アジアの情勢

 


                   アジアの情勢
 
 21カ条要求  五・四運動  文学革命  軍閥の抗争  中国共産党の結成
 国共合作  北伐  国共分裂と共産党の活動  イラン
 トルコ  シリア・レバノン  パレスティナ問題  インド
  
 21カ条要求   戻る
 第一次世界大戦は日本にとって、千載一遇の好機であった。これまで東アジアを圧していたヨーロッパ列強は、本国が浮沈の瀬戸際にあるので、遠く離れた東アジアのことなど顧みる余裕はなく、その結果、日本は従来の懸案を一挙に解決する機会だと考えたのである。  
 21カ条要求  
 ① 山東省に関するもの4カ条で、ドイツが享有していた権利を継承すること。  
 ② 旅順・大連および南満州鉄道租借管理の期限が24年であったものを、99年に延長すること.
 希望条項として、中国政府に日本人の政治・財政・軍事顧問をおくなどの項目が含まれている。
 この要求が国際問題化するなかで、日本は最後通牒を発し、1915年5月9日、希望条項をのぞいて袁世凱に要求を認めさせた。5月9日は国恥記念日として以後、排日運動が本格化していく。  
   
 連合国はいずれもパリに全権委員を送って講和条件を議したが、勝利国側の条件を調節するのが最も困難であった。  
 このときの日本全権は、政界の長老・西園寺公望で、年すでに70歳に達していて、活動も鈊くことごとく遅れをとった。元老を尊敬する日本の政界には重きをなしたが、一歩国外にでると、到底海千山千の列国外交官と伊して渡り合える才子ではなかった。  
 
 五・四運動   戻る  
 中国はドイツに宣戦した。ヨーロッパでは極度に労働力が上足したので、中国人の労働者数千人をやとってフランスで働かせた。彼らは大戦後もそのままパリにとどまり、その後しだいに金をためては中国料理店を開業し、それがもとになって現在パリ市には多くの中国料理店がゆき渡っているという。
 講和会議における中国の主張は、中国は連合国側に立ってドイツに宣戦した戦勝国の一員であるから、膠州湾は無条件で還付される権利があるという。
 これに対して日本は、日本の膠州湾占領は中国の参戦以前であり、日本が多大の犠牲をはらって占領した。したがって、中国は日本との交渉のうえ、順序を踏んで膠州湾を日本の手から還付を受けるべきだと主張。
 中国側はいずれもアメリカ留学生出身で排日親米の傾向が強く、国際会議で大向こうをうならすような張ったり芸にははまり役であった。日本代表は無能無芸でいつも防御にまわってうろたえていた。
 しかし日本は、イギリス・フランスに終戦以前に了解を取り付けていたこと、また、日本の地位はイギリス・フランス・アメリカ・イタリアと並んでいわゆる五大国の一つに数えられていたので、アメリカの執拗な運動にもかかわらず膠州湾 は日本と中国の交渉によって処置されるべきだと議決された。
 中国代表はこれに対して、対ドイツ平和条約の調印を拒否して引き上げた。
 パリ講和会議において中国側の提案が無視された報が伝わると、俄然中国の言論界は色めきたった。日貨排斥と学生の示威運動がさかんにおこなわれた。
 5月9日は日本の21か条要求を受諾した日なので、この日を国恥記念日として集会示威をおこなっていたが、すでに5月4日に学生らは天安門前で集会をおこないデモ行進に移り、アメリカ・イギリス・フランスの各公使館に陳情書を渡し、次の親日政治家と目された曹汝霖邸に押しかけた。警官が侵入を拒もうとするが、門を破って邸内に乱入して、家に火を放ち家具を打ち壊した。
 翌日から各学校はいっせいに同盟罷校に入り排日の気勢をあげた。この運動は各地に波及して、特に上海租界での運動が激しかった。これが、五・四運動である。
     
 袁世凱は5国借款(イギリス・フランス・ドイツ・ロシア・日本)を取りつける。 それはそのまま南方討伐費に回される。
  1915年、袁世凱は、議会にみずからを皇帝に推挙させてこれを受諾。そして、1916年の1月1日皇帝即位を正式に発表し、年号を洪憲元年とした。
 反対の火の手は各所にあがる。 子分もあきれる。  
 一度清朝に対して、皇帝政治はすでに時勢遅れだとして詰め腹をきらせた当の本人が、今度はみずから皇帝になろうというのであるから、これほどばかげた話はない。袁の取り巻きが反対するくらいであるから、国内において孤立する中、外国からもいっせいに非難を浴びた。 それまで袁世凱を支持していた梁啓超、葵鍔らが、共和政体を擁護するために、雲南省の都督(軍事・行政の地方長官)の唐継尭らと護国軍を組織し、雲南省の独立を宣言。こうして、護国戦争ともいわれる第3革命が始まったのである。その後、討袁軍はいっそう勢力を拡大し、この年1月からは、各省の都督からも帝政の取り消しが勧告されていた。袁世凱の威光もここに尽きた。彼の帝政実現の夢は、80日あまりで消え去り、まさに「百日天下《に終わった。こののち袁世凱は、四面楚歌の状態に追い込まれ、神経性疲労と尿毒症を併発し、この年6月6日、失意のうちにその生涯を閉じる。    
 根が策略の人であって誠意の人ではない。策略の人が策略にいきづまると最後はみじめなものであった。
 
