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イタリアの統一 戻る
ジュゼッペ=マッチーニ
青年イタリア党を組織し、多くの人に共和国建設の理想をやきつけた。その中にガリバルディもいた。民族国家とは「同一の言語を話し、社会をより完全なものへ変えようという共通の目的をもった人々の共同体」と考えていた。
マッチーニの見解は、ロマンティック・民族主義的で、非現実的ではあったが、彼のような理想主義的な革命家によって、人々の情熱はかきたてられた。
1850年代のイタリアは小国家の集まりであった。北部にはオーストリアが支配するヴェネツィアとロンバルディアがあり、北西部のピエモンテとサルディニア島には独立国サルディニア王国があった。ローマからの支配をうける教皇領は、イタリア半島の中央を横切っている。南にはナポリ王国とシチリアからなるナポリ王国があった。他にフィレンツェを中心とするトスカナ大公国、ハプスブルク家とブルボン家の支配するパルマ・モデナの両公国があった。
カヴール
1854年クリミア戦争に際して、ロシアと戦ったイギリス・フランス側に増援軍を送り、またひそかに、ナポレオン3世に接近して、サルディニアに加勢してイタリアからオーストリア勢力を駆逐するように力説した。
ナポレオン3世がカヴールの懇願に耳をかし、イタリアを助けようと考えた。1859年ナポレオン3世はオーストリアに宣戦布告し、フランス軍はアルプスを越えてイタリアになだれこんだ。オーストリア軍はフランス・サルディニアの連合軍の前に敗れ去り、ロンバルディアから引き上げた。
ガリバルディ
ジュゼッペ=ガリバルディは筋金入りの自由主義運動の闘士で、南アメリカで民衆の武力蜂起に参加して経験を積んでいた。1860年、ガリバルディの率いる理想に燃えた一千人の義勇兵「赤シャツ隊」がジェノヴァを出航しシチリアに上陸。
サルデーニャ王国の援助を得ていたこの義勇軍は千人隊とよばれ、赤シャツを制服としていた。赤シャツは、ガリバルディが南米での独立戦争に参加したときに、食肉解体場の作業服(血の色が目立たない赤)の生地を制服に流用したことから生まれたものだった。
シチリアはスペイン系ブルボン王家が支配する両シチリア王国に属し、2万5000人の政府軍が配備されていた。しかし、千人隊の上陸に、多くの島民が社会改革を期待してガリバルディ側に加わり、蜂起する。ガリバルディ指揮下の義勇軍は、15日にシチリア西部のカラタフィーミで3倍の兵力の政府軍と戦い、これを退却させると、29日にはパレルモを占領。これがきっかけとなって全島に反乱が拡大、政府軍は降伏する。
さらにガリバルディ軍は、8月19日にイタリア半島の南端にあたるレッジョ・カラブリアに上陸すると、事態は雪崩のように動きはじめ、ブルボン王家は首都ナポリを放棄して逃亡し、王国はいっきょに崩壊の事態に直面する。9月7日にガリバルディはナポリに入城し、南イタリアの実質的な支配者となる。そして10月26日、彼はサルデーニャ王ヴィットリオ・エマヌエーレ2世に支配地域を献上し、ここにいちおうのイタリア統一が完成する。
ドイツの統一 戻る
ビスマルク
プロイセンのユンカー(地主貴族)出身。背が高く、肩幅が広く、ずぬけた体力と満々たる野心をもち、大量の酒と食物をたいらげた。
「言論や多数決によって、現今の大問題は解決されない。血と鉄によってこそ決せられるのである」
彼の目的は、ドイツ連邦からもっとも有力なオーストリアを追い出すこと、プロイセンの手に連邦の指導権を握ること。この目的が実現するか否かは、プロイセン陸軍にかかっていた。そして、彼は自分の政策を実行するために、故意に戦争をひきおこした。
