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2 東アジアの激動
シベリア進出
清の衰退
アヘン戦争
アロー戦争
太平天国の乱
シベリア進出 戻る
ロシアのシベリアへの発展は、16世紀の終わり、コサックのイェルマークがウラルを越えてイルティシュ川流域を征服したのにはじまる。
17世紀中ごろアムール川流域に進出して清国と争い、ネルチンスク条約で外興安嶺の北に退く。
17世紀終わりにはシベリアの東端まで達する。
ついで1720年以後、ベーリングがベーリング海峡を探検し、アラスカをロシア領とした。さらにロシア人はカムチャッカから千島列島を南下する。
1858年、英・仏・米・露が天津条約を締結したとき、ロシアのシベリア総督ムラビヨフは、太平天国と英仏連合軍との戦いに苦しむ清とアイグン条約を締結して、黒竜江以北の地をロシア領に編入した。1860年の北京条約によってウスリー江以東の地域もロシア領となった。現在の中国とロシアの国境の大枠はこのとき決定されたのである。
ロシアは中央アジアのコーカンド汗国を征服した後、1860年代のイスラム教徒の反乱に乗じて1871年イリを占領し、イリの返還をめぐって清との間にイリ問題がおこる。
清の衰退 戻る
乾隆帝は60年にわたる長い治世のあと、1795年子の仁宗・嘉慶帝に譲位し、1799年89歳の高齢で世を去った。
全盛期とされる康熙帝・乾隆帝のころから、各地で農民反乱が起こるようになっている。
嘉慶帝の時には白蓮教徒の大反乱があり、次の道光帝の時代には回教徒や少数民族をはじめ各地に反乱がおこり、騒然とした情勢になっていった。
イギリスのように工業が発達していたり植民地が開拓されていれば、土地を失った農民は工場労働者や移民となるのであるが、当時の中国では、国内の辺境に移住するとか、東南アジアに渡ったりする以外は、窃盗・略奪・アヘン・塩の密売などの反体制的活動で生活する。こうした秘密結社が、華北では白蓮会である。
白蓮会は元末14世紀以来、弥勒信仰と結びつき、民間宗教となり、河南・山東地方に勢力があった。これが、湖北・陝西・四川三省の境が接する山間地に流入した移民のなかにひろまり、それを清の官憲が弾圧したことによって、教徒の大反乱が起こった。この乱(1793〜1805年)は平定に10年を要し、清朝の正規軍である八旗・緑営では鎮圧することが出来ず、多くの農民の臨時部隊(郷勇)を組織してやっと平定することができた。
アヘン戦争 戻る
1997年7月、香港がイギリスから中国に返還された。この香港がイギリス領になったのが、アヘン戦争の結果結ばれた南京条約によってであった。
当時、イギリス・ランカシャーの綿業者は、東インド会社のインド貿易独占権を廃し、インドを自由貿易に開放することを要求してやまなかった。そしてついに1813年これが実現した。インドが自由貿易に開放されると、かつてのイギリスを市場とした綿織物の本場には、ランカシャーの綿製品が流れ込み、イギリスから銀をうけとっていたインドは、反対にイギリスに銀を支払う立場にかわっていった。
インドがたちまちランカシャー綿布の市場となったのは、インドがイギリス支配下にあって輸入税が2〜5%におさえることができたからである。
当時イギリスは産業革命の途上にあり、産業資本家は資金の需要が大きく、また市場の開拓の必要もあった。17世紀以来、イギリスの東インド会社と中国の行商(広州の外国貿易を独占した特許商人)との間に独占的に営まれる。貿易も広州一帯に限られていた。
