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5 第2次世界大戦
ミュンヘン会談
スターリンとヒトラーの提携
英ソ交渉
独ソ交渉の展開
独ソ協定
ドイツのポーランド進攻
フランス敗れる
バトル=オブ=ブリテン
バルバロッサ計画
ソ連軍の冬季攻勢
スターリングラード攻防戦
イタリア降伏
ノルマンディ上陸
ヒトラー暗殺計画
パリは燃えているか
最後の攻勢
最後の総攻撃
ヒトラーの最後
ミュンヘン会談(1938年) 戻る
大ドイツ帝国を目指すヒトラーの膨張政策はとどまるところをしらない。ザール地方の併合(1935年)、再軍備宣言(1935年3月)、ラインラント再武装(1936年3月)、オーストラリア併合(1938年3月)をへて、いまやズデーテン地方割譲まで進んできた。
チェコスロヴァキア在住のドイツ系少数民族問題。ヒトラーはズデーデン地方の割譲を要求し、そのためチェコスロヴァキアとドイツとの間が緊張した。ミュンヘン会談はヒトラーの要求を認め、英仏はチェコスロヴァキアにヒトラーの要求を受け入れるよう説得することになった。
イギリス首相チェンバレンは、ミュンヘン協定のあとヒトラーとの間に署名を交わした「英独不戦条約」をひらひらと振って見せた。官邸の前にあつまったロンドン市民は熱狂的な歓迎で応えた。「これで、ヨーロッパの平和は確保できた」と満足していた。69歳の老政治家。しかし、それは「宥和政策」推進者の幻想にすぎないことは、一年もたたずに明らかになる。
ヒトラーの恐喝に屈し、ヒトラーの条件をそのままチェコスロヴァキアにのませる手伝いをした。チェンバレン英首相とダラディエ仏首相は、近代ヨーロッパの歴史に前例のない弱腰外交をおこなった。ファシズムに対する民主主義の全面的降伏を意味する。
これに対しイギリスでは保守党や政府の中にも反対があった。海軍大臣ダフ=クーパーはこの協定に反対して辞表を提出した。チャーチルら40名は下院の議決で棄権した。ヒトラーに対する強硬策の中心チャーチルは、「はじめはピストルをつきつけて一ポンド出せといった。一ポンドとると、またピストルをつきつけて二ポンドを要求する」。ヒトラーはそんな男だと述べた。
フランスのダラディエは大きな敗北と認識していた。パリに戻ってきたダラディエは、空港に着いたとき外套の襟を立てていた。卵やトマトを投げつけられるのを心配していた。しかし、彼は歓迎の波に囲まれた。同行の外務省の役人に対し、「この無知は、どうしようもならないな」ともらしたといわれる。同盟国チェコスロヴァキアを見殺しにした、複雑な心境がうかがえる。フランス人の大多数もイギリス人と同様、戦争が避けられたことの喜びにわいた。
しかし、気骨あるフランス人もいた。マンデル(内務大臣、のちナチスに殺される)、レイノー(大蔵大臣)は抗議して辞表を提出。当時チェコスロヴァキア軍教官として招かれていたフォーシュ将軍は、フランスのだらしなさに憤慨し、フランス人たる事を恥じ、フランス国籍を返上しチェコスロヴァキア人になってしまった。
一方、ドイツ国民もヒトラーの恐喝がもたらした無血の大勝利を熱狂して喜んだ。ヒトラーの威信はいやがうえにも高まった。国防軍の一部ではミュンヘン会談決裂を待って、ヒトラー打倒の計画が進んでいたといわれる。
ミュンヘン協定に大きなショックをうけた国はソ連であった。
ヴェルサイユ体制の束縛を順々に破棄してきたナチス=ドイツ、エチオピアを侵略したイタリア、スペイン共和政打倒で協力するヒトラーとムッソリーニ。このようににわかに台頭してきたファシズムの攻勢に対して、英仏とソ連の提携を考えていたスターリンにとって、ミュンヘン協定は大変な打撃であった。チェコスロヴァキアはソ連の同盟国である。ソ連は「同盟の義務を果たす用意がある」とはっきり言明していたにもかかわらず、そのチェコスロヴァキアの運命を決する重大な相談からソ連は完全に除外された。
