領はメキシコに宣戦。当時、下院議員であったリンカーンは、このポーク大統領の不法な宣戦布告に批判的立場をとり、メキシコとの戦争に反対した。1848年、メキシコ戦争反対の気運におされ、1848年ポーク大統領はメキシコ政府と条約を結び、カリフォルニアやニューメキシコを1500万ドルで買収した。こうしてカリフォルニアをとり、1853年には、その南部を買収。その北方のオレゴンは46年に北緯49度以南を領土とし、19世紀の中ごろには、太平洋に達する大領土を持つにいたった。
1848年1月サクラメントの東方で砂金が発見され、これを聞いた人々が一攫千金をめざして世界からあつまった。とくに1849年に多くの移民がきたので、これらの人々を「49年度の人たち」(フォーティナイナーズ)という。
これらの西方の広大な土地は、大きな困難と戦いながら開拓が行なわれたが、自由で進取的なフロンティア精神は、アメリカ国民性の基礎となった。
マニフェスト=ディスティニー(明白な運命)
神によって与えられた明白な運命という意味。合衆国が太平洋まで領土を拡大するのは天与の「明白な運命」であるという考え。
アンドリュー=ジャクソンはアイルランド系の貧しい移民の子として生まれる。生まれたとき、父はすでに死亡。親戚の家で家政婦として働いた母も、14歳のときに死亡。法律の勉強に励んで弁護士を開業。インディアンの討伐や、米英戦争で1815年1月ニューオーリンズを攻略して勇名をはせた。西部出身のはじめての大統領。
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しだいに強まるアメリカ内部の分離的傾向、セクションの対立
アメリカ資本主義の発達とそのイギリスに対する関係の相違から、ますます激しくなっていく。
アメリカの工業は、ナポレオン戦争や米英戦争でヨーロッパからの輸入が途切れた1812年ごろから工場制に入り、40年ごろから産業革命にうつり、連邦政府が多大の便宜を与えたこともあって、北部の工業は急速に発達した。北部の資本家たちは、彼らの利害を政治に反映させるため、政治の主導権を握りたいと考えていた。
これに対し、南部のプランテーションは、イギリスをはじめとする産後革命に依存する性格が強い。南部では嗜好品であった煙草にかわって、工業原料である綿花の栽培が広がる。イギリス産業革命がすすみ、綿織物工業が発展するにつれて、綿花はますます必要とされた。
北部では工業が発展していたけれども、輸出品としては綿花がアメリカの総輸出の半分を占めていた。「コットン・イズ・キング」(Cotton is King)。産後革命によって綿花の市場が大きく拡大されたことと、1793年ホイットニーが繰り綿機を発明したことによって、綿花栽培は有利な事業となった。
綿花栽培の単純で過酷な労働は、奴隷制度を復活させることになった。1790年には、奴隷人口の94%が南部に集中していた。
西部は、北部や南部と異なり、独立的自作農が中心となり、目覚しく開拓が進んでいた。ただ、北部を市場とする経済的結合がしだいに深まり、南部は孤立を深める。
ヨーロッパの啓蒙主義の影響もあり、北部は奴隷制反対の動きをしめしだした。この動きは、18世紀末から19世紀初めにかけて、北部全州での奴隷制廃止の運動へと進んだ。こうして、奴隷制に対する道徳的非難が高まった。逆に南部では綿花プランテーションが発展していたため、奴隷制廃止の考え方は放棄された。
1812年奴隷の「地下鉄」が開通。といっても、レールや車輌や駅があったわけではない。北部から南部にもぐりこんだ「車掌」が、うまく逃げ出した奴隷を案内して、北部の州やカナダに送り込んでやる秘密組織のこと。逃げ出した奴隷が「乗客」、途中でこれをかくまってくれる家が「駅」である。南部の州からカナダまで1000キロ以上の道のりが「地下鉄」であった。こうして北に運ばれた「乗客」は6万人に達したという。ハリエット=ストー夫人はこの「地下鉄」の駅員の一人だった。