1864年、シュレスウィヒ・ホルシュタイン両公国の帰属問題をめぐり、デンマークとの戦争をひきおこした。
「七週間戦争」
後装式の銃や鋼鉄製の大砲など、新兵器を装備したプロイセン軍は、はじめて鉄道を軍隊の移動に利用して、プラハ近くのケーニヒスグレーツでいとも簡単にオーストリア軍を撃破した。プロイセンは国をあげて軍備に力を注いでいたのである。
普仏戦争
1870年、ハプスブルク家の革命によってスペインから追われ、スペイン王位をうける適切な後継者がいなかったため、国際的な紛争がおこったのである。スペインはホーエンツォレルン家の公子を王位につけることを望んだが、フランスは反対した。ヴィルヘルムとフランスの大使はこの問題を話し合うために、ドイツの温泉地エムスで会見した。
会見がおわってのち、電文を新聞に発表するにあたって、ビスマルクは表現をわずかに変え、プロイセン王とフランス大使とがたがいに侮辱しあったかのようにみせかけた。「これはガリアの雄牛に赤い布をふって見せたのと同じ効果を生むだろうな」とビスマルクはいった。まさにそのとおりであった。
普仏戦争の当時、フランス軍は自信に満ち溢れていた。ナポレオン3世の将軍達も、兵士達は一分のすきもなく準備を整えていると豪語していた。だが彼らは、恐るべき威力を発揮するプロイセン軍の鋼鉄製の大砲や軍隊のすばやい移動を可能にしているドイツ国内の鉄道網やプロイセン軍の参謀の能力については深く研究してはいなかった。
開戦当初からフランス軍は負けつづけた。1870年9月2日におこなわれた大戦闘が決定的な敗北であった。
その日、セダンの小さな要塞近くでマクマホン元帥の率いる約9万のフランス軍は圧倒的な数のドイツ軍に包囲された。彼は騎兵隊の突撃戦法に重点をおいていたが、その騎兵隊もプロイセンの砲兵隊にたちまち粉砕されてしまった。セダンで総指揮をとっていたナポレオン3世は降伏した。
しかしパリ市は、急遽つくられた臨時国防政府のもとで戦いつづけた。プロイセン軍に包囲されながらも、1871年1月末飢餓寸前の状態になってやむなく降伏するまで、パリはがんばりつづける。
1871年1月18日、パリを包囲しているさなか、ドイツ諸侯はびすまるくに説得されて、プロイセンのヴィルヘルム1世を初代のドイツ皇帝に戴くことを声明した。これはフランス人にとって最大の屈辱であった。というのは、ドイツ帝国が正式に宣言されたのは、かつてルイ14世の宮殿ヴェルサイユ宮殿の鏡の間であった。
開戦後193日目に戦争は突然休止された。ビスマルクとフランスの間に取引が結ばれた。フランスは新政府を選挙する短い期間だけ戦争を休止する。そして新政府によって戦争を終結する。ビスマルクにつきつけられた降伏条件を審議するため、あらたに選挙されたフランス国民議会が、ドイツ軍のパリ占領を認めたのである。
文化闘争
ドイツ帝国の成立が、小ドイツ主義にもとづいてカトリック国家のオーストリアを締め出して、プロテスタントのプロイセン国王を皇帝にいただきプロテスタント優位のもとに達成。ドイツのカトリック教徒は人口の1/3をしめ、中央党という宗教政党に結集する。中央党は国家に対する教会の自主権を守り、各邦の独自性を強調してドイツ帝国の連邦としての性格を維持することを目標にかかげた。
ここにドイツ帝国とカトリックの争いである「文化闘争」がはじまる。
ドイツ国内は騒然となり、フルマンという植木職人にビスマルクが狙撃される事件もおこる。中央党の選挙での得票数は増加しつづける。文化闘争の失敗は明らかであった。
ビスマルクはもう一つの「帝国の敵」と考えた一大勢力・ドイツ社会民主党との対決に強い関心をよせる。こうして文化闘争は打ち切られる。
