全体主義の台頭

 


 満州事変  「長征」  八・一宣言  西安事件  南京事件
 朝鮮人の集団連行  スペイン内乱と枢軸の結成  ゲルニカ
 
 

 満州事変   戻る
 1931年9月、奉天の北にある柳条湖付近で満鉄線路が爆破された。関東軍はこれを付近に駐屯していた中国軍の仕業としてただちに中国軍兵営を攻撃。ここに満州事変がはじまった。この鉄道爆破は関東軍が仕掛けたものであった。3年前の張作霖爆殺事件が軍事行動に発展せず、張作霖の子の張学良が国民政府側について日本に抵抗する姿勢を示していたため、満州を制圧するきっかけをつかもうとしてこの謀略事件を起こしたものである。日本政府は不拡大方針を決定するが関東軍はこれを無視して戦線を拡大し、中国側の不抵抗もあってわずか5ヶ月で満州を占領した。そして、1932年3月「満州国」をたてることになる。
 
 
 「長征」   戻る
 国民政府軍は5回にわたり、最大時約100万といわれる圧倒的兵力で、瑞金におソヴィエト区への包囲掃討作戦を展開した。さらに党内のソ連留学派が正面対決の戦術をとって敗北するなどの軍事戦略上の過ちもあって、中華ソヴィエト政府は江西省瑞金の放棄を決定した。金銀から印刷機までの大量の荷物を運搬しながらの、しかも行き先がはっきりしないままの大移動となった。国民政府軍の追撃をふりきり、行く先々で軍閥と戦闘と交えながら、11の省を通過し、18の山脈を越え、17の大河を渡り、約1年後陝西省のあらたな根拠地・延安をにたどり着くまで、約12、500kmを踏破した。主力部隊8万6000人のうち延安に到着するのはわずか8000人という困難をきわめた大移動であった。しかしこの間、中国共産党はあらたな展開を示す。それは途中、貴州省遵義県で開かれた遵義会議で主導権がそれまでのソ連留学派から毛沢東に移ったことである。毛沢東は「長征は宣言書であり、宣伝隊であり、種まき機であった。11の省に種をまいた。やがて芽をだし、葉を伸ばし、実を結び、将来必ず収穫されるだろう」と述べたように、共産党の発展に大きな役割を果たしたのである。
 大渡河 ─ 四川省の瀘定橋。1935年6月、国民政府軍は吊橋の橋げたをはずして、長征途上の紅軍を待ち構えていた。紅軍は弾雨を冒して渡りきり、対岸の占領に成功する(岡本隆三「長征」潮文庫)。   
 
 八・一宣言   戻る
 1935年8月、長征途上の共産党にかわりモスクワにいたコミンテルン執行委員の陳紹禹は「八・一宣言」を発表。これはすべての勢力に、過去の経緯や意見・利害の対立を捨てて内戦を停止し、共同して抗日救国のために戦おうと呼びかけたものであった。モスクワでひらかれていたコミンテルン第7回大会で反ファシズム統一戦線の方針が打ち出されたことをうけてのものであった。この宣言は、日本の侵略に危機をいだく人々から広範な支持を得た。
 
 満州事変のあと、1935年12月に日本の圧力で冀察政務委員会がつくられ、華北の5省を日本が支配する動きは、中国世論の抗日の動きをいっそう激しいものにした。 「各党は内戦を止めよ」「抗日統一戦線をつくれ」という声がいやがうえにも高まった。
 中国共産党はこの情勢にこたえ「内戦停止、一致抗日」をスローガンとして民衆や国民党軍の兵士に大いに宣伝した。
 中国共産党・紅軍が長征を終えて陝西省北部に入り、勢力を少しずつ回復していった。蒋介石はこれに対して、旧東北軍を率いた張学良に討伐を命じた。しかし、張学良と部下の兵士はこれに大いに不満であった。 日本にとられた満州には見向きもせず、日本と一致して戦おうという紅軍との戦いだから、彼らはまともに戦おうとせず、紅軍の宣伝を聞いてはもっともだと思うのであった。
 
 西安事件   戻る
 蒋介石は、張学良軍の紅軍との戦いが思わしくないのを見て、西安にみずから督戦に赴いた。西安につくと蒋介石は、郊外の温泉地・臨潼に泊まっていた。護衛は20名の兵と50名の憲兵、これに対し張学良は一個大隊を派遣してこれを襲った。蒋介石を捕えた張学良は、紅軍との戦いをやめ抗日に専念せよと説得にかかるが、蒋介石は耳を貸そうとしない。5日後の17日には張学良の要請をうけて、延安から共産党の周恩来らが到着し、蒋介石を説得する。その結果、蒋介石は内戦停止などについて合意し、25日に釈放される。蒋介石に同行した張学良は南京で逮捕されるが、西安事件は国民党の路線を大きく変化させ、抗日統一戦線成立につながる。
 
 日中戦争   戻る
 1937年7月7日、北京の西南約6kmの永定河にかかる盧溝橋付近で、夜間演習を行っていた日本軍に弾丸が発射され、中国軍に対する戦闘準備にはいった。こうして8年間にわたる日中戦争に突入。
 北伐が完了して北京に駐留していた国民政府軍と、その前で連日演習をおこなっていた日本軍は一触即発の関係にあった。戦闘体制を整えた日本軍は中国軍に対する攻撃を開始した。11日にはいったん現地で停戦が成立するが、日本政府が派兵をはじめたことで戦いが再燃し、ついに全面戦争に突入していく。
 中国では前年の西安事件以来、一致抗日に機運が高まり日本の侵略と戦おうとする中国民衆の決意は固かった。蒋介石は「自衛抗戦」の声明を発し、共産党は「国共合作宣言」を公表し、第2次国共合作が正式に発足した。
 
 南京事件   戻る
 1937年12月13日、約5万の日本軍が国民政府の首都・南京を4日間の攻撃の末、占領した。これよりさき、上海戦線で中国軍の激しい抵抗にあった日本軍は中国人への敵愾心を深めていて、この南京入城後、大虐殺事件を引き起す。中国軍残留兵や投降兵のみならず、一般市民まで殺戮し、婦女暴行・略奪・放火などをおこなった。
 
 朝鮮人の集団連行   戻る
 1939年9月、日中全面戦争による労働力不足を補うため、7月8日に日本で公布された国民徴用令にもとづき、各地で日本へ連行する労働者の募集が始まった。民族感情を配慮して、「募集」とはよばれるが、地方ごとに動員数が割り当てられ、事業主の代理人が地方官庁と共同で農村から朝鮮人を駆り出す、実質的な強制動員である。やがて1942年からは国家機関が直接関与する官斡旋へと動員が強化され、さらに44年からは青紙一枚で、文字どおりの「徴用」が行われるようになる。その数は39年から45年までに約113万人にのぼり、半数近くが日本の炭鉱に、残りも鉱山や土木工事現場に送り込まれていく。連行先では過酷な労働条件のもとで、多くの死傷者が出る。女子に対しては5年後の1944年に女子挺身隊勤労令が適用され、数十万人が動員される。また未婚の若い女性を中心に数万人が「従軍慰安婦」にさせられたという。日本人「慰安婦」は将校用、朝鮮人は兵隊用と「差別」されたうえ、日本の敗戦とともに捨て去られる。一方、強制連行で戦後も日本に残った人々は、1920年代の農村疲弊で渡航してきた朝鮮人とともに、現在70万人近い在日韓国・朝鮮人のルーツとなる。また90年代に入り、元従軍慰安婦が日本政府に賠償を請求する動きが起こる。
  
 スペイン内乱と枢軸の結成   戻る
 ナチス・ドイツの脅威と国内右翼勢力の台頭に直面したフランスでは、反ファシズムの勢力の団結が促された。1934年の7月の社会党・共産党の共同戦線は、35年急進社会党もふくめた人民戦線の結成に発展。
 スペイン共和国の誕生
 1931年王政廃止、共和政のはじまり。1936年の総選挙で、左翼勢力を結集した「人民戦線」が勝利。人民戦線に反対する反乱がスペイン領モロッコで始まる。フランコ将軍が中心。反乱はただちにスペイン本土に広がる。フランコ軍はイタリアとドイツの援助をうけ、セビリアに上陸してマドリードをうかがう。ムッソリーニとヒトラーはフランコを支持し、イタリアとドイツからおくられる飛行機やパイロット、武器で強化されていた。フランスは共和国側を支持するが、その態度は熱烈なものではなかった。イギリスの態度もあいまいであった。
 1936年秋、フランコ軍はマドリード近郊まで迫るがそこでとまる。共和国軍には、イタリアなどから参加した反ファシスト義勇軍もいれば、義勇兵の名のもとにソ連から派遣された士官や、世界各地から参加した一般人もいた。これらの人々は「国際旅団」として戦った。 反乱は、軍を主体とした戦争体制を築き、ドイツとイタリアの支援を受けたフランコ側の勝利に終わった。フランコは、共和国側の改革や革命の成果を全面的に否定。戦争と並行して、フランコ自身による政治・軍事の全権の掌握ファランへ党の一党独裁をすすめてきた。こののち、あらゆる面で復古的な軍事独裁が行われていく。
 