ミュンヘン会談のイニシアチブをとったチェンバレンは、スターリンの存在を全く考慮に入れなかったのである。しかも、ミュンヘン協定の結果、ヒトラーがチェコスロヴァキアを勢力下におさめることは明白であり、それはドイツの軍事的圧力が東に向かう、すなわちソ連に向かってくることを意味した。ウクライナの資源をドイツ帝国のものとする東方進出は、ヒトラーの基本構想であった(「わが闘争」)。
1939年3月15日、ヒトラーのチェコスロヴァキア占領という衝撃的な出来事。ミュンヘン会談からチェコスロヴァキア侵入まで半年もたっていなかった。不意打ち的なヒトラーの行動に、全ヨーロッパは唖然として言葉もなかった。イギリスにとってもヒトラーの行動は晴天の霹靂であった。とりわけ、ミュンヘンの誓約をでヒトラーに対する信頼を持ち続けていたチェンバレンンのショックは深かった。さらに1939年3月21日、ヒトラーはダンチヒとダンチヒ回廊の返還をポーランドに要求。ポーランドはこれを拒否。
ヒトラーはポーランドとの話し合いで解決できる考えていた。しかし、ポーランドの非妥協的な態度に、ダンチヒ問題の武力解決の決意を固めたといわれる。ポーランドとの武力衝突に備えて、独ソ関係の調整が必要となってきたのである。
スターリンとヒトラーの提携 戻る
1939年、世界がアッと驚いたこの仇敵同士の提携が、第2次世界大戦の最大決定要素となる。チェンバレンの宥和政策に対するスターリンの返礼であった。
「ミュンヘン協定」でスターリンは西側の裏切りに愛想をつかした。スターリンは英仏との共同戦線による反ヒトラーに幻滅を感じていた。しかも、ヒトラーの次の行動が東に向かうことを確信していた。また英仏がこれを見過ごすことは明らかであった。こうして、スターリンの行く道は、ヒトラーに独力で抗戦するかそれともヒトラーを相手に妥協をするかであった。スターリンが選んだのは後者の道だった。
当時のヒトラーは英仏を敵にまわし、ポーランドに進攻するつもりであった。そのため、戦略上の最大の目標はソ連と妥協することであった。それまでソ連を罵倒しつづけてきた独裁者ヒトラーが、ソ連に対し友好的な態度に豹変したことは世界をアッと驚かせた。
1939年4月7日ムッソリーニのアルバニア占領。ヒトラーに呼応して南からバルカン進出をはかるのがムッソリーニの計画であった。しかし、この計画を実現するにはイタリアがあまりにも弱すぎた。
英ソ交渉 戻る
1939年、英ソ交渉はようやく事務的な話し合いをはじめることになった。チェンバレンはこの交渉の最高責任者として特使を送ることを決めた。イーデンがこの役を買ってでた。チェンバレンの宥和政策に反対して外相をやめた人。第一級の外交官として知られた人物。対独強硬派のリーダー。対ソ特使にはうってつけの人物であった。しかし、チェンバレンはこれを断って、外務次官補ストラノグを選んだ。重大な交渉の責任者に外務省の一役人を選んだのである。英ソ交渉にいかに熱意がなかったかを物語る。
軍事問題の討議について、チェンバレンはドレークスという退役海軍大将を選んだ。これにはイギリスじんもびっくりしたという。ソ連軍との交渉を現在の軍事情勢を知らない退役の老軍人にやらせようとしたのである。
独ソ交渉の展開 戻る
ダンチヒ問題であくまでも抵抗をつづけるポーランドを、ヒトラーは身の程知らずと怒った。ポーランド粉砕はヒトラーの既定方針となった。ただ、そのために起こる英仏との衝突をどう避けるか。それをヒトラーはスターリンとの握手でおこなおうと心を決めた。
