ヴェルサイユ体制の成立

 

               ヴェルサイユ体制の成立
 

 

 
 ヴェルサイユ条約・パリ講和会議  
 ウィルソンの14カ条 ─ 1916年、「勝利なき平和」の演説   戻る  
 1918年1月8日、ウィルソンが発表したもの。旧来のヨーロッパ外交の慣例を打破する革新的な内容。ニューデプロマシー。 ウィルソンの理想主義的な外交。 
   
 しかし、莫大な犠牲をはらってドイツに勝利したフランスの考えはウィルソンとは違っていた。

 1919年1月、パリ講和会議が開かれて、27ヵ国の代表が参加。重要な決定を行なうのは、イギリス、フランス、アメリカ、イタリアの代表、すなわちロイド・ジョージ、クレマンソー、ウィルソン、オルランドの4人であった。
 多数の会議はパリの外務省内でおこなわれ、条約にドイツが調印するときにのみヴェルサイユ宮殿が使われた。

 戦勝国が占領した地を併合することは、ウィルソンの原則に反する。そこで講和会議では、委任統治制を考える。

 この制度は、戦時中に占領した領土を新たに設立される国際連盟の代理として、“委任統治領”として管理するというもの。それぞれの委任統治国は、年に1回、その管理状況について国際連盟に報告する義務を負う。国際連盟の規約は、植民地は“近代世界の激しい競争状態の下にあってはまだ自立しえない”のであるから“先進国”に指導されることが必要である、とした。

 日本は戦時中に手に入れた中国の利権と太平洋上のドイツ領を確保した。しかし協商国側で戦った中国は、外国利権が中国に返還されることを望んだ。しかし、日本の利権はそのまま承認され、外国が租借地や利権をもつ体制は廃止されなかった。中国は怒って会議から代表を引き上げ、講和条約に調印することを拒絶した。

 ドイツに対して莫大な賠償金が要求された。勝った側の各国はアメリカに対して莫大な借金を負っていたのである。また、ドイツは領土の8分の1を失った。 “ポーランド回廊”が海への出口を新生国家のポーランドに与えるために割譲させられた。ポーランドは、ドイツ・ロシア・オーストリアの領土を合わせて、1つの国家として誕生した。

 またドイツの都市・ダンツィヒが国際自由都市にされ、国際連盟が任命する高等弁務官の管轄下に置かれることになった。約300万のドイツ人が、オーストリア・ハンガリー帝国からつくり出された新しい国・チェコスロヴァキアに残された。

 フランスは、国境の安全確保のために、ドイツのラインラント割譲を望んだ。しかしウィルソンは、アルザス・ロレーヌと同じ問題を生むとして、フランスの要求に反対した。

 講和条約は1919年6月に調印された。敗戦国ドイツは軍備の制限、領土の喪失、巨額の賠償金という負担を負った。

 ドイツに対する厳しい軍備制限。  
 ウィルソンは無賠償を宣言していたが、ドイツに対する莫大な賠償金。クレマンソーは、ドイツに対する復讐というフランス世論を背景に、ロイド=ジョージは「最後の一銭まで」ドイツに払わせると述べた。  
 当時の日本円になおすと660億円にあたり、当時の日本の国家予算が16億円であったことを考えれば、いかに巨額なものであったかがわかる。


 領土の大変化  
 ハプスブルク家のオーストリア・ハンガリー帝国の崩壊。オーストリアはドイツ人だけの小国となる。ハンガリーは独立国となった。領土の中からチェコスロヴァキア(スラヴ族のチェック人・スロヴァク人)、ユーゴスラヴィア(南スラヴ諸族のクロアチア人・スロヴェニア人など)─ セルビア・モンテネグロの両国と一緒になって一国をなした。
   
 ロシア帝国の崩壊で、フィンランド、エストニア、ラトヴィア、リトアニア、ポーランドの民族国家が生まれた。  
 オーストリアはドイツとの合併の表明したが、それはヴェルサイユ条約によって禁止された。
      