ストー夫人が1852年にだした「アンクル=トムの小屋」は、1年間に30万部売れ、ベストセラーになった。逃げ出した女奴隷をかばって、ついに殴り殺される老黒人トムの話は、北部の人の涙をさそい、南部の人は作り話として怒りをかきたてた。
地域の対立は、奴隷問題で火がつく。どちらかが優位をしめるためには、西部の諸州をどちらが獲得するかが問題であった。西部開拓にともなって、新しい州ができるたびに自由州になるか、奴隷州になるかについて激しく争われた。
1820年「ミズーリ協定」にしたがって、北緯36度30分以北では奴隷制が廃止されたが、それより南では奴隷制が認められることになった。1820年当時、アメリカ合衆国は22州で構成。自由州と奴隷州はともに11州。ミズーリが州として連邦に参加する場合、いずれにしても南北の均衡を破ることになる。
南部は奴隷州としての連邦参加を強く主張。北部はミズーリを奴隷州とするかわり、マサチューセッツからメイン州を切り離し、これを自由州とすることで、北部と南部の間に妥協が成立。そして将来こうした紛争を避けるため、北緯36度30分のところに境界線をもうけ、今後新しくできる州については、この線の北では奴隷制を禁止し、南では奴隷制を認めるというものであった。
カンザスではゲリラ戦が勃発し、1859年には奴隷制反対論者のジョン=ブラウンが絞首刑にされるなど危機の兆候が生じていた。
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南北戦争の死者は62万人。第1次・第2次世界大戦、朝鮮戦争におけるアメリカ側の死者総数をこえる。
1860年、奴隷制度に反対するリンカーンが大統領に当選する。
リンカーンは大統領になって故郷からワシントンに向かう途中、汽車がニューヨーク州に入りウェストフィールドについたとき、彼はグレース=べデルという少女を探し出してもらった。この少女は大統領選挙のさなか、リンカーンに手紙をよこし髭をはやすようにすすめたのである。演壇のところにきたグレースに「見てごらん、グレース。あなたのために生やした髭だよ」、そういってリンカーンは彼女にキスをしたという。
「私の今日あるのは、すべてこの土地と、この土地の人々の親切のおかげであります」
リンカーンの公約は北部の利益にかなうものであった。リンカーンの大統領就任が1861年3月、北部が指導権を握ったので、1861年2月初め南部は7州の代表があつまり、ジェファソン=ディビスを大統領とするアメリカ連邦の建国を宣言。リンカーンは就任式の演説でアメリカの一致を訴えたが、衝突は避けられないものとなった。1861年12月、サウス・カロライナのチャールストン湾にあったサムター要塞を、南軍がその所有権を主張して攻撃をおこない、南北戦争が開始された。
北部は23州、南部は分離を宣言した7州にくわえ、サムター要塞の攻撃のあとにくわわった4週を含めて11州、北部の優位ははっきりしていた。しかし、戦争がはじまって約2年間は北軍がほとんど負けつづけた。南部にとっては、北部に南部を征服できないことを認識させ、独立を維持するだけで十分であった。また、すぐれた軍隊と有能な指揮官、おびただしい軍需物資をもっていた。また、南部はヨーロッパ諸国の工業が、南部の綿花を必要としたから、その支援を当てにできると思っていた。しかし、戦争がはじまるとフランスとイギリスは中立を宣言し、はっきりと南部の味方はしなかった。また、綿花はエジプトやインドからの輸入でまかなうことができた。
1863年の6月には、南軍はニューヨークのとなりのペンシルバニア州に迫ってきた。ここで。もし北軍が負ければ南部の勝利は決定的となり、合衆国は完全に分かれてしまう。しかし、南軍の北上を北軍が迎え撃ったゲティスバーグの戦いで、南軍は重大な損失をこうむった。
北部は戦争が工業生産を刺激し、生産を増大しつづけた。長期化すると、その差はさらにひろがる。工業力をもつ北部は持久戦に耐える能力をしめす。鉄道は軍隊と物資の迅速な移動を可能にしていた。そのうえ、ホームステッド法(1862年)をだして、5年間土地を耕作することに同意するものには、160エーカーの土地を無償で与える法律をだし、自作農民の多い西部の協力をえることに成功。
南部は戦争の長期化とともに経済が破綻し始めた。もっとも重要な収入源である農産物の輸出が海上封鎖のため減少し、もともとあった豊かな富も急速に減少した。
北部は、南北戦争中最も偉大な将軍で、戦略家、であるロバート=リー将軍に匹敵する将軍をもたなかったが、のちになってグラントやシャーマンといった人物があらわれる。また、リンカーン自身、最良の戦略家であった。
戦闘は海やミシシッピ渓谷、東部海岸地帯で展開した。東部およびヴァージニアでは1863年の夏まで、南軍が優勢であった。北は海軍で成功を収め、南部沿岸を封鎖。西部(ミシシッピ渓谷)では、ほとんど連戦連勝し、シャーマン将軍は1863年7月にはミシシッピ渓谷を占領し、ジョージア州アトランタを攻略、続いて同州サヴァンナヘ、さらにはサウス・カロライナ州、ノース・カロライナ州へと北上し、全行程約680qを破壊しつくした焦土作戦で、南部人の戦意は喪失した。
1863年7月1日から3日間、ペンシルバニアのゲティスバーグで激しい戦闘がつづいた。南軍は7万5000人の軍隊のうち2万人が戦死し、北軍は10万人のうち2万3000人が戦死した。それは文字通り死にもの狂いの戦闘であった。南軍はゲティスバーグで重大な損失をこうむり、1864年のはじめには、グラント将軍の北軍が主導権を握る。1865年4月、リーがグラントの降伏。しかし、1865年リンカーンは暗殺。
リー将軍の降伏 4月9日ヴァージニア州のアポマトックス・コートハウスの村の民家で、南軍のロバート・リー将軍が北軍のユリシーズ・グラント将軍と会見し、メキシコ戦争でともに戦った思い出を語り合ったのち、リー将軍が降伏を示す文書に署名した。
グラント将軍が示した降伏条件は非常に寛大な内容だった。南軍将校と兵士は戦闘を放棄して帰郷するにあたり、農耕のために馬と携帯武器は保持してもよいとされた。また、グラントはリーが降伏したとき、北軍兵士が歓声をあげることを禁じ、さらに飢えに苦しむ南軍兵士に食糧調達を申し出た。こうして足かけ5年にわたる南北戦争は、北軍兵士36万人、南軍兵士26万人を犠牲にして、終わることとなる。
リンカーン暗殺 エイブラハム・リンカン大統領は、前夜ワシントンのフォード劇場で「我がアメリカのいとこ」を観劇中に狙撃された。ただちに劇場と通りを隔てた民家に運ばれ手当てを受けていたが、4月15日、朝7時すぎに、家族や友人、同僚に見守られて息をひきとった。56歳だった。
犯人のジョン・ブースは、6日前に降伏した南部連合を狂信的に支持する俳優で、「暴君の運命は常にこうなるのだ。南部が仕返しをしたのだ」と叫びながら逃亡した。また、ブースの仲間8人は、副大統領、国務長官、グラント将軍の暗殺も企てていたが、国務長官に重傷を負わせた以外は未遂に終わった。ブースは、この月26日に、ヴァージニア州の田舎家の納屋に潜んでいるところを、連邦軍の放った火の中で射殺される。この暗殺で寛容な南部再建政策は難しくなり、以後12年間、共和党急進派が政治権力を握ることとなる。
南部諸州の再建には、恩赦あるいは赦免された旧支配層がしばしば復帰した。南部諸州の黒人法(黒人活動を規制する法律)の採用で、400万人の解放奴隷を旧所有者の手もとに残した。たとえば、選挙権に財産や読書資格をつけ、公共施設・交通機関における白黒分離など。ルイジアナ・南カロライナ・ミシシッピ州の黒人強制雇用は事実上奴隷制を存続させるものであった。
北部資本家と南部資本家の妥協。北部が人種平等の主張を放棄し、南部が産業および資本の優位に執着するのを放棄することで妥協が成立。これによって、南部は再び自治権を手にいれる。
アメリカ政府は、インディアンの居住地を指定し、生活を保障すると何度も約束していたが、すぐその約束を破ってしまい、インディアンの抵抗を武力で弾圧した。1880年代のジェロニモに率いられたアパッチ族の反乱がインディアンの最後の抵抗であった。
