第15章 帝国主義の成立とアジアの民族運動
1 列国の国情と帝国主義の成立
帝国主義の成立 戻る
19世紀後半からしだいに小企業は没落して、少数の大企業が独占的な地位を占める。また銀行などの役割が大きくなり、金融資本が大規模な投資で大企業を支配した。
やがて、国内市場が限界に達すると、この金融資本は地球のあらゆるところで、もっとも有利な投資の対象を求める。これが列強の対外進出となってあらわれる。こうして彼らはヨーロッパ以外のエジプト・中国・イランといった低開発国に資本を投下する。先進資本主義国間の、原料の獲得・商品の市場拡大・資本投下市場を求めての弱肉強食の争いがはじまる。
個人の資力によってまかないきれない重工業を通じて工業化に入った大陸諸国は、ドイツをはじめ、工業は銀行を通じて資本を調達。銀行は産業に対する金融機関として出発。ドイツの銀行は、その影響下にある重工業の集中とともに集中化され、19世紀末には6大銀行、フランスでは3大銀行が支配的地位を高める。
しかし、フランスでは1899年において、人口の60%が農業、しかもフランス革命の遺産で零細な分割地農民が多かったから、余剰の資本は工業に投資されず、国債と対外投資に流れていく。積極的な海外植民地の獲得と並行して、フランス資本はロシアをはじめとするヨーロッパの後進国へ進出。こうして、フランスは「ヨーロッパの高利貸」と呼ばれる金利生活国家の性格をおびる。
1880年代以降、チュニジア・西アフリアカ・インドシナ・マダカスカルなどの征服が精力的に進められていく。こうしてフランスの植民地は、1870〜90年のあいだに面積で18倍に拡大。
ただし、イギリスやドイツなど他の国々にくらべて動きははるかにゆっくりしたもの。こうした立ち遅れの理由は、小農民の広汎な存在。低賃金労働者の出現をさまたげ、国内市場をせばめ、資本の蓄積をさまたげる。その他、石炭が自給できないことは製鉄業にとって致命的であった。ただし鉄鉱には恵まれていた。
1880年代後半から1900年にかけて、フランス第3共和政は再三政治的危機に見舞われる。
イギリスの帝国主義への転換は、保守党ディズレーリ内閣のときである。エジプト太守からスエズ運河株を買収。スエズ運河の経営に強力な発言権を持つ。ついで彼はビクトリア女王に「インド皇帝」の帝冠を与える。
イギリス 戻る
スエズ運河
19世紀の中ごろ、フランスの領事フェルディナンド・ド・レセップスは、アフリカのスエズ地峡を横断する運河建造の構想を発表した。
レセップスはこの事業の株を分担するようヨーロッパ諸国に申し出た。彼は各国が喜んで参加してくれるものと思っていた。しかし、イギリスは、運河会社の全株式の5分の1にあたる8万株を引き受けるよう申し込まれたが、その意志はないと断わった。
当時まだ新興国であったアメリカ合衆国は、国際的な紛争に巻き込まれるのを恐れ、レセップスが申し出た2万株の購入を拒絶した。
結局、エジプト政府が会社の全株式の16分の7にあたる17万7,000余株を引き受けることになった。残りのうち、全株式の半分以上にあたる約20万7,000株は、2万1,000人のフランス人が購入した。彼らの大部分は小規模な投資家で、1人で100株以上購入したのは、わずか188人しかいなかった。平均すると1人9株である。世界的な意味をもつ事業に、数万の個人が金銭をかけたのである。
10年にわたる大工事ののち、1869年11月17日、スエズ運河は開通した。開通式の朝、ポートサイドの港内には、ヨーロッパ各国からの軍艦、商船、その他の艦艇が、80隻以上も停泊していた。