社会主義者鎮圧法
1878年、二度にわたってヴィルヘルム1世が狙撃される。社会主義に対する恐怖心がドイツ中にみなぎる。この状態はビスマルクの望むところ。ビスマルクは議会を解散し、総選挙の結果、ビスマルクは新しい議会に「社会主義者鎮圧法」を提出。ドイツの社会民主党は非合法化される。
その一方で、当時、世界でもっとも完備した社会保障―医療保険法・災害保険法などを労働者に与えている。いわゆる「アメとムチの政策」。もちろんビスマルクの目的は労働者の福祉それ自体ではなく、ドイツ帝国への労働者の支持を取りつけるものであった。
ビスマルクは内政においては必ずしも成功を収めず、むしろ失敗と挫折をつづけたといってよい。しかし、外交において、ビスマルクはその政治家としての資質のうち最も優れたものを発揮した。
ビスマルク外交
アルザス=ロレーヌの奪回がフランス外交の目標となる。ビスマルク外交の目標はフランスを孤立させ、対独復讐戦争を断念させること。普仏戦争の勝利はロシアが中立を守ってくれたおかげでもあった。フランスからの復讐を恐れるドイツは、ロシアとの関係の維持が不可欠の条件であった。ドイツとオーストリアの協定にロシアを加入させる(1873年、三帝協約)。
露土戦争の講和条約として1878年3月3日サン=ステファノ条約が結ばれたが、イギリスとオーストリアは、この条約はロシアに有利であるとして抗戦。ビスマルクは「正直な仲買人」としてベルリン会議を主催し、ロシアを抑えてイギリスの意を迎えた。これで三帝同盟が事実上崩れたあと、ビスマルクはドイツとオーストリアの間に1879年二国同盟を結んだ。1881年三帝同盟を成立させる(ドイツ・オーストリア・ロシア)。
フランスのチュニジア占領はイタリアを刺激した。チュニジアはシチリアの対岸にあり、すでに1万人のイタリア人が入植していた。イタリアはオーストリアとの間に、「回復されざるイタリア」の併合をとなえて対立があった。ところが、フランスのチュニジア占領は「回復されざるイタリア」を忘れさせるほどの強い衝撃を与えた。かくてイタリアは、ドイツ・オーストリア・と三国同盟を結ぶにいたった。
ドイツはフランス以外のヨーロッパの主要国と同盟か友好関係にあり、フランスを完全に孤立させるのに成功した。
活発な海外政策を主張するヴィルヘルム2世とヨーロッパ政策を中心とするビスマルクの対立。29歳で即位した皇帝は「ドイツの将来は海上にあり」といって、ドイツの将来を世界に求めた。
パリ・コミューン 戻る
1871年の春、民衆の政府が2ヵ月にわたってパリを支配した。パリ・コミューンと呼ばれるものである。しかしそれは共産主義とはなんの関係もなく、参加した人々も暴力革命をくわだてていたわけではなかった。また彼らは労働者階級だけでもなかった。中にはマルクス主義者や社会主義者もいたが、一方共和主義者や、フランス革命当時の民主主義理念を受け継いだジャコバン主義者も含まれていた。
市民の1人、ジャン・パティスト・ミリエールは、次のように言っている。“支配階級は腐敗しきっている。この堕落した少数の独裁者どもの手から政権を奪い返さないかぎり、フランス文明は永遠に失われてしまうであろう。”
コミューン成立の背後には、フランスの独裁政権に対する積年の不満があった。だが、直接の原因となったのは、普仏戦争の際に政府がとった行動であった。1870年9月、プロイセンに宣戦を布告してから2ヵ月とたたないうちに、ナポレオン3世はムーズ河畔のセダンに駐屯するプロイセン軍の前線におもむき、うちひしがれた軍隊とともに降伏すると申し入れた。“剣を捨て、あなたに渡すよりほかに術はありません。”と彼はプロイセン王にあてて書いている。