東インド会社はインド貿易の独占権を失ったが、中国の貿易は依然として独占していた。東インド会社は行商の独占する広東の貿易を改善するため、イギリス政府に働きかけた。イギリスは1793年にマカートニー、1816年にはアマーストを派遣したが、どちらもなんら得るところはなかった。イギリスが東アジアに進出したときは、ヨーロッパ随一の大国であった。これに対して、清は中華意識にとらわれ、イギリスを朝貢国とみなし対等の貿易を許さなかった。
この固定観念からぬけでれない清は、1793年北京を訪問したイギリスのマカートニーに、乾隆帝の前に三度ひざまずいて9度額を地につける三跪九叩の礼をとることを要求した。マカートニーの礼節ある態度に感じた乾隆帝は、この礼を免じ謁見がおこなわれた。外国との貿易もできるだけ中央から離れた広東のようなところで、中国人から隔離しておこなわなければならないと考える清には、こんな要望は全くうけいれられるものではなかった。
イギリスは中国との貿易において、茶をはじめ絹・陶磁器などを大量に輸入するのに対し、イギリスの期待したランカシャーの綿毛紡績工業の製品がほとんど輸出できなかった。これをうずめるためイギリスは、インドで生産されるアヘンに目をつけた。アヘンは、イギリスの東インド会社が18世紀の末に、中国にもちこんだ。19世紀はじめ嘉慶帝はその輸入を禁止した。しかし、密輸は公然とおこなわれ、賄賂で官僚や巡視船の乗組員は買収されていたので実効はあがらなかった。アヘンを吸引する風習が清の朝野にひろがった。
中国の飲み物の茶が東インド会社によりイギリスに輸入されて、イギリス人の必需の飲み物となったが、それを買う銀を手に入れるため、こんどは東インド会社がインドのアヘンを中国に輸出、これが中国人の嗜好にぴったりきて、イギリスから茶の代金として受け取った銀をかえすことになったのである。そのため、中国の貿易は赤字をだし年々大量の銀が流出することになり、銀価の暴騰が国内の経済の混乱を引き起した。
当然、中国ではアヘン禁止のため強力な措置をとれという意見が有力となった。その代表的な人物が林則徐であった。林則徐が広東に赴任した。1839年林則徐は、広東のイギリス商店在庫のアヘンを提出させ、あつまった2万余箱のアヘンを、海水と石灰をまぜて海に流した。またこれを焼き捨てたともいう。林則徐の態度は厳正でいささかの妥協も許さなかった。
イギリス議会では、グラッドストンらの強い反対をうけたが、59票の差で出兵が可決された。グラドストンは次のように述べて反対した。
「その原因がかくも不正な戦争、かくも永続的に不名誉となる戦争を、私は未だかつて知らないし読んだことさえない。」
1840年イギリスの遠征隊が到着すると、事情は一変した。イギリスにとっては武力衝突のきっかけができることは歓迎するところであった。
広州郊外の農民1万余人は「平英団」の旗を押し立てて、広州西北の高地から撤退するイギリス軍千余名を三元里で包囲攻撃して、多数を殺傷したが、広州知府の説得により、イギリス兵は全滅をまぬかれた。
イギリス艦隊は北上して渤海湾に入り、天津の外港、白河口の大沽に達した。厦門・寧波を占領して年をこし、すすんで長江にはいり南京に迫った。清は林則徐を罷免し、講和をはかった。
南京条約は武力によって押しつけられたものであるとともに、中国がヨーロッパの外交になれていなかったこともあって、中国を不平等な半植民地的な地位におとす条項を含んでいた。すなわち、関税自主権の欠如・領事裁判権の承認や広東・厦門・福州・寧波・上海を開港場とする、香港の割譲などである。
翌年、虎門で細目の協定が決められる。つまり虎門条約ができ、五港にイギリス領事裁判権に服する専管居留地がおかれた。関税は5%と決められる。
