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1 西アジア・南アジアの動揺
カルロヴィッ条約
ワッハーブ運動
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1683年にオスマン帝国が第2次ウィーン包囲に失敗すると、オーストリアなどが神聖同盟を結び、バルカン半島でオスマン帝国への反攻をすすめてきた。これに抗しきれなくなったオスマン帝国は・イギリスとオランダに仲介を依頼し、条約締結となった。
1699年1月26日ベオグラード近郊のカルロヴィッで、オスマン帝国と、オーストリア、ヴェネツィア、ポーランドとのあいだに各国別の和平条約が結ばれた。これはオスマン帝国がはじめて経験する不利な条約で、ハンガリーのほぼ全域がオーストリアに、ポドリアがポーランドに、ペロポネソス半島のほぼ全域とダルマッィア沿岸部がヴェネッィアに割譲された。オスマン帝国はバルカンの領土の多くを喪失した。
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1744年、サウジアラビア、ナジュド地方のダルイーヤ(現サウジアラビア)の支配者サウード家のムハンマドと、宗教改革家アルワッハーブが会見し、イスラムの改革のための同盟を誓い合った。アルワッハーブは1703年にナジュド地方のウヤイナに生まれ、聖地メディナで学問を修めたのち、イラクやペルシア(イラン)を旅して故郷に帰った。やがて、彼はスンナ派イスラムのなかでも厳格なハンバル派、とくにイブン・タイミーヤの思想を受け継ぎ、イスラムの純化のためには聖典コーランと預言者ムハンマドの教えに帰れと主張それ以外のものは多神崇拝につながるとしてすべて否定した。
だが彼は、この過激な思想のために故郷を追われた。そんな彼を迎え入れ保護したのがサウード家である。そしてこの年、両者の同盟が成立し、以来サウード家は彼の指導に従う。
ダルイーヤの町にモスクを建設し、イスラムを熱心に勉強、近隣諸国への布教にも努力し、ワッハーブ運動が始まる。サウード家の軍隊はみずからをムワッヒドゥーン(唯ー神を信ずる徒)と称したが、敵からはワッハーブ派とよばれた。サゥード家の領土拡大とともにワッハープ派の教説も普及し、18世紀末には、ほぼアラビア半島全域に広がる。
1818年、エジプト軍が、アラビアの豪族サウード家の本拠でワッハ一ブ王国の首都ダルイーヤを攻囲、陥落させた。前世紀なかばにイスラム世界の改革を唱えて始まったワッハ一ブ運動は、1803年にはイスラムの聖地メッカを占領して勢いが盛んになった。それに対し、エジプト軍のアラビア遠征は、エジプト総督ムハンマド・アリーの号令下、1811年に開始されていたが、厳しい風土とワッハ一ブ軍の抵抗に、15年にようやくアラビア西部のヒジャーズ地方を平定するにいたった。この年4月からはアラビア奥地のダルイーヤに侵攻、激しい攻防戦を行ってきた。王国はこののち復興されるため、これが第1次ワッハ一ブ王国の滅亡となる。
【ヨーロッパ諸国の西・南アジア侵入】
A 16、17世紀のヨーロッパ人の進出
1 インド洋海域の制海権
15世紀まで、イスラム教徒 → 16世紀、ポルトガル
→ 17世紀以降、イギリス
2 アジア進出の目的
( )貿易 → 産業革命後、植民地化(原料供給地・製品市場)
B オスマン帝国の衰退
1 ヨーロッパ領の喪失
@ 第2次( )包囲の失敗
→ ( )条約(1699)でオーストリアにハンガリー
・トランシルヴァニアなど割譲
→ 18世紀にロシア・オーストリアに黒海沿岸とバルカンの一部割譲
【西アジア諸国】
→ オスマン帝国の衰退 → アジア・アフリカ領内で自立運動 → オスマン帝国の動揺
A アラビア半島
1 18世紀半ば、( )派(神秘主義や聖者崇拝を否定)運動台頭 → ( )家と結合 → ( )王国(1744年ごろ〜1818年。1823〜1889年)が半島統一
ワッハーブ派 − ムハンマドへの復帰を主張 − アラブ民族主義の先駆
B シリア
1 アラブ人キリスト教徒の「文芸復興運動」(1856年、シリア学術協会創立)
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