全体主義の台頭

 

                4 全体主義の台頭 

 
 

  
 世界経済恐慌へ   戻る
 フランスも債務を負い、帝政ロシアに対する巨額の投資をフイにしてしまっていた。
 敗戦国ドイツは巨大な賠償金をかかえていた。
 これに対してアメリカは、大戦によって活気づけられ、農産物・工業製品の輸出は飛躍的に伸びた。大戦前、40億ドルをヨーロッパから借りていたアメリカは、戦争が終結したとき、ヨーロッパに100億ドルを貸していた。世界第一の債務国。  
 その他のヨーロッパ以外の国々も、大戦によって利益を得ていた。日本は中国やインドにおいてヨーロッパ諸国の市場を奪った。  
 インドや中国においても、工業化を目指し歩みはじめていた。このような結果、ヨーロッパは世界の工場としての役割を失ってしまった。  
 アメリカはまた、銀行や資本の輸出という点でもぬきんでいた。ヨーロッパの復興、アメリカの銀行や個々の市民の貸付と投資、ドイツもそのおかげで活気ある繁栄に恵まれる。1920年代におけるドイツ企業に対するアメリカの投資額は10億ドルをこえる。  
 このような状況では、世界はすべて順調にいっているという信念を与えた。  
 アメリカの大統領ハーバード=フーバーは1929年3月の就任式において、「どの鍋にも鶏1羽を、どのガレージにも車2台を」と演説していた。
   
 貿易面におけるアメリカの役割は大戦前のイギリスの果たした役割とは違う。  
 1914年以前のイギリスは、資本と機械類を輸出する代わりに食料や原料を輸入して、世界の国際収支の均衡に一役かっていたのである。  
 アメリカは、国内の消費をまかなえるだけの農産物をつくり、工業用の原料を自給する体制ができあがっていた。  
 かつてのイギリスとは違い、アメリカは輸出品の見返りとして貨幣を要求したのである。
 
 農業
 大戦のためヨーロッパの小麦の生産高は20%低下した。それと同時に、大戦は需要を増大させたので、小麦の価格は上昇。そのため、ヨーロッパ以外の地域は生産量が増加。アメリカ・カナダ・アルゼンチンなどでは増産による利益を見込んで、耕地と農業機械を増やすために多額の資金を借入れるものが多かった。そして、戦後も生産は伸びつづけた。
 ところが大戦が終わると、ヨーロッパ自体の小麦の生産は急速に回復していった。需要は減少していった。売れ残った小麦の増加、価格は暴落、世界中の小麦の生産者が危機に瀕した。戦時中からの負債と戦後の価格の暴落とで、苦境に立つ。
 他の作物の生産者も同じく危機に直面。綿花・トウモロコシ・羊毛・ココア・コーヒーの産出量は増加の一途をたどる。農業の近代化・機械化が過剰生産と価格の低下をまねく。
 借金の返済ができない。労働者の所得・購買力は当時の高い生産水準を維持していくには不十分であった。工業生産は1929年6月以来、下降線をたどっていた。
 
 ニューヨークのウォール街の株式取引所 ─ 株価の大暴落
 1929年10月24日(「黒い木曜日」)、この日ニューヨーク証券取引所では大量の売り物が殺到して主要株が軒並み暴落した。つい前日まで、アメリカではだれでも株を買うとぼろもうけができるといわれ、株式投機熱があおられていた。そのため株価は異常に値上がりし、いつまでこれがつづくのか不安がもたれていたさなかのことであった。突然の大暴落に、恐怖にかられた人々が次々に売り逃げにはしった。こうした動きがさらに暴落に拍車をかけた。つづいて、10月29日の火曜日(「恐怖の火曜日」)にはいっそうするどい崩壊がおこった。のちにこれは「悲劇の火曜日」とよばれ、「暗黒の木曜日」とあわせてよばれる。しかし、これはほんの序の口で、株価は1932年の夏まで下降線の一途をたどった。
 消費者は収入が減ったから、買うものを減らさざるを得なかった。売れ行きが低下して行くと、工場への注文は途絶え在庫が増加してゆく。いくつかの工場は生産量を削減し、いくつかの工場は完全に閉鎖した。1929年に150万人であったアメリカの失業者は、1932年には1200万人、労働人口の25%までふくれあがった。ドイツにいたっては致命的で、失業者は600万人、労働者の5分の2は完全失業したといわれる。
 危機は銀行の信用をゆるがす。財産をおろそうとする人々が銀行に殺到したが、多くの銀行は自らが株式投資に首を突っ込んでいたから、預金者の要求に応じることはできない。
 その結果、3年間にアメリカ全土で5000の銀行が破産した。この株式取引所パニック(金融恐慌)をきっかけにして、アメリカには長い深刻な経済恐慌が襲ってきた。
 