こうして東アジアの大国・中国は開国されることになる。
アロー戦争 戻る
南中国の新たな5港での貿易は、イギリスが期待するほどには伸びなかった。中国の手工業の綿は安くて、イギリスの綿製品と十分競争することができた。また、清朝の排外的な態度はいっそう強くなり、外国使節との交渉をうけつけなかった。
そこでイギリスは、南中国だけでなく長江流域の港や北中国をも開港させる機会をねらっていた。きっかけさえあれば武力を発動させて、目的を達成させるつもりであった。
この時、アロー号事件が起こる。
1856年イギリス国旗をかかげ広東に入港したアロー号という中国船を、広東の中国官憲が捜査し、イギリス国旗をひき降ろしたことから問題がこじれた。
アロー号は中国人所有の帆船で、ローチャとよばれる香港登録船(香港が料金をとって中国船の登録をする)。船長はイギリス人であるが乗組水夫14名は中国人であった。海賊の疑いで中国の官憲が水夫、十数名を捕えるという事件がおこった。イギリス領事パークスはアロー号をイギリス船とみなし、捕えられた乗組水夫をイギリス領事館に引き渡すことを要求し、国旗侮辱・条約違反として中国側をせめた。イギリス国旗を侮辱し、イギリスの国土にひとしいイギリス船舶に侵入したことは治外法権の侵害とした。
ちょうどそのころ、フランスの宣教師が広西省で殺された。出先では穏やかに解決しようとしていたが、これを機に、野心に燃えるフランスのナポレオン3世は、イギリスのパーマストン内閣の主戦論と結んで両連合軍をおくりこんだ。
1857年イギリス・フランス連合艦隊によって広東はたちまち陥落し、翌年には連合軍が北上して天津にせまった。一方では、太平天国の農民軍が長江下流を占拠し、南京を首都としていたので、内憂外患によって清は大変な危機の状態に立たされた。
清はやむを得ずイギリス・フランスと天津条約を結ぶ。しかし、批准書の交換のため白河を北京に向かう両国の公使に、モンゴルの将軍でき欽差大臣のセンゲリンチンが攻撃を加えたため、1860年8月英仏連合軍は天津の大沽砲台を陥落させ北京に進攻した。
この際、フランス軍が円明園を略奪し、その後イギリス兵士が殺されたことに怒ったイギリス軍が円明園に放火した。結局、ロシアが仲介に入り北京条約が結ばれる。
太平天国の乱 戻る
広西省桂平県の金田村に、各地から拝上帝会の会衆が続々と集まった。彼らは家を焼き家族を連れて、金田村に集結してきた。1844年に広西への旅に出た洪秀全は、貴県でキリスト教の布教活動を行った。また、土着民との抗争に敗れた貴県の多くの客家が、石達開に率いられて加わった。民族差別に苦しむ金田村のチワン族の韋昌輝も、一族を率いて参加した。新会衆のなかで、いちばん積極的だったのは楊秀清だった。彼は極貧の中で育ち文字が読めなかったが、「降僮」とよばれるシャーマニズムにより神エホバのお告げを下した。また、チワン族の蕭朝貴はイエスのことばを伝え、人々の信仰を集めた。2人の口から発せられた「太平の事」に関する秘密指令は、満州人王朝の清朝打倒のための武装蜂起の準備だった。不穏な動きを察知した政府は官軍を派遣するが、拝上帝会に撃退される。ここに太平天国運動の幕が切って落とされる。