午前8時をすぎてまもなく、1発の砲声が空にこだまし、フランスの皇室用ヨット、レーグル号が皇后ウージェニーを船橋に乗せて、先頭をきって新しい運河にはいっていった。各国の皇族を乗せた船が、それに続いて10分おきにはいってゆく。オーストリア皇帝フランツ・ヨゼフを乗せた巡洋艦、プロイセンの皇太子が乗った砲艦、オランダの王子と王女の船が次々と行く。
スエズ運河が世界貿易に与えた影響は、大きなものだった。160キロの砂漠が切り開かれたことによって、喜望峰回りの航海はほとんど必要なくなり、イギリスからインドまでの距離が、6,000キロ以上も短縮されたのである。1870年、運河が開通して最初の年に、総計43万7,000トンの船舶がそこを通った。そして、その3分の2はイギリスの船だった。
そのため運河が使用されるようになるとイギリスは考えを変えて、株式の取得に乗り出した。エジプトの藩王イスマイル・パシャは、1875年、莫大な借金を整理するために、スエズ運河の株を売りに出した。
イギリスの首相ベンジャミン・ディズレリは、運河株に目をつけていたフランスを出し抜いて、ただちに400万ポンドの資金を調達すると、エジプトが所有していた16分の7の株を購入した。
フランス 戻る
ドレフュス事件
1890年代に、フランスはドレフュス事件によって大きくゆり動かされた。この事件は、フランスを世論を二分し、のちの首相レオン・ブルムは“事実上の内乱”といった。
ユダヤ人将校でフランス参謀幕僚アルフレッド・ドレフュス大尉は、1894年、軍の機密をドイツに売り込んだというかどで逮捕・有罪になり、フランス領ギニアの悪魔島へ流刑となった。
ところが2年後に、犯人はドレフュス大尉ではなく、エステラジー少佐の仕業である証拠が発見された。しかし軍は、裁判を再開することをこばんだうえに、ドレフュスの有罪を確認する書類を捏造したのである。
この事件で、フランスは戦場のような様相を呈することになった。人々は、カフェで、議会で、出版物で、家族の間で、議論を行なった。
論点は、ドレフュスが有罪か無罪かということより(最後には、彼がまったく無実であったことが判明する)、むしろひとりの人間に対する不正をとりあげて、おりしも対独関係において重大な役割りを果たしているフランスの軍隊を攻撃することが、はたして正当であるかどうかということであった。
この問題を中心として、教会対国家、右翼対左翼、キリスト教徒対ユダヤ人、貴族対一般民衆、君主制対共和制などの問題が論じられた。
ドレフュスの擁護者たちは、アンシャン・レジーム(旧体制)を復活しようとしていた王制主義者、聖職者、軍の上層部などの反動勢力と闘った
一方、ドレフュスの攻撃者たちは多くが反ユダヤ主義者であった。彼らは、マルクス、トロツキーのごときユダヤ人革命家を嫌悪していたばかりでなく、ユダヤ人を軽蔑していた。反ユダヤ系の雑誌“自由の言葉”が、ドレフュスの偽造書類をつくった人物の未亡人のために救援資金を募集したことがあったが、そのとき募金者は、募金に手紙を添えて、ユダヤ人は新式の銃や爆発物をテストするための標的として使用されるべきであるとか、ユダヤ人は盲にして毒を飲ませ、下水の中に投げ込んでしまうべきだといったことが平然と語られた。
ドレフュス事件によってフランスの保守派の勢力は弱まり、第1次大戦まで、3年間を除いて、急進的な政府がフランスを支配したのである。
ドイツ 戻る
皇帝ヴィルヘルム1世の死〈1888年〉によって、ビスマルクの信任に対する最大の支持が失われる。次の皇帝フリードリヒ3世が後をつぐが、皇帝は死の病におかされ在位99日で亡くなる。ヴィルヘルム2世が後をつぐが、若き皇帝は帝国の政治にみずから関与しようとし、親政をのぞんだ。帝国の産みの親であり育ての親であるビスマルクが宰相であるかぎり、皇帝の意向にかかわらずに政治をおこなうので、それを実現することはできない。