全世界が夢想だにしなかった「独ソ協定」という英仏にショックを与え、英仏から抵抗の意欲を奪おうとしたのである。そして、もし英仏と戦うことになってもヒトラーには十分な勝算があった。英仏との戦いはできるだけ避けるが、戦争が不可避の場合、英仏を一撃でたたく。そして、その前提が独ソの握手であった。
独ソ協定 ─ ヒトラーとスターリンとの奇妙な同盟関係 戻る
ポーランド侵攻を準備していたドイツは、二正面戦争を回避するため、この年の春からひそかに対ソ関係改善を打診。一方、4月からモスクワで始まった英仏ソの3カ国交渉は遅々としてすすまず、こうしたなかで独ソ両国は、4日前の通商借款協定調印をへて、この日、条約を結んだのである。8月23日、モスクワの空港に降り立ったドイツ外相ヨアヒム・フォン・リッベントロップ(46)は、夕方からクレムリンで共産党書記長スターリン(60)、首相兼外相ヴァチェスラーフ・モロトフ(49)と協議に入り、夜遅く独ソ不可侵条約を締結した。同時に付属の秘密議定書で、ポーランドとバルト諸国での勢力圏画定についても合意した。ソ連は秘密議定書に関して沈黙を続けるが、1989年12月、はじめて同議定書の調印を認め、スターリンの権力外交を厳しく批判する。
ドイツのポーランド進攻 戻る
1939年9月1日、ドイツ軍のポーランド侵入。新鋭爆撃機と大量の戦車隊の協力による、いわゆる電撃戦によってドイツ軍は一週間でポーランド軍の主力を潰滅した。二週間でポーランド軍は組織的な戦力として存在しなくなった。700機のポーランド空軍の半数以上が、開戦とともに奇襲をうけ飛行場で破壊された。ポーランドの騎兵隊が、ドイツ精鋭部隊の前進を阻むため戦車隊に切り込み全滅したという話も伝わる。
これは当然、英仏にとって即時宣戦の理由とならねばならなかった。ところが英仏は宣戦しなかった。6ヶ月前に調印された英仏ポーランド相互援助条約は、「即時あらゆる手段による援助」を義務づけていた。ポーランド側からの、西部ドイツの工業地帯を爆撃してもらいたいとの要求にもかかわらず、英仏は動こうとはしなかった。
なぜ、英仏はポーランドを助けようとしなかったのか。ドイツは機械化部隊・空軍の全部ポーランド進攻につぎ込んだ。英仏はやろうと思えば、ルール工業地帯はもちろん、東部ドイツの飛行場さえ爆撃できたし、ラインラントに攻め込むこともできた。つまり、やれる力をもちながらやろうとはしなかった。それは、文字通りの見殺しであった。また、同盟義務違反であった。ポーランドに対し「ドイツが攻めてきたら必ず援ける」と約束しながら、結局はポーランドを見殺しにした。
ニュールンベルク裁判でドイツのヨードル大将は、「1939年にドイツが崩壊をまぬかれたのは、英仏軍が西部戦線でじっとしていてくれたからである」と証言した。
ポーランド戦の間、西部戦線のドイツ軍はおどろくほど手薄であった。ポーランド戦にあたり、ヒトラーと軍首脳の意見は大きく食い違った。ヒトラーは短期決戦のため全兵力を投じよと命じた。これに対し、軍首脳は西部防衛の必要からこれに強く反対した。ところがヒトラーは、「英仏軍が西部戦線で攻勢にでる可能性は皆無である」として押し切ってしまった。ヒトラーの予想は的中した。英仏はチャンスをむざむざと逃してしまった。
フランス敗れる 戻る