金田蜂起以後、清朝と本格的な戦いを始めた拝上帝教の会衆は、この日、広西省桂平県金田村で指導者洪秀全の誕生日を祝った。洪秀全も天王を名のり、清朝打倒と太平天国を立てることを明らかにした。洪秀全は金田村に結集した信徒を信仰のもとに兵士としてつくりあげて、北上を開始、九月には永安を占領する。移住民として差別されていた客家の多いこの地で、新たな参加者と物資の補給を得るとともに、太平天国の国号と、東・西・南・北・翼の5王以下の官制を定め、東王の楊秀清を中心に国家の体制づくりを始める。それは財産の私有を許さない聖庫制度など、軍事共産主義的色彩の強い組織である。ついで桂林を攻めるが苦戦する。しかし、広西から湖南へと北上するにつれ、徒党は膨れ上がっていく。
太平天国軍が、他の反乱軍と異なる最大の特徴は、その禁欲的な規律にある。「モーセの十戒」にならって十か条の軍律が定められた。略奪を禁じ、「民家に右足を入れた者は右足を切った」という。性についての禁令も厳しく、男宮女営に分けられた会衆は、夫婦でも密会すれば斬刑である。この厳格な統制と物資の公平な配分で、太平天国軍は民衆の信頼を勝ちとる。一方で洪秀全らは、これまでの古めかしい習慣や儒教の身分倫理をそのまま採用していた。たとえば、臣下の君主に対する絶対服従や多くの妻を抱えること、功績をあげた者は功に応じて世襲官僚となる、といったことである。のちに整えられる法律には、罪を犯した者を唄乏めて民とする」ともある。民衆が期待する新政権だが、官尊民卑という抑圧的な構造は維持されたままである。にもかかわらず、太平天国軍は、50万を超える兵員をもって1853年三月南京を占領する。
湖北省武漢を陥落させたのち、揚子江を下って南京郊外に達した太平天国軍は、城門を爆破して城内に突入、数日間の激戦の末に南京を占領した。この日、洪秀全は群衆の歓呼に迎えられて入城し、ここを天京と改名して太平天国の首都とした。
天京では軍事共産主義にもとづく社会制度が整えられることになる。また土地公有制による貧富の格差廃絶をうたった天朝田畝制度が公布されるが、小作料不払いなどで地主と対立してきた江南の農民がこの公有制になじまないだけでなく、地主の抵抗もあって土地改革はうまくいかない。一方、この年李開芳率いる北伐軍が北京に向けて出発する。同軍は天津に迫り北京をパニックに陥れる。
アメリカ、イギリス、フランス三カ国の外国人将校に率いられた部隊が、上海に進攻しようとする太平天国軍を撃退した。常勝軍とよばれたこの部隊は、1860年の太平天国軍の上海進攻にあたり、アメリカ人フレデリック・ウォードらが租界地確保のため結成した中国人の傭兵部隊だった。同年の北京条約の締結により英仏の2ヶ国が清朝支持に転じると、常勝軍はヨーロッパ製の武器をもって増強、太平天国軍に大打撃を与えた。当初太平天国はキリスト教国家のヨーロッパに友好的な態度をとっていた。しかし、英仏の干渉が露骨になるにつれ警戒心を強め、英仏側に反発していた。しかし、忠王李秀成の上海進攻も、近代兵器、なかでも大砲の威力の前にはどうすることもできず、敗退をよぎなくされた。
イギリス人チャールズ・ゴードン率いる常勝軍と淮軍との共同作戦は、中国の軍隊近代化の先駆けともなる。
1862年以来の天京(南京)攻防戦で城外に迫っていた曽国藩が率いる清朝の湘軍は、1864年城壁を爆破して内部に突入した。殺戮と略奪を尽くし、天王洪秀全の遺骸を確認すると、暴行の証拠隠滅のため、南京全城を焼き払った。1856年の天京内乱により「人々の心はバラバラ」となった太平天国だったが、洪秀全は、忠王李秀成、英王陳玉成らを新五軍主将に抜擢した。だが1862年に英王が、反清の私党捻軍の裏切りにあって死亡し、天京上流の戦略拠点安慶が湘軍の手に落ちると、再び戦局は太平天国にとって不利となった。また李秀成が進出した江南の各拠点も、清朝李鴻章の准軍と欧米の傭兵部隊常勝軍によってつぎつぎと奪われた。天京防衛が困難とみた李秀成は、投降を図る部下を尻目に洪秀全のもとに戻り、天京を捨てることを進言した。しかし洪秀全は李秀成の弱気を激しく責め、彼に天京死守を命じた。2年にわたる天京攻防戦は、飢えに苦しむわずかな将兵によって戦われた。この間病床にあった洪秀全は、「朕はこれより天国に上り、天兵を得て天京を守らん」という最後の詔を発して、ついに50歳で病死した。