ヴィルヘルム2世とビスマルクの対立
「社会主義者鎮圧法」─1890年、ビスマルクは有効期限の延長を主張。皇帝は取締りをゆるめようと思う。
ロシアとの再(二重)保障条約 ─ ビスマルクはつづけようとするが、皇帝はそれを拒否した。
ビスマルクの辞任により皇帝の親政政治にうつる。このビスマルクからヴィルヘルムへの交代は、ドイツの対外政策に根本的な変化をおこした。
ビスマルクの辞任後、「新航路政策」 ─ 皇帝とティルピッツ海軍卿が推進した艦隊政策。「ドイツの将来は海上にあり」。イギリスに深刻なショックを与える。軍艦つくりの競争がはじまる。イギリスは日英同盟を結び、フランスと協約を結び、ドイツの攻勢に対抗した。ドイツ経済の飛躍的な海外発展は、ドイツの世界帝国としての地位を高めた。このことは、ドイツの帝国主義的膨脹に対する世論の支持勢力を形成することになった。
ビスマルクの辞職とほぼ同時に、「社会主義者鎮圧法」の廃止。その結果、社会民主党が合法政党として結成され、急速に勢力をのばす。
ロシア 戻る
1860年代に自由主義的改革をおこなったアレクサンドル2世が、1881年3月1日首都ペテルスブルクで一テロリストの爆弾によって暗殺された。後継者は二男のアレクサンドル3世。父の暗殺は決定的で生涯をつうじて、いっさいの民衆の運動に不信の念をもち、皇帝専制政治をおこなう。支配を強化する改革が次々とおこなわれた。それは次のニコライ2世の時代にも、そのまま受け継がれていく。
しかしロシアでも資本主義が発展してくる。労働者の数も増大。社会主義思想が生まれてくる。そうして、ロシアでも近代的な政党がしだいに形成される。1898年、社会民主労働党。これは、1903年のロンドンの第2回党大会で分裂して、レーニンのボリシェヴィキとマルトフらのメンシェヴィキになる。これよりやや遅れて成立した社会革命党や、1905年第一次革命のあと結成される立憲民主党などである。
議会が設けられないうちに政党ができた。しかも、議会設立以前の政党は、政治的活動の自由を束縛されていたので、いきおい地下組織とならざるを得ない。
3週間前に難攻不落をほこった旅順は日本軍に占領され、ロシアは日露戦争での新たな打撃をこうむっていた。皇帝ニコライ2世はこの戦争を利用して政府に対する国民の支持を得ようと望みをかけた。ガボン神父の提案で労働者たちはニコライ2世に民衆の窮状を直訴することを決議。嘆願書をととのえ、彼らがニコライ2世に求めたのは参政権と議会・一日8時間労働制などであった。
7月22日日曜日の昼前、人々は嘆願書を皇帝に手渡すため、「冬の宮殿」前の大広場に参集した。
その数は十数万との20万ともいわれる。日曜日にふさわしい気分で一張羅を着込み、子供づれでやってきた人も多かった。多くの人が皇帝の写真を掲げていた。先頭をいくのはガボン神父。
群衆を見て、役人たちは警戒をはじめた。群衆が前進すると、宮殿の前に待ち構えていた近衛連隊は発砲した。馬に乗ったコサック騎兵が鞭とサーベルを手に群衆の中に突っ込んだ。阿鼻叫喚の大混乱となった。女・子どもは血にまみれた雪のなかに倒れた。夕方までに一千人の人々が殺され、何千人もの人々が負傷した。
奇跡的に死をまぬかれたガボン神父は、ロシアの労働者たちにあてて公開状を書いた。
「皇帝は存在しない。今こそロシアの労働者は皇帝に頼ることなく、自分たちの手で国民の自由を勝ち取るために立ち上がるべきだ」。
ロシアに産業革命が訪れてのはかなり遅く、最盛期に入ったのは1890年代。巨額の外国資本が流れ込んだ。都市における生活条件はひどかった。しかし、そのような状態を是正しようとした西ヨーロッパ諸国と違い、ロシアは何の対策も講じなかった。
「血の日曜日事件」の余波は、ロシアのほかの都市に広がる。約50万人の労働者がストに突入。5月には、22隻のロシア艦隊が対馬海峡で、日本艦隊のために全滅した。
市民の騒乱はますます激しくなり、農民たちも地主の邸を焼き払い、略奪を働いたりした。やがて不穏な動きは、軍隊にまで及び、6月にオデッサに停泊中の黒海艦隊の戦艦ポチョムキン号の乗組員たちが反乱をおこし、「専制政治を倒せ、国民議会万歳」とさけび、7人の士官を殺すという事件がおこった。
8月ニコライ2世は、代表議会制を承認した。10月には大規模なストライキがおきる。ストライキは労働者の評議会すなわちソヴィエトの采配によっておこなわれる。最高時には400の代表者を数えたソヴィエト。
ニコライ2世は10月宣言をだし、民主的に選挙された立法権をもつ議会(ドゥーマの設立)し、立憲政体を取ることをみとめ、言論・集会・良心の自由などの基本的人権を国民に対して認めた。
穏健派はこれに満足して革命は終息にむかった。こうして、1905年の革命は下り坂にむかい、第一次ロシア革命は終わりを告げた。
第一回の選挙で議会には立憲民主党(カデット)などの自由主義のグループが進出。
皇帝は議会を解散し、弾圧政治家として有名なストルイピンを起用。5年間で4千人が処刑され、絞首台は「ストルイピンのネクタイ」とよばれた。彼が政権を握って5年目の1911年、彼自身が暗殺されてしまう。
無政府主義者・バクーニン 戻る
彼はロシアの貴族だったが、1835年に帝国近衛連隊をやめ、ヨーロッパ各地を旅しながら、革命運動にかかわった。1848年のパリでの二月革命に参加したあと、1849年にはサクソニアの反乱に参加した。そのとき投獄されて、ロシアに送還された。そして6年以上の投獄のあと、シベリアに追放された。
しかしバクーニンは、1861年にシベリアから脱出し、イギリスのロンドンにわたって、再び活動を開始した。
1868年、ロンドンで創立4年目を迎えた第1インターナショナルに加わっている。しかし、結局マルクスとはげしく対立し、数年後には追い出された。マルクスは、プロレタリアート独裁の国家を考えたが、バクーニンは国家そのものを消滅させることを目ざしていた。
バクーニンは社会における唯一の支配権力は、個々の人間自身であり、国家というものは幻影にすぎないと信じていた。この究極的な自由のためには、極端な暴力も正当化されるとバクーニンは考えていた。彼は、“たくましい、野性的な分子”である社会の下層階級を束縛から解き放し、“荒れ狂う大雪崩のごとくに敵をのみつくし、死滅させなければならない。”と語っている。
1890年代、パリでは、“新しき曙”、“黒旗”、“人民のさけび”、“たいまつ”、“鞭”などの無政府主義雑誌が続々発行された。そして爆弾が直接行動の道具として用いられるようになった。1881年から1901年の間に、アナーキストたちは、国家元首を5人も暗殺している。1881年、ロシアのテロリストの秘密結社“人民の意志”は、アレクサンドル2世の乗る馬車目がけて、2個の爆弾を投げつけた。皇帝は足に傷を負い、出血多量でまもなく死んだ。この計画は7回の失敗ののち、ついに成功を収めたのである。
1894年には、フランスの首相サディ・カルノーが、リヨンでイタリアのアナーキストに暗殺された。1898年には、オーストリアの皇妃エリザベートが刺殺された。犯人のアナーキストは、だれでもいいから最初に見かけた皇族を殺す誓いをたて、ちょうどジュネーヴ湖畔でボートに向かって歩いてゆくエリザベートを見かけて殺したのであった。
1900年、イタリアの国王ウンベルト1世は、モンツァでアナーキストの暗殺者の手によって最期を遂げ、翌年には、アメリカ大統領ウィリアム・マッキンレーが、ニューヨーク州のバッファローにおいて、アナーキストによって射殺された。
ロシアでは社会革命党が独裁政権を暴力によって転覆しようとした。社会革命党員はマルクス主義者ではなく、彼らの基本的な目標は、農民の生活向上と、土地の社会化であった。社会革命党のテロリストは、文部大臣、秘密警察の長官、それに地方長官1名を殺した。1904年には、ユダヤ人虐殺の扇動者として憎しみを買っていた内務大臣ヴェンツェル・フォン・プレーヴエの暗殺をはかった。そして1905年には、セルゲイ・アレクサンドロヴィッチ・ロマノフ大公を、その馬車と馬もろとも爆弾によって吹き飛ばした。暗殺者は、カリエフという青年であった。彼は法廷で裁判官に向かい、“我々は、互いに戦い合う2つの陣営であります。2つの世界ははげしく衝突しているのです。あなたがたは、そのうちの資本と弾圧の代表者であり、この私は人民の復讐者の1人なのです”と述べた 。
アメリカ 戻る
フロンティアの消滅
西部への開拓に象徴されるアメリカの一時代が終わる。
急速に発展を遂げる工業は、1880年代にはイギリスをおいこして世界一の生産を誇る。鉄道も数本の大陸横断鉄道を軸に全国にくまなく網の目のように張りめぐらされた。
スタンダード石油会社のように多くの会社を合併して大トラストをつくる独占が、自由な競争のにとってかわろうとしている。産業の巨大な発展。商工業のための新しいフロンティアを海外に求め始めた。ラテン=アメリカ市場を我が物にしようとする
もうひとつの大きな目標は中国であった。カリブ海からパナマ地峡運河を通り、太平洋を通って中国にいたる。
カリブ海のキューバでホセ=マルティがスペインに対し、独立戦争を開始。アメリカ人は革命軍に同情し、アメリカが革命政府を援助することを要求。
「メイン号」爆破を機に、スペインに宣戦した。アメリカ軍は連勝し、マニラを占領。フィリピン・グアム・プエルトリコを領有することになった。ほとんど損害もなく、スペインを破り一挙に広大な海外領土を手に入れた。
「大きな棍棒をたずさえ、穏やかに話せ」─ ルーズヴェルト大統領の外交モットー。
パナマはかつてフランス人レセップスが運河建設に失敗したところで、ルーズヴェルト大統領はその権利を買う。パナマの住民を扇動してコロンビアからのパナマ独立を支援。海兵隊を上陸させてパナマを保護下に置き、その独立を承認。
パナマ運河は10年かかって、1914年に開通した。
タフト大統領は「銃弾にかえるにドルをもってする」と述べる。ドル外交。
ウィルソン大統領は、外交おける道義性を強調し「宣教師外交」とよばれる。
米西戦争から第一次世界大戦に参加した1917年に胃たる20年間は「海外膨張の時代」「帝国主義の時代」といわれる。
(未完)
【帝国主義】
A 成立の背景
1 第2次産業革命 − 電気・石油が動力源、重工業が中心
→ 巨大な設備投資と商品の大量生産
2 企業の集中・独占(カルテル・トラスト・コンツェルン)
→ 独占資本の成立
B 帝国主義の特徴
1 ( 1 )資本(銀行資本と産業資本が結合して形成された独占資本)
の支配
2 資本の投下(
→ 利潤追求のため余剰資本を海外へ)
→ 資本の投下先としての植民地の重要性
3 帝国主義による世界分割がはじまる
(→1870年代以後、世界の植民地化)
C 帝国主義国相互の争い
1 イギリス・フランス (広大な植民地を領有)
に対し、新興国のドイツ・イタリア・日
本などが植民地再分割要求
2 列強の国内では、帝国主義政策に反対する社会主義の運動がすすむ
3 後進国や植民地には民族主義の反抗がおこる
【イギリス】
A 帝国主義政策 − 1870年代から
保守党の( 2 )内閣
(1874〜80年)
@ (3 )の株式を買収(1875年)
A (4 )成立(1877年)
B 露土戦争に干渉 → キプロスを島獲得
→ 植民相(5 )(自由党をはなれて保守党へ)
( 6 )戦争(1899〜1902年)を指導
植民地会議( 1887年。→1907年より帝国会議と改称)を開催
保護関税政策を主張
B ( 7 )の成立
(1906年) と議会政治
1 ( 8 )協会
(1884年、ウェッブ夫妻)、独立労働党(1893年、ケア=ハーディ指導 ) 、
労働組合、社会民主連盟
(1881年、マルクス主義団体)が合同し、労働代表委員会
(1900年)
→ (9 )となる(1906年)
漸進的な改革により社会主義を実現(議会主義)
2 自由党内閣は、( 10 )党の支持で国民保険法などの社会改革
3 1911年、( 11 )法の成立(アスキス内閣) = 下院の優越が決定
C アイルランド問題
アイルランド自治法成立 (1914年、自由党内閣)
→ 北アイルランド(アルスター)のイギリス人が自治法に反対
→ (12 )党(独立を主張)
との対立が激化
→ 第1次大戦を理由に自治法の実施を延期
→ イースター蜂起(1916年、首都ダブリンで反乱)
【フランス】
A 帝国主義政策
→ 産業革命の進展では、ドイツ・アメリカにおいこされる
1 銀行 (金融資本)は海外投資で利潤を蓄積 − 「ヨーロッパの高利貸し」
2 1880年代から、海外進出 (インドシナやアフリカ)
→ イギリスにつぐ大植民地をつくる
B ドイツ復讐心の高まり、右翼・軍部の陰謀
→ 政府・世論の反撃
@ (13 )事件(1889年
元陸相ブーランジェを中心とする右翼のクーデター未遂事件
A (14 )事件(1894年)
ドレフュス大尉 (ユダヤ系)がスパイの嫌疑で終身刑
→ 文豪(15 )、「私は弾劾する」
→ その後も、左右両派の政争がつづく
C 社会主義運動 − サンディカリズムが強い
(過激な労働組合運動、議会主義を否定)
フランス社会党 (1905年)、労働総同盟(1895年)
→ ドイツへの敵意
( 16 )同盟(→ ロシアへ資本輸出)、(17 )協商(1904年)
【ドイツ】
A 帝国主義の始まり
1 ( 18 )年、皇帝(19 )の即位
@ (20 )は辞職 − 皇帝と意見があわず
A 積極的な帝国主義政策へ = 大海軍を建設 → 新航路政策
→ めざましい資本主義の発展
重化学工業の躍進、イギリスをしのぐ
→ 植民地の必要性増大
B 社会主義勢力の増大
1 1860年代のラサールの社会主義運動とベーベルのマルクス主義の運動
→ 1875年に合同(のちのドイツ社会民主党)
2 ( 21 )法が廃止(1890年)
→ (22 )党が議会の第1党に発展
→ (23 )(右派の指導者)の(24 )主義(議会主義による改革を主張)
→ 今日の社会民主主義の基礎
【ロシア】
A 19世紀末、アレクサンドル3世、(
25 )の専制政治続く
1 資本主義の発展
@ 1890年代、(26 )資本の援助で資本主義の発達(重工業中心)
A (27 )鉄道の建設 → 極東へ
B 劣悪な労働条件・低い生活水準 → 狭い国内市場
2 工場労働者を基礎に( 28 )主義運動が広まる
@ (29 )(1898年、マルクス主義政党)
→ 政府の弾圧 → プレハーノフ・(30 )ら亡命
A 社会民主労働党の分裂(1903年)
( 31 )の率いる(32 )(多数派の意)
− 急進的革命
( 33 )の率いる(34 )(少数派の意)
− 漸進的
B (35 )党 − ナロードニキの流れをくむ
→ (36 )党 − 議会主義をとる有産階級の自由主義者
ヴィッテ
(ポーツマス会議の代表)ら自由主義に理解をもつ政治家もあらわれる
B 第1革命(1905年)
1 ( 37 )戦争の不利で国民の不満高まる
→ (38 )事件を機に、革命がおこる
戦艦ポチョムキン号の反乱 → (39 )(労働者の評議会)
が結成
→ 皇帝ニコライ2世は譲歩し、(40 )を発布(ヴィッテが起草)
( 41 )を設け、憲法制定を約束
→ 革命は沈静化
2 反動政治の強化
@ 首相(42 )の農業改革(1906年)
( 43 )(農村共同体)
を解体 → 農民の貧困・社会不安の増大
A 露骨な南下政策 → (44 )半島で国際対立が激化
【アメリカ】
A 経済の発達と帝国主義の傾向
1 1890年代、工業はイギリスをぬき世界第1位
2 フロンティアの消滅 → 帝国主義の傾向
3 産業独占の弊害(トラストが主)
→ 労働組合の進展
( 45 )結成(1886年、AFL)
、IWW結成(1905年、未熟練工)
B ( 46 )大統領
(1897〜1901年、共和党)
1 産業保護のため高関税政策
2 ( 47 )戦争(1898年、ファショダ事件の年)
− キューバの独立を援助
→ キューバを保護国化、グァム・(48 )を領有
3 ( 49 )併合(1898年)
4 ( 50 )(国務長官)の(51 )宣言(1899年)
→ 中国進出を企画
C ( 52 )大統領
(1901〜09年、共和党)
1 ( 53 )主義(progressivism)
の立場
→ 反トラスト法を発動し独占資本を抑え、社会改革
2 ( 54 )運河の工事を再開(1914年完成)
3 ( 55 )戦争和議を仲介し、ポーツマス条約
D ( 56 )大統領(1913〜21年、民主党)
1 「新しい自由」−( 57 )主義(New
Freedom)
→ 反トラスト法の励行、関税の引き下げなどの改革
→ 国民の利益を増進
2 第1次世界大戦へ参戦
【ラテン=アメリカ諸国】
→ ほとんど農業国で、封建的大土地所有。貧富の差が大きい。政情は不安定
1 パン=アメリカ会議
(Pan American Conference)
@ 1826年、(61 )の提唱で、スペインに対抗する目的
A 1889年以後、アメリカが主導権をにぎる
2 アメリカ合衆国のカリブ海政策
米西戦争
(1898年)、ベネズエラ内政干渉の調停(英・独の干渉 → 米の調停) 、
1. パナマ独立
(1903年) とパナマ運河の完成(1914年)
→ メキシコ
@ ナポレオン3世のメキシコ出兵(→240)
→ 大統領ファレスはアメリカ合衆国の援助で退ける
1. A 独裁者(62 ) − 外資導入で近代化 → 貧富の差が増大
→ 1910年、自由主義者(63 )の革命
→ 1917年、民主的憲法を制定(メキシコ革命)
☆ 重要語句
帝国主義 カルテル トラスト コンツェルン 独占資本 金融資本
資本の輸出 フェビアン協会 労働党 シン=フェイン党
ジョゼフ=チェンバレン セシル=ローズ バーナード=ショウ
ブーランジェ事件 ドレフュス事件 社会党 ビスマルク辞職
ヴィルヘルム2世 社会民主党 修正主義 ロシア社会民主労働党
ボルシェヴィキ メンシェヴィキ 社会革命党 立憲民主党 血の日曜日事件
十月勅令 ストルイピン ベルンシュタイン レーニン ニコライ2世
ヴィッテ 米西戦争 反トラスト法 新自由主義 アメリカ労働総同盟(AFL)
マッキンレー セオドア=ルーズヴェルト ウイルソン
カリブ海政策
☆ 重要年代
労働党の結成 ヴィルヘルム2世の親政開始 血の日曜日事件 米西戦争
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