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第1次世界大戦とロシア革命
大戦の勃発 戻る
1914年のヨーロッパでは二つの同盟が対立しあう。
ドイツ・オーストリア・イタリアの三国同盟、イギリス・フランス・ロシアの三国協商。
19世紀末の日清戦争から20世紀初めの日露戦争にかけての10年間は、欧米列強の関心がとくに中国に集中した時期であった。ところが日露戦争に敗れたロシアが、対外政策の重心をダーダネルス・ボスフォラス両海峡に向けると、国際対立の焦点はバルカン半島に移った。
バルカン地方で、東ヨーロッパにかけて住んでいるのがブルガリア人・クロアート人・チェック人・ポーランド人・スロヴァキア人・セルビア人と多種多様だが、いずれもロシア人と同じスラヴ系民族である。
バルカン半島の一部は、600年前からオスマン=トルコ帝国の領土であった。別の一部は、いくつかの独立王国に別れていた。ボスニアとヘルツェゴビナは、オーストリアが1908年にオスマン=トルコ帝国から奪ったものであった。
バルカン半島の諸民族は独立を願い、北方の兄弟国である帝政ロシアに援助の手を求めていた。バルカン半島には、独立を企てる秘密結社がいくつも活動していた。
1914年6月28日、ハプスブルク家の王位継承者フランツ=フェルディナント大公はボスニアの首都サライェボを公式訪問する。セルビア人の秘密結社は、この機会を利用しようとして3人の青年をサライェボに派遣する。
日曜日の朝、その一人のガブリエル=プリンチプは、大公がオープンカーに乗って通ることになっていた狭い街路で待ち構えていた。車は予定通りやってきた。そして、ギアを入れ替えるため、車の速度を落としたとき、19歳の青年は銃の引き金を二度ひいた。その数分後、大公と妃は息を引き取った。
オーストリア政府は、多数の厳しい要求を含む最後通牒を48時間の回答期限つきでセルビアに渡した。セルビアはこれに対して、期限内に丁重な回答をだし、オーストリア側から示された条件の大部分を受け入れることにしたが、オーストリアは7月28日、セルビアに対して宣戦布告しベルグラードを砲撃した。
ここにいたって張り巡らされた同盟体制が、連鎖的に動き出した。ドイツはオーストリア側につき、ロシアはセルビアを助ける。そして、フランスもロシアと手をきることはできない。
8月1日、ドイツはロシアに対して宣戦を布告し、そのニ日後ロシアに味方していたフランスに対して宣戦を布告した。
イギリスはフランスとの同盟にもかかわらず、中立を守りたい様子であった。しかし、ドイツ軍がベルギーに侵入したので、イギリスも態度を決めなければならず、ここに参戦に踏み切った。
アメリカの大統領ウィルソンは、1914年8月「人々の魂が試練に会う日々にあっては事実上も名目上も中立を保つ」と述べた。アメリカはイギリスやフランスに親近感を持ち、軍国主義的なドイツに反感をいだいていたが、大戦に巻き込まれまいとする空気が濃厚であった。
大戦の経過 戻る
すべての人々が戦争は短期間で終わるものと考えていた。ドイツ皇帝は1914年8月兵士にむかってこう述べた。「諸君は必ずや木の葉が散る頃までには故郷に帰れる」。
両陣営とも、自分の速攻作戦を信頼しきっていた。ドイツ軍の前参謀総長シュリーフェン伯が立案した「シュリーフェン=プラン」は、6週間でフランスを撃破したのち、転じてロシアに矛先を向け、戦線が東西両面にわたるという最も恐るべき事態をさけるというものであった。
最初に動き出したのはドイツ軍で、ベルギーとフランス北部になだれ込んで、9月の初旬にはマルヌ川に達してパリを脅かすまでになった。このとき、ドイツは速攻作戦によって勝利を手中にしたと思い込んだ。しかし、ドイツ軍の迅速な進撃は前線と背後にある大本営の緊密な連絡を妨げた。また。ドイツ軍の将兵は長時間の移動と戦闘に疲れきっていた。そして、フランス軍は、兵力を結集してマルヌの戦いでドイツ軍の前進を阻止することに成功した。