フランス軍は、ドイツ軍主力の攻撃をオランダ・ベルギー戦線と予測して、主力をその方面にまわしていた。東北フランスを目指して攻撃してきたドイツ軍の作戦は、フランスの意表をつくものであった。フレントシュテット将軍の率いるドイツ軍機械化部隊主力がアルデンヌの森をつきぬけ、そのまま大西洋岸をめざして進撃した。このため、ベルギー国境へ集結していた英仏軍は南方との連絡を断ち切られた。イギリス軍は命からがら逃げ出すことができた。「ダンケルクの敗走」として有名。
フランス軍主力はオランダ・ベルギー戦線を突破して侵入してきたドイツ軍との挟撃をうけ、大勢は決した。フランス軍敗北の最大の原因は、意表をついた奇襲作戦・アルデンヌの森突破作戦によって防衛線の真ん中を打ち抜かれたことにあった。
1940年6月22日コンビエーヌの森で休戦協定調印式がおこなわれる。
バトル=オブ=ブリテン 戻る
フランスが降伏してからは、ヒトラーの目標はイギリスであった。1940年夏から秋にかけて、ヒトラーが計画した「あしか作戦」(英本土上陸作戦)は失敗。英仏海峡の制海権・制空権をヒトラーはどうしても握ることができなかった。兵団を集め、上陸用舟艇も用意したが、海峡を無事にわたる保証がどうしても得られなかった。そこで、つぎにヒトラーが取りかかったのは、英本土空襲であった。空からイギリスを叩き潰そうという考えである。しかし、この空襲でのドイツ軍の犠牲は予想外に大きく、英空軍の戦力が意外に大きいことがわかる。
こうして、「空からイギリスを叩き潰す」夢もやぶれたヒトラーは、他の思案をしなければならなかった。
バルバロッサ計画 ─ 独ソ戦はじまる 戻る
その間、ベルリンで日独伊三国軍事同盟が結ばれる。フランスの敗戦、イギリスの孤立無援をみて、「ヨーロッパ戦争の終結近し」と速断して、ドイツとの結束強化を有利と考えたからである。
この時期独ソ両国は、バルト海・バルカン半島で勢力拡大のため、露骨にしのぎを削っていた。ソ連は、独仏交戦の真っ最中に、バルト三国・ルーマニア領のベッサラビア・ビュビナ占領。
バルカン作戦のため、対ソ戦争の開始時期をはじめの予定より38日ものばさなければならなかった。
1941年6月22日、この日午前4時ドイツ軍はソ連領にむかって侵入をはじめた。宣戦布告のない、まったくの不意打ちであった。総兵力500万がバルト海から黒海を結ぶ1300キロの戦線にわたって一斉に進攻を開始。戦力は互角であったが、戦闘態勢に入っていないソ連軍は痛ましい敗退を喫する。しかし、ドイツ軍首脳はモスクワ正面むかって退却したソ連軍主力の殲滅を主張したが、ヒトラーは拒否し、モスクワ進撃を途中で変更し、レニングラードと南部ウクライナ工業地帯に勢力を分散して中途半端な作戦を命じられた。10月に入って、ヒトラーがまた思い出したように中央軍をモスクワ正面に転進させた時、ヒトラーは二つの大きな敵を相手にしなければならなかった。立ち直ったソ連軍と「冬将軍」のロシアの冬であった。
チャーチルは「独ソ戦」の報せを聞いたとき、「これでイギリスは負けないですむ」と叫んだといわれる。しかし、軍事専門家のほぼ一致した判断は、「短期間でソ連の敗北は必至」であった。ルーズヴェルト大統領は、「ロシアはもちこたえ、モスクワは占領されまい」という見かたをもった。ところが、アメリカのマーシャル参謀総長以下、アメリカの軍部首脳はそろってドイツの短期勝利を信じて疑わなかった。
ドイツ軍のソ連侵入を聞いて、チャーチルは対ヒトラーの共同戦線の結成を呼びかける。こうして、独ソ戦開始から3週間たった7月12日英ソ協定がモスクワで調印された。この英ソ同盟は5ヶ月あとアメリカの参加で拡大され、反ファシズム大同盟に発展する。また、独ソ戦開始と同時に、フランスをはじめドイツ占領下の諸国では、共産党を中心とする抵抗運動がおこるが、この抵抗運動がプロレタリア革命の旗をかかげることをスターリンは許さなかった。2年後のコミンテルン解散も、「民主主義戦線」維持に対する配慮のあらわれであった。