 フィウメ  
 アドリア海の北部ダルマチアにある港。イタリアはイギリス・フランスとの密約により、南スラヴ人の居住するダルマチア地方を約束されていた。しかし戦後、ユーゴスラヴィアの領域となり、イタリア人が多数居住するフィウメも、ユーゴスラヴィアの海への出口としてあたえられることになった。イタリアはこれに反対したが、ウィルソンも譲らず、フィウメ問題はパリ会議ではついに決定をみなかった。
      
 ポーランドは自国の領土を拡大しようとして、白ロシアやウクライナに進撃したため、ソ連と戦争。1921年に和が結ばれたが、国境はポーランド人居住区よりはるかに東によっており、白ロシア人とウクライナ人を領内に含むことになった。
   
 トルコ  
 セーブル条約。小アジアのトルコ本来の領土に、フランス・イタリアの勢力範囲を認めるもの。また、ギリシアのスミルナ占領を認める。  
 青年トルコ左派の指導者ムスタファ=ケマルは、敗戦に疲れたトルコ国民を励まし、1921年7月侵入してきたギリシアと戦う。ギリシア軍をアジアから追い出し、1922年にはイスタンブルも攻略してスルタンから政治的地位を奪い、1923年連合国とローザンヌ条約を結んだ。

 
 国際連盟  戻る
 ウィルソンは国際連盟の設置し、経済協力、全世界の軍備撤廃、国際紛争の平和的解決を実現させる、という理想を持っていた。しかし国際連盟は、ウィルソンの構想とはまったくかけ離れた機構になった。

 アメリカは参加しなかった。アメリカは、秘密条約がいくつも結ばれていたことを知り、国家本位の対立に幻滅を感じ、孤立主義の中にひっこんでしまった。ヨーロッパに愛想をつかしたアメリカは、孤立主義の“もつれている連合組織には参加するな”に戻っていった。ドイツ問題に関する条約にも調印しなかったし、国際連盟にもはいらなかった。国際的な責任をもつことを拒否し、アメリカの政治的、経済的実力にふさわしい、国際問題での役割も果たそうとはしなかった。
 1918年の選挙で共和党が大勝。上院の外交委員会は、ヴェルサイユ条約の案件を否決する。  
 1919年、ウィルソンは遊説先で病に倒れ、1920年の大統領選挙には出馬しなかった。ウィルソンは失意のうちに世を去った。

 各加盟国が平等に一票を行使する総会 ─ 今日の国際連合と同じ。  
 理事会 ─ 常任理事国と非常任理事国からなる。常任理事国には、イギリス・フランス・イタリア・日本およびアメリカが予定されるが、アメリカの不加入により4カ国となった。それにのち、ドイツが加わる。  
 のち、ドイツと日本が連盟を脱退した。1934年ソ連が常任理事国となった。
   
 侵略に対する制裁の規定はあったが、それを行使するための武力がなく、それが欠点と考えられていた。国際連合が国連軍を設けているのは、この認識にもとづくものであった。  
 
    
     
 ルール占領   戻る  
 1923年1月、ドイツの現物支払いが滞ると、フランスはイギリスの反対を押し切ってルール占領。
 ドイツは「消極的抵抗」を宣言。ドイツの占領軍へあらゆる協力を禁止し、すべての賠償支払いを停止した。
 このルール占領によって、国内最大の工業地帯を奪われたドイツ経済の打撃は、ことに深刻であった。これにより、インフレーションは破局的段階に入る。
 一方フランスに対しても利益をもたらさなかった。ドイツの協力が得られないため、かえって占領のための費用が高くつくことになった。
 