ドイツ軍敗北の原因は、基本的な戦略にもとづいた作戦計画を、参謀総長モルトケが土壇場で修正したことにあった。本来の計画では、右翼に配置されたドイツ軍主力が、開戦と同時にベルギーを侵犯して防備の手薄なフランス北東部に侵入したのち、大きく左旋回してパリの背後でフランス軍主力を包囲、繊滅することになっていた。ところが、神経過敏で優柔不断なモルトケはロシアの侵攻を恐れて、主力部隊から数個軍もの兵力を東部戦線に送った。手薄になった先鋒部隊は他部隊との間隙を埋めるために、パリまで50qに迫っていたにもかかわらず、方向転換して東へ向かったのである。翌5日、猛将で知られるフランス軍総司令官ジョゼフ=ジョフルは、この意外な展開を攻撃の好機と判断総反撃の命令を下すと、マルヌ川河畔で側面を露呈していたドイツ軍に襲いかかった。フランス軍は激戦の末、この日、ドイツ軍をエ
ーヌ川まで押し戻し、勝利を収めた。
マルヌの会戦は以後の大戦の方向性を決定するものであった。すべての人々の短期決戦の思惑ははずれ、一進一退の戦況が繰り広げられることになる。
塹壕の中に大部隊が配置され、北海からスイスまでうねうねと延びる塹壕。戦線は、機関銃の登場により、攻撃をしかける側が多大の損害をだした。両軍とも相手の前線を突破しようと、砲兵隊の攻撃で突破口をひらくと、歩兵隊が塹壕から飛び出して前進してゆく。しかし、彼らは敵の機関銃によってなぎ倒されるか、鉄条網にひっかかってそれで終わってしまう。いったい、何のために死ぬのかという声が兵士の間に高まる。
また、東部戦線で8月23日から9日間にわたって戦われたタンネンベルクの会戦で、ドイツ軍はロシア軍を包囲殲滅することに成功。
ソンムの戦い
1916年7月、フランス中北部を流れるソンム川流域の南北40qにわたる戦線で、英仏の連合軍10万がドイツ軍の前線突破を図って攻撃を開始した。この日朝、攻撃の主力イギリス軍14個師団はソンム川の北部を、フランス軍5個師団は南部を進撃した。ところが、イギリス軍の大半は未熟な新兵で、しかも30sを超える装備を背負っていた。ドイツ軍陣地は2年あまりの占領中に強化され、鉄条網と機銃座に守られた堅陣だった。緩慢に行軍するイギリス兵はドイツ機関銃兵の格好の標的となり、なすすべもなくなぎ倒され、折り重なった死体は、夕刻までに1万4000人を数えた。この日1日で、イギリス軍は5万7000人を超える死傷者を出し、第1次大戦を通じて最悪の記録をつくった。一方のフランス軍の進撃もあまり戦果はなく、ドイツ軍の前線をわずかに押し戻しただけだった。
9月イギリス軍は新兵器の戦車(タンク)を前線に投入する。この「マーク1型」戦車は鉄条網を乗り越え、銃弾を跳ね返してドイツ軍陣地を突破するが、投入されたのはわずか9台にすぎず、戦局を左右するほどの成果はない。しかし、陸上戦の兵器としての評価は高める。その後、戦闘はますます物量戦の様相を深めていく。この戦いで連合軍は70万人(うちイギリス軍50万人)、一方のドイツ軍は50万人という膨大な死傷者を記録する。だが、ドイツ軍の前線はわずか10qほど後退するだけで、戦線は膠着したままである。
イギリスはドイツを封鎖する海上作戦をとった。国内に十分な食糧をもたず、輸入に頼っていたドイツにとっては、これは手痛い打撃であった。
アメリカの参戦 戻る
1917年、アメリカ合衆国が参戦した。2年半の間、アメリカはどちらの側につかなかった。1916年、“ウィルソンは国民を戦争から守った”というスローガンを掲げて大統領に再選されていた。しかし、アメリカの国民感情は協商国側に大きく傾いており、多額の借款を協商国陣営に与えていた。