ソ連軍の冬季攻勢 戻る
モスクワへ数十キロに迫っていたドイツ軍に対し、ソ連軍は12月5日の朝から反撃を開始した。シベリアから到着した精鋭部隊はレニングラードから呼び戻されたジューコフ参謀総長の指揮の下、ロシアの厳しい冬に冬支度をしていなかったドイツ軍に反撃した。疲れきっていたドイツ軍は、戦車も火砲も捨て100〜300キロも撤退したのである。このモスクワ攻防戦はそれまで「戦えば必ず勝つ」といわれた無敵のドイツ軍の初めての敗退であった。
スターリングラード攻防戦
1942年、ヒトラーは第2回夏期攻勢を命じる。戦力を南方戦線に集中し、スターリングラードをめざす。迎え撃つソ連軍は量的にはドイツ軍を大きく上回っていた。コーカサスの石油地帯を目指した南方軍は前進を阻まれる。スターリングラード攻撃をめざしたパウルス大将指揮の第6軍は、9月にスターリングラードの半分を占領するが、ソ連軍の手ごわい抵抗をうけ、市街戦を続けるうちに、また冬を迎えることになった。11月に入って、それまで守勢だったソ連軍はスターリングラードの北西と南方から攻撃し、ドイツ軍33万人を包囲した。ドイツ軍は飢えと寒さに襲われ弾薬も尽き、2ヶ月以上頑張ったのち降伏した。
パウルス大将はソ連軍の包囲の環がしまってしまわぬうちに脱出しようと考えたが、ヒトラーはスターリングラード確保に強い執着を持っていた。この都市を放棄することは、ヒトラーにとって威信の喪失を意味した。そこで、スターリングラード撤退を早めに実行させようとした方面軍の要求をしりぞけ、死守することを命じた。ソ連軍の攻撃がはじまると、半ば飢餓状態、寒さと病魔におかされ体力も戦力もなくなっていた第6軍はひとたまりもなかった。
ドイツは東部戦線の2年の戦いで220万の兵員を失った。しかも、それは精鋭部隊であった。そして、ソ連軍の攻撃の波は途絶えることなく、ベルリン総攻撃まで続くことになる。
イタリア降伏 戻る 1943年7月、イタリア南部のシチリア島に、英米連合軍が上陸した。イタリアはバルカン半島と北アフリカの両戦線で弱体ぶりをさらけだし、ドイツ軍が介入することになった。また、国民生活は破綻しムッソリーニへの不信感が高まった。そのため、連合軍の上陸後、支配層は内部分裂し、ムッソリーニは失脚し逮捕されてしまった。後を継いだバドリオは9月に降伏。ローマの東のグラン=サッソの山中に監禁されたムッソリーニはドイツ軍によって救出され傀儡政権を樹立する。こうして、ナポリを境にしてドイツ軍と連合軍のあいだでイタリア半島は分断され、北部ではレジスタンスが激化する。
ノルマンディ上陸 戻る
1944年6月6日、悪天候のため一日延期されていたノルマンディ上陸作戦が開始された。総司令官はアメリカのアイゼンハワー。連合軍が選んだ上陸地点は英仏海峡方面ではなく、ノルマンディだった。ドイツは軍は、連合軍がイギリス本土から最短距離にあるカレー、ブーローニュ方面に上陸してくる可能性が一番高いと判断していた。ドイツ軍の司令官は「砂漠の狐」の異名をとったロンメル将軍。彼は上陸する敵を水際で迎撃することを考えていたが、この時期の作戦はないと考えていたため、夫人の誕生日を祝うためドイツにいた。連合軍は多大の犠牲をだしながらも上陸作戦は成功、以後、戦局は連合軍の勝利へと転換するのである。
7月20日事件 ─ ヒトラー暗殺計画 戻る