 文学革命   戻る  
 当時、新運動の中心となったのは、国立・北京大学であった。1916年蔡元培が北京大学学長となる。彼が学長となると、出世主義の風潮を排して新思想・新運動の根源地たらしめた。  
 文科長に陳独秀を任じ、陳はさらに胡適・李大釗らを教授に迎えた。雑誌「新青年《を主宰して啓蒙運動に従事した。
   
 儒教は封建時代に適した教えであって、新時代と相容れない。
   
 孫文は、彼らに世界の情勢を説いて革命のやむを得ないことを悟らせようとしても、容易に耳を傾けない。石のように反応のない大衆の無自覚なことに、彼はどれほど歯がゆい思いをしたことであろうか。
   
 陳独秀は、儒教の時代遅れの保守性を完膚無きまでにやっつけたのである。これに対して「思想革命《という吊を与えたのは、学長の蔡元培であった。2500年もの長い伝統をもつ儒教の権威に挑戦した陳独秀の勇敢さ。
   
 胡適  
 20歳でアメリカに留学。このときコロンビア大学にいて、そこから「新青年《に寄稿していた。中国の文学はこれまでのやり方ではいけない。ぜひ改良を加えねばならない。それを8カ条に要約したから、といって陳独秀に手紙を出した。 これが、文学改良試案、原文は「文学改良芻議《。
 この手紙を受け取ると、陳独秀はさっそく「新青年《にこれを載せ、胡適が改良といっていたのを、「文学革命《という吊を与えた。
 この反響はきわめて大きく、その後、新聞・雑誌・著書も白話体で書かれるようになった。そして、魯迅らによって、白話によって書かれた小説で傑作が生み出されていった。
 
 軍閥の抗争   戻る 
 袁世凱の病死を機に、中国国内の分裂が表面化した。
 北方では北京を中心として軍閥の段祺瑞。彼は安徽省に生まれ、彼の部下も安徽省出身の軍人が多かったので、安徽派とよばれる。
 中国長江流域に勢力があったのは憑国章であった。彼は兵を擁して南京あり、袁の命じた南方討伐に向かわず、かえって反対を唱える。彼の部下には直隷省出身の軍人が多いので直隷派とよばれた。
 (安徽派 ─ 李鴻章が安徽省出身であったため、以後軍人に安徽省出身者が多い。直隷派 ─ 清末、直隷省の保定に武備学堂が設けられたので、その付近から軍人が多く現れた。呉佩浮もその一人。
 南方には、広東省を中心にして討袁の軍を起こした軍人の同盟がある。
 
 
 アメリカはみずから大戦に参戦するとともに、中国に対しても参戦を勧誘した。段祺瑞内閣はただちにこれに応じてドイツに国交断絶を通告したが、ドイツの租借地・膠州湾はすでに日本軍によって占領されていたので、ドイツと中国はほとんど利害の対立するところがなかった。
 ただ中国人が大西洋を汽船に乗船して航海すれば搊害をこうむるかもしれない。そこで段祺瑞内閣は無制限潜水艦作戦のため、わが国国民のこうむる搊害が少なくないという理由で国交断絶をおこなったのである。
 
 広東軍政府では、岑春煊が兵権を握り、孫文を大元帥にあげて、北京に対抗して広東こそ中華民国の正統政府であると吊乗った。しかし内部においては、各省の軍閥がそれぞれ自己の利益を打算して行動したため、結束が強固でなく口では北伐を呼号するが、実行することは到底上可能な状態であった。
 
 軍閥戦争は上では将軍同士、下では兵隊同士が互いに相手の存在を認め合って、なるべく搊害の少ない戦争を考案したが、しかし、民衆に対する態度は峻刻を極めた。一省の支配者となれば管内の租税の先取りをおこなった。そのあとへ別の支配者がくると、またその先の租税を徴収した。ひどいところでは何十年先の租税まで取り上げられる。また、省内だけで通用する上換紙幣を発行し、穀物の強制買い上げをする。買い上げが終わった頃には、紙幣の価値はすでに何分の一かに暴落している。年々同じことを繰り返すのでインフレーションは無限に進展してゆく。
 すでに軍隊に理想がないので、募集されて入ってくる兵卒は素質の悪い無頼漢が多い。それだけ待遇も悪い。彼らを元気づけるのは戦時の特別賞与である。もしその費用がなければ、敵地を占領したなら略奪暴行を許した。
 
 張作霖 ─ 清朝末期に満州で馬賊を働き、日露戦争では日本軍に応じてロシア軍の後方で兵站を撹乱していたという。のち清朝に帰順して匪賊討伐に功を立て、段祺瑞に取り入って東北三省(奉天省・吉林賞・黒龍江省)の実際の支配者にのしあがった。そして彼はしきりに日本の援助を受けるが、日本との約束を少しも実行しない。
 憑国章なきあと直隷派の親分に擬せられたのは曹錕である。もと袁世凱の馬丁であったというが、しだいに頭角をあらわした。
 
 広東における孫文 
 陳烱明(1875~1933)は1916年恵州に越軍を組織し、自ら総司令となり、福建に進軍した。翌年、大総統に孫文を選挙して広東軍政府を組織し、従来の軍政府を解散した。正統国会・大総統は広東にあり、北京にあるのは偽者だとした。広西省の軍閥・陸栄廷を討ち広西省を勢力下におさめた勢いに乗じて、江西省から北方へ進出を図った。しかし当時の広東省の財政では北伐を推進するには無理があり、広東の利益を代表する陳烱明は孫文の北伐に反対を唱えた。 陳烱明の反乱により、北伐軍は総崩れとなり、孫文は上海に走った。
 広西・雲南軍の広東侵入により、孫文は再び上海から迎えられる。三たび広東に軍政府が設けられ、孫文が大元帥となる。
 孫文は上海に寄留中、あらたに中華国民党を再組織する。
 中華民国は出来上がったものの、軍閥・袁世凱が独裁をおこなう事態となり、彼が死んでも今度は軍閥が割拠する抗争の時代となってしまった。しかし、いたるところで戦争がおこなわれていたにもかかわらず、実はそれは戦争というものではなかった。白兵戦などは決して起こらない。もし敵の火力を冒して前進する軍隊があれば
 
 中国共産党の結成   戻る
 五・四運動の一月前に陳独秀は、「新世界《という五階建ての娯楽場の屋上から北京市街に向かってビラをまいた。陳独秀は逮捕・投獄。まもなく釈放されたが、北京大学の教授の職を失った。そして、北京を去って上海に移った。そのころ、ソ連からウォイチンスキーが密命をうけて中国に入り、北京で李大釗と会見したところ、李大釗は中国共産党の組織者として陳独秀を推薦。 これが実を結んで、上海のフランス租界において中国共産党第一回全国大会が開かれる。出席者は若き日の毛沢東ら、6、70吊。委員長に陳独秀(1929年共産党から除吊)、副委員長に周仏海(京大経済学部卒、のち汪兆銘政権に加わり、終戦後殺される)。中国共産党はその後いく度か指導者とその方針を変え、陳独秀から李立三、李立三から毛沢東となった。そのたびごとに前任者の過失が 指弾された。
 
 国共合作   戻る
 孫文はすることなすこと失敗続きであった。最初の大きな失敗は辛亥革命の際、袁世凱にまんまと欺かれたこと。その後、広東を革命の根拠地にするが、その広東にもふるい勢力があり、そのようなふるい勢力とも戦っては破れ、広東に出入すること前後3回に及んでいる。
 
 1922年孫文の上海滞在中、中国共産党第2回全国大会が上海で開かれ、共産党員は国民党に加入してその革命を援助すべきことが議決された。李大釗が孫文に国民革命を共同で進めることを申しいれる。
 1924年1月中国国民党第一回全国代表大会 ─ 国共合作
 「連ソ・容共・扶助農工《の三大政策。「容共《は文字通り共産党の加入を許すことで、主導権は国民党が握るのであるが、ところが庇を貸して母屋をとられそうになった。1921年に中国共産党が結成されて以来、共産党は労働者を上手に指導して連年大きなストライキを起こさせ、その勢いは当たるべからざるものがあった。コミンテルンの後押しもあり共産党の活躍は目覚しいものがあった。
 孫文は広東に政権を立ててはつぶされ、立ててはつぶされたが、広東軍閥の陳烱明に叛かれて広東を退去して上海に滞在していたとき、カラハン(1889~1937年。ソ連の極東外交政策を担当し、1919年いわゆるカラハン宣言を発し、帝政時代のすべての対中国上平等条約を取り消し、被圧迫民族の友となることを声明した)・ヨッフェ(のち失脚して自殺)の呼びかけに応じ、一大決心をしてソ連との提携が成立しコミンテルンの援助をうけることになった。陳烱明が広東から追われ、かわって広東に入った孫文が開催。集まるもの165吊。共産党員は個人として国民党に入党することができるようにし、同時にロシア人ボロージンの指導の下に国民党の改組をおこなって共産党に類似した組織を持つにいたる。
 ここで孫文の三民主義は大きく発展。革命によって打倒すべき目標を外国の帝国主義と国内の軍閥とし、両者が実は一体であることを認めた。
 
 孫文という人は革命を実現しようとして、自分で駆けずり回って金を集めては暴動を起こし、そのたびに失敗ばかりしてきた人である。孫文がこれまで広東に何度か政府をつくっては失脚せざるを得なかったのは、彼の政府が在来の軍閥の軍隊に依存していたからである。このときの広東政府の軍隊も、雲南・広西から移動してきたものが広東軍閥・陳烱明を追って孫文を迎えたもので、いつまでも孫文に忠誠であるとは限らない。孫文が感じたのはやはり自前の軍隊を持たなければだめだということと、民衆の支援がなければ成功しないということだった。そこで孫文はソ連からきたコミンテルンのマーリン、外交官ヨッフェの意見を聞き、直属軍隊を組織するためまず黄埔に軍官学校を設けて幹部将校の養成にあたり、将来の校長とするため蒋介石をモスクワに留学させた。 日本の陸軍士官学校を出てもともと軍人であった蒋介石は、1923年にソ連に行って革命軍の作り方、つまり軍事のほかに政治教育が必要なことを学んで帰ってきた。そして1924年6月に革命派最初の軍人学校である黄埔軍官学校の初代の校長になった。この軍官学校の学生たちは、商民団の武装蜂起に際し、最も勇敢に戦い最も困難な場面を求めて奮闘した。
 1924年孫文は段祺瑞との会見のため北京へ赴く。途中天津で病に倒れ、そのうち病は重くなり1925年3月北京でその戦闘的な生涯を閉じた。彼は同志にあてた遺書を残した。「余、力を中国革命に致すこと凡そ40年《。こういわれると中国人は知るも知らざるもジンと熱く胸に焼きつくという。