このような情勢の中で1917年1月末、ドイツの最高軍司令部は、政府に対して、無制限潜水艦作戦の開始を求めた。これは1915年にウィルソンがドイツを説いて、実施させないようにした作戦だった。無制限潜水艦作戦が実施されれば、アメリカを敵にまわすことになることを承知していた。だがドイツ最高軍司令部は潜水艦戦を、膠着状態を打開する効果的な作戦だと考えた。たとえ、アメリカが宣戦布告したとしても、イギリスの海上封鎖を打破することによって、協商国側を6ヵ月以内に打ち負かすことができ、それまでにアメリカが兵力を動員できないと考えた。ドイツ最高軍司部は、1月31日、イギリス海域に向かう船は手当りしだい撃沈する、と発表した。3月にはアメリカの船5隻が、ドイツの潜水艦に沈められた。
ウィルソン大統領は、4月2日の夕方の両院合同会議を提議した。アメリカ国民は固唾をのんで彼の話を待ち受けた。ウィルソンが会場に到着すると、集まっていた上院下院の議員は喝采で彼を迎えた。拍手は2分あまり鳴りやまなかった。大統領の演説も、しばしば拍手のために中断された。
ウィルソンは、議会に宣戦布告を要求し、国民に対して“大小の国々の権利と、いかなる土地に住む人であろうとももつ、生活方式と服従の仕方を選ぶ権利”を守るために戦うことを求め、“世界は民主主義のために危険をなくさなければならない”と述べた。議員はいっせいに立ちあがって拍手喝采した。
アメリカが大戦に介入したことは、決定的な意味をもった。ヨーロッパはもはや、自らの問題を自らでは解決できなくなっていた。
アメリカも史上はじめて、経済統制を実施した。平和産業は戦時目的のために変えられ、食糧生産は政府の管理下にはいった。ドイツの潜水艦におびやかされているイギリスの商船隊を護衛するために艦隊が派遣され、フランスに兵員や物資が送られた。アメリカの参戦は、ただたんに戦力が増強されたことを意味するだけにとどまらなかった。
雄弁家のウィルソンは協商国側のために熱弁をふるい、戦いに疲れはてた国々に清新の息吹を吹き込んだ。ウィルソンとレーニンは、掲げた理想は対照的だったけれども、多くの共通点をもっていた。2人とも、雄弁家で情熱的に改革を行なおうとし、1国の政治を超越した世界観の上にたっていた。2人はともに勢力均衡政策に基づく既成の国際体制と、諸民族を取り引きの道具として国際問題を処理してゆくという考え方を否定した。すべての国は平等であることを強調した点でも、2人は同じだった。ただレーニンが階級のない社会を主張したのに対し、ウィルソンのほうは民主主義について語った。
秘密外交の展開 戻る
イタリアの参戦 ─ ロンドン協定。トリエステ、イストリア、北部ダルマチアなどの、いわゆる「未回収のイタリア」の領有を保障される。
ブルガリア ─ バルカン戦争での失地回復とセルビア領マケドニアの獲得を、ドイツ・オーストリアから保障される。
1916年5月16日、ぺトログラードでマーク=サイクス(イギリス代表)とジョルジュ=ピコ<フランス代表)の名で知られたサイクス=ピコ協定を結び、イギリス・フランス・ロシア間でアジア=トルコの分割を保障しあった。アラブ人はもちろん、このサイクス=ピコ協定を知らない。
イギリスのカイロ駐在エジプト高等弁務官マクマホンは、アラブ民族運動の中心メッカの知事フサインに近づき、反トルコ戦線の結成を約束させる一方、戦後、アラブ国家の独立実現を約束した。フサインらのアラブ独立運動の主力はこれに期待し、1916年6月5日ヒジャーズから蜂起した。
さらに1917年11月2日、外相バルフォアはシオニスト連盟会長ロスチャイルド卿に書簡を送り、シオニスト運動の支持を約束し、パレスティナにユダヤ人国家を建設することに同意することを宣言。戦争遂行に必要な財力をユダヤ人財閥に期待した打算的な意図。