メキシコの混乱 戻る
スペインより独立後、サンタ=アナが権力を握り、10年の間独裁者として支配する。アメリカがテキサスの併合を宣告したとき、メキシコとアメリカの戦争がはじまった。この戦争の原因は、ジェームズ・ポーク合衆国大統領の膨張政策にあった。テキサスを一方的に併合したことで、メキシコとの関係が険悪化したとき、メキシコ軍が合衆国を攻撃したという口実で宣戦し、またたくまにメキシコシティを占領した。この結果、リオ・グランデ川以北をアメリカ合衆国テキサス領とし、カリフォルニア、およびカリフォルニアとテキサスのあいだの領土を合衆国に譲ること、そのかわりに合衆国はメキシコヘ1500万ドルを支払うことが決められた。 敗戦の結果、メキシコの自由主義者がサンタ=アナの追放に成功する。ファレスはインディオの血をひいた清廉な知識人で、改革推進の英雄であった。
1862年1月にフランス、イギリス、スペインの3カ国は、ファレス大統領の対外債務の支払い延期宣言を理由に共同で出兵したが、領土的野心のないイギリスとスペインは早期に撤退した。しかしナポレオン3世は、メキシコにカトリック帝国を確立することを夢見て、保守派と自由派の内戦に介入し、スペイン王室にかかわり合いのあったハプスブルク家のマクシミリアンを傀儡の皇帝として立てた。ファレスは山に退却し、住民はゲリラ戦で抵抗した。南北戦争を終えたアメリカはファレスを応援。しかし、理想家肌のマクシミリアンは、フランスとも当初の支持者であるメキシコの教会や保守派とも離反していった。モンロー主義の立場からフランスの介入に反対するアメリカ。そのアメリカからの武器の援助やメキシコ人の民族主義の高まりを受けて、この年2月にはフランス軍は撤退をよぎなくさせられ、結局、マクシミリアンは見殺しにされることとなったのである。こうして1864年以来メキシコ皇帝を名のっていたオーストリアのマクシミリアン大公が、銃殺された。ヨーロッパの王族からのマクシミリアンの助命嘆願も、インディオ出身の峻厳なフアレスは例外とせず、判決を覆すことはなかった。こののち、フアレスの支配はいっそう強固になり、共和政が復活すると、大統領として多くの自由主義的改革をすすめる。
イギリスの改革 戻る 1815〜30年までトーリー党の支配がつづくけれども、国家における自己の地位が脅かされない限りにおいて、彼らもまた変革をうけいれる用意を持っていた。
イギリスの保守政治家の巨頭カスルレーが死んで、自由主義的なカニングがそのあとをついだことは、このような変化を象徴的にしめすものであった。カスルレーの自殺とともに古いトーリー党の時代は終わりをつげた。
特に外交面では、カニングのもとにイギリスはヨーロッパの自由主義運動の支持者となった。彼の非干渉主義はメッテルニヒの中南米独立運動に対する干渉の障壁のひとつとなった。ギリシアの独立やポルトガルの自由主義運動に対しても、彼は援助を惜しまなかった。
議会を支配する地主階級は、戦時中の小麦価格の高騰にともなって耕地を拡張した。平和の回復にともなって小麦価格の下落に直面すると、1815年自分たちの利益を保護するために、穀物法(Corn Low)を制定した。これは、小麦の価格が一定の価格以上にあがるまで、外国から小麦の輸入を禁止するもので、ひとたび凶作がおこれば、小麦の価格は高騰して労働者の生活を脅かすことになった。
この時期の内政改革に理論的根拠を与えていたものは、ベンサムの功利主義哲学「最大多数の最大幸福」であった。
1829年カトリック教徒解放法
1801年の大ブリテン=アイルランドの合同以来、それまで不完全ながら存在していたアイルランドの自治権さえも失われた。アイルランド人はカトリック教徒であるために、被選挙権さえゆるされていなかった(他の地域では選挙権も)ため、代表を議会におくっていないという差別待遇をうけていた。
1828年オコンネルは無資格をおして補欠選挙に出馬し、政府側の政党の候補者を破って当選した。トーリー党のウェリントン内閣は譲歩し、カトリック教徒解放法は議会を通過した。カトリック教徒に対する差別待遇は廃止され、彼らは参政権を獲得した。
世界の工場
イギリスの1830〜50年までの20年間の成長は目を見張るものがあった。とくに鉄道網の拡張、重工業・鉱業・繊維業の発展、汽船は世界の6割を占めた。他の国々も産業革命を迎えていたが、十分に進展していたのはイギリスだけであった。ベルギーは立派な鉄道網を自慢、ドイツのルール地方の炭鉱は石炭を産出、フランスのアルザス地方の織物など有名であったが、しかし、ベルギーは小国だし、フランスには織物以外にこれといった工業がない、ドイツはゆるい連邦にすぎない。大西洋の向い側のアメリカ合衆国は、活動し始めたばかりである。
イギリスだけが国内においては工業を高度に発達させ、その一方で世界の国際貿易量1/3を支配していた。どの国もイギリスの敵ではなかった。
このような経済的繁栄を背景に、イギリスでは市民的民主主義の確立をめざす政治的改革が推進される。1867年の第2次選挙法改正は、都市の小市民・労働者の多くに選挙権を拡大し、有権者は100万になった。自由・保守両党が交互に政権を担当し、議会政治を模範的に運用したのもこの時代である。第3次選挙法改正では農村労働者にまで選挙権が拡大しと。
1851〜20年間は、ヨーロッパ大陸諸国は、工業生産の面で飛躍的な発展を示しはじめた。その結果イギリスも、他国の挑戦をさらされることになる。
植民地の獲得や確保によって製品市場の拡大をはかるなど、政策の転換を迫られる。保守党のディズレーリ内閣はエジプトに進出し、インド帝国を成立させるなど、積極的な植民地政策にのりだした。
アイルランド問題
17世紀クロムウェルのアイルランド制服。熱烈なピューリタンであった彼は、カトリックのアイルランド人を神の敵として容赦なく武力で弾圧した。そして多くのアイルランド人を追放して土地を没収し、北アイルランドにイギリス人を殖民させた。土地の大部分はこれらのイギリス人の在地地主や不在地主の手に合った。彼らは自治権を求めてしばしば本国に反抗した。グラッドストンは彼らに自治を認めようという自治法案を1886年と1893年に議会に提出するが、ついに成立を見ないままに終わった。
(未完)
【アメリカ合衆国の発展】
A 米英戦争とアメリカの発展
1 (1 )大統領の政治(第3代、1801〜09年)
@ 「1800年の革命」 → 反連邦派の勝利
A ジェファーソン民主主義
中産農民中心の民主化、州権を尊重しながら統一国家育成
2 米英戦争(1812〜14年)
@ ナポレオン戦争中、中立政策
→ イギリスが海上封鎖・通商妨害 → 開戦(マディソン大統領)
→ 戦争中、イギリスとの通商断絶
→ アメリカの経済的自立
→ (2 )工業中心に産業が発達
A 意義 − 経済的自立 = 「第2次独立戦争」
3 (3 )(第5代大統領)宣言、(4 )年
@ 中南米の独立支持、ロシアのアラスカからの南下に対抗
A 反植民地主義の原則、新旧両大陸相互不干渉
→ アメリカ外交の基本方針
B 西部開拓の進展
1 領土拡大
@ (5 )購入(1803年)
(6 )大統領の時、フランスのナポレオンより
A (7 )買収(1819年) ← スペインより
B (8 )(メキシコより独立)併合(1845年)
C (9 )併合(1846年) ← イギリスとの協定
D (10 )戦争(1846〜48年)
→ (11 )など獲得、太平洋に達する
※ (12 )(辺境)の西進
3 西部開拓
@ 東部の工業のために広大な国内市場となる
A (13 )精神、民主主義の発達
→ (14 )「膨張の天命」→ 西部開拓を正当化した言葉
4 (15 )大統領(第7代、1829〜37年)
※ 西部出身の最初の大統領
@ ジャクソン民主主義 → 西部開拓農民・東部労働者の支持
資本家をおさえ、社会の平等化に貢献
A インディアンを強制移住
B 政党の起源
ウィッグ党 → 資本家中心の反ジャクソン派(→ のちの共和党)
民主党 → ジャクソン派(→ 民主党の前身)
C 南北戦争
1 南部と北部の対立 → 西への発展とともに対立が激化
@ 南部
(16 )の存続と(17 )貿易・州の自治を主張
A 北部
(18 )貿易(イギリスに対抗) と連邦主義を主張。奴隷制に反対
2 ミズーリ協定(1820年、北緯36度30分以北を自由州)
カンザス=ネブラスカ法成立(1854年、協定破棄) → 南北の対立激化
→ (19 )党結成(奴隷制拡大反対。1854年)
北部の資本家と西部の農民が支持
→ 奴隷制廃止の世論
(20 )夫人の「21 」
3 南北戦争(1861〜65年)
@ (22 )党の(23 )大統領当選(1860年)
→ 南部11州は分離し、(24 )国(首都リッチモンド)
大統領(25 )
※ リンカーンは合衆国の統一保持に努力
A 1861年開戦 → はじめは南軍優勢(リー将軍が指揮)
→ (26 )(自作農) 法 − 西部農民の支持を得る
→ (27 )年、(28 )宣言 → 内外世論の支持
→ (29 )の戦い以後、北軍が優勢(グラント将軍)
→ (30 )陥落 → 南部降伏(1865年)
B (31 )暗殺(1865年) → ジョンソン副大統領が昇格
→ 再建法制定(1867年、南部に軍政)
→ 軍政解除後、黒人差別容認
D 戦後の発展
1 新南部の成立
@ 南部の大土地所有者は没落 → 中産階級が成長
黒人を使用するシェア=クロッパー制(小作人)
A 北部資本と黒人労働者による工業化進展
2 (32 )年(スエズ運河開通の年) 、(33 )の完成
→ 農工業の躍進(小麦は世界第1位)
※ (34 )年ごろ、(35 )消滅
3 メキシコ − (36 )(自由主義者) が自由主義革命に成功
→ (37 )(フランス)が干渉 → 合衆国は干渉に反対
4 (38 )買収(1867年) − ロシアのアレクサンドル2世より
【イギリス自由主義の発達】
※ 第1回選挙法改正の後、トーリー・ウィッグ両党は、保守党・自由党に
A (39 )女王の時代(1837〜1901年)
1 経済的繁栄を背景に模範的議会政治成立
2 (40 )党の(41 )と保守党の(42
)の二大政治家
→ 選挙法改正
1 第2回(43 )改正(1867年)
ダービー保守党内閣 → (44 )労働者の多数が選挙権
2 第3回(45 )改正(1884年)
(46 )内閣 → 農業・鉱山労働者に選挙権
3 その他の改革
@ 教育法の制定(1870年) → 国民教育
A (47 )法制定(1871年) → 組合運動が合法化
B 植民地の変化
1 自治領(自治植民地)の成立
(48 )連邦(1867年) 、オーストラリア連邦(1901年) 、ニュージー
ランド(1907年) 、ニューファンドランド(1907年) 、南アフリカ連邦(1910年)
→ 背景に小英国主義(植民地無用論 - 自由党)
やがて植民地の再認識 → 大英国主義に転換(保守党)
2 アイルランド問題
1 宗教上(カトリック)の不満
1829年カトリック教徒解放法で解決
2 土地は、イギリス人不在地主の支配下
→ (49 )の努力で土地法が成立
小作権安定(1870年) 、土地購入承認(1881年)
3 自治法案は(50 )党の反対で不成立
→ 内政の最大課題として20世紀に
☆ 重要語句
米英戦争 共和党 ジェファソン ジャクソン ホイットマン ルイジアナ買収
フロリダ買収 テキサス併合 アメリカ=メキシコ戦争 カリフォルニア獲得
フロンティア 南北戦争 奴隷制度 アンクル=トムズ=ケビン ストウ夫人
アメリカ連合国 ゲティスバーグの戦い ホームステッド法 奴隷解放宣言
大陸横断鉄道 メキシコ内乱 アラスカ買収 リンカン
ジェファーソン=デヴィス リッチモンド 第2回選挙法改正
第3回選挙法改正教育法 労働組合法 自治植民地 カナダ連邦
アイルランド問題 ヴィクトリア女王 グラッドストン ディズレイリ
☆ 重要年代
米英戦争 モンロー宣言 南北戦争
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