洪秀全の死後、1か月あまりで天京は陥落した。各地に残る太平天国軍はその後も抵抗を続けるが、やがて各個撃破されていく。
【ロシアの東方進出】
A シベリア進出
1 イェルマークのシベリア征服(16世紀後半、イヴァン4世のとき)
→ 太平洋に達する(17世紀前半)
2 黒竜江(アムール川) 岸に南進 → 清と接触、国境や通商のとりきめ
@ (1 )条約(1689年、ピョートル大帝)
A (2 )条約(1727年、雍正帝)
3 ベーリングの探険(ピョートル大帝、18世紀はじめ) − カムチャッカ半島・アラスカ
4 ラクスマンが北海道に来航(1792年、エカチェリーナ2世)
B 東シベリア総督(ニコライ1世が設置) (3 )(19世紀中頃)の外交
1 黒竜江岸に進出、太平天国の乱・アロー戦争を利用
→ (4 )条約(1858年) で(5 )以北を領有
2 (6 )年、(7 )条約 − アロー戦争を調停
(8 )を獲得し、(9 )建設(シベリア鉄道起点)
→ 太平洋進出の根拠地
C 中央アジア・イラン進出
1 イスラム教徒の反乱を機にイリ地方へ進出
→ (10 )条約(1881年) − 清との国境を有利に確定
2 19世紀後半、ウズベク族の(11 )・ヒヴァ・(12 )の3ハン国を支配下に
3 イランのカージャール朝とトルコマンチャーイ条約(治外法権を獲得)
→ 不凍港の獲得・海洋への進出めざす → 国際緊張を高める一因
【アヘン戦争とアロー戦争】
A 清の衰退
1 (13 )帝の末期以後、官僚の腐敗など
→ (14 )の乱など、民衆の反乱
2 ヨーロッパ諸国の圧力
B 清の貿易制限
1 1757年以来、交易を(15 )1港に限定、特許商人の組合(16
)が交易を独占 → イギリスの不満
(17 )(1793年、乾隆帝) 、(18 )(1816年) 派遣し、
撤廃を要求 → 成功せず
2 貿易の変化
@ 18世紀、イギリスは中国から(19 )を輸入し、新大陸からの(20 )を中国へ
A 18世紀末から
インド産の(21 )を中国へ
中国の茶をイギリスへ
イギリスの(22 )製品をインドへ
= (23 )貿易
B 中国ではアヘンの密貿易が増え、大量の銀が国外へ流失
C アヘン戦争(1840〜42年)
1 経過
@ アヘンの吸飲がひろがり、銀の国外流出
A (24 )(欽差大臣)を派遣
アヘンを没収廃棄し、イギリスとの貿易禁止
→ イギリスは(パーマストン外相)は武力で自由貿易を実現
→ 開戦(アヘン戦争)
→ 清はイギリス軍に連敗
→ (25 )事件(1841年、民衆の反英闘争)
2 (26 )条約(1842年)
(27 )を割譲、5港(上海・寧波・福州・厦門・広州)の開港
(28 )の廃止
→ 虎門寨追加条約(1843年)
領事裁判権・最恵国待遇を認める不平等条約
アメリカと(29 )条約、、フランスと(30 )条約(1844年)
D アロー戦争(1856〜60年)
1 イギリスは条約改定の機会をうかがう
→ アロー号事件(1856年) 、フランス人宣教師殺害事件(1856年) を口実に、
イギリス・フランスが共同出兵
2 広州を占領 → 北上して天津に迫る → (31 )条約(1858年)
→ 清が批准書の交換を阻止 → 北京を占領(1960年)