ドイツについて参戦したオスマン帝国の動きを封じるため、イギリス政府はさまざまな策を講じてきた。このたびの約束もその一つで、パレスティナに居住するユタや人の反乱を促し、オスマン軍を麗乱するのがその目的だった。この計画を進言し、今回の約束を取りつけたのは、ハイム・ワイツマン(43)を指導者とするイギリス国内のシオニスト・グループである。イギリス政府は同地域に関して、すでにメッカの太守フサインと、フサイン・マクマホン書簡でアラブ国家建設支持を約束していた。また、フランスとロシアとのあいだにも分割方法を定めたサイクス・ピコ協定を結んでいる。そのためこの書簡は、領土の範囲などに曖昧な点が多く、「パレスティナに存在する非ユダヤ人社会の市民的、宗教的な権利を損なうことはない」と、アラブ人の権益を擁護する表現もみられる。この三重外交は戦後明るみに出され、イギリスの調停もむなしく、ユダヤとアラブの対立は激化の一途をたどり、1948年にはイスラエル建国をめぐり中東戦争へと発展する。
2月革命 戻る
兵士は銃をもたずに戦場に出かけ、倒れた仲間の銃をひろいあげなければ、前進することもできない状態だった。
ロシア皇帝ニコライ2世は前線にあって指揮をとり、国政は神経質でヒステリックな皇后に、ほとんどまかせきりであった。ところが皇后は、正体不明の怪人物、グリゴリー・ラスプーチンのいうがままになっていた。ラスプーチンは、髪の毛が油で汚れ、指の爪が垢にまみれ“山羊のような悪臭”を周囲にただよわせるペテン師だった。当時のロシアはこの聖者の仮面をかぶった男が、国事をつかさどるようになっていた。
ロシアの都会は深刻な食糧不足に見舞われた。ペトログラードでは、パンを求める人々の暴動や街頭デモがさかんになった。その鎮圧に出動した兵隊が、群衆に向かって発砲することを拒んだこともあった。
1916年12月には、5人の貴族が術策をめぐらして、ラスプーチンを暗殺した。1917年3月、ニコライ2世は退位して、自由主義的グループの指導者からなる委員会が、臨時政府を樹立した。
協商国側の諸国は、ロシアに新しい民主主義政権が誕生したことを歓迎した。そしてロシアの臨時政府は、戦争を続行することを決定した。だが農民は自分の土地を欲しがっていたし、平和を求める声が圧倒的に高まっていた。毎月、数千の人命が戦場で失われ、兵士が集団脱走していた。彼らは“足で意思を表示している”のだといわれていた。
10月革命 戻る
いくつかの都市に、臨時政府と競合する勢力“ソヴィエト”すなわち労兵評議会が生まれた。ペトログラードのソヴィエトは、もっとも過激で戦闘的なマルクス主義者たるボルシェヴィキが多数を占めていた。
ボルシェヴィキは、レーニンの疲れをしらぬ活動と巧みな戦術に指導されていた。レーニンは熱血漢であり、堂々たる貫禄があることからスタリーク(おやじ)と仇名されていた。レーニンは、戦争中はスイスに亡命していた。
レーニンはこのように主張した。大戦は、帝国主義間の戦争である。帝国主義の列強は、自分たちで世界を分配したのであるが、出遅れたドイツのような国家は、戦争を通してしか植民地の再分配を要求することができない。世界の労働者がこの戦争から得るものは何もない。それに、ドイツ皇帝のもとの絶対主義体制と、イギリスとフランスの資本家による帝国主義的抑圧とは、結局のところ、なんら異ならない。平和と解放を得るための唯一の道は、革命である。帝国主義戦争を内乱に転ぜよ、と呼びかけた。
ロシアに革命を起こせば協商国側の力を弱められる、と考えたドイツ政府は、レーニンをスイスからロシアへ帰国させるために、封印列車に乗せてドイツ領内を安全に通過させた。ロシアに帰ったレーニンは、“平和を、土地を、パンを!”というスローガンを掲げて、民衆の心をしっかり掴んだ。革命によって権力をソヴィエトの手に移さなければならぬと主張し、1917年11月7日、ボルシェヴィキは臨時政府を倒して、社会主義国家の成立を宣言した。
ブレスト・リトフスク条約
ボリシェヴィキがおこなった平和提案は連合国側に拒否され、ドイツとの単独平和交渉がブレスト=リトフスクでひらかれる。