 ドイツに賠償金を支払わせるためには、ドイツ経済の再建が前提条件であった。アメリカ人ドーズ(銀行家、ノーベル平和賞をうける)を委員長とする委員会の「ドーズ案」(1924年)が提出。
 この案をもとにして、ドイツ経済の復興を図るためアメリカが借款を与える。
 アメリカ資本が豊富に流れ込み、それをもとにもともと大きな工業能力を持っていたドイツ経済は、急速に復興した。そして、以後5年間、ドイツは着実に賠償金を払って、しかも繁栄をつづけたのである。
 
 
 アメリカ合衆国の繁栄   戻る  
 イギリスは対外投資と金準備を使いはたして多大の債務を負い、資本の親元の地位をアメリカに奪われた。フランスも債務を負い、帝政ロシアへの巨額の投資を失ってしまった。敗戦国のドイツは、海外に投じていた資本をすべて失い、協商国側への巨大な賠償金をかかえていた。

 これに対してアメリカは、大戦が勃発したときは約40億ドルをヨーロッパから借りていたが、戦争が終了したときには世界第1の債権国にのし上がり、約100億ドルをヨーロッパ諸国に貸し出していた。

 日本は大量の軍需品をロシアに売り、中国やインドにおいてヨーロッパ諸国の市場を奪った。ラテン・アメリカではアルゼンチンやブラジルが、イギリス製品の輸入が途切れて、国内生産に切りかえようとしていた。織物の家内工業しかもたなかったインドでも、巨大な鉄鋼業が出現していた。中国も、外国の支配から一時的に解放されたことによって、工業化が育ちはじめていた。ヨーロッパはかつての第一人者の地位を失っていた。

 アメリカは工業製品の生産高でも、世界の5分の2以上を占めていた。自動車では、アメリカが世界の生産の5分の4を占めていた。

 また、アメリカの資本がヨーロッパの復興を可能にした。アメリカの銀行や市民の貸付けと投資である。ドイツでも活気ある繁栄を取りもどした。ドイツの建設業、とくに造船業および民間航空事業は、アメリカの援助を得て芽をふいた。1920年代におけるドイツ企業に対するアメリカの投資額は、10億ドルを越えている。この10年間にアメリカが海外に投資した額は、35億ドル以上にのぼっている。

 アメリカの大統領、ハーバート・フーバーは、1929年3月の就任式において、無限の進歩を妨げるものは何もないと、次のような演説をおこなった。

“我々は世界の歴史上かつてその例をみない、きわめて快適かつ安全な生活水準に到達している。…一般に広まっていた貧困から解放されたことによって、我々は今、これまでにない大幅な個人の自由を得るところにまできたのである。…我々は新しい人種と、新しい文明とを着々と築きつつあるが、この両者はその成果そのものによって偉大なのだ。”


 国内においては自由放任主義、外交政策においてはいかなる外国とも同盟を結ばない孤立主義。革新主義は退潮。

 禁酒法 ─ 全国的に飲酒の禁止
 1924年、割当移民法
 移民の制限。東南ヨーロッパからの移民の制限。アジアからの移民の禁止。日本の抗議があるが削除しない。

 1920年の大統領選挙に共和党ハーディングが当選、1921年より大統領。「正常への復帰(リターン・トゥー・ノーマルリー)」をスローガン。
 1880年ごろからアメリカ経済は典型的な独占体制。大企業家が政府を動かして、金権政治の弊害が著しい。自由競争は強者の勝利という結果を生み出す。
 革新主義はそれを是正すること目的に生まれた。政界の浄化と民主化、公益を守るため企業活動の規制、労働者の生活の保護など。
 これを実行したのが大統領セオドア=ルーズヴェルトであった。

 1912年に当選したウィルソンはルーズヴェルトと党は異なるが、「ニュー=フリーダム」を掲げて、セオドア=ルーズヴェルトの革新政策を継承した。
 トラスト規制 ─ ウィルソン時代の反トラスト法・クレイトン法、労働組合の活動を大いに有利にした。1920年、婦人参政権が確立。
 
