アジアの変革と民族運動

 


 
 中国の分割  変法運動と義和団運動  中国同盟会  辛亥革命
 インドの民族運動
 
  
 
 列強の侵略   戻る
 ドイツは三国干渉の直後、わずか2名の自国の宣教師が中国で殺害されたからという理由で、艦隊を送って青島を占領し、そこに租界を獲得し、山東鉄道敷設権を得る。
 租界とは、もともとは賃借りした土地の意味。外国人居留地として指定したのがはじまり。安全な別天地となる。
 中国人が居住するそうとう広い範囲の支配権を、ある期間、外国に委譲した結果生じたもの。
 その最初は、ドイツが武力を用いて占領したあと認めさせた山東の膠州湾(青島)であり、つづいてロシアが旅順・大連を、フランスが広州湾を、イギリスが九龍半島および威海衛を租借。
 これらに対して清はもはやその主張を行使できず、租借した外国は思うままに行政をおこない、かってに武装することができた。
 とくにロシアは旅順において難攻不落の堅固な要塞を築いた。日露戦争において日本はこれを占領するために多大の犠牲をはらう。
 
 租借地を起点として列強は自国の鉄道を所有した。ロシアは旅順・大連を租借すると同時に満州鉄道を敷設してシベリアと結合した。ドイツは青島を起点として山東鉄道を敷設し、済南で中国の津浦鉄道と連絡した。
 このような鉄道の沿線において、鉱山の開発権を獲得していった。
 ロシアが撫順の石炭・鞍山の鉄鉱を経営し、日本が日露戦争がその事業を継承した。
 このように列強が中国において租借地を獲得し、その後背地において鉄道や鉱山の利権を獲得すると、自然とその地方が勢力範囲とみなされるようになった。
 ドイツは山東半島を、フランスは雲南・貴州・広西省の三省を勢力範囲とした。そのような勢力範囲を除くと、清朝の本当の領土はわずかなものとなった。
 イギリスは威海衛の租借地の後背はドイツが勢力範囲を設定していたので、自国の勢力を伸ばす余地はなかったが、長江流域に早くから進出していたので、ここを勢力範囲とみないしていた。
 列強ではアメリカが、中国において勢力範囲を有しない国であった。アメリカは新しく中国において勢力範囲を設定する余地がなかったので、国務長官ジョン=ヘイが門戸開放政策を主張することになる。
 これは、各国がそれぞれの勢力範囲で独占的な行動をせず、諸外国を平等に取り扱うという原則を、日本・イギリス・ロシア・ドイツ・フランスに通告して承認させたものであった。
 
 変法運動と義和団運動   戻る
 康有為の登場
 時の皇帝・光緒帝は康有為の上奏文および上程の書を読んで、変法 の決意をかためた。梁啓超、譚嗣同ら若手の変法派が起用され、新法・新制度を布告する詔勅が次々と発せられた。科挙の改革・近代的教育制度・殖産興業、新式陸軍の建設など社会全般にわたる改革をめざすものであった。しかし、こうした改革で自らの権益を脅かされる保守派や官僚たちは新法実施を怠り、反撃の態勢を整えていた。変法派は新建陸軍を掌握する袁世凱を味方に引き入れるが、袁世凱は寝返り、西太后は光緒帝を幽閉し実権を掌握した。康有為はイギリスに、梁啓超は日本に亡命し、譚嗣同ら6人は処刑される。戊戌の変法は100日あまりで失敗に終わった。
 
 義和団事件
 このころ北中国は、外国貿易の開始により綿布などの家内工業が打撃をうけ、キリスト教布教に対する反感が高まっていた。山東省で勢力を拡大してきた義和団がしだいに排外民族主義の動きをしめしてきた。彼らは義和拳を修行するとともに、「扶清滅洋」のスローガンを唱えてキリスト教会や鉄道への襲撃を繰り返していた。義和団はやがて北京や天津など華北一帯に進出し、北京では外国人守備隊と激戦を繰り返した。西太后は義和団を利用し、列国に宣戦した。列国はこの外国人守備隊を救援するため、日本軍を主力とするイギリス・アメリカ・ドイツ・フランス・イタリア・ロシア・オーストリアの8カ国連合軍が派遣された。義和団と清軍は北京の公使館区域を包囲し、各国の公使館員と居留民は籠城して戦った。義和団は勇敢に戦ったが、8カ国連合軍が到着すると、その圧倒的な軍事力の前に鎮圧されてしまった。
 1901年、義和団事件の結果として北京議定書が締結された。内容は@責任者の処罰、A総額4億5000万両の賠償金の支払い、B列国の北京駐兵権の承認など。賠償金の配分はロシアが最も多く全体の30%近くをしめ、大軍を派遣した日本は、全体の7.7%にとどまった。満州では、義和団事件で出兵したロシア軍が撤退せず、日本との対立が深まることになる。
 
 中国同盟会   戻る
 日本の明治維新の富国強兵策・立憲政治も効果は、日清・日露の戦争でその威力を実証したので、清も多くの留学生を日本に送った。
 南洋華僑は、オランダなどの植民国家に不満を抱きながらも、彼らの本国の旧態依然たる清朝の姿に比べるならば、はるかに優れた政治社会の体制をもつことを知った。そして、彼らのほとんどが革新思想をもった。
 そして、本国で運動に失敗し亡命してくるものがあればこれを保護し、また新たな運動に対しては資金を提供した。
 一方中国では、単なる革新運動ではなく一挙に清朝を打倒しようとする革命運動がおこり、その革命家の中に孫文や黄興があった。彼らもまた運動に失敗しては日本に亡命してきた。孫文は1894年、日清戦争さなかハワイのホノルルで興中会を結成した。翌年香港で香港興中会を設立。清朝を打倒し民主国家を建設して、列強の分割に瀕している中国を救済しようと志した。
 1905年、革命結社の華興会、光復会などが一致団結し、東京で孫文を代表とする中国同盟会を結成した。この結成大会には、亡命者や留学生など約100人が集まった。  
 
 辛亥革命   戻る  
 1911年10月10日、夜10時過ぎ、湖北新軍革命派メンバーが湖北省都の武昌で蜂起(武昌起義)。この武昌起義が、辛亥革命の口火となった。近来、武漢地区の革命勢力は、湖北新軍に潜入し湖北新軍のうち5000人余を懐柔、掌握してきた。そして共進会と文学社は、この月6日、一斉蜂起することを決定。だがこの計画が外部にもれたため、予定を11日に延期した。ところが、前日、漢口の拠点で密造中の爆弾が炸裂するという事件が発生。警察の捜査が入り、革命派の名簿が押収され、逮捕者も出る事態となった。この状況下で、革命軍はついに一か八かの大勝負に出たのである。翌11日の早朝、革命軍は湖広総督の役所を攻撃、武昌を解放し、湖北軍政府の樹立に着手する。夜には漢陽の新軍が、12日早朝には漢口の新軍も決起し、長江中流の要地である武昌・漢陽・漢口の武漢三鎮は、革命軍によって押さえられる。この武昌起義の成功は、各地に飛び火する。そして11月末までに、全国のほぼ3分の2にあたる14省が清朝の支配から離反する。一方、孫文は2日後、起義成功のニュースをアメリカ・コロラド州デンヴァーの宿舎で、朝食時に目にした新聞で知る。彼は、資金集めのためにヨーロッパを歴訪するが、海のものとも山のものともわからぬ革命に資金を出すものはなかった。12月25日に上海に到着、「金はできたか」との問いに「革命精神を持ち帰った」と答えたという。革命へと突き進む。
   
 1911年12月29日、南京で開かれた各省代表による臨時大総統選挙の予備会で、孫文は得票総数17票のうち16票を得て、初代臨時大総統に選出された。  
 さらにこの代表会議は、年号を改め、太陽暦の採用を決定し、この年1月1日を中華民国元年とした。同日、上海から南京に到着した孫文は、正式に臨時大総統に就任。ここに共和政の中華民国が成立したのである。  
 しかし、列強が袁世凱を支持している事態を受け、孫文は清朝皇帝が退位し、袁世凱が共和政に賛成すれば、臨時大総統の地位を譲る、と声明した。袁の力で清皇帝を退位させるなら、南方は大総統の地位を袁に譲るという妥協。そこで袁世凱は、この日、軍を率いて北京に入城し、宣統帝に退位を迫ったのである。孫文は臨時大総統を辞任し、袁世凱に南京に来て大総統に就任するように求める。だが、袁世凱は、口実をもうけて南京にはおもむかず、北京で大総統に就任する。袁の個人的野望の道具に使われた。 袁世凱の背約。  
 孫文は外国で育ったから、官界の腐敗がどんなに底の深いものか、どんなに醜いものかを知らない。自分の心で相手を類推する。袁でも、こちらが誠心誠意をもって向かえば、向こうも誠心誠意で応対してくれるものと信じ切っていた。
 袁世凱は全く頭の古い人間で、袁世凱の手口は、買収に応じなければ容赦なく抹殺した。  
 1912年2月12日、清朝最後の皇帝、2歳で即位した宣統帝薄儀が君臨したのはわずか4年。これによって、約270年に及ぶ満州異民族支配と中国数千年にわたる専制王朝体制は、ついにその幕を閉じた。
 
 
 インドの民族運動   戻る  
 背景に、ボンベイの綿業を中心とする民族資本の成長。  
 インド国民会議  
 イギリスも単なる弾圧のみではインド統治が困難であると考えるものが現れてきた。  
 イギリス人ヒュームは、イギリス官憲の了解のもと、インド人のなかの新しい政治的機関を設立しようとした。  
 有力なインド人の支持をうけて、第一回国民会議をボンベイで開く。やがてこれが、インド民族運動を指導する中心となる。
   
 イギリスと対決し、自力で自由を勝ち取る考えをもったのがティラク。日露戦争の日本の勝利は、インド民族運動の強い刺激となった。
   
 インド総督カーズンは、ベンガル分割法をだす。それまで一つの州であったベンガルを東西二つの州に分割するというプランを発表した。その理由は面積・人口ともに大きすぎて不便だということであった。  
 しかし、問題はその分割の仕方にあった。東はムスリムが多く、西はヒンドゥーが多いということを計算に入れた上で、あきらかにムスリムとヒンドゥーの対立をかきたて、民族運動の進んでいたベンガルの政治運動を混乱させようという意図が隠されていた。  
 この「分割統治」の露骨なやり方に対し、インド各地に反対の声がまきおこった。しかし、分割は強行された。ベンガル一帯は沸き返るような騒ぎとなった。イギリス綿布の排斥(ボイコット)がおき、スワデーシー(国産愛用)という形をとる抗議行動がインド各地で繰り広げられた。  
 国民会議ではじめてスワラージの達成が目標として掲げられた。歴史的な自治権獲得の要求。  
 イギリスはあらゆる手段をとる。ムスリムを利用する「分割統治」のやり方」。「全インド=ムスリム連盟」はボイコットに反対し、ベンガル分割法を支持するという親英的態度をとる。両者の対立や憎悪を煽りつづける態度をとった。  
 一方で譲歩をちらつかせ、民族運動の分裂をさそい力を弱めていこうというやり方である。1907年総督ミントーは、将来インド統治法をインド人の希望によって改正する考えがあると述べて、宥和の態度を見せた。イギリス政府とインドの責任者の名前をとってモーリー=ミントー改革といわれるもので、わずかな改革をおこなった。  
 イギリスは、第一次世界大戦前のヨーロッパの情勢を前にして、インドの支配をできるだけ安定させる必要を感じていた。こうして、1911年、イギリス王に即位したばかりのジョージ5世は、イギリス王としては初めてインドを訪れ、この機会にベンガル分割法の取り消しが発表された。
 
 
 
   

【中国利権の争奪】
A 中国の半植民地化
 1 (1    )戦争に敗北 → 「眠れる獅子」の弱体暴露
 2 欧米諸国は、政府に対する(2    )を通じて、(3    )敷設権・(4    )採掘権などの利権を獲得
 
B 列強の侵略
 1 ロシア
  @ (5       )鉄道建設(1891年、着工〜1916年、完成)
   → 南進の機会をねらう
  A (6       )(1895年、独・仏)
   日本の獲得した(7    )半島(下関条約)を清に返還させる
   → 代償として(9    )鉄道敷設権を獲得
  B (10   )半島南部旅順・大連)を租借
  C 東北地方を勢力範囲
 2 ドイツ  
  @ (11   )湾(1898年、青島)を租借
  A 山東地方を勢力範囲
 3 イギリス
  @ (12     )(1898年) ・九竜半島を租借
  A 長江流域を勢力範囲
 4 フランス
  @ (13   )湾(1899年) を租借
  A 両広地方(広東・広西省や雲南省・海南島)を勢力範囲
 5 日本は福建地方を勢力範囲
  
C アメリカの進出
 1 1898年、(14   )戦争でフィリピン・グアム島を獲得
  → 中国市場への関心を高める
 2 1899年国務長官(15       )(大統領マッキンレー) が、(16      )・(17       )、1900年に(18      )を提唱
  → 中国分割の傾向がゆるむ、アメリカの中国市場への進出
 
 
【変法運動と義和団運動】
A 変法運動
 1 (19   )戦争の敗北 → 中国知識人の危機感の高まり
→ これまでの(20   )運動のあり方を批判、日本の(21     )
   にならい立憲運動
 2 中心人物
22     (公羊学派)、(23     )(雑誌「時務報」発行) 、譚嗣同ら 
 3 1898年、(24   )帝を動かし、革新を断行(産業振興、科挙改正など)
→ 保守派は(25     )と結び弾圧 = (26   )の政変 
 
B 義和団事件(1900〜01年)
 1 民衆の排外運動の高まり
  @ (27   )条約(1860年) でキリスト教の布教が公認
→ 宣教師・信徒と地方官憲や民衆との争い続発 = (28   )運動 
  A (29    )戦争後の諸外国の露骨な中国干渉
 2 義和団の排外運動が山東省から起る
  → 1900年、「30      」を叫び北京へ
  → 清の保守排外派は義和団を支持し、列国へ宣戦布告
  → 列強の共同出兵(日本・ロシアを主力とする8カ国連合軍)で鎮圧
 3 1901年、(31   )議定書(辛丑和約)
  @ 巨額の賠償金の支払い
  A 外国軍隊の(32   )駐留、北京周辺の防備撤廃
   → 外国の干渉強化、中国の(33      )化がすすむ
 
 
【辛亥革命と中華民国の成立】
A 清朝の改革
 1 義和団事件の敗北・(34   )戦争での日本の勝利を機に、改革をすすめる
 − 新軍の設置、科挙廃止(1905年) など、
 2 (35     )を発表(1908年、明治憲法に類似) し、国会開設を約束
 
  → (36   )資本家の成長 − 外国資本に対する利権回収運動
   → 国会の即時開会を求める
 
B 革命運動の展開
 1 華僑や留学生を中心に清朝打倒・漢民族の主権国家をつくる運動
  → 孫文の(37     )(1894年、ハワイで結成)・章炳麟の光復会・黄興の華興会など
 2 中国同盟会
  (38   )戦争の刺激 → 1905年、孫文はなどを結集し、東京で
 (39       )を組織 
  @ 三民主義 − (40   )の独立・(41   )の伸長・(42   )          
の安定をとなえる 
  A 機関紙 − 「43   」
 
C 辛亥革命
 1 1911年、清朝は財政策として、外国借款により(44           )を宣言
  → (45   )で暴動
  → (46   )の軍隊が挙兵(新軍が蜂起)  − 1911年10月10日
  → 14省(4/5) が清朝から独立
 2 1912年、南京で中華民国の建国を宣言 − 孫文が臨時大総統
  → 清朝は北洋軍の実力者(47     )を起用 
  → 彼は、革命側と取り引き
  → (48   )帝退位、清朝が滅ぶ(1912年)
  → 袁世凱は臨時大総統に就任
 
D (49     )の独裁
 1 孫文は国民党を組織
 2 B世凱は臨時約法(暫定的憲法) を守らず、(50   )党を弾圧 
  → 孫文の第2革命失敗(1913年) 、B世凱は正式大総統になる
 2 1915年、帝政復活を宣言 → 内外の反対、第3革命おこる(1915年)
  帝政復活宣言を取り消し、病死(1916年)
  → 革命勢力は弱く(孫文の広東軍政府)、軍閥が分立
 
 
【インドの民族運動】
A イギリス支配下のインド
 1 本国の利益を主とする政策
  → 産業開発・運河・鉄道も民衆の生活向上に役立たない
 2 藩王(土候)国の存在
  → バラモンと結んで住民を圧迫(イギリスとの二重の搾取)
  → インド人の貧困が続く
 
 → 民族運動の背景
  1 近代的綿工業を中心に(51       )が成長
  2 ヒンドゥー・イスラム両教徒の改革運動発生
 
B 民族運動の高まり
 1 インド(52      )の結成(1885年)
  @ イギリスが反英運動を緩和するため開催、イギリスに協調的な知識人・
   地主・商人が中心
  A (53   )戦争での日本の勝利
   → 民族的自覚深が高まる → (54     )が指導
 2 (55        )令の公布(分割統治策)
  カーゾン総督が抵抗勢力の分断と地租増収をはかり制定
   → 民族運動は激化
 3 1906年、(56       )大会(国民会議派)
  (57      )(民族資本家の要求)、(58      
(国産品愛用) 、(59         )(自治獲得)、
60      )の4綱領を決議
 
C イギリスの弾圧と懐柔
 1 分割統治策
   親英的な(61            )の結成を支援
  → (62       )と対抗させる
 2 インド統治法(1909年、モーリー=ミントー改革)
  → インド人の参事会参加。名目的で、選挙権に差があり
 3 1911年、ベンガル分割令を取り消す
 
 
【東南アジアの民族運動】
A ヴェトナム
 1 1883年以来、フランスの保護国
 2 ファン=ボイ=チャウら維新会結成(1904年、のち光復会)
  → 東遊運動(日本へ留学生を派遣)
 
B インドネシア
 1 サレカット=イスラム(イスラム同盟、1911年)の自治運動
 2 1920年、インドネシア共産党が事実上成立
 
C フィリピン
 1 ホセ=リサールやアギナルドのスペインからの独立運動
 2 米西戦争後は、アメリカからの独立運動
 
【西アジア諸国の立憲運動】
A オスマン=トルコ
 1 1877年、ミドハト憲法停止(アブデュル=ハミト2世)
  → 1908年、(63       )革命 −
 青年トルコが政権を握る  → 動揺が続き政局不安定
 
B イラン
 1 タバコ=ボイコット運動(1891年、外国利権に抵抗)  → 大衆的立憲運動 
  → 1906年、立憲革命実現
 2 (64   )協商が成立(1907年)
  → 1911年、イギリス・ロシアの干渉で議会は閉鎖
 
☆ 重要語句
三国干渉 東清鉄道 旅順 大連 威海衛 九竜半島 膠州湾 門戸開放宣言
変法運動 戊戌の政変 ジョン=ヘイ 康有為 光緒帝 西太后 義和団事件
 
扶清滅洋 北京議定書 科挙の廃止 憲法大綱 華僑 興中会 中国革命同盟会
三民主議 辛亥革命 幹線鉄道国有化 四川暴動 武昌挙兵 中華民国 国民党
軍閥 孫文 袁世凱 宣統帝溥儀 インド国民会議 ベンガル分割令 
カルカッタ大会4綱領 全インド=ムスリム連盟 青年トルコ革命 
 
☆ 重要年代
変法運動と戊戌の政変 義和団事件 憲法大綱の発表 中国革命同盟会の結成
 
辛亥革命 ベンガル分割令の公布 青年トルコ革命