 金融恐慌はアメリカの国境をこえ、全世界に広がる。アメリカの銀行が海外に貸し出していた資金を引き上げたことによって、ドイツおよび東ヨーロッパの繁栄がもろくも潰えた。アメリカの場合と同様、ヨーロッパにおいても銀行の取りつけ騒ぎがおこって、銀行の破産があいついだ。
 イギリスでは、イギリスの輸出市場がなくなってしまう。1931年、イギリス政府はきわめて多くの人々が失業保険の適用をうけたため、毎週100ポンドの赤字をだした。
 1931年9月21日、イギリスはついに金本位の停止にふみきった。それまでの100年間、金本位制によってポンドはいつでも113グレイン(1グレインは0.064グラム)の純金と交換することができた。この制度が維持されているかぎり、ポンドは世界でもっとも安定し、もっとも重んじられる通貨であった。
 アメリカは1934年、フランスは1936年に金本位制を停止。
 ここにいたって金本位制はまったく崩壊する。自由貿易体制は崩壊へむかい、列国は勢力圏の確保を求めてブロック経済へ移行する。
 大恐慌は、世界経済を打ち壊すことによって、すべての国が自国の経済を保護しようと努めた。輸入関税をつり上げる保護関税政策。イギリスは、カナダ・オーストラリア・ニュージーランドとの間に特別な協定を結び、それぞれが有利な条件で取り引きできるようにした。すべての国が輸出市場を維持ないし、獲得しようとした。
 
 いたるところに失業者が溢れ、機械は何もせずに遊んでいる。自分と家族の生活をかろうじてでも支える就職口があれば、それがどのような種類のものでも飛びついた。彼らは無料食堂の前に並び、無料宿泊所に寝泊まりした。この大恐慌を経験した人は、当時の絶望と不安と無力感を忘れることができないといわれる。1930年代の家をもたない放浪家族の生活は、スタインベックの「怒りの葡萄」で描かれた。
 この問題の解決策は、すぐに見つかるものではなかった。
 経済学者は、恐慌は自動調節的な景気循環の一部、その仕組みにまかせておけばいずれ復旧するであろうと信じていた。フーバー大統領も、「繁栄はすぐそこまで来ている」と語る。多くの人は、資本主義経済は「自然法則」にしたがっている。それに干渉することはかえって害を生む、と考えていた。
 
 フーバー=モラトリアム
 1931年6月、フーバー大統領は、第一次世界大戦の連合国へのアメリカの債務とドイツの連合国への賠償金の支払いを1年間凍結することを提唱。しかし、戦債の返済や賠償の支払いを一時停止するだけでは、世界恐慌の根本的な解決とはなりえずヨーロッパの経済状況はさらに悪化していった。モラトリアム終了後もドイツだけでなくほとんどの国で戦債返済の再開は不可能となった。
    
 ケインズ、「雇用、利子および貨幣の一般理論」(1934年)
 長期的にみれば自然の法則が回復をもたらすとする伝統的な経済観に挑戦、「長期的にみているうちに我々はみな死んでしまう」と書いている。
 
 ルーズヴェルト、大統領に就任 ─ 「ニューディール」   戻る  
 情勢が最悪の様相を呈したときに、民主党選出のフランクリン=ルーズヴェルトが圧倒的な投票を得て大統領に就任。就任演説で、「我々が恐れなければならないことは、ただ恐れそのものである」、「最上最大の任務は国民を職につかせることである。我々が賢明に勇気をもって臨むのであれば、これは不可能なことではない」と述べ、経済危機に立ち向かう信念を示した。
 恐慌が始まって3年が経過し、失業者は4人に1人を超えていた。
 
 「ニューディール」 
 「政府が雇用を拡大し、雇用の拡大を通じて我が国の天然資源の利用を促進する」
 政府は仕事を作り出し、失業者には救済資金を与えた。TVA、電力・水利の開発機関が設立。
 労働者の購買力を確実に高めるための手段として、労働組合の結成を奨励し団体交渉権を保証。社会保障制度を発足、失業者・老齢者・身体障害者に対して手当てを支給。農民に対する補償金。
 恐慌に対処するためにとられたこのような大胆な手段の中から、20世紀の福祉国家が生まれてきた。
 資本主義経済の古典・アダム=スミスの「国家論」に匹敵する影響力。近代経済学のはじまり。
   ルーズヴェルト大統領が選挙戦で使った「ニューディール」。彼が周囲にあつめた「ブレーン=トラスト」の学者たちによって、新しい政策体系に結実した。資本主義と社会主義との「混合経済」。
 彼の改革は機関銃といわれるはやさで次々と実施された。3月9日の銀行法に始まり6月16日の全国産業復興法の成立で終わった。100日間の18の法案が議会を通過。ルーズヴェルトの指導力は強力であった。
 
 全国産業復興法の意義
 資本主義体制を維持しながら、恐慌の再来を防ぐ仕組みを考える。購買力の創出と引き上げ → 労働者の地位を改善し、資本・労働者が互いに協調して利益を分配しようとする → 政府の役割が増大 
 国民の生活水準をあげることにより経済を維持する
 貿易市場の拡大は恐慌からの脱出手段として重視。輸出の増加のため、中南米の国々に対しては善隣外交が推進された。中南米の国々に対する武力行使の放棄を宣言。反米機運を緩和し中南米の国々をアメリカの経済圏として確保することが目的。


 
 イギリス   戻る
 それまでイギリス経済の好況も多分にアメリカに依存していた。
 第2次労働党内閣の直面した問題は、増大する失業者にいかにして失業手当を払うべきか。国家財政の赤字、失業対策のための出費が増大。
 首相マクドナルドは赤字財政を立て直すため、国費を節減するため、失業保険を大幅に削った。この措置は労働党本来の立場にもとるものであり、彼は党大会で除名された。一旦は首相を辞したが再び大命を帯び、1931年8月から保守党ボールドウィン・自由党の協力を得て挙国一致内閣を発足させた。
 1931年のウェストミンスター憲章で、自治領は「王冠への忠誠」を誓いイギリス国王をいただく他は本国の法に左右されない完全な独立国となり、ここにイギリス帝国は正式にイギリス連邦として政治的に共同体化するとともに、対外貿易を盛り返すためブロック経済をめざした。1932年7月のイギリス連邦会議、オタワ協定の成立、保護関税法で保護貿易の立場を徹底化した。
 マクドナルドは、増税や役人の俸給・失業手当の10%引き下げ、金本位制の停止を実が行。民意を問うため1931年10月総選挙。保守党・自由党・マクドナルド派が絶対多数を獲得。マクドナルドを攻撃した労働党はわずか52名という惨敗に終わった。
 社会主義政党の党首が党を除名されて、そのまま国民的指導者に転じた。
 1914年、大戦勃発後に「アイルランド自治法」が成立。戦時中のゆえをもって延期されるという段階まで達した。
 戦後、アイルランドの完全独立を主張するシン=フェイン党はイギリス議会への参加を拒否して、1919年、ダブリンに「アイルランド共和国」の成立を宣言。デ=ヴァレラを大統領とした。
 1921年、協定が成立し、アイルランドは「アイルランド自由国」として自治領となることが定められた。1922年、アイルランド自由国が正式に発足。その後、アイルランド自由国はウェストミンスター憲章を承認したのであるが、1932年デ=ヴァレラが首相となると、イギリス王への忠誠を拒否して再びイギリスとの抗争がはじまる。この争いは1937年まで続いて、結局アイルランドは完全独立国としての地位を獲得し、第2次大戦後には正式にイギリス連邦から脱退するのである。

 
 フランス   戻る
 1936年5月の総選挙で、共産党・社会党・急進社会党を中心とする人民戦線派が圧勝。翌月4日、ブルム(社会党党首)を首班とする民戦線内閣が成立。資本主義体制内で国民の購買力をあげ、生産活動を回復させようとした。フランス版ニューディールといわれる。
 賃金引き上げ、公共土木費の放出。中小企業のための低金利政策、膨大な国防費の支出などをおこなう。必然的に通貨を膨張させ賃金の上昇以上に物価を高騰させ、予期した購買力の上昇とは逆の結果をもたらした。1937年内閣は退陣に追い込まれる。

      

 ファシズム・イタリア
 ドイツとイタリアは、ファシズムを政治的イデオロギーとした。ファシズムという語は、ラテン語のfasces、権力の象徴として古代ローマの高官の前に運ばれた棒の束に由来する。

 ファシズムは、第1次世界大戦後のイタリアでまず始まり、ファシズムという名もそのとき生まれた。イタリアは第1次大戦においては戦勝国側について戦ったのだったが、戦後の経済不況によってインフレが始まり、社会不安が高まり、失業者が増えた。産業労働者は坐り込みストを起こし、農民は土地を奪い取り、市民階級である実業家と地主は共産主義革命の幻におびえるようになった。

 この市民階級から援助を受けた暴力団は、街中をのし歩き、左翼や労働者と猛烈な肉弾戦を行なった。この連中は、“ファッシ・ディ・コンパティメント”(戦闘団)と呼ばれていた。このファシストの指導者が、ベニート・ムッソリーニである。ムッソリーニは、はじめは革命的社会主義の道を歩みながらも、のちには国家主義、そして君主制さえも唱える超愛国者になるという人物であった。

 彼の熱狂的な演説に煽られて、ファシストの勢力はふくれあがった。1922年、ムッソリーニは部下とともにローマに進軍し、クーデターをもって国王を威嚇し、新政権を樹立した。

 イタリア   戻る  

 ヴェルサイユ条約は、ロンドン密約で保証されていたイタリアの植民地拡大をほとんど認めず、かねて望んでいたフィウメ(戦前オーストリア領で、イタリア人が多く居住する港)併合も認められなかった。
 熱烈な国家主義の詩人ダヌンツィオが1919年復員軍人などの義勇兵を率いてフィウメを占領、15ヶ月ばかり支配したのもこうした空気を背景にしている。
 
 戦後の社会情勢  
 失業者の増大。都市や農村に賃上げのストライキが相次いで起こり、イタリア社会党の勢力が急速に増大してきた。  
 労働者の工場占領。  
 1919年、ムッソリーニはミラノで「ファッシ=ディ=コンバティメント」(戦闘団)を組織、ファッシは団結を意味し、これらかファシズムという言葉が生まれた。ファシストたちが公然と暴力をふるい始めたのは、1920年の工場占領後の情勢下において。彼らは、町から町へ無賃乗車をして、社会党員や労働者たちに殺人・暴行・略奪・放火と凶暴なテロを加えた。彼らは帰還失業軍人・学生・町のならずもので、やり場のない憤懣を暴力の中に発散させていた。ムッソリーニはこうした暴力団の組長であった。  
 支配者や国内の大資本もファシストたちの行為を黙認した。社会主義の恐怖を彼らファシストはたたきふせてくれるのであるから。  
 ムッソリーニは今日は金持ちに都合のよいことを言うが、あくる日には貧民の味方のような演説をして歩く。  
 1921年、ファシストはローマで全国大会を開き、戦闘団は「国家ファシスト党」の名称をなのった。ムッソリーニが党首となった。軍首脳部も公然とムッソリーニを支持。ファシスト党員は制服として黒シャツを身に着けたが、これはかつてのガリバルディの赤シャツ隊にちなんだものである。彼らはやがてムッソリーニを「ドゥーチェ」(統領)とよび、古代ローマ流に右手を伸ばして敬礼しあった。  
 1922年、労働連盟(反ファシズムの組織)はファシストに抗議する政治ゼネストを試みて失敗。社会党は分裂し、左派は共産党を結成。  
 1922年、ナポリのファシスト大会で、ムッソリーニは政権奪取の意図。「政権が我々に与えられるか、しからずんばローマに進軍しよう」。ファシスト約4万は、ローマを目指して進軍を開始する。  
 時の首相ファクタは戒厳令の許可を求めるが、国王ヴィットーリオ=エマヌエーレ3世はこれを拒否。国王が組閣の命令を下したのはムッソリーニに対してであった。  
 公然とした暴力の嵐が反対派に向けられる。  
 外資導入によって工業は急速に発展する。この外資はアメリカ・イギリスの援助によって得られたものであり、たとえばアメリカのモルガン財閥は一億ドルを融資している。そして、工業や大規模な土木干拓事業に失業者が吸収されていった。  
 1924年、ユーゴスラヴィアと条約を結んで宿願のフィウメを併合し、1926年アルバニアを事実上の保護国とした。  
 
 ラテラン条約
 ローマ法王との対立を解決して、カトリックの信仰のあつい多数の国民を満足させた。1929年、ラテラン条約でヴァチカン市国の独立を認め、イタリア統一以来の難問に終止符をうった。イタリア王国とカトリック教会の対立は、1861年のイタリア王国の成立に際し、王国が教会の世俗的な権利を多く廃止したため、教皇ピウス9世が王国の存在を認めず、以後対立が続いていた。ムッソリーニは宗教教育を小・中学校で義務化するなど大幅な譲歩をして、教会との和解をとりつけた。
 
 
 ナチス・ドイツの勃興   戻る
 ナチスは1930年の選挙で107議席を獲得して右翼のなかでも最も強力な政党となり、社会民主党につぐ第2番目の政党となった。ナチス大躍進の背景には、経済恐慌による失業者であふれた社会不安の増大があった。ヴェルサイユ体制の打破とともに、社会主義的政策と反共政策を掲げるナチスに、共産革命を恐れる保守的支配層や没落中間層、小市民層の広範な支持があつまった。この選挙では共産党も党勢を拡大するが、共産党はナチスと戦うよりは社会民主党の攻撃に力を注いだ。
 ナチスの基本政策は、ヒトラーが1923年のミュンヘン一揆の失敗後、牢獄のなかで執筆された「わが闘争」のなかにしめされている。
 ヒトラーの最初の目標はドイツ社会の再組織。そのためには社会民主主義者・共産主義者・ユダヤ人・平和主義者などを除く必要がある。ドイツの再組織をおこなってのち対外拡張に乗り出していく。ドイツ民族は中部・東部ヨーロッパに進出するというのがヒトラーの計画であった。
 ヒトラーはドイツ民族のみが、地球上のほかの民族を服従させる権利と義務を有するという。
 共産党はナチスと戦うよりも社会民主党と戦うほうに熱心であった。そのため左派の連携を形成することはできなかった。そして、1932年ナチスは第一党となり、いまや100万人に近い党員を擁するナチスを、だれも無視することはできなくなった。1933年1月30日、ヒンデンブルク大統領がナチス党首のヒトラーを首相に任命した。この夜、ヒトラーの首相就任を祝うナチス党員や突撃隊員らが、たいまつを灯してベルリンを練り歩いた。ここにワイマール共和国は終わる。
 ヒトラーは政権を握るとすぐに、反対派の排除にとりかかる。ナチス以外の政党と労働組合は非合法化される。1934年、ヒンデンブルクが死ぬと、ヒトラーは国家の最高権力者となる。大統領と首相を兼任する地位についた。
 
 全権委任法
 3月23日、ヒトラーは政府に強大な権限を与える「全権委任法」を国会で可決させた。「民族と国家の艱難を除去するために」政府に立法権をゆだねる法律で、憲法改正に必要な2/3の多数決を必要とした。突撃隊の固める国会では、社会民主党のヴェルスが敢然と反対意見を述べた。共産党は議席を剥奪されたから、中央党の賛成でこの法案は成立した。
 こうしてヒトラーは憲法にとらわれず、国会を無視し思うままにドイツを支配することができた。
 
 国会議事堂放火事件
 1933年2月27日の夜、ベルリンの国会議事堂が突如炎上する事件が発生。現場で逮捕されたオランダの共産党員が放火を自供したとされた。ヒトラーはただちに共産党に対する弾圧を始めた。この事件の真相をめぐっては、いまも論議が続く。共産党員の単独犯行か、あるいはナチスの陰謀だったのか。しかし、事件後のナチスの対応はすばやくこの事件を機に、権力を確立し体制を強化していくのである。
 
 第一次大戦でドイツは「背後からの一刺し」によって敗れたのであって、軍事的に敗北したのではない。したがって、これらの犯罪人、つまり共産党・社会民主党・労働組合・ユダヤ人を一掃すると同時に、ナチス世界観によって国民を再教育しなくてはならない、とした。再軍備をおこない、フランスを倒し、ヴェルサイユ条約を打破し、こうして背面の 敵を除いたら、ソ連を征服する戦争に勝利することができる。こうしてドイツは「生存圏」を獲得し、世界的強国の地位に再びつくことができる。そして、ドイツはアメリカと対立しアメリカとの世界支配をめぐる争いにドイツは勝ち、支配民族として世界に君臨するとした。
 軍部は再軍備を主張するヒトラーを支持した。またヒトラーも軍部の支持がないと国内を統治できないし、対外戦争で勝利することはできない。そして、ヒトラーも軍部も軍需生産がなければ戦えなかったし、再軍備は経済的繁栄を約束した。
 
 国際連盟脱退
 1933年10月ヒトラーは国際連盟とジュネーヴ軍縮会議からの脱退を表明、ドイツの再軍備を公然と主張した。ヒトラーはヴェルサイユ条約で定められたドイツへの軍備制限の撤廃を要求していた。しかし、軍縮会議でこの要求が通らないことに不満をとなえていて、ついに脱退を決定した。これはドイツ国内でのヒトラーの威信を更に高めたが、ヴェルサイユ体制の打破の第一歩であり国際的な孤立へと進むことになる。  
 
 
 

 
 
【世界経済恐慌とアメリカのニューディール】
A 大恐慌のはじまり(1929年10月)
 1 ニューヨークのウォール街の株価の大暴落 → 生産減退、失業者増大
 2 ヨーロッパからアメリカ資本を引き揚げ
  → ヨーロッパ諸国に恐慌が波及          
 
 → アメリカの恐慌の原因
  @ ヨーロッパの農業生産力の回復
   → 輸出市場の減少による農民の没落
A 工業製品の生産過剰 → 失業者増大 → 国民の購買力あがらず
  B 欧州が産業再建のために高関税政策 → 国際貿易がさまたげられる
 
B ニューディール政策
 ※ フーヴァー大統領(共和党)の無策
  → (1            )(1931年、戦債と賠償の1年間支払い停止)の効果なし
    共和党は国民の信頼を失う
 
 1 (2                )大統領(民主党、1933〜45年)
  → 資本主義の枠内での社会主義統制経済の政策 = 修正資本主義
    救済・復興・改革の3R政策による恐慌克服
 
  @ 政策 − ニューディール
   (3          )(NIRA)、(4       )(AAA)   (5   )本位制停止
   (6      )法 − 労働者の団結権と団体交渉権を認める
   国家資本による大土木工事 − (7        )開発公社(TVA)
 
  → 労働組合の発展 − (8       )会議(CIO)成立
 
  A 外交
   (9     )承認(1933年
   西欧民主主義諸国との友好 → 中立法(1935年)
   中南米に対して(10   )外交政策(第7回パン=アメリカ会議)
 キューバの完全独立(1934年) 、フィリピンの独立を約束(1934年、10年後)
 
 
【イギリスとフランスの恐慌対策】
A イギリス
 → 世界恐慌の波及 → 失業者の激増、貿易のおとろえ
 
 1 第2次(11        )内閣(労働党、1929〜31年) 
  (12     )の削減など国費の節約案 → 労働党を除名
 2 第3次マクドナルド内閣(挙国一致内閣、1931〜35年)
  @ (13      )の停止
  A 1931年、(14           )憲章(イギリス連邦の成立)
  B (15     )年、(16    )英連邦会議
    自治領間の関税を低くする、他国には高関税を課す
   → (17     )経済政策で景気回復をはかる
   → スターリング=ブロック形成
 3 保守党内閣
  @ ボールドウィン − 第5次選挙法改正(1928年、完全な普通選挙実現))
  A ネヴィル=チェンバレン 
 