 しかし、1921年にはじまる共和党政権ものとで、革新政策は排撃される。戦争によるアメリカ経済の飛躍的発展、生産規模の拡大を背景。共和党は本来、大企業と関係の深い政党であり、未曾有の繁栄時代を現出した戦後のアメリカは、経済活動への規制は不要とし、自由放任の原則に立ち戻るべきという考え方が強くなった。

 偏狭なナショナリズムの台頭
 サッコ=ヴァンゼッティ事件

 フーヴァー大統領、「貧乏に対する最終的勝利に近づいている」。すべての人に仕事を与える。史上最低の失業率。
 未曾有の経済的繁栄、世界第一の債務国から世界最大の債権国へ。貿易の活況。ほとんど1家族が1台の割合で自動車を持つようになる。20年代のアメリカは経済的繁栄の時代であり、「アメリカ的生活水準、生活様式」の確立された時代であり、同時にその背後でアメリカ社会のあらゆる面でひずみがあらわれた時代であった。
 


 ワシントン会議 ─ 海軍軍縮会議   戻る 
 アメリカは戦艦10隻、巡洋戦艦6隻の建造中。日本も海軍拡張を推し進め1920年には八・八艦隊案が成立し、戦前のイギリス・ドイツ間の建艦競争が再現されようとしていた。
 これは戦後の「平和への機運」に逆行するだけでなく、多大の財政負担を意味する。そこでおなじく建艦競争を恐れたイギリスの働きかけもあって、海軍軍縮会議が提唱された。
 
 第2に日英同盟が廃棄される。
 第3に日本の中国進出が持ち出される。日本が大戦中に拡大した勢力 ─ 山東省のドイツ租借地の占領、1915年の21か条要求など。
 アメリカは大戦中に東アジアに力を注ぐことはできなかったので、1917年日本とのあいだに石井=ランシング協定を結んで、日本の中国に対する特殊利益を認めざるを得なかったが、戦後、アメリカは門戸開放・機会均等の名のもとに日本の中国進出を押し返す態度にでた。そして、日本の勢力をそうとう中国から後退させることに成功した。


 ジュネーヴ会議(1927年)
 補助艦の制限。アメリカの提唱によって開かれるが、フランス・イタリアが参加を拒絶して、日米英の3カ国だけの会議になる。ここでもアメリカは主力艦の比率をそのまま適用しようとしてイギリスの反対にあい、この会議は決裂。
 
 ロンドン海軍軍縮会議(1930年)
 その後、イギリスのマクドナルドの努力があり、1930年ロンドン海軍軍縮会議を召集。日本・アメリカ・イギリス・フランス・イタリアの五カ国が参加。フランス・イタリアは協定を拒否し、日・米・英の間に条約が結ばれる。


   
 レーニンの死   戻る  
 レーニンは1922年末の脳梗塞の2度の発作のあと、党大会への書簡を妻のクループスカヤ(55)に筆記させ、さらにこの年1月に追記させた。これが「遺書」とよばれるもので、スターリンの粗暴さを懸念し党書記長の座から解任するよう求めたものだった。だがこれは党中央委員のみに知らされ、56年のフルシチョフによるスターリン批判演説まで公表されなかった。1924年1月21日、レーニンは、モスクワ近郊のゴールキ村で死去した。53歳。レーニンの遺骸は永久保存処理をされ、赤の広場の廟に安置される。  


   
 スターリンの独裁   戻る
 社会主義体制のソ連は、世界恐慌の影響 ― 経済の停滞と失業問題を免れた。ソ連は世界貿易から切り離されていたため、この時期に、ロシアは大工業国へと発展していた。

権力をにぎったのは、ヨシフ・スターリン。レーニンが1924年に死ぬと権力争いが起こり、スターリンが勝ち抜いた。

彼は、世界革命というマルクス主義の大目的を脇に置き、1928年、“1国社会主義”建設計画に着手した。そのために、膨大な数の官僚の国家計画委員会が発足した。

スターリンは、第1次5ヵ年計画においてロシアの工業化を目ざした。工業と農業を国家の厳しい監督下においた。集団農場(コルホーズ)が各地に設置された。都市においては、政府が管理する工場が建設された。

1926年から39年の間に、2,000万人が農村から都市に移住して、工場で働いた。労働者の賃金は、それぞれの出来高に応じて支払われる。極端な貧乏人や金持ちというのはいなくなった。

第1次5ヵ年計画に引き続き、1933年から第2次5ヵ年計画が始まった。この第1次、第2次5ヵ年計画によって、ロシアは工業国になることができた。

しかしそのために自由と幸福が犠牲にされた。彼らは好むと好まざるとにかかわらず、体制とともに生きることを強制された。それに抗議することはできなかった。スターリンは、いっさいの反抗的な動きを、情け容赦なく弾圧する政策をとった。

工場と農場は、割当てられた生産量をこなさなければならなかった。党の幹部は、ある工場が割当てられた量のベアリングを生産できなかった場合だとか、ある農場が割当てられた量の小麦を収穫できなかった場合には、“体制の破壊者”とか“外国のスパイ”とか“帝国主義の手先”といって攻撃した。

割当てを消化することができないときは、工場や農場の責任者が免職され、時には生命を失った。農地が没収されることに反対した農民は、収容所に入れられた。

5年間に100万人のクラーク(富農)が死刑にされたり、シベリアの強制労働収容所に送られた。彼らの家族400万人も同じ運命をたどった。

スターリンは1936年には、反乱計画が露見したとて、一連の血の粛清に乗り出した。“自白”が発表され、彼らは死刑に処せられた。軍部だけをとってみても、大佐以上の軍人のうち、半数以上にあたる約400人が犠牲になった。

5人の陸軍元帥のうちの3人、15人の軍司令官のうちの13人、58人の軍団司令官のうちの30人が含まれている。粛清の嵐は1937年、1938年も続き、教師や官僚や、以前の粛清裁判においては“証拠”を提出する側であった警察長官2人が、同じ運命をたどることになった。処刑された者の多くは、1917年の革命を実現させた旧ボルシェヴィキだった。もしも彼らが立ち上がろうとしたのであれば、実際に革命が起こっていたであろう。そうなればスターリンには勝ち目がなかった。そこで彼は粛清という方法で、命令を唯々諾々と実行する者だけを残したのである。

第1次および第2次5ヵ年計画で、ロシアは急速なスピードで工業を発展させていった。鉄鋼の生産量は4倍、石炭は3,5倍になった。1939年のソ連は、アメリカとドイツにつぐ強大な工業国になっていた。

ソ連の工業化は、カール・マルクスの理論によらない完全計画経済によって達成された。

世界大恐慌のなかで、ロシアだけが大躍進をとげたことにより、ソ連の威信は大いに高まった。


 
 
             2 ヴェルサイユ体制下の欧米

   
 【ヴェルサイユ体制の成立】
 A パリ講和会議( 1919年.1〜6月)  
  1 ヴェルサイユ条約(ドイツと連合国。1919年)  
   @ いっさいの植民地を失う
   A (1       )・(2       )をフランスへ割譲
   B ポーランド回廊をポーランドへ割譲
   C 軍備は制限
   D (3       )・(4      )(人民投票区) は国際連盟が管理
   E (5         )の非武装化
   F 多額の賠償金(6      億金マルク)
  
  2 原則 − (7        )(米大統領)が発表した(8      )
 @ (9       )の廃止・(10   )の自由・ヨーロッパ諸国民の
    (11     )(諸民族の独立)、国際平和機構の設立(→国際連盟) など
 A (12         )(英)、(13        )(仏) はドイツに
    報復的 → 原則の精神はゆがめられる
   その他の参加者 − オルランド(イタリア)、西園寺公望(日本)ら
    → ドイツ・ロシアは招待されず
  
 B その他の講和条約と新国家の誕生
  1 その他の同盟国との講話条約
   @ オーストリア − (14         )条約
   A ハンガリー − (15       )条約
   B ブルガリア − (16     )条約
   C トルコ − (17      )条約
  2 新国家の誕生 − 民族自決の原則
   @ (18           )(マサリク大統領) ・ハンガリー・ユーゴスラヴィ
    アが(19       )から独立
   A (20       )・エストニア・ラトヴィア・リトアニア・ポーラ
    ンドが(21     )から独立
   B トルコ領内の異民族の独立
     アラビアは独立、シリア・レバノンはフランスの、イラク・パレスティ
    ナ・ヨルダンはイギリスの委任統治領
   C アジア・アフリカでは不徹底
  
 C 国際連盟(League of Nntions.1920年に正式発足) − 本部スイスのジュネーヴ
  1 世界恒久平和を目的
  2 総会・理事会・連盟事務局を中心に、国際労働機関(ILO) 、国際司法裁判
   所=(22    )、が設けられる
  3 不参加国
 アメリカ(提唱国だが、上院の反対)、ドイツ(1926年加入) 、ソ連(1934年加入)  
  → 侵略者を制裁するための軍事力なし − 大国の関係する紛争を解決で
                       きず  
  4 小紛争の解決や文化・労働などの問題に貢献
   労働者の地位向上のための国際的労働基準の設定(1週6日、1日8時間労働制)  
  
 【国際協調主義の発展】
 A 小規模な国際紛争
  1 ギリシア=トルコ戦争(1912〜22年)
   (23         )の指導するトルコが領土の一部(イズミル)を回復
   → (24       )条約締結(1923年、セーブル条約を改定 )
  2 ソ連=ポーランド戦争(1920〜21年、干渉戦争)
   → ポーランドが白ロシアとウクライナの一部を獲得
  3 (25      )(ユーゴスラヴィア領) 問題
   → イタリアの義勇兵が占領(1919年、詩人ダヌンツィオら)  → のち獲得(1924年)
  4 (26     )占領(1923〜25年)
   → ドイツが賠償に苦しみ支払いを停止 → フランス・ベルギーが占領
  
 B 国際協調の動き
  1 1925年、ロカルノ条約 → 翌年、ドイツが国際連盟に加入  
  2 (27       )会議(1921〜22年)
   → アメリカのハーディング(大統領) が提唱  
   @ (28      )条約(1922年)
   → 米・英・日・仏・伊(5:5:3:1.67:1.67) の(29   )艦保有量  
   A (30     )条約(1922年)
     中国の主権尊重・領土保全を約束
     日本は山東省の利権を中国に返還、石井=ランシング協定破棄  
   → 日本の中国進出を抑制、アメリカ外交の勝利
   B (31     )条約(1921年)
     日・米・英・仏 − 太平洋諸島の現状維持   
    → (32   )同盟は廃棄
  
  3 補助艦の制限交渉
   @ ジュネーヴ軍縮会議(1927年)
    → 仏・伊の不参加で失敗
   A (33      )軍縮会議(マクドナルド英首相提唱) (1930年)
    → 米・英・日(10:10:7) の補助艦の比率決定
  
  4 (34    )条約(1928年)
   @ (35      )(仏外相) と(36      )(米国務長官) が提唱
   A 国際紛争解決のための手段としての戦争放棄 
    → 違反に対する制裁規定なし  
  
 【アメリカ合衆国の繁栄】
 A 戦後のアメリカの繁栄 
  1 第一次大戦中、連合国へ物資供給 → 債務国から(37    )へ
  2 国際政治に指導的地位 → 重要国際会議をよびかける 
  3 ドイツの経済復興、中国民族運動を援助
  4 民主主義の進展 − ウィルソン(民主党)のとき、婦人参政権(1920年)
  → ウィルソン(民主党) の後、ハ−ディング、クーリッジ、フーヴァーの共和党
   の大統領がつづく → 1929年の大恐慌まで繁栄  
  
 【イギリスの変化】
 A 国際的地位の低下
  1 アメリカから莫大な戦債 → 世界経済の中心の地位を失う
  2 植民地の民族運動の激化、海外市場を失う  
 
 B 選挙法改正
  1 第4回選挙法改正(1918年)  − (38        )挙国一致内閣
   成年男子と30歳以上の(39     )が施行
  2 第5回選挙法改正(1928年)  − ボールドウィン内閣
   (40   )歳以上のすべての成年男女に選挙権
  
 C (41        )の労働党内閣
  1 戦後の不況、(42   )党の内部分裂による衰え
   → 労働党が、保守党についで第2党に躍進
  2 第1次内閣 − 1924年、(43   )党と連立
   (44    )承認、1年で保守党とかわる
  3 第2次内閣 − 1929年の総選挙で労働党が第1党
   (45      )軍縮会議を提唱
    
 【フランスの内情】
 A 保守的な右派勢力の政権
  1 ドイツに対する警戒心 → 対独強硬政策
   (46    )出兵(ベルギーとともに。ポアンカレー内閣)
   → 財政悪化とドイツの敵意を強めただけ
  2 (47    )が帝政時代の債務を破棄 → ソ連への反感
  3 ポーランドや小協商国と提携(チェコ・ユーゴ・ルーマニア) → 独・ソを牽制  
   → ルール出兵の失敗 → 右派勢力は支持を失う
  
 B (48      )内閣(1924〜25年)
  → 首相エリオ、外相ブリアン
  1 協調外交に転換
   (49     )撤兵(1925年) 、(50   )承認(1924年) 、
   (51      )条約(1925年。ドイツとの協調) 、不戦条約を提唱
  2 財政改革に失敗し退陣  
   
 【ドイツ共和国】
 A ドイツ共和国の成立
  1 ドイツ革命
   @ キール軍港の水兵反乱(1918年) → 共和国成立
   A 1919年、ドイツ共産党−(52        )団の共産主義革命
     指導者カ−ル=リープクネヒト、ローザ=ルクセンブルク
     → 社会民主党政府が鎮圧
  
  2 (53       )憲法の制定(1919年)
    民主的な新憲法、初代大統領 − 社会民主党の(54       )  
    → ヴェルサイユ体制に右翼の反感
    → (55    )一揆(1920年) 、ミュンヘン一揆(1923年)
  
 B 賠償問題
  1 巨額の賠償金の支払いに苦しむ
   → 仏の(56    )占領(1923年)  → 激しいインフレーション 
  2 首相(57         )、蔵相シャハト
   新紙幣レンテンマルクを発行 → インフレをおさめる
  3 アメリカの経済援助 → 経済の復興
   (58     )(1924年)  → (59     )(1929年)
   → ローザンヌ賠償協定(1932年) (→ナチス政権が賠償を破棄)
  
 C 国際的地位の向上
  1 (60      )条約の後、1926年国際連盟加入
  2 エーベルト大統領の死後、(61         )大統領(1925〜34年)  
  → 世界恐慌で深刻な打撃 → ナチスの台頭  
  
 【ソヴィエト連邦】
 A (62       )の支配 − 一国社会主義
  1 レーニン死後、(63      )論のトロツキーを追放して支配権をに
   ぎる
  2 (64          )(1928年) に着手
   重工業に重点、農業の機械化と集団化
   集団農場(65       )・国営農場(66       )の建設
  3 第2次五カ年計画 → 軽工業・国民生活の向上めざす
    第3次五カ年計画 → ウラル・シベリアの重工業建設
  4 (67         )制定(1936年)
   世界初の社会主義憲法 → 候補者推薦制と一党独裁制はかわらず  
   → 血の粛正工作でスターリンの独裁
  
 B 国際的地位の向上
  1 英(1924年) ・米(1933年) がソ連邦を承認
  2 (68      )に加入(1934年)