しかし、パリの民衆は承知しなかった。ドイツ軍にすっかり包囲され、食料の供給は一切遮断されて、馬肉や動物園の動物、はてはドブネズミまで食べるところまで追いつめられながらも、彼らは戦い続けた。しかし2月に、彼らは第2の打撃を受けた。ビスマルクにつきつけられた降伏条件を審議するため、あらたに選挙されたフランス国民議会が、ドイツ軍のパリ占領を認めたのである。
この報を聞いたパリ市民は衝撃を受け、愕然とした。彼らは店を閉め、道路には黒旗をかかげて、ドイツ軍に無言の抵抗をし、国民議会の威信を失墜させた。
コミューンが掲げた目標は穏健なものであった。ここ数十年の間労働者たちが望んでいた賃上げと労働条件の改善、それに労働者の家計を安定させるような、政府による価格統制、これだけが彼らの要求であった。
しかし実際には、コミューンの支配は、ぞっとするような暴力的事件で色どられていた。ヴェルサイユから合法的にフランスを支配していた国民議会は、コミューンの叛徒たちを、いかなる犠牲を払っても撲滅しなければならぬ危険な急進主義者だとみなしていた。政府軍は捕えたコミューンの人々を一列に並べて、次々に馬上からサーベルのひらで殴打した。これに対してコミューン側は、公共の建物を焼きはらったり、パリの大司教を暗殺したりして応酬した。
あるイギリス人記者は次のように書いている。“美しいパリ、それはいまや恐るべきパリになってしまった。パリは打ちのめされ、焼き払われ、血を流している。”
5月26日から6月2日にかけて、市の支配権を取り戻しつつあった議会の保守政府が、なん千人にも達するコミューンの民衆を虐殺したのである。
死体はあわただしく処理され、生きながら埋められた人もかなりいたほどであった。ある共同墓地の近くに住んでいた人々は、夜な夜なうめき声を耳にし、“朝には、ぎゅっと握りしめた手が土の中から突き出ている”のを見たという。このとき虐殺されたコミューンの人々の数は、2万人以上にも及んだ。
コミューンがかち得た唯一の改革は、パリのパン屋たちに深夜の作業をやめさせたことだけだ、とコミューンの指導者の1人は皮肉まじりにいっている。
東方問題 戻る
19世紀ロシアの外交の中心は、オスマン=トルコの衰退に乗じて、バルカン半島また黒海から地中海への進出をはかることであった。このロシアの南進策に対し、イギリスを中心としたヨーロッパ列強の反発として展開するのが東方問題である。
トルコ支配下の諸民族の独立運動とトルコを分割しようとする列強の圧力がからみ合って、問題を複雑にしていく。一つの事件の中途半端な解決が、次の事件の原因となって、第一次世界大戦にいたるまで、ヨーロッパに緊張をもたらす。
フランスのナポレオン3世は、ローマ教皇に対する政策上、エルサレムの管理権を手に入れようとしてトルコと交渉して獲得。これに対しロシアは、トルコ領内のギリシア正教徒の保護を要求する。トルコがこれを拒否するとトルコを攻撃し、まずトルコとロシアの戦争としてはじまる。イギリスが参戦したのは、インドへのルートをロシアの脅威から守るためであり、その他サルディニアもイタリア統一のため、英仏の好意を得ようとする政策からロシアに宣戦した(1855年)。やがて、クリミアのセルバストポール要塞が陥落し、ロシアが敗れた。クリミア戦争の敗北は、軍事力の優劣だけによるものではなかった。産業革命を完了して、生産力を飛躍的に増大させた先進資本主義国と、生産性の低い農奴制経済をいとなみ、非能率的な官僚制をもつ後進国との総力の違いによるものであった。
後進国ロシアの農奴制(身分的に地主に隷属)は、国内市場を狭くし、資本主義の発展を制約していた。農奴制を支柱とする古い体制がロシアにとって不利であることが自覚された。
農奴解放 戻る
農奴を人格的に解放した点でロシア近代化の画期点であった。しかし、この改革は農民にとって完全な解放を意味しなかった(不徹底)。農奴解放の結果、工業においても農業においても資本主義は相当な速度で発展する。資本主義の道を歩み始めたロシアは国力を充実させるや、再び南進策を強力におしすすめることになる。
中産階級が欠けていたため、ロシアではインテリゲンチァ(知識人)が社会の指導的役割を果す。ロシアの現状は、アレキサンダー2世の暗殺など彼らをますます急進的にしていく。
1870年代以降、インテリゲンチァの間に「人民の中へ」、つまり農民の間にはいって彼らと生活をともにして啓蒙活動をおこない、農民の力でツァーリズムを打倒しようという運動がおこる。このスローガン「人民の中へ(ブ=ナロード)」から、彼らはナロードニキとよばれた。
クリミア戦争の敗北は、ロシア南進策の道をふさいだが、1870年代後半になると、ロシアの野心は再び近東に向けられた。
スラブ系民族はトルコ支配下のバルカン半島やオーストリアに分布し、19世紀民族主義運動の高まりによって、トルコ・オーストリアの支配から独立を叫ぶようになった。ロシアはトルコ・オーストリアに進出する武器として、これを利用し、スラブ帝国の建設とスラブ民族解放を鼓吹した。
露土戦争の講和条約として、1878年サン=ステファノ条約が結ばれた。バルカンにおけるロシアの決定的優位を保証するものであった。イギリス・オーストリアは強く反対し、戦争の危機に直面する。ロシアとしては、イギリス・オーストリアをむこうにまわして戦える余裕はなかった。そこで、ビスマルクの仲介をうけてベルリン会議が開催された。
【イタリアの統一】
A 統一への努力
1 イタリアの状態
@ ウィーン会議後も、分裂状態がつづく
A ウィーン会議で(1 )・(2 )がオースト
リア領となる
2 統一への動き
@ (3 )党の運動
ナポリ革命(1820年) ・ピエモンテ立憲革命(1821年) ・中部イタリア革命
(1830年、モデナ・パルマ・教皇領) → いずれも失敗
A (4 )の(5 )党(結成、1831年)が、(6
)共和国(教皇領内)を建設(1849年)
→ (7 )軍(教皇と結んだルイ=ナポレオン)に倒される
B サルディニア王アルベルトは(8 )革命を機に、オーストリアと
戦うが敗北
B サルディニア王国の統一戦争
1 国王(9 )
※ (10 )を首相に
@ (11 )戦争に参加(1855年)
A (12 )戦争(1859年)
(13 )と秘密同盟(プロンビエールの密約)、フランスの援助でオー
ストリアと戦う
→ フランスがオーストリアと単独で講和(→イタリア統一を恐れる)
→ サルディニアは(14 )を得ただけ
B サヴォイア・ニースをフランスに割譲し、(15 )を併合
(1860年) (→トスカナ・モデナ・パルマは住民投票)
2 (16 )党の(17 )
赤シャツ隊(義勇軍) 率いて(18 )(両シチリア王国) を占領し、サルデ
ィニア王に献上(1860年)
→ (19 )年、イタリア王国が成立
イタリア国会はサルディニア王ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世をイタ
リア王に推戴
都(20 )(1861〜65年) → フィレンツェ(1865〜71年)
→ 1871年からローマ
3 統一の完成
@ (21 )戦争の際、(22 )併合(1866年)
A (23 )戦争を機に(24 )を占領(1870年)
→ ローマに遷都(1871年)
→ 教皇は「ヴァティカンの囚人」と称し、イタリア王国と対立
B 「25 」問題
(26 )・南チロルはオーストリア領にとどまる
→ 併合を要求
【ドイツの統一】
A 統一への動き
※ ウィーン会議後も政治的分裂がつづく(ドイツ連邦 - 35君主国と4自由市)
1 ブルシェンシャフト(学生組合)の運動(1817年、最高潮)
2 (27 )が結成(オーストリア除く)、(28 )年
→ 経済的統一が達成
3 西南ドイツの改革運動 ← 七月革命の影響
4 (29 )議会(← 三月革命)
大ドイツ主義と小ドイツ主義の対立
→ プロイセン王がドイツ皇帝を辞退し失敗
B プロイセンによる統一
1 プロイセン王(30 )
(31 )出身のビスマルク首相(1862〜90年)
@ 軍備を拡張 = (32 )政策採用(議会無視)
A デンマークとの戦争(1864年)
オーストリアと共同出兵、(33 )獲得
B (34 )戦争(1866年)
2州の処分で対立 → オーストリアを破る
→ ドイツ連邦を解体、オーストリアを統一より除外
→ (35 )を結成(マインツ以北の22邦で結成) (1867年)
→ オーストリアは(36 )帝国と称する
← マジャール人のハンガリーに自治権を与える
2 (37 )戦争(1870〜71年)
@ (38 )問題 → エムス電報事件
A (39 )で(40 )が降伏
フランクフルト条約
(41 )両州と50億フランの賠償金を獲得
3 ドイツ帝国の成立
@ (42 )年、プロイセン王(43 )がヴェルサ
イユ宮殿で即位 → ドイツ帝国が成立
A 帝国の性格 − 立憲主義は外見だけ
連邦制国家 − プロイセン王が皇帝を兼任
立法府 − 連邦参議院・帝国議会 → 政府に対して無力
官職は(44 )貴族が占める
C ビスマルクの政治(1871〜90年) − 独裁的権力をふるう
1 内政
@ (45 )(1871〜80年)
(46 )党(南ドイツのカトリック教徒、プロイセンの支配に反対)と抗争
→ のち妥協(社会主義勢力の進出をおさえるため)
A (47 )法を制定(1878年)
社会主義勢力が進出
→ ラサール派とアイゼナウ派が合同
→ ドイツ(48 )党(1875年結成) が発展
→ 皇帝狙撃事件
→ 社会主義的結社禁止、出版集会制限
B (49 )政策を実施
災害保険・疾病保険・養老保険など。労働者の歓心をかうため
2 外交政策
※ 復讐をねらうフランスを孤立させて、ドイツの国際的地位の安全を守る
@ (50 )同盟(1873〜78年)
→ (51 )会議(1878年)で、ロシアがドイツから離れ る
A (52 )同盟(1879年)
→ 中央アジアでイギリス・ロシアが対立
→ ロシアをさそい(53 )協商(三帝同盟の復活、1881〜87年)へ
B (54 )同盟(1882年)
テュニジアでフランスと対立したイタリアをさそって(ドイツ、オーストリア・イタリア)
→ ビスマルク体制の中心
C (55 )条約(ロシア・フランス接近防止のため、1887〜90年)
→ フランスの孤立化に成功
【フランス第3共和政】
→ 1870〜1940年
A パリ=コミューンの成立
1 普仏戦争の敗北
1870年、ナポレオン3世降伏
→ ガンベッタの国民防衛政府成立、共和政宣言
→ パリ開城(1871年1月)
→ (56 )を首班とする臨時政府
→ パリに社会主義者の指導する自治政府が成立
2 (57 )(1871年3月〜5月)
@ 労働者や小市民が中心の世界史上初の社会主義政権(自治政府)
A ドイツ軍に支援された政府軍により鎮圧 → 3ケ月で崩壊