ソヴィエト政府は、民族自決にもとづく無併合・無賠償の即時講和をよびかけ、前年12月からドイツ側4カ国との講和交渉にのぞんでいた。だがドイツ側の条件が過酷だったため、講和を受諾すべきだとするレーニンに対し、ブハーリンは徹底抗戦を唱え、トロツキーは戦争も講和もせずと主張して激論が交わされた。当初ブハーリン案が支持されたが、2月にドイツが大攻勢をかけるに及んでレーニンが支持され、トロツキーも同調し、調印にいたった。
3月3日、ソヴィエト政府は、ロシア領のブレスト・リトフスクで、ドイツ側4カ国(ドイツ、オーストリア=ハンガリー、ブルガリア、オスマン帝国)との講和条約に調印し、第1次大戦から離脱した。しかし、この講和は、ソヴィエトにとって、リトアニア・クールランド(現ラトビアの一部)などの広大な領土を放棄し、人口の26%、耕地の27%、穀物生産の32%、鉄道の26%、製造業の33%、鉄鋼業と炭鉱は70%を失うというもので、歴史上例をみない屈辱的なものだった。この間、ソヴィエトは、講和会議に連合国も参加するようよびかけたが、まったく無視されていた。ソヴィエトは戦争から解放されるが、以後、連合国の干渉に直面する。
大戦の終結 戻る
ドイツは、ロシアが協商国側から脱落したことによって東西両面の敵と戦わなくてもすむようになったので、新たな大攻勢に出て協商国側の戦線を突破し、奥深くにまで侵入した。そして5月末には、パリから80キロ以内の地点まで迫った。しかし、それ以上攻撃をすることはできなかった。アメリカ軍が、アルゴンヌの森のシャトーティエリにおいて最初の勝利をあげた。7月には、協商国側の連合軍総司令官に任命されていたフェルディナン・フォシュ元師が、巧みな反撃作戦を立て、これはアメリカ軍9箇師団の応援もあって成功をおさめた。8月になるとドイツ軍は退却して、協商国側が攻撃に転じた。
11月には、カンブレーの戦いにおいて、イギリス軍は324台の戦車によって押しまくり、ドイツ軍を後退させた。
万策がつきたドイツは、11月9日、皇帝が退位して、ドイツ共和国の成立が宣言された。
1918年11月11日、ドイツ代表は休戦条約に調印し、ここに空前の大戦争は終わった。ドイツの死者は182万7,000人で、15歳から50歳までの男子の12パーセントを占めた。フランスは140万人で、同じく14パーセント。オーストリア・ハンガリーは135万人、ロシアは約200万人、イタリアは70万人、セルビアは37万人、イギリスおよびその自治領は95万人の死者を出した。アメリカはヨーロッパで11万5,000人あまりを失ったが、そのほぼ半数は戦病死であった。交戦国全部の戦死者の数を合計すれば約1,000万、しかもそのほかに、2,000万人の負傷者が出ていた。戦場における犠牲者に加え、敵軍の侵略や封鎖作戦、コレラ、チフス、インフルエンザなどの伝染病、栄養失調や飢餓などによる一般市民の死傷者もおびただしい数だった。このような形での市民の死者は、1,000万にのぼると推定されている。
シベリア出兵 戻る
ムルマンスク、アルハンゲリスクに、イギリス軍を主体とする連合軍が上陸。さらに、4月5日、日本・イギリス軍がウラジオストックに居留民保護を理由に、
ウラジオストクに停泊していた軍艦石見と朝日の陸戦一隊500人あまりが、イギリスの陸戦隊員50人とともに上陸し、同市を日英軍の警備下においた。さらに8月12日、日本陸軍が、ウラジオストクに上陸を開始した。シベリア出兵の開始である。19日にはアメリカ軍が上陸、さらにイギリス、フランス、イタリア、カナダ、中国の部隊が続く。この年3月3日にドイツと単独講和したソヴィエト政権に対して、日本政府は当初、英仏からの出兵の要請や、軍部の本格的な軍事介入の計画もあったが、慎重な姿勢を崩さなかった。しかし、7月にアメリカが共同出兵を提案するにいたって、日本政府も出兵を宣言。この連合軍の共同軍事行動は、ロシア革命に対する武力干渉であったが、その名目とされたのは、シベリアに孤立したチェコスロバキア軍救援だった。
シベリア出兵のニュースは一方で、日本国内に大きな社会不安をひきおこした。米商人・地主らの投機が空前の米価高騰をもたらし、出兵宣言の翌日の8月3日に富山県の主婦たちの起こした米騒動が、各地に飛び火して、全国的な大暴動となっていった。そのさなか、日本軍は出兵の先陣を切ったのである。日本陸軍は協定の1万2000人をはるかに超える7万3000人を満州(現中国東北部)から極東ロシア一帯に展開していく。そして、ソヴィエト軍の強固な抵抗と、連合国軍内部の思惑の相違のなかで、米英仏は撤兵方針を決め、1920年4月に撤退を完了する。日本はその後も駐兵を継続するが、内外の批判を受けて、22年6月に加藤友三郎内閣が撤退を声明、4年にわたるシベリア出兵は幕を閉じる。
連合軍司令官は、ロシア軍に義勇軍として参加していたチェコスロヴァキアの部隊に対して、シベリアと太平洋を経由してフランスに帰ることを命じる。
しかし、このチェコ部隊の武装を解除しようとすると、チェコ部隊はこれに反抗し、社会革命党を主体とする労働者・兵士・コサックらがこれに合流して、一時ヴォルガ河畔からウラジオストックに及ぶ広大な地域を占領した。
こうして、アルハンゲリスクを中心に連合国の支援のもと「北ロシア臨時政府」、ウクライナ・北コーカサスにデニキン将軍の「南ロシア軍」、シベリアのコルチャック提督の軍人独裁政権などが成立。
これに対して、1918年国防人民委員に転じたトロッキーのもと、10万の志願兵で労農赤軍を創設してこれらと戦った。6月26日、18歳から40歳までの全勤労者に兵役義務が課せられた。赤衛隊を受け継ぎ、志願制によって創設された労農赤軍(赤軍)は、徴兵制軍隊として強化されることになった。赤軍は過酷な戦闘を強いられるが、反革命軍相互の反目もあって、赤軍はつぎつぎに反乱軍(白軍)を撃破、1920年秋には制圧に成功し、ソヴィエト政権は内戦をのりきる。
1917年のロシア革命以来、戦時共産主義の時代<1921年まで)、新経済政策<ネップ>の時代(1927年まで)、5ヵ年計画の時代<1928年以降)に区分することができる・br>
干渉戦争と内乱という非常事態にあって、戦時共産主義がとられるが、干渉戦争と内乱が終わると、大工業・交通・大銀行・外国貿易の国営以外は、私的企業が再び許される。農民も農産物を自由市場に送り出すことができるようになった。さらに、外国資本の導入も歓迎される。
第16章 二つの世界大戦
1 第1次世界大戦とロシア革命
【国際対立の激化】
A ドイツの世界政策
1 皇帝(1 )の親政
@ (2 )年(ビスマルクの引退)からはじまる
A ロシアとの(3 )条約の更新を拒否
→ (4 )同盟(1891〜94年) − フランスの孤立が解消
2 近東への進出
@ (5 )・(6 )・(7 )を
むすぶ(8 )政策をとる
A トルコより(9 )敷設権を獲得
→ 海軍力を増強し、イギリスの3C政策と対抗
B イギリスの「光栄ある孤立」の転換
1 (10 )同盟成立(1902年) → ドイツ・ロシアに対抗
2 (11 )協商(日露戦争の勃発を機に)(1904年)
@ (12 )事件(1898年) でフランスが譲歩
A (13 )でのイギリス、(14 )でのフランスの
優越権を相互に認める → ドイツに対抗
3 (15 )協商、(16 )年
@ 日露戦争後、ドイツ・オーストリアに対抗し、イギリスと和解
A (17 )の両国の勢力範囲を定める。アフガニスタンをイギリ
スの勢力範囲とし、チベットにおける中国の主権を認める
→ 三国協商(1907年) によるドイツの包囲
C バルカン問題
1 イタリア − 三国同盟の一員
バルカンで「18 」をめぐりオーストリアと対立
→ フランスに接近(1900年、仏伊協定)
2 オーストリア領内のスラヴ民族のパン=スラヴ主義による反抗をおさえるため、バルカ
ンに勢力をのばす → ドイツが支援
→ パン=スラヴ主義とパン=ゲルマン主義が対立
3 バルカン問題の激化
@ オスマン=トルコの革命(1908年、青年トルコがサロニカで蜂起) に乗じて(19
)が独立
A オーストリアはスラブ系の(20 )(21 )
の併合を宣言
→ (22 )がパン=スラヴ主義でおさえようとしていた地方
→ (23 )主義と(24 )主義の抗争が激化
D バルカン戦争(1912〜13年)
1 第1次バルカン戦争(1912年)
@ バルカン同盟(パン=スラブ主義の反オーストリア同盟) − ロシアの支持
(25 )・モンテネグロ・(26 )・ギリシア
→ オスマン=トルコに宣戦(第1次バルカン戦争。トルコはイタリアとの戦争の最中-イタリア-トルコ戦争)
A (27 )が独立(オ-ストリアが支持) 。トルコの放棄した領土の分割
をめぐり、ブルガリアと他の3国とのあいだに争い
2 第2次バルカン戦争(1913年)
@ (28 )と他の3国(トルコ・ルーマニアも参戦)が開戦
→ ブルガリアは大敗して、ドイツ・オーストリアに接近
A 勢力拡大をはかる(29 )(ロシアの支援)とオーストリアとの関係
は一触即発 → バルカン半島は「ヨーロッパの火薬庫」
【第1次世界対戦】
A 大戦の勃発
1 (30 )年、(31 )事件
オーストリア皇太子夫妻が(32 )州の首都で(33 )人の一青年に暗殺される
→ オーストリアが(34 )に宣戦 → 世界大戦へ
2 対戦国
@ 同盟国側 − オーストリア・ドイツ・トルコ・(35 )
A 連合国側
・ロシア・英・仏・ベルギー・日本・イタリア(1915年、領土拡大のロンドン密約で)など
B 経過
1 西部戦線
ドイツのシュリーフェン作戦 → ベルギーの中立をおかす
→ 英が参戦 → 独軍の北フランス侵入 → (36 )の会戦(1914年) で阻止
→ 戦線は膠着状態
→ 独の(37 )要塞(仏のペタン将軍が守将)の攻撃失敗(1916年)
→ 連合軍のソンムの反撃(1916年) 、戦車・飛行機・毒ガスなど出現
2 東部戦線
ロシア軍が(38 )の戦い(1914年) で敗北 → 戦線膠着 3 海上戦
英仏の優勢 → ドイツは植民地を喪失 − 軍需品や食糧の調達困難
C 連合軍側の結束
1 イタリア参戦(ロンドン密約、1915年)
2 (39 )協定(1915年) − アラブの独立約束
3 (40 )協定(1916年) − 英仏露のトルコ分割協定
4 (41 )の自治約束(1917年)
5 (42 )宣言(1917年) − ユダヤ人の独立約束
D 戦局の転換
1 ドイツの(43 )戦 → アメリカの参戦(1917年)
2 中国参戦
3 ロシア革命(1917年)
→ ブレスト=リトフスク条約(1918年) でドイツと単独講和
E 戦争の終結
1 (44 )・トルコ・オーストリアの降伏(1918年)
2 ドイツの西部戦線での大攻撃失敗
3 11月(45 )の水兵暴動 = ドイツ革命 → 皇帝は亡命
→ 共和国成立 → 連合国と休戦 = 大戦終結(1918年11月)
【ロシア革命】
→ 背景
第一次世界大戦の勃発 → 軍隊の敗北、士気の低下、物資の不足
→ 社会不安が深刻化
A 三月革命(ロシア暦では二月革命)
1 (46 )年、首都(47 )で暴動(国際婦人デーのスト拡大)
→ 軍隊にも反乱 → 労働者と兵士の(48 )が組織
→ 皇帝(49 )の退位 = (50 )朝滅亡
2 臨時政府の成立
@ ソヴィエトでは(51 )党・(52 )が多数
→ (53 )党を主とする臨時政府(首班はリヴォフ) が成立
→ 社会革命党の(54 )が代表として入閣
A 戦争を継続 → 物資不足、国民の不満増大
B 十一月革命(ロシア暦では十月革命)
1 4月、(55 )が帰国(ドイツのはからいでスイスから)
@ (56 )を発表
「一切の権力を(57 )へ」
A ソヴィエト内の(58 )の勢力が増大
→ 七月蜂起は鎮圧(レーニン亡命)
2 (59 )(社会革命党) 内閣が成立
@ 戦争継続、ボルシェヴィキをおさえる
A 帝政派の反革命軍のペトログラード進撃
→ (60 )の援助で平定
→ 以後、ボルシェヴィキの勢力は全国に広まる
3 (61 )・(62 )の指導で武力蜂起
→ 臨時政府を倒す(1917年11月7日)
→ ケレンスキーは亡命
【ソヴィエト政権の成立と干渉戦争】
A ボルシェヴィキの一党独裁
1 (63 )議会の選挙 → (64 )党が第一党
→ レーニンは武力で議会を閉鎖、ボリシェヴィキの一党独裁
2 全ロシア=(65 )会議
議長(66 )、外務人民委員(67 )
「(68 )に関する布告」、「土地に関する布告」を発表
(69 )設立(反革命に対処)
3 (70 )条約(1918年)
@ ドイツとの単独講和、トロツキーが交渉
A (71 )・無賠償・民族自決を主張するが、ドイツの要求に屈
し、西部の広大な地域を放棄
B 国家体制の確立
1 ボリシェヴィキは共産党と改称。首都をモスクワに移す
2 新憲法を採択(1918年) − 18才以上の普通選挙権、男女同権など
3 (72 )社会主義共和国連邦の成立(1922年、ロシア・ウクライナ・白ロシア・コー
カサスの四つ) → 新憲法公布(1924年)
C 内乱と干渉戦争
1 旧軍人や(73 )党が指導する反革命政権が各地に樹立
2 対ソ干渉戦争
@ 諸外国(西方では英・仏・ポーランド) は反革命政権を助け、各地を占領
A 日本やアメリカの(74 )出兵
→ 名目は(75 )兵捕虜の救出のため
B (76 )(トロッキーの努力)の組織と(77 )を設け、内戦に勝利
→ 外国軍はしだいに撤退
D (78 )の結成(第3インターナショナル。1919〜43年)
1 世界各国の共産党の指導機関 → 世界革命の達成
2 (79 )のベラ=クンの共産革命(1919年) 失敗
3 ポーランド・トルコ・中国の民族運動を援助 → ソ連の企図は失敗
【戦時共産主義と新経済政策】
A 戦時共産主義(1918〜21年)
1 共産主義理論の実行 − 土地・工業の国有化、銀行・貿易国営
2 穀物を強制徴発、食糧配給など
3 結果 − 飢饉・多数の餓死者 → 労働者・農民の不満
B 新経済政策(ネップ、NEP、1921〜28年)
1 レーニンの政策転換 − ゆきすぎた国営化や食料の強制徴発をやめる
→ 一定の限度内で資本主義的な営業の復活を認める
中小企業の私的営業許可、余剰穀物販売の自由、外資導入など
2 経済の回復 → (80 )(富農)、ネップマン(富裕商人)の出現
C 外交関係の好転
1 ドイツとの国交回復 − (81 )条約(1922年、ジェノヴァ郊外)
2 1924年英・伊・仏、1925年日本、1933年アメリカが承認
☆ 重要語句
三帝同盟 三国同盟 二重保証条約 光栄ある孤立 露仏同盟 3B政策
3C政策 英露協商 三国協商 パン=スラヴ主義 パン=ゲルマン主義
ブルガリア独立宣言 ボスニア=ヘルツェゴヴィナ併合 バルカン同盟
第1次バルカン戦争 第2次バルカン戦争 サライェヴォ事件 連合国
同盟国 ベルギーの中立侵犯 マルヌの戦い ヴェルダン要塞
タンネンベルクの戦い 無制限潜水艦戦 アメリカの参戦 ペトログラード
キール軍港の水兵暴動 三月革命 ニコライ2世 ソヴィエト社会革命党
メンシェヴィキ 四月テーゼ ボルシェヴィキ 十一月革命
ボルシェヴィキの一党独裁 レーニン ケレンスキー トロツキー
ブレスト=リトフスク条約 ソビエト社会主義共和国連邦 シベリア出兵
チェカ 赤軍 第3インターナショナル 戦時共産主義 新経済政策
ラパロ条約
☆ 重要年代
三帝同盟の成立 三国同盟の成立 露仏同盟の成立 英露協商の成立
第1次世界大戦の開始 アメリカの参戦 三月革命 十一月革命
新経済政策の開始
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