 → アイルランド問題
  @ (18        )党(デ=ヴァレラ)の完全独立をめざす反乱
   → 1922年、自治領(19            )の成立
  A 1937年、(20        )の成立を宣言
   → 英連邦から離脱しアイルランド共和国(1949年)
 
B フランス − 世界経済恐慌の波及
 1 右派連立内閣 − 植民地経済会議(1934年)  = (21    )経済
 2 ドイツのナチス政権成立を機に、左派勢力が強くなる
  → 1935年、(22        )条約
 
   → (23        )第7回大会(1935年、モスクワ)が(24      )     の結成を提唱 
 
  → 社会党(25    )を首班とする人民戦線内閣成立(1936年)
  → 伝統的な小党分立で政局は安定しない
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
【全体主義】
 @ 第1次大戦後の後進的資本主義国の一部におこった暴力的政治形態
 A 国家または民族を最高の自己目的 → 国粋主義・社会政策を強調、  
議会主義・民主主義を否定し、人権を軽視し、国益を優先する極端な(26 
     )       
 
  ファシスト=イタリア → (27      )
  ナチス=ドイツ    → ナチズム
  軍国主義=日本    → 軍部による上からの全体主義
 
 
【ファシスト=イタリアの成立と発展】
A ファシズム台頭の背景
 1 戦後の混乱
  @ ヴェルサイユ体制への不満 
   「未回収のイタリア」を回復、フィウメ領有は認められず
  A 共産主義の台頭
   1920年、北イタリア工業地帯で労働者ストライキ。農民の土地占拠
   → 失敗で、共産主義への信頼をなくす
 
 2 ファシスト党の成立
  @ (28        )がファシスト党を結成(1919年)
   → 共産主義打倒、資本家・地主・軍人の支持
  A (29     )年、(30    )進軍を行い、政権獲得
                    
B ファシスト党の独裁
 1 1926年、一党独裁の政治体制を確立 
  → 1928年、ファシスト大評議会に絶大な権限
 2 (31      )条約で教皇と和解 
  → ヴァティカン市国の独立(1929年) を認める
 
C 対外侵略 
 1 フィウメ併合(1924年)
 2 (32       )を保護国化(1927年 → 39年併合 )
 3 (33       )に侵入(1935年)
   → 国際連盟は経済制裁 → 実行不徹底で効果なし
   → 1936年、 エチオピア征服を完了
 
 
【ナチス・ドイツの勃興】
A ナチスの政権獲得
 1 世界恐慌の深刻な打撃 → 右翼のナチスと左翼の共産党の勢力増大
 
  → ナチス(国家社会主義ドイツ労働者党
   @ (34     )がナチスの党首となる(1921年)
   A ナチスの綱領
 ドイツ民族の優秀性、(35      )条約の破棄、(36    
)    人排斥、トラスト国有などの社会主義的な政策
   B 1923年、ミュンヘン一揆の失敗 → 「我が闘争」
 
 2 1930年ごろから急速に発展 
  → 中産階級の支持・資本家・軍部の援助
  → 1932年第1党。1933年、ヒトラー内閣が成立
 3 国会議事堂放火事件(1933年) で共産党を弾圧、社会民主党を解体
  → (37     )法(1933年) で、ナチスの一党独裁を実現
 
 4 1934年、ヒンデンブルク大統領の死
  → ヒトラーは(38   )と称して最高主権者に
  → 「第3帝国」と称する
       
C ナチスの独裁
 1 内政
  @ 大規模な土木工事・軍需工業で失業者救済
  A (39    )計画の実施 → 軍備増強
  B 労働組合禁止、ユダヤ人を迫害
 2 外交 → (40        )体制の破壊
  @ (41    )年、(42      )脱退 ← 軍事平等権を主張
  A 1935年、人民投票で(43    )地方を併合
  B (44    )宣言
  C (45   )海軍協定 − 対英35%の海軍力を認めさせる
  D 1936年、(46     )条約を破棄し、(47       )に   進駐 ← 仏ソ相互援助条約(1935年) を口実