→ (32 )(ロシア) が講和を仲介
→ (33 )年、(34 )条約
公使の北京駐在、天津など11港の開港、(35 )教布教の
自由、アヘンの輸入公認など、(36 )の南部を割譲
3 総理衙門の設置(1861年) → 対等外交の開始
【太平天国の興亡と洋務運動】
A 太平天国の乱(1851〜64年)
1 背景
アヘン戦争の出費と賠償金の負担 → 銀価の急上昇、あいつぐ天災
→ 民衆の生活が窮乏、失業者・流民が激増
2 経過
@ (37 )が(38 )を組織し、(39 )年、(40
)省で挙兵し、太平天国を建てる
A 北上して南京を占領、天京と改称して首都(1853年)
→ 民衆の支持
「41 」をうたい、(42 )教と中国思想を調和、
悪習の撤廃(アヘン吸飲、纏足の禁止など) 、男女平等、土地の均分(43 )制
度(土地私有禁止、年齢に応じ給田)など
3 滅亡
@ 内部の対立、理想の政策は実現せず → 内外の支持を失う
A (44 )(地主の義勇軍)が活躍
(45 )の湘軍、(46 )の淮軍、(47 )
の楚軍など
→ イギリス人(48 )の率いる常勝軍が協力
B 1864年、滅亡 → 近代中国の民族運動の源
→ 清朝の無能と軍隊の弱体ぶり、平定に活躍した漢人官僚の政治的地位を
高める
B 洋務運動と同治中興
1 洋務運動 − ヨーロッパ文化の摂取による富国強兵
@ (49 )
中国の伝統的制度を本体とし、西洋文明を手段として利用する
→ 旧体制の維持にとどまる
A (50 )・(51 )ら漢人官僚が推進
→ 同治帝の時代 − 一時的安定期 = (52 )とよぶ
2 清仏戦争・(53 )戦争(1894〜95年)に敗北し、限界をさらす
【朝鮮の開国と日清戦争】
A 日本の変革
ペリー来航(1853年) → 日米和親条約(1854年)・日米修好通商条約(1858年)
→ 開国・維新 → 富国強兵策 → 征韓論台頭 → 台湾出兵(1874年)
→ (54 )島事件(1875年) → (55 )条規締結(1876年、不
平等条約)
B 朝鮮
開国後、(56 )党(金玉均ら親日派) と事大党(親清派) が対立
→ 壬午事変(1882年、大院君を擁立) → (57 )事変(1884年、独立党のクーデタ失敗)
→ 天津条約(1885年) で日本勢力後退
C 日清戦争(1894〜95年)
1 甲午農民戦争(58 党の乱)(1894年) → 日清開戦 → 清敗北
2 (59 )条約(1895年)
朝鮮の独立、(60 )半島・澎湖島・(61 )の割譲、清の開港
場増での日本人企業の設立、賠償金の支払い
3 影響
@ 日本とロシアの対立が深まる
A 清の弱体暴露 → 列強の侵略激化
☆ 重要語句
ネルチンスク条約 キャフタ条約 東シベリア総督 アイグン条約 北京条約
ムラヴィヨフ アムール川 ウスリー江以東(沿海州)ウラジヴォストーク
ボハラ・ヒヴァ・コーカンドの3ハン国 イリ条約
トルコマンチャーイ条約 白蓮教徒の乱 公行 マカートニー アマースト
イリ 広州 三角貿易 東インド会社中国貿易独占権廃止 アヘン戦争
南京条約 望厦条約 黄埔条約 林則徐 アロー号事件 アロー戦争
フランス人宣教師殺害事件 天津条約 北京条約 太平天国 上帝会 滅満興漢
天朝田畝制度 洪秀全 郷勇 湘軍 淮軍 洋務運動 同治中興 中体西用
常勝軍 曽国藩 李鴻章 ウォード ゴードン 天京
☆ 重要年代
イリ条約の締結 アヘン戦争の開始 南京条約 アロー戦争 太平天国の乱
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