B フランクフルト条約(ドイツとの講和条約、1871年5月)
多額の賠償金、(58 )を割譲
C 第3共和政の確立
1 (59 )年、第3共和国憲法が制定
→ 立法府の権限大、大統領の権限弱い、三権分立
2 第3共和国の政治
小党分立・連合政権のため政情は安定しない
【ロシアの改革】
※ 専制政治(ツァーリズム)と(60 )制が強固
→ 市民階級の成長はおくれる(商工業不振)
A (61 )の反動政治(1825〜55年)
→ (62 )の乱(1825年)を鎮圧
B (63 )(1855〜81年)の改革
1 (64 )解放令発布、(65 )年
@ (65 )戦争(1853〜56年)に敗北 → 改革の必要性
A (66 )に人格的自由と土地の所有を認める(有償)
→ しかし、地主本位で不徹底
2 (67 )の反乱(1863〜64年)を機に、専制政治を強行
C (68 )(人民主義者)の運動(1870年代)
1 (69 )(人民の中へ) を標語に(70 )(インテリゲンツィア)
が農村にはいり、社会主義的改革を試みる
→ 農民の無関心・政府の弾圧
2 ニヒリズム(虚無主義)のひろまり(アナーキズムの影響)
→ 皇帝(71 )を暗殺(1881年)
【東方問題とロシア】
A 東方問題
1 自由主義・国民主義の風潮
→ オスマン=トルコの支配下の諸民族の独立運動
→ 列国の干渉をまねく
2 ロシアの南下政策 → 勢力伸長をめざす
B エジプト事件(エジプト=トルコ戦争。第1次、1831〜33年 →P256 )
1 エジプト大守(72 )がシリアを要求
→ イギリス・フランス・オーストリアの干渉(アリにシリア統治権をみとめさせる)
→ ロシアはトルコを援助し、代償として(73 )・ダーダネ
ルス両海峡の独占航行権を得る(ウンキアル=スケレッシ条約)
2 第2次(74 )戦争(1839〜40年)
→ フランスは最初エジプトを援助、のち見捨てる
→ イギリス(パーマストン外相)・ロシア・オーストリア・プロイセンの干渉
→ エジプト敗北
→ ロシアの南下は失敗(1840年、ロンドン会議 - 両海峡中立化)
C (75 )戦争(1853〜56年)
1 聖地管理権問題
ロシアがトルコ領内の(76 )保護を口実に、トルコと開戦
2 イギリス・フランス・(77 )がトルコ支援
→ セヴァストポリ要塞が陥落し、ロシアの敗北
3 (78 )条約(1856年) で(79 )の中立化
→ ロシアの南下策は、また失敗
D (80 )主義
1 バルカン半島のスラヴ系民族の団結 → トルコからの独立目標
2 ロシアはこれを利用して勢力拡大をはかる
E (81 )戦争(1877〜78年)
1 バルカンのキリスト教徒が反乱、多数殺害 → 列国の抗議
→ ロシアは単独でトルコと開戦し、勝利
2 (82 )条約(1878年)
ルーマニア・セルビア・モンテネグロを独立、ブルガリアをトルコ領内の
自治国(ロシアの保護国)
→ ロシアの南下政策が実現 = 勢力均衡が崩れる
→ イギリス・オーストリアが反対、緊張高まる
→ (83 )会議(1878年、ベルリン条約)
1 (84 )の調停 − 「忠実な仲買人」
→ 実際はイギリスと結び、ロシアの野望を阻止
@ (85 )条約を破棄
A (86 )・セルビア・(87 )の独立が 承認
B (88 )の自治権を認める(領土は縮小。宗主権はトルコ)
D イギリスが(89 )を領有
C オーストリアは(90 )・(91 )の統 治権を得る
E ロシアはわずかの領土(黒海東岸のバツーム・ベッサラビア地方)を得る
2 影響
@ ロシア
南下政策をひかえ、中央アジア・東アジアへの進出につとめる
A オーストリア − バルカン進出のきっかけができる
→ パン=ゲルマン主義とパン=スラブ主義の対立
→ のち、第1次世界大戦の原因
【北ヨーロッパ諸国】
A スウェーデン
1 17世紀、国王(92 )(1611〜32年)が、三十年戦争で
新教側の中心として活躍
2 (93 )戦争(1700〜21年、国王カール12世) で敗北
→ ニスタット条約(1721年) で領土縮小、バルト海の制海権を失う
3 ナポレオン戦争
@ ロシアにフィンランドを奪われる
A 1815年、ウィーン会議で(94 )を併合
4 19世紀はじめ、責任内閣制が確立
B ノルウェー
1 カルマル同盟以来、デンマーク領
2 ウィーン会議(1815年) でスウェーデン領
→ 1905年、国民投票で独立
C デンマーク
1 ナポレオン戦争でナポレオンと同盟
→ ウィーン会議でノルウェー失う
2 1864年、デンマーク戦争で(95 )を
失う → 農牧を主とする国づくりにつとめる
D フィンランド
→ 中世以来、スウェーデン領
→ 1809年、ナポレオン戦争中に(96 )領となる
→ 1917年独立
【国際運動の進展】
A 国際社会主義運動
1 第1インターナショナル(1864〜76年)
@ (97 )で結成、(98 )が指導
A プルードン派やバクーニン派(無政府主義) との対立 → 解散
2 第2インターナショナル(1889〜1914年)
@ パリで結成、(99 )主義的、ドイツ社会民主党が中心
A 第1次世界大戦で解散
B 社会主義政党の発展 → 合法的な社会改革へ転換
ドイツの(100 )党、フランスの社会党、英の(101 )党
C 国際的機関の設立
1 国際赤十字社(1864年、ジュネーヴ)
ナイティンゲールの活躍 → デュナンが提唱
2 国際オリンピック大会の開始(1896年)
☆ 重要語句
青年イタリア党 イタリア統一戦争 ロンバルディア獲得 ナポリ王国征服
ヴェネツィアの併合 教皇領の占領 回復されざるイタリア マッツィーニ
エマヌエーレ2世 カヴール ガリバルディ ドイツ連邦 ドイツ関税同盟
ユンカー 鉄血政策 ヴィルヘルム1世 ビスマルク サヴォイヤ ニース
トリエステ チロル トリノ シュレスヴィヒ=ホルシュタイン問題 普墺戦争
北ドイツ連邦 スペイン王位継承問題 普仏戦争 セダン ドイツ帝国
ヴィルヘルム1世 連邦参議院 帝国議会 中央党 文化闘争
社会主義者鎮圧法 社会主義労働者党(のち社会民主党) 社会政策
三帝同盟 三国同盟 独露再保障条約 オーストリア=ハンガリー帝国
アルザス=ロレーヌ 第三共和国憲法 パリ=コミューヌ ティエール
ニコライ1世 農奴解放令 インテリゲンツィア ヴ=ナロード ナロードニキ
ニヒリズム 東方問題 オスマン=トルコ領内の民族運動 アレクサンドル2世
エジプト=トルコ戦争 クリミア戦争 聖地管理権問題 露土戦争
パン=スラヴ主義 サン=ステファノ条約 メフメト=アリー
ダーダネルス=ボスフォラス両海峡 ベルリン会議 ベルリン条約
パン=ゲルマン主義 ルーマニア セルビア モンテネグロ ブルガリア
ボスニア ヘルツェゴヴィナ
第1インターナショナル 第2インターナショナル 国際赤十字社
国際オリンピック大会 デュナン シュレスヴィヒ=ホルシュタイン
☆ 重要年代
イタリア王国の成立 ドイツ関税同盟の発足 普墺戦争の開始 普仏戦争の開始
ドイツ帝国の成立 フランス第三共和政の成立 農奴解放令の発布
クリミア戦争 露土戦争 ベルリン会議の開催
第1インターナショナルの結成
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