 ゲルニカ   戻る
 1937年4月、ドイツ空軍コンドル兵団とイタリア機は、バスクの古都ゲルニカの無差別爆撃をおこなった。街は破壊され多数の市民が死傷した。ドイツにとってはやがて来るべき大戦での兵器の実験場であった。ドイツ軍は最新の250キロ爆弾と焼夷弾の使用や機銃掃射をおこなった。このゲルニカの破壊と殺戮のニュースはただちに世界に伝えられ、非難の声がわきあがった。
 
 
                 

【抗日民族戦線の成立と日中戦争】
A 国共内戦
 1 国民政府(首都南京) − 満州事変に対処しながら、中国共産党と戦う
  @ 日本は内蒙古・華北へ進出 → 冀東防共自治政府(1935年河北省東部)
  A 英・米の援助で通貨を統一 − 国内統一をうながす
 2 (49     )の長征 
  @ 江西省(50   )陥落 → 陝西省(51   )へ長征(1934〜36年、抗日
   北上のため)
  A 長征の途中、(52    )宣言、(53     )年8月1日  
   内戦の即時停止・(54        )の結成を提唱
   コミンテルン(第7回大会) の人民戦線戦術に沿う → 国民の支持
 3 (55   )事件、(56     )年12月
   張学良が(57     )を監禁、抗日戦線の統一を要求
  → 周恩来の仲介で釈放、国共の接近
 
B 日中戦争のはじまり                        
 1 (58     )事件1937年7月7日)
  @ 軍部は華北支配をねらう → 侵略拡大 → 日中の全面戦争へ 
  A 第2次国共合作(1937年9月) − 民族統一戦線の結成
 2 日本軍の優勢と中国の抗戦
   華北の要地、南京(南京虐殺事件)など占領
 
  → 国民政府は南京から武漢へ、さらに(59   )に移り抗戦
   英・米の援助、中国最大の(60   )財閥の支援
   農民の支持する共産党と連合(紅軍 → 八路軍と改称)
 
 3 日本は南京に(61     )の親日政権を樹立(1940年)
  → 大きな統治力をもたず
 
 
【スペイン内乱と枢軸の結成】
A スペイン内乱
 1 1931年、(62      )朝が倒れ、共和政成立 
  → 1936年、(63      )内閣が成立、首相(64       )  → (64      )がモロッコで反乱(1936年)
 
   → 英・仏は不干渉の態度
     政府側をソ連や英仏の自由主義者や社会主義者が支援
     独・伊は反乱軍を援助
 
 2 反乱軍が首都占領 → フランコの独裁(1939年、防共協定に加盟) はじまる 
 
B 枢軸の結成
 1 スペイン内乱を機に独・伊の提携 = ベルリン・ローマ枢軸(1936年)
 2 1936年、(65      )協定(国際共産主義に対抗)
  → 1937年、伊が参加し、(66      )協定
  → 1937年、伊は国際連盟を脱退
            
 
 
 
 
 
☆ 重要語句
世界経済恐慌 ニュー=ディール政策 全国産業復興法(NIRA)
農業調整法(AAA) ワグナー法 テネシー河域開発公社(TVA)
産業別組織会議(CIO) 善隣友好政策 ウェストミンスター憲章
オタワ英連邦会議 ブロック経済政策 シン=フェイン党 アイルランド自由国エール共和国 F=ルーズヴェルト 人民戦線内閣 ファシスト党 ローマ進軍ラテラン条約 ヴァティカン市国 フィウメ問題 ミュンヘン一揆 
国会議事堂放火事件 全権委任法 総統 ヒトラー ヒンデンブルク 全体主義ザール併合 仏ソ相互援助条約 英独海軍協定 ロカルノ条約の破棄 
ラインラント進駐 山東出兵 関東軍 柳条湖事件 満州事変 満州国 
リットン調査団 溥儀 長征(大西遷) 抗日民族統一戦線 八・一宣言 
西安事件 第2次国共合作 日中戦争 蘆溝橋事件 張学良 汪兆銘 延安 
重慶 エチオピア戦争 コミンテルン第7回大会 人民戦線 スペインの内乱 フランコ ベルリン=ローマ枢軸 日独防共協定 三国防共協定 
     
☆ 重要年代
ニューヨークの株式取引所の大暴落 ニュー=ディール政策の開始
オタワ英連邦会議の開催 ローマ進軍 ヒトラー内閣の成立 
ドイツの国際連盟脱退 満州事変 日本の国際連盟脱退 八・一宣言 西安事件日中戦争の開始 フランス・スペインの人民戦線内閣成立 スペインの内乱