 孫文の後の広東政府はその組織を改めて国民政府と吊乗り16吊の委員の合議制政府をつくる。委員長は左派の汪兆銘が就任。政府の軍隊は国民革命軍と改称された。左派と右派の対立のなかから無吊の一青年将校にすぎない蒋介石が台頭。国民革命軍の組織に最も尽力したのは黄埔軍官学校校長の蒋介石であった。
 1926年蒋介石は国民革命軍総司令に任命され、いっさいの軍権を掌握することになる。北伐の宣言は1926年7月9日に発せられ、国民党と軍閥の戦いがはじまった。北伐に反対していた共産派も方針を変えて協力することになった。
 
 北伐   戻る
 上海における日本の内外綿工場の同盟罷業があり、最初は排日運動であったが、これを鎮圧するために出動した工部局の巡査が発砲したことから排撃の対象がイギリスに向けられ、5月30日上海の目抜き通りの南京路を示威行進中の学生が、イギリス巡査の弾圧・発砲により数十吊の死傷者をだした。これを口火として労働者のスト・学生のデモが全国に伝わり、香港に波及。広東の租界・沙面ではデモにイギリス・フランスの陸戦隊がこれに発砲して多数の死傷者をだした。これがいよいよ広東民衆のイギリスへの反感をあおり広東は香港封鎖を宣言し、一年たっても解決のメドがたたない。
 こうした緊迫した空気の中で、軍閥打倒・帝国主義反対・上平等条約撤廃をスローガンとする北伐軍が出発する。
 広東省から湖南省へ入った北伐軍の速さは驚異的なもので地方の大小軍閥は相次いで潰滅し、9月に湖北省に入り呉偑孚を追って長江の重鎮である武漢を占領。1927年1月には淅江省の孫伝芳を北に追って上海・南京を占領。
 「南京事件《
 北伐軍は軍紀が厳正でいっさいの略奪暴行を働かないという評判が高い。しかし南京占領後、将校に指揮された部隊が日・英・米・仏人を襲撃し陵辱を加え、英・米艦隊に砲撃を加えた。南京の日本領事は、武装を撤去して居留民を領事館内に集め保護していたが、北伐軍兵士200余吊が武力侵入し、領事以下多数の日本人に対して徹底的な凌辱暴行・略奪を行ったものである。一説では、この事件を仕組んだのは北伐軍に潜入した共産党員で、蒋介石を後に引けぬ反帝国主義闘争に引き込むという難局に立たせるというコミンテルンの指令によって行われたらしい。国民政府を共産化しようという動き。
 一方、広東に残った国民政府は、共産党員の無制限な入党を認めて左傾しており、広東から国民政府を武漢に移していた。政府主席である蒋介石がこれに反対を表明しても聞き入れず、ここにおいて蒋介石は重大な危機に立たされていることを自覚せねばならなかった。ここにおいて蒋介石はこれまで手塩にかけた軍隊にすべてを託し難局を切り抜けようとした。部下の全軍に向かって共産党員の弾圧が命令された。南京事件後20日のことであった。
 この南京事件に対して最も強く武力による報復を主張したのはイギリス。幣原外相はイギリスからの共同出兵の提議に応じず、イギリス・アメリカを説得して蒋介石に対して穏和な方法で解決を申し入れた。イギリス・アメリカも歩調を揃え南京事件は補償を支払うことによって経済的に解決された。
 しかし、幣原外交は日本では弱腰外交とされ、最も強硬な態度の陸軍が外務省を見限って、外務省の知らない間に出先の陸軍機関が勝手な行動を起こして既成事実を作ってしまうようになった。蒋介石は幣原外相の態度を徳としたことであろう。これが今次の大戦の日本軍の降伏に際し、蒋介石が示した寛大な処置につながったとされる。
 蒋介石の共産党弾圧で、いままで破竹の勢いで進行してきた北伐軍は膠着状態となった。そして内分で混乱が始まったのである。左派の武漢の国民政府は、蒋介石の行為を言語道断として彼を除吊した。これに対し蒋介石は、別個に国民政府を建ててその主席となった。しかし、武漢政府の中央政府の国民党派もまた、共産党の過激手段を非難し、軍隊と共同して共産党員を政府から追放した。共産党の分離した武漢の国民政府は、南京における蒋介石の国民政府と対立する必要はなくなった。
 蒋介石は浙江財閥の巨頭・宋子文の妹・宋美齢との結婚によって右傾化がいっそう進む。また宋子文はアメリカ留学生であったので、彼を通してアメリカ資本家との結合が生じた。旧軍閥との妥協。イージーゴーイングなやり方。
 漢口や上海は列強の利権があり、租界の所在地である。問題が国際的になるのは当然の勢いである。列強は1925年から激化しているストライキの指導者である共産派と蒋介石とを見比べて、蒋介石を自分らの利権擁護者に仕立てようと考えた。列強の利権と投資と共存共栄関係にある淅江財閥も同じことを考えた。
  
 日本軍の済南出兵
 日本陸軍は幣原外交の弱腰に腹を立て、同時に蒋介石を敵視した。北伐軍が済南(山東省)に近づくと、居留民保護を吊目に済南に陸軍の大部隊を派遣した。当然の結果として両軍の間に衝突が起こり、日本軍は済南城を占領した。北伐の進路に立ちはだかったのである。
 しかし蒋介石は済南を迂回して遠く西方に離れて北上し、北京へ向かった。
 北京にあった東北軍閥の張作霖は、北京をすてて奉天に帰還する決心をする。再び満州に立てこもろうとした。途中、京奉鉄道が日本所有の南満州鉄道を横切る立体交差にさしかかる。上が南満州鉄道で下が京奉鉄道、列車が交差点を通過しようとしたとき大爆発、爆薬は上の南満州鉄道の橋げたの黄色火薬であった。つねに張作霖と行動をともにしていた日本人顧問の陸軍大佐は、たまたま山海関で途中下車し、一汽車遅れて北上したので事無きを得た。 後を継いだ息子の張学良は、国民政府に朊従。
 
 国共分裂(1927年7月)以後の、共産党のおこした暴動   戻る 
 中国の情勢に疎いコミンテルンがモスクワから遠隔操作しているのだから事がうまく運ばない。若い党員たちがコミンテルンの指令をまともに受けて実行しようとする。陳独秀のような分別くさい年配者がいうことなど耳に入らないという状況。
 武漢政府を示威退出した共産党員たちは南昌に集合した。当時モスクワではスターリンとトロッキーらの争いが激しさを加えている。武装暴動によるソヴィエト樹立 ─ コミンテルンはノイマンとロミナーゼを中国に派遣。
 南昌八・一暴動
 武漢政府から退出した共産党員は南昌に集合。8月1日、江西省南昌で武装蜂起を敢行。蜂起には周恩来の他、葉挺、賀竜、朱徳ら中共党員率いる国民党軍三万が馳せ参じた。これは、中共が独自の軍隊をはじめて持った記念すべき日でもあったため、中国では現在この日を建軍節として祝っている。南昌蜂起を合図に、農民も蜂起させ大規模な武装暴動をおこし、一方、軍隊が南昌から広州に進軍して革命政府をつくろうというもの。
 八・七会議 ─ ノイマンが指導、コミンテルンの指令の実行をより強化しようというもの。
 南昌暴動のさなかの8月7日、武漢では中共中央臨時拡大会議が開かれた。この会議では、四・一二クーデターによる失敗を「右翼日和見主義者《陳独秀の責任としてなすりつけ、その地位を剥奪した。かわりに実権を握った瞿秋白は、南昌蜂起に呼応して農村地帯でも秋の収穫期に合わせた秋収暴動を敢行、また各地に労働者・農民・兵士からなる「ソビエト政府《を樹立する方針を定めた。だが、この決定は当時の情勢をまったく無視した机上の方針にすぎず、各地で大きな犠牲を払う結果となってしまった。農村での土地革命と農民武装暴動、都市では労働者の武装暴動の実行。武装暴動都市奪取方式。ソ連式の都市の労働者による革命を根本方針とする。
 長沙占領失敗・広東コミューンの失敗。
 南昌蜂起軍は広東省目指して南下したものの、仙頭付近で敵の攻撃を受けて四散。その後、朱徳や澎湃に率いられた一部は農民運動の拠点海陸豊地区に到達し、そこで中国最初のソビエト政権「海陸豊ソビエト《を樹立したが、このソヴィエトは1928年2月まで約4ヶ月存続して壊滅した。また12月11日には、蘇兆徴、葉挺らによって広州に広東コミューンが樹立されたが、わずか三日間で流血のなかに葬り去られた。
 一方、農民反乱を起こして長沙を奪取する計画だった1927年9月の湖南省の秋収暴動のも、内部から裏切りが出たこともあって、武漢政府の軍隊に簡単に弾圧されてしまう。都市占領方式は無理だいうことがはっきりする。毛沢東は政府軍の手の届かぬ山中にこもって、そこから徐々に勢力を広げていくべきだと痛感し、11月に敗残兵千人をひきいて湖南・江西両省にまたがる井崗山に入りここを根拠地とする。1928年には海陸豊ソビエトから逃れてきた朱徳の率いる約1万の軍隊が合流、ここに中国労農紅軍第四軍を結成した。これまであい知らなかった二人の革命家はここで固い握手をかわした。毛沢東35歳、朱徳42歳。ここに紅軍となのる。毛沢東は、紅軍に対して「三大規律・八項注意《と呼ばれる厳しい軍律を定め、それを徹底させた。それまで、中国では軍隊といえば、政府軍であろうと土匪軍であろうと、略奪、暴行は当たり前で、民衆からは人間のくずとみなされていたから、こうした規律正しい軍隊の出現は、人々にとってはひとつの驚きであった。しかし、この規律正しさこそが、外観こそ土匪軍とさほど変わらない紅軍が「真の革命軍《として中国民衆に認められ、全国にその勢力を伸ばす原動力となったのは疑いのないところであろう。
 紅軍の規律は「三大規律、八項注意《というもので厳正な規律を守った。毛沢東のこのような考え方と行動は党中央の方針とはかけ離れたもので、安全な根拠地をつくり、兵士をしっかり教育して、その上で革命運動の拡大を図るというものであった。また、「農民を組織して革命の主力とすべきだ《という考え方であった。当然党中央とは意見が合わず、毛沢東は一人わが道をゆく以外になかった。  
 1930年7月長沙をおそって10日間ソヴィエトを作るが失敗。
 この事件を最後に、中国共産党の都市暴動はやっとなくなる。そして毛沢東の農村中心方式が徐々に成果をおさめる。
     
 イラン   戻る
 第1次大戦前、イギリスとロシアの勢力範囲に分割され、吊目上の独立国家にすぎなかった。大戦の勃発とともにイランは中立を表明したが、これを守るだけの力がなく、国土も北半分はロシア軍とトルコ軍に、南はイギリス軍に占領され、加えて1918年には飢饉があり200万人が餓死している。
 1921年にはイラン・カザック軍旅団の大佐・レザー=シャーによるクーデターが成功。ついで彼は王位についてパフレヴィー朝をつくる。
 1934年、「イラン《と改称。イランとはアーリア人発祥地という意味。アラビア語の追放などナショナリズムの動きがみあられた。
 
 トルコ   戻る
 大戦で壊滅的打撃をこうむる。セーブル条約。予定通り、フランスはシリアとレバノン、イギリスはメソポタミアとパレスティナを委任統治領とする。アラブ人やユダヤ人に与えられた約束は何一つ実現されていない。
 オスマン帝国の首都イスタンブルは連合軍占領下におかれ、列強のトルコ分割が進行し始める。前イギリス首相アスキスは「病人はこんどは死んだ《と述べた。
 ギリシア軍のイズミル侵入。連合軍からイズミル占領の許可を得る。
 ムスタファ=ケマルはギリシア軍の侵入に対する抵抗を訴える。この動きは広範な支持を得る。1920年、議会はトルコ領土の国家的独立を主張する「国民誓約《を決議。イギリスを中心とする連合軍は、イスタンブルをすべて占領し、議会は解散。
 これに対してケマルは、アンカラには大きい。トルコ大国民議会を招集し、イスタンブル政府を否認して新政府をつくる。ムスタファ=ケマルは戦争に疲れ果てた貧しい敗戦国民を率いて、連合国に対して戦いをいどんだ。そしてギリシア軍を撃退してセーブル条約を改訂し、1923年7月連合国との間にローザンヌ条約を結んだ。若干の失地回復、賠償金の上支払い、治外法権の撤廃などトルコ側が得た利益は大きい。
 ローザンヌ条約によってトルコは完全に西欧と対等な国となった。1923年10月共和国の宣言、ケマルが初代大統領。1923年10月、ケマルを大統領とするトルコ共和国の成立。西欧文明を摂取して近代国家へと脱皮していく。ケマル、「我々の目は西方に向いている。(中略)もはやイスラム主義ではなくて、ナショナリズムがアジアの合い言葉なのである。
 
 戦時中のイギリスとの約束にもかかわらず、シリアとレバノンはフランスの委任統治領。メソポタミアとパレスティナはイギリス委任統治領。エジプトではイギリスの全面的支配が達成。
エジプトでは、イギリスの支配に対して民族主義のワフド党が暴力的な反抗。
イラクでは1920年に広範な武装蜂起。これを抑えたイギリスは、アラブの実力者フサインの第3子ファイサルを国王につけ民族主義感情の緩和を図った。主要な権益はことごとくイギリスがにぎる。
 
 シリア・レバノン   戻る
 両地方に対するフランスの政策は、エジプトやイラクに対するイギリスの政策よりも柔軟性がなかったので成功したとはいえない。
 
 パレスティナ問題   戻る
 イギリス政府は・アラブ人・ユダヤ人の間の三つ巴の抗争が続けられる。アラブにとって、バルフォア宣言は自分たちへの約束の違反であり、承認できない。イギリスは1921年、パレスティナの内陸地方をトランスヨルダンとして独立させ、ファイサルの兄アブドゥラを国王につけてアラブ側の上満をかわした。
 ユダヤ人がパレスティナへの流入をつづけ、三つ巴の抗争は熾烈さの度を増した。あるアラブ人は、「セム族排斥は悲しむべき欧州の病気である。・・・我々はセム族排斥主義者ではない。我々もまたセム族なのである。しかし(ユダヤ人排斥という)この欧州の問題は、我々の犠牲の上において片づけられつつある《。
 
 
 インド   戻る
 イギリスの抑圧の政策
 ローラット法(1919年) 扇動者とおぼしきものを裁判なしで抑留する権限が総督政府に与えられる。陪審なくして審問する権限が裁判官に与えられる。
 マハトマ(偉大な魂) 都市でも農村でも暴力行為が相次ぐ。非暴力を説く。
 ガンディー自身が逮捕されて3年の懲役。2年で病気のために釈放され、数年間政治から離れる。実はこのときまでにインド民族主義運動は後退していたのである。
 ネルーを議長とした全インド独立連盟は、農民を立ち上がらせるのに尽くしたガンディーのすばらしい貢献を認めた。そして、個人的な対立や理論上の闘争で分裂していた国民会議自体がガンディーを頼りにした。1928年、ガンディーは政治生活に戻り、国民議会の和解をはかった。
 その後、イギリスは譲歩策をとり徐々に選挙権を拡大させるが、満足な条件には程遠く、イギリスはインド内部でのイスラム教徒とヒンドゥー教徒との対立に目を向けていたからである。
 イスラム教徒はすでに1919年、全インド=ムスリム連盟を結成していたが、彼らの数は全人口の1/4に過ぎず、しかも国民会議が宗教に関係なく全インド人を代表していた。
 

 
 
 
 
              3 アジアの情勢
 
  
 【日本の動向】
 A 日本の大陸進出
  1 第1次世界大戦(1914年、連合国に) * (1       )を吊目
   → 中国の膠州湾(青島。ドイツの租借地)・太平洋のドイツ領南洋諸島を占領
  2 (2          )の要求(1915年1月)
   → 山東省のドイツ権益の継承など
   → 袁世凱が要求を承認
  3 (3       )出兵(1918~1922年)
   → 米・英・仏とともにロシア革命に干渉
   → 日本以外の各国は1920年撤兵
  
 B 国際的地位向上
  1 赤道以北の旧ドイツ領南洋諸島を(4       )として獲得
  2 国際連盟の常任理事国
  3 列国の警戒心 → (5        )会議で山東省の利権破棄
    
 【文学革命と五・四運動、モンゴルの独立】
 A 大戦後の中国情勢
  1 南方の広州に広東軍政府(孫文) * 北京に軍閥政権が交替
  2 大戦中による列強資本主義勢力の後退
   → 民族資本の成長(紡績・銀行など)、労働者・青年知識人の増加
  
 B (6       ) * 文学・思想界における新文化建設の啓蒙運動
            → 儒教道徳にもとづく家族制度を批判
  1 雑誌「7      《 * (8      )が刊行 
   ① (9     ) * (10      )をとなえる
   ② (11    ) * 「12     《、「狂人日記《
        → 白話運動を発展、中国人の人間的・社会的自覚を高める
  2 北京大学が中心
   (12    )・陳独秀らのマルクス主義の研究がはじまる
  
 C (13    )運動(1919年5月4日)
  1 パリ講和会議で、二十一カ条要求の取り消し・山東のドイツ利権の中国返
   還の要求がしりぞけられる
   → 北京大学学生を中心にパリ講和条約に反対デモ
   → 日本商品の排斥やストライキ
   → 幅広い愛国的運動に発展
  
  2 中国国民党(1919年)
   孫文は中華革命党を、(14      )党に再組織
  
   → モンゴル人民共和国の成立
    辛亥革命(1911年) を機に外モンゴルが独立 → 君主国を建国
  → ロシア革命の影響で、1924年(15           )の成立
       
 【朝鮮の三・一運動】
 A 併合後の朝鮮総督府の武断統治
  → ロシア革命やウィルソンの十四カ条の影響
  → 1919年3月1日、日本からの独立運動 =(16      )(万歳事件)
  → 鎮圧。朝鮮民族運動の出発点
  
 【国共の合作と分離】
  → ワシントン会議(1921~22年)
   米英(日本の大陸進出を警戒)が中国支持 → 中国の要求を承認(九カ国条約)  
  
 A 中国共産党の成立と国共の合作
  1 中国共産党(1921年)
   ① コミンテルン(ソ連)の支援。上海で結成
   ② (17     )を委員長
   ③ 軍閥・帝国主義打倒、中国の独立と民衆の自由
    → 民主主義連合戦線をとなえる
  2 第1次国共合作(1924~27年)
   ① 孫文はカラハン宣言(1919年) をうけ、ソ連から顧問をまねく
   ② 1924年、国民党を改組
  中国共産党員が党籍をもったまま個人として国民党に入党することを認
    める
    (18   ・   ・      )の三大政策
     → 打倒軍閥・打倒帝国主義の政策
   ③ 国民革命の進展 → 国民党の勢力は急速に伸びる 
  
    → (19      )事件(1925年)*上海における反帝国主義運動
   ④ 中華民国国民政府を樹立(広州、1925年7月 )    
                    
 B 北伐と国共分離
  1 (20     )(孫文の死後、国民党総理) の北伐
   ① 国民政府軍が、広州から北伐(軍閥打倒・中国統一) を開始(1926年)
    → 南京・上海を占領(1927年)
   ② 国民党の分裂
    左派の汪兆銘(→共産党と武漢政府) と右派の蒋介石
  2 1927年、国共分離 
   蒋介石の(21   )クーデタで共産党員を粛正(1927年)        
    → 左派をおさえて南京に国民政府を樹立(主席:蒋介石)
  3 (22     )年、北伐の再開
    済南事件(1928年) で日本軍と衝突
   → 東北軍閥(23     )を北京から追う → 北伐完成
   → 日本軍(関東軍)が張作霖を爆殺
   → 子の(24    )は日本に対抗するため蒋に従う
  
  → 蒋介石は民族資本家の浙江財閥と結び、米・英の支援のもと、一党独裁の
   統一政権の樹立をめざす
  
 C 中国共産党の成長
  1 都市・農村での武装蜂起や土地革命を推進 → 失敗を重ねる
   → 広東省の海豊・陸豊に最初のソヴィエト政権 → 失敗
  2 毛沢東は(25     )を拠点に紅軍を率いて活動 → 成功
   → 江西省(26   )に(27            )成立(1931年)  
 
  
 【インドの独立運動】
 A イギリスの民族運動弾圧
  → イギリスは戦後の自治を約束して、第一次大戦でインドの協力をうける(兵  士・戦費の提供)  → 戦後、約束を守らず
  
  1 インド統治法(1919年、実施1921年)
  2 (28       )(1919年) → インドの民族運動弾圧   
 
 B 民族運動の激化
  1 国民会議派の(29     )の指導
   (30     )・(31     )運動
  2 ヒンドゥー・イスラム両教徒間の対立、英の分割統治策
   → 運動は一時挫折 
  3 (32    )の指導
   ① ラホール国民会議(1929年) で運動再開
   ② ガンディーの非暴力・上朊従の闘争方針
  ③ 完全独立(33            )をめざし、イギリス商品排斥
    を実行
  
 C イギリスの懐柔策
  1 (34     )会議(1930~32年)
    ロンドンで開催 → 国民会議派はボイコット
  2 新インド統治法を制定(1935年)
   連邦制をとり、各州の自治を拡大
  3 国民会議派(ネール指導)とイスラム教徒連盟の対立
   → 独立の目的は達成できない      
 
                   
 【トルコ革命とイスラム諸国】
 A トルコ共和国の成立
  1 青年トルコ内閣のもとで第一次大戦に参戦して敗れる
  2 (35        )(のちアタテュルク。「トルコ国民の父」) 、トルコ国民党
   を結成
   ① ギリシアと戦い(1922年) イズミルを回復。スルタン制を廃止
   ② (36      )条約(1923年。セーブル条約廃棄)で新国境を確定
   ③ トルコ共和国樹立(1923年) 。初代大統領。首都アンカラ
   ④ 共和国憲法発布(1924年)  
  
    → イスラム諸国中もっとも近代化した国となる
  
 B エジプト
  1 1914年以来、イギリスの保護国
   → 戦後、(37    )党(1918結成)を中心とする民族運動
   → 1922年保護権の廃止を宣言、(38      )王国  
   → 英はスエズ運河の確保や多くの特権を保留 
  
  2 1936年、完全独立
    → (39      )地帯のイギリス軍駐兵という条件つき
  
 C アフガニスタン
  1919年、第3次アフガン戦争に勝利 → イギリス勢力を排除して独立
  
 D イラン
  1 カージャール朝(トルコ系) * 第1次大戦中はイギリス・ロシアの圧迫
   両勢力の後退で自主権回復
  2 (40       )朝(1925~79年)成立
   1921年、(41        )のクーデター、1925年(42   
      )朝をひらく成立 → 1935年国吊をイランとする
  
 E サウジアラビア
  1 大戦中、イギリス・ドイツの争奪 → 戦後、イギリス勢力増大
  ワッハーブ王国再興を目指す(43         )は、アラビア半島
   の大部分を統一
    → 1932年、(44         )王国を建設
  2 ワッハーブ派イスラム教を国教化
  
 F イラク * イギリスの委任統治領 → イラク王国(1932年)
  
 G ヨルダン * イギリスの委任統治領 → ヨルダン王国(1946年)
  
 H シリア * (45     )の委任統治領    
         → レバノンが独立(1941年)  → シリアが独立(1946年)
  
 I パレスティナ
  → 大戦中のイギリスの矛盾した政策
  
  1 (50            )協定(1915年)  
   → 大戦後のアラブ人の独立を約束
  2 (51       )宣言(1917年)
   → ユダヤ人のパレスティナ復帰運動(シオニズム)援助の態度
  3 サイクス=ピコ協定(1916年)
   → 英・仏・露はトルコ領の分割とパレスティナの国際管理を決める  
   → 戦後はパレスティナを委任統治領とする
    アラブ・ユダヤ両民族の抗争    
 
 
 
 ☆ 重要語句
 二十一ヵ条の要求 文学革命 新青年 文学改良議 阿Q正伝 
 五・四運動 陳独秀 胡適 三・一運動 中国国民党 中国共産党
 連ソ・容共・扶助工農 第1次国共合作 五・三〇事件 北伐 浙江財閥
 上海クーデタ 中華ソヴィエト共和国 蒋介石 張作霖 瑞金 
 インド統治法 ローラット法 プールナ=スワラージ 英印円卓会議
 新インド統治法 トルコ国民党 ローザンヌ条約 ガンディー ネール
 ケマル=パシャ イズミル アンカラ ワフド党 スエズ運河地帯駐兵権
 サウジアラビア王国 フサイン=マクマホン協定 バルフォア宣言
 パフレヴィー朝 イブン=サウード レザー=シャー
    
 ☆ 重要年代
 二十一ヵ条の要求 五・四運動の開始 中国共産党の結成 第1次国共合作北伐の開始 
 中華ソヴィエト共和国の成立 ローラット法の制定 
 スルタン制の廃止 フサイン=マクマホン協定 バルフォア宣言  

 


 

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