1944年7月20日、反ヒトラー運動の中心者の一人シュタウフェンベルク大佐が、大本営内の会議室に鞄にいれた時限爆弾をしかけ、その爆発に成功した。シュタウフェンベルクは爆発寸前に会議室を離れ、建物が崩壊するのを見定め、ヒトラーの死亡は間違いないと確信したのである。そして、早速ナチス政権打倒のクーデターにのりだすが、ところが不幸なことに鞄の位置がずらされたため、負傷したものの間一髪ヒトラーは死ななかったのである。シュタウフェンベルクは銃殺され、首謀者のベック元陸軍参謀総長は自殺をはかった。
ロンメル元帥も事件に関係していることが判明して、ヒトラーはロンメルの自殺を勧告し、ロンメルはそれにしたがった。表向きは前線視察中の事故死と発表され、ヒトラーは国葬の栄誉を与えた。当時ドイツで一番人気のあったこの国民的英雄を反逆罪で処刑することは、さすがのヒトラーもできなかったのである。
ヒトラー暗殺失敗にもかかわらず、反逆計画がうまく行ったところがひとつだけあった。パリではフランス総督の地位にあったシニチュルプナーゲル将軍と、ノルマンディ方面軍参謀長シュパイデル将軍とが迅速に行動し、ヒトラー親衛隊をはじめナチス関係者を一斉に押え、パリを完全に支配下においた。あとは西部防衛軍総司令官のクルーゲ元帥が断を下しさえすればよかったのである。そうすれば、西部防衛軍全部が反ヒトラーの旗の下に結束することができたのである(ロンメルは、ヒトラーに講和を勧告する最後通牒的な手紙を送り、ヒトラーがあくまで拒絶すれば、単独でアイゼンハウアーと話し合う決意を固めていた)。ところがクルーゲは動かなかった。そのためパリの行動も無意味に終ってしまった。クルーゲは、その後間もなく西部防衛軍総司令官の職を追われ、ベルリンに召還されたが、ベルリンヘの帰途、早期講和を勧告したヒトラー宛ての手紙を残して自決することになる。
パリ解放 ─ パリは燃えているか 戻る
連合軍のノルマンディ上陸以来、フランス人はパリの解放を待ちわびていた。連合軍がパリに接近すると。鉄道や警察・地下鉄の職員がストに入り、ナチスに対する抵抗の態度をしめした。レジスタンスによってパリ市役所や警視庁が解放され、パリ解放は目前にせまった。パリ駐留ドイツ軍司令官コルティッツは、ヒトラーから撤収時にパリを徹底的に破壊することを命じられたが、ヒトラーを狂人にすぎないと考えていた彼は、軍のすみやかな撤退を図っただけであった。アイゼンハワーはパリ解放を自由フランス軍にゆだねた。ド=ゴールをはじめレジスタンスの戦士は凱旋門からノートルダム大聖堂間を凱旋パレードし、市民の熱烈な歓迎をうけた。
─「投降したコルティッツ将軍の部屋の受話器から、ヒトラーの声が叫んでいた。『パリは燃えているか!』」
最後の攻勢 戻る
さて、その年、秋深まるころになると、戦局はますます急迫してきた。東西から押しよせる連合軍の大波は、ドイツ国境のすぐそばに近づいていた。東ではソビエト軍がポーランドの中央に達し、西では戦場はフランスを越えてベルギー、オランダに移っていたが、冬の到来とともに連合軍の歩みは止まった。そして、最後の総攻撃を準備する幕あいの時間がしばらくつづいた。
ところがその間に、ヒトラーの頭にはひとつの妄想が浮かびあがった。4年半前のあの“アルデーヌの奇襲”をもう一度やってみよう、という思いつきである。こう思い立つと、ヒトラーの妄想は限りがなかった。アメリカ軍のまん中を突き破り、一挙に大西洋岸まで走ってアントワープを占領する。敵はこの兵帖基地を失なえばたちまち大混乱に陥いる、これで戦局は一変する、とこんな風にヒトラーは夢をえがいていたのである。このころのヒトラーはもうすっかり常軌を逸していて、彼我の戦力の根本的ちがいなどはまったく考えることができなくなっていた。12月16日、ルントシュテットのひきいるドイツ軍が攻撃を開始した。霧の深い数日がつづいて、アメリカ側の偵察が不十分だったため、この攻撃は奇襲効果をあげた。はじめの十日間、不意を突かれたアメリカ軍は混乱に陥り後退せざるを得なかった。ところが、ドイツの戦車隊は4年半前のように驀進することができなかった。ヒトラーは“アントワープまで前進”を指令したが、戦車部隊がもらった燃料ではその半ばまでしか走れなかった。“そのあとはアメリカの燃料を分捕って走れ”という乱暴な指令だったといわれる。そのアメリカ軍燃料の所在は、霧に包まれた森の中では見つけにくかった。ドイツ軍戦車部隊の前進がとまっている間に、アメリカ軍は態勢を立てなおした。
1月になって回復した好天とともに、米空軍の爆撃もはじまり、ドイツ軍はたちまち後退を余儀なくされた。ドイツ軍がこれだけの規模の攻勢をとったのは実に久しぶりのことで、ドイツ国民がしばしの希望をかけたのは無理もなかった。しかしその希望は、二週間で消え去ってしまった。
この攻勢を最後として、ドイツ軍はこのあと、ドイツ領に向って退却の一途を辿ることになった。退却をはじめてからもドイツ軍の抵抗は強く、ドイツ領に入ってからはルールやラインランドなど工業地帯や町が多いため、米英軍は、野戦のスピードで前進することはできなかった。ライン渡河など連合軍の前進テンポが早まったのは1945年3月に入ってからである。
最後の総攻撃 戻る
連合軍の総攻撃は、1月中旬ソビエト軍のワルシャワ戦線攻略で火蓋を切った。半月おくれて米英軍のラインランド、ルールを目指す攻撃がはじまった。ソビエト軍は1月末までにドイツ軍をポーランドから追払い、そのままドイツ領に進軍し、一月末には、ベルリン進撃を阻む最後の障害オーダー河畔に達した。この最後の冬期攻勢は非常に大規模なものであった。ソビエト軍の1月攻勢の凄まじさ。ソビエト軍は一月末にはオーダー川の線に達し、ここで歩みをとどめた。ベルリンまではあと60キロの地点だった。
他方、2月上旬に攻撃を開始した米英軍は、3月上旬レマーゲンその他でライン渡河に成功し、ドイツの奥深く進んだ。一方英軍は、ルール包囲戦のあと北ドイツを突き抜けて、東に進んだ。4月中旬、オーダー河畔で待機していたソビエト軍は、ベルリンに向って行動をおこした。4月下旬、ベルリンを包囲し5月2日にはベルリンが陥落した。4月25日には、米ソ両軍の兵隊たちが、ベルリン南方100キロのエルベ河畔で握手を交わすという劇的な場面もあった。
ヒトラーの最後 戻る
ヒトラーは、1月半ばごろから地下室をねぐらとするようになった。そして4月30日ピストル自殺を遂げるまでの100日間、ほとんどこの地下室に引きこもってすごした。その間のヒトラーはもう完全な狂気に陥り、かれの頭を支配したものは破壊ということだった。
3月19日、ヒトラーは、ドイツの徹底的焦土化を実行する決意を固め、敵軍の前進途上にある通信機関、交通機関、車輌、橋梁、貯水ダム、工場、貯蔵所などすべての破壊を命令した。ヒトラーの焦土命令は、軍需相シュペーアが全力をあげて阻止を計ったのでそのままには実行されずに終った。もしもシュペーアがいなかったならば、ドイツの悲劇は測り知れぬものがあったであろう。
ヒトラー自身も、誰も片づけてくれるものがいないので、結局はわれとわが身を始末するほかはなかった。4月30日の午後、ヒトラーは地下壕内の自室でピストル自殺を遂げた。その前日ヒトラーの妻となったエヴァ・ブラウンとヒトラーの遺骸は総統官邸の庭に持ち出され、ガソリンを注いで焼かれた。
ベルリン陥落後ソビエト兵が総統官邸に入ってきたとき、ヒトラーの死骸は見つからなかった。その行方はさだかではない。5月2日ベルリンが陥落し、5月7日ドイツは降服した。
【大戦の勃発】
A ドイツの侵略
1 1938年、(1 )併合
→ さらに、チェコに(2 )地方(ドイツ人が居住) を要求
→ チェコは仏・ソ連を頼みに要求を拒否
2 (3 )会談(1938年)
@ (4 )(英) 、ダラディエ(仏) 、ムッソリーニ、ヒト
ラーが参加
→ チェコ(ベネシュ大統領) とソ連を除外
A 英・仏の(5 )政策
→ これ以上の領土を要求しないことを条件に、独のズデーテン地方併合
を認める
3 宥和政策の失敗
@ 1939年、さらに独はチェコを解体してベーメン・メーレンを併合し
、 スロヴァキアを保護国化
A リトアニアから(6 )を奪回
B ポーランドに(7 )とポーランド回廊を要求
→ ポーランドは要求を拒否
→ 英仏は、ポーランドと相互援助条約(1939年) を結び、ソ連と軍事同 盟の交渉
→ イタリアの侵略
(8 )を併合(1939年) → 独伊軍事同盟(1939年)
4 (9 )条約締結(1939年)
ソ連の英・仏への不信感 → スターリンとヒトラーの提携
ドイツは二正面作戦を回避
B 第2次大戦の開始と戦況
1 ドイツのポーランド進撃(1939年9月1日)
→ 英・仏が独に宣戦、第2次世界大戦のはじまり
→ ソ連の侵略
ポーランドをドイツと分割、フィンランドに宣戦、エストニア・ラトヴ
ィ ア・リトアニアを併合、ルーマニアからベッサラヴィアを奪う
2 ドイツの攻勢
@ デンマーク・ノルウェー(中立国) 占領
A オランダ・ベルギー(永世中立国) に侵入 → マジノ戦突破
→ 英軍のダンケルク撤退 → イタリア参戦
→ パリ占領(1940年6月)
3 フランスの降伏
@ (10 )内閣が降伏(1940)し、北半分をドイツが占領、(11 )政府が南半分を統治
A (12 )がロンドンに亡命政府を組織
B 国内ではドイツ軍に抵抗する(13 )がおこる
4 英の抗戦
@ (14 )内閣(1940年5月成立)
→ ドイツ軍の上陸をはばむ
ドイツ空軍の英本土空襲、潜水艦による英海上封鎖
A アメリカは武器貸与法(1941年) を制定してイギリスを支援
5 ドイツのバルカン征服と北アフリカ戦線
@ 独のバルカン侵略(← イタリア援助のため)
→ ユーゴスラヴィア・ギリシアを征服(1941年)
→ ソ連とドイツの関係が悪化
A エジプト・リビアの争奪 − ロンメル(独)の活躍
→ エル・アラメインでドイツ軍敗北
6 (15 )戦争
@ 1941年6月22日、ドイツ軍のソ連侵入
→ モスクワ進撃失敗
→ 独軍の大半をひきつけ、大戦の局面を転換
A 英・米のソ連援助声明 → (16 )同盟(1942年)
→(17 )解散(1943年、米・英との協調のため)
7 大西洋会談(独ソ戦の直後。チャーチル、ルーズヴェルト)
→ (18 )発表(1941年8月)
【連合国の勝利】
A 連合国の反撃
1 (19 )の戦い(1942〜43年)でソ連軍の反撃
2 連合軍の北アフリカ上陸 → シチリア島占領 → ムッソリーニ失脚 → イタリア上陸 → (20 )政府が無条件降伏(1943年9月)
3 アイゼンハウアー指揮下の連合軍が、北フランスの(21 )に上陸(1944年) → (22 )を形成(ソ連の負担軽減のため)
→ パリ解放、(23 )の臨時政府
→ 連合軍のドイツ侵攻 → ソ連軍がベルリン占領
→ ドイツ軍の無条件降伏(デーニッツ政府)
B 連合国の首脳会談
1 カサブランカ会談(1943年)− 北アフリカ・地中海作戦協議
2 (24 )会談(1943年11月)
@ ルーズヴェルト・チャーチル・蒋介石
A カイロ宣言 − 対日処理方針を定める
3 (25 )会談(1943年)
@ ルーズヴェルト・チャーチル・スターