アフリカ・太平洋の分割

 


 
  スエズ運河の開通  イギリスの南アフリカ支配  スーダン  ファショダ事件
 リヴィングストン  ベルギー王レオポルドとスタンレー  ベルリン会議
  
 スエズ運河の開通   戻る
 19世紀中ごろ、フランス領事レセップスはスエズ地峡を横断する運河の構想を発表。
レセップスはこの建設のための株式を分担するよう西ヨーロッパ諸国に申し出る。イギリスは断る。アメリカも断る。エジプト政府が全株式の7/16を引きうけ、残りのうち全株式の半分以上は2万1千人のフランス人の手元にわたる。
 1859年から10年にわたる歳月と12万人の労働者の命を奪う大工事ののち、1869年スエズ運河は開通。1869年11月17日の式典は1851年以来のロンドン万国博以来の国際的な式典となった。 
 
 フランス皇后ウージェニーを乗せた皇帝用ヨット「レーグル号」を先頭にオーストリア皇帝ら各国の来賓が乗船した船団は一列になんて運河を航行。皇后は「いまだかつて、こんな美しい光景は見たことはない」と涙を流した。
   
 イギリスからインドまでの距離が6000キロ以上も短縮された。そこを通る2/3の船はイギリスの船だった。そのため、運河が使用されるようになるとイギリスは考えを変えて、株式の取得に乗り出した。  
 エジプトの藩王イスマイル=パシャは金遣いの荒い支配者で、エジプトを破産に近い状態に追い込んだ。1875年、莫大な借金を整理するため、スエズ運河の株を売りにだした。ディズレイリは、同じように運河株に目をつけていたフランスをだしぬいて、ただちに400万ポンドの資金を調達すると、エジプトが所有していた45%の株を購入し筆頭株主の地位を得た。資金を提供したのロスチャイルドであった。ロスチャイルドは1870〜1871年の普仏戦争に敗れたフランスの50億フランの賠償金を調達した。1854年のクリミア戦争の戦費も調達する。

 イギリスの南アフリカ支配   
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 第3次ソールズベリ内閣に、ジョセフ=チェンバレンは植民地相として入閣する。南アフリカは1487年、バーソロミュー=ディアスの喜望峰到達以来、ポルトガルの活動の場となっていた。17世紀初め、オランダ東インド会社がこれにとってかわった。オランダからは貧農の移住があり、彼らは土着人を奴隷として農業をいとなんだ。ところが、ナポレオンがオランダを併合すると、フランンスの敵であったイギリスは、1806年ケープ植民地を奪った。これ以後、イギリスの南アフリカの支配がはじまった。  
 そこで、イギリスに服従することを望まないボーア人は、1836年から37年にかけていわゆる「大移動」をおこない、トランスヴァール共和国やオレンジ自由国を建国した。  
 しかし、オレンジ自由国のキンバリーにダイヤモンドの大鉱脈が発見されると、イギリスはこの地を併合した。1884年、トランスヴァール共和国に世界有数の金鉱が発見されると、イギリス人を中心とするおびただしい数の外国人が流れ込んだ。ゴールドラッシュである。そして、ボーア人国家併合の野心が、イギリスにわきおこる。
   
 1886年第3次グラッドストン内閣が成立。アイルランドに自治権を与えようとグランドストンは尽力する。しかし、アイルランド自治法案は否決される。  
 アイルランドのおけるベルファストを中心とするアルスター地区の新教徒 を複雑にしていた。
 
 1890年、ケープ首相セシル=ローズはトランスヴァール併合を企てる。 フランスは1830年、口実をもうけてアルジェリア占領。さらに東のテ 狙う。1878年のベルリン会議で、フランス外相ワッダントンはイギリ ベリと取引し、キプロス島をイギリスが領有するかわりに、フランスはテ に処分できることを約束させ、1881年に併合してしまう。
 このことが直接の原因となって、イタリアはドイツ・オーストリア側に走 盟が結成されることになったのである。
 
 アドワの戦い
 エチオピア戦争は、帝国主義時代のアフリカ原住民がヨーロッパに勝利し い勝利であった。 解放されたアメリカから帰郷した黒人が、19世紀初めに建設したのがリ ある。
 
 スーダン   
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 19世紀前半、エジプトがトルコからメフメット=アリのもとでなかば独立 はスーダンを征服するとともに、その支配権をトルコから譲り受けた。
 1881年、ムハンマド=アフマドというものが現れ、マフディー(救世主 大な勢力をつくりあげた。これはやがて、スーダンの民族主義的な解放運 ディー教徒はいたるところでエジプト軍を破り、1884年、マフディー 令官に任命されたゴードン将軍を、ハルトゥームに包囲した。かつて、「太平天国」に おける常勝将軍ゴードンは、ここにその最後の日を迎える。こうして、ス ディーの独立国となったのである。
 ゴードン将軍の悲劇的な最後以来10年あまりたったいま、スーダン再征が実行されることになった。 1896年、イギリス人司令官キッチナーの指揮するイギリス・エジプト軍がスーダン国境を をさかのぼって進撃した。鉄道を建設しながら2年もかかってマフディー 、1898年オムダーマンで決定的な勝利を博し、2日後ゴードンが戦死したマフディー の首都ハルツームに入城した。
 2年あまりの歳月と、イギリス軍将校の30%を失うという大きな犠牲をはらったのち 、スーダンは完全にイギリスとエジプトとの支配下に入ることになった。
 
 ファショダ事件   
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 1896年フランスはマルシャン大尉を指揮官として、原住民の兵士200人からなる探検隊をフランス領コンゴからナイル上流に出発させる。マルシャンは密林や沼沢を克服し、2年の歳月を費やして、1898年ファショダに到着したのである。一方キッチナーは、ハルツームに到達して3日後に、白ナイル川のファショダに6名の白人が異国の国旗をひるがえしているという情報を得る。キッチナーはみずから一隊を率いて現地に急行した。そこには、マルシャン大尉がセネガル人の小隊を率いて頑張っていた。キッチナーは、マルシャンと会見する。
 問題は両国政府の外交交渉にゆだねられた。当時フランスを騒がせていたドレフュス事件は、イギリス国民を激昂させた。ユダヤ人である無実の大尉への同情は、イギリスの世論を動かしていた。一時両国は開戦の瀬戸際にたった。しかし、フランスはここで譲歩し、マルシャン大尉の一隊は撤兵した。
 フランスはこれ以後、ナイル川上流をへてアフリカを横断しようとする政策をすて、モロッコにむかうようになる。
 
 リヴィングストン  
 30年間アフリカに滞在。1849年からの探検は特に有名。1853年東海岸のザンベジ川からさかのぼり、1854年、大西洋岸のルアンダまで横断に成功。さらに、壮大な滝ヴィクトリア瀑布などを発見しながら1856年に東海岸のキリマネ(現モザンビークの都市)に出て、遂にアフリカ大陸横断を成し遂げた。 『アフリカ探検記』を著す。
   
 ベルギー王レオポルドとスタンレー   
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 1871年リヴィングストンが奥地で行方不明を伝えられたとき、救援に赴き出会ったのがスタンレーである。彼はウエールズ生まれの孤児で、アメリカに渡って南北戦争に従軍したことのあるジャーナリスト。アフリカ内陸で伝道中に病床に伏した宣教師リヴィングストンを救出する(1871年)。  
 1877年には、アフリカ東岸から入り、ヴィクトリア湖からタンガニーカ湖へ、コンゴ川を下って大西洋へ。苦渋に満ちたこの横断ドキュメントによって、アフリカの事情が世界に伝えられた。「暗黒大陸横断記」。
   
 ベルリン会議   
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 (欧米の14カ国)が参加。1884年11月から1885年2月まで。  
 地図の上に線をひきあって「国境線」を定め、アフリカを分割した。西アフリカ各地に植民地を持っていた英仏に対して、ベルギー王レオポルト2世とドイツの宰相ビスマルクがアフリカ植民地獲得に乗り出したのが背景。  
 その結果、アフリカの面積の90%がヨーロッパの支配化に入る。
   
 さきほどのスタンレーは、ベルギー王レオポルト2世の設立した「コンゴ国際協会」の出資をうけて活動。その結果、コンゴ自由国を国際コンゴ協会の所有とする。1908年ベルギー領となる。  
 イギリスは、エジプトからスーダンまでインドへの道の要衝を確保した。しかしこの会議中、スーダンにおけるマフディ教徒の大反乱によりハルツームが陥落し、ゴードン将軍が戦死したため、イギリスは大打撃を受け、念願したように地中海からケープまでを植民地でつなげることはできなかった。  
 フランスはセネガル川流域、コンゴ川右岸からウバンギ川流域、ジブチ、マダカスカル、そしてサハラの広大なしかし不毛の地を手に入れた。  
 ドイツはタンガニーカ、カメルーン、トーゴを獲得する。これらの地は会議直前に、ビスマルクが急遽、地理学者ナハティガルを送り、沿岸の数村落を占領して唾をつけたところであり、ドイツは沿岸から内陸へ引いた垂直線が相互にぶつかるまでを国境とする原理を主張して容れられた。  
 ポルトガルは、「強者に与えるよりはむしろ弱者に」との列強の思惑によって、アンゴラ、モザンビーク、ビサウ地域を獲得した。  
 1885年から1902年にいたる時期は、ベルリン会議で定めた国境を、そこの住民たちを実力で制圧していく「平定」の時期である。アフリカ大陸は無人の地ではなく、数世紀に及ぶ奴隷狩り戦争の痛手にもかかわらず、とくに内陸に進めば進むほど、住民たちは繁栄した農耕社会と豊かな富を保持していたから、各地で激しい戦争がおこった。
フランスは1892年から94年にかけてダオメー帝国(西アフリカ)を征服、またサモリのイスラム帝国は1891年から6年間にわたってフランス軍と激烈な戦闘をおこなった。同じくイスラムを基盤としたラバ帝国はチャド湖周辺に覇をとなえたが、フランス軍に囲まれ、1900年4月激しい戦闘のすえ倒れた。  

スーダンでは、イスラム帝国の始祖マハディは、ハルツームを陥れた数ヵ月後に死んだが、その後を継いだ教主アブドゥラーは10万の軍を率いて1893年から7年にかけて、コンゴの国境地帯でベルギー軍と戦い、1896年から98年にかけてキッチナーの指揮するイギリス軍と戦った。
しかし、1898年9月のオムドゥルマンの戦いに敗れて潰走した。キッチナーはそれから南方に向かい、ファショダでフランス領コンゴのブラザビルから2年間かけて北上してきたマルシャン大尉のフランス軍と出会う。上述したように、イギリス首相ソールズベリはフランスに撤収か戦争かの二者択一を迫り、フランスはドレフュス事件で政界が混乱中でもあり、ファショダ撤収の命令をだした。

 コンゴ自由国では、この時期にベルギーがゴムの採集権を独占会社に与え、会社は住民に割当制をとり、割当に満たない者の手足を切断するという残酷な「赤いゴム」の時代が展開した。


   
 
   
2 アフリカ・太平洋の分割 
 
【アフリカの諸国】
A ナイル川上流
 1 クシュ王国(前920ごろ〜前7世紀。エジプトをのぞき、アフリカでもっとも古い国)
一時、エジプトを滅ぼす(前8世紀)が、アッシリアの侵入で後退(前667年) 
 2 メロエ王朝(前7〜4世紀)
  @ 都メロエ、製鉄と商業で繁栄、メロエ文字(未解読)
  A 4世紀、エチオピアのアクスム王国の侵入でり滅亡
 3 (1      )王国(前2〜6世紀、エチオピア)
  @ イエメン人のセム人がエチオピアに建国
  A キリスト教化(4世紀)
 
B 西アフリカ
 1 (2      )王国(8世紀以前〜1076年)  − ニジェール川流域
  @ 金を産し、イスラム商人が塩と金を交換
  A 1076年、ムラービト朝の征服 → 西アフリカのイスラム化を促進 
 2 (3     )王国(1240〜1473年)
  @ カンカン=ムーサ王(14世紀)のとき最盛期、メッカ巡礼
  A ソンガイ王国により滅亡
 3 (4       )王国(1473〜1591年)
  @ 西アフリカの隊商都市を支配
  A 都トンブクトゥは内陸アフリカのイスラムの学問の中心
 
C 東アフリカ海岸(ザンジュ海岸)
 @ 海港都市(マリンディ・モンバサ・キルワなど) の繁栄
  → 10世紀以降、イスラム商人。インド洋貿易の拠点、スワヒリ語使用
 A (5        )王国(11〜17世紀) − ザンベジ川の南
 B ジンバブエの巨大石造遺跡 − 南ローデシア
 
 
【列強のアフリカ分割】
A 列強のアフリカ分割
 ※ 暗黒大陸 → ヨーロッパ人のアフリカに対する無知
  19世紀の中頃、(6           )(イギリス人宣教師)やスタンレー(アメリ
   カ人) の探険 → 列強が注目
 
B イギリスの進出
 1 エジプト支配
  @ 1875年、(7        )(1869年、開通。フランス人レセップス) の株式を買
    収(ディズレーリ首相) → 内政に干渉
  A (8          )の乱(1881〜82年) → 保護国化
  B (9        )の反乱(1881〜98年、ムハンマド=アフマド指導)
   → エジプト=(10      )を征服(1899年)
 2 南アフリカ支配
  @ (11         )(植民地首相) が(12     )植民地(1815年より
    英領) を根拠地に開発 − ローデシア
  A (13    )人(オランダ人植民者の子孫) が建てた(14      )自由国
    (15         )共和国にダイヤモンドと金が発見
  → (16    )戦争(1899〜1902年)で征服
  → 1910年、(17       )連邦を組織
 3 カイロからスーダンをへてケープタウンへ(アフリカ縦断政策
  → カイロ・ケープタウンとインドのカルカッタを結ぶ3C政策に発展
 
C フランスの進出
 1 19世紀前半、(18        )を攻略(シャルル10世のとき)
 2 1881年、(19       )を保護国化 → イタリアと対立
  サハラ砂漠を占領 → (20    )(ソマリランド)・マダカスカルとの連絡を
   めざす → アフリカ(21   )政策 → イギリスの縦断政策と衝突
 
D (22    )年、(23       )事件 
 1 アフリカで最初の帝国主義国の衝突
 2 フランスの譲歩で解決
  その後、英・仏が協調してドイツの脅威に対抗
 
  → 1904年、(24    )協商
   イギリスは(25      )に、フランスは(26      )に優越
   権をもつことを相互に認める
 
E ドイツ
 1 ビスマルク時代 − (27      )会議(1884〜85年、コンゴ問題処理のため)
   西南アフリカ・カメルン・トーゴを領有 
 2 (28      )事件
  @ タンジール事件(1905年、第1次モロッコ事件、ヴ
 
ィルヘルム2世が訪問、フランスのモロッコ進出に反対)
   → (29        )会議(1906年。列国はフランスを支持)で敗北
  A アガディール事件(1911年、第2次モロッコ事件)
   → 再び英・仏の協力によりドイツの敗北(フランスのモロッコ保護権を認める)
 
F イタリア
 1 1880年代、ソマリーランド・エリトレアを獲得
 2 1895〜96年、(30     
   
)に侵入し、大敗
 3 (31          )戦争(1911〜12年)で(32      
 
)・(33            )(今のリビア) を奪う(1912年)
 
G ベルギー
  (34     )(王がスタンレーの探険を助ける)を支配
  → コンゴ自由国(王を首長)
  → 併合(1908年)
 
 → 20世紀はじめの独立国 
  (35       )帝国と(36      )共和国(1847年独立、黒人解放奴隷の国)
 
  
 
【列強の太平洋分割】
A 太平洋地域の分割
 1 イギリス
  @ オーストリア 
 タスマン(オランダ人) が発見
  → (37    )の探険で、イギリス領
   → はじめは流刑植民地 → 金鉱の発見で急激に発展
   → 1901年、オーストリア連邦成立
  A ニュージーランド、北ボルネオ、ニューギニアの一部を領有
 2 アメリカ合衆国
  @ フィリピン
 スペインの統治失敗 → 島民の反乱(ホセ=リサールら)
  → 1898年、(38
         )の独立宣言
 → (39   )戦争1898年)で、
 アメリカ合衆国が(40    
     )島とともに獲得
   → (41       )の独立の戦いも失敗
  A ハワイを併合(→1900年、準州)
 3 ドイツ − もっともおくれて太平洋に進出 
  西太平洋の諸島(ビスマルク諸島・カロリン・マリアナ・マーシャル・パラオの諸島)を獲得
 4 南太平洋の諸島 
  イギリス・フランス・アメリカによって分割領有
 
B アメリカ合衆国のラテン=アメリカ進出(→P273)
 1 キューバ 
  アメリカの保護国として独立(1902年)  → グアンタナモに軍事基地
 2 (42    )運河の建設
   → (43     )のコロンビアからの独立を支援
   → 地峡地帯の(44         )・軍隊駐留権獲得
   → 完成により(45      )を内海化し、太平洋・極東への発言権
     が増大
3 (46     )海政策の推進
  @ 棍棒外交 − セオドア=ルーズヴェルト
  A ドル外交 − タフト
  B 宣教師外交 − ウィルソン
 
 
 
 
 
 
☆ 重要語句 
クシュ王国 アクスム王国 ガーナ王国 ソンガイ帝国 奴隷貿易
アフリカの分割 リヴィングストン スタンレー スエズ運河 レセップス
スエズ運河株買収 アラービ=パシャ セシル=ローズ ケープ植民地 
ブール人 南ア戦争 トランスヴァール共和国 オレンジ自由国 
南アフリカ連邦 3C政策 ケープタウン フランスの横断政策 
イギリスの縦断政策 ファショダ事件 英仏協商 モロッコ事件 チュニジア
 イタリアのエチオピア侵入 リベリア共和国 エチオピア帝国 コンゴ自由国 
 流刑植民地 クック パナマ運河 アギナルド パナマ ビスマルク諸島
 
☆ 重要年代
スエズ運河開通 イギリスのスエズ運河株買収 南ア戦争 ファショダ事件
英仏協商の成立 第1次・第2次モロッコ事件 パナマ運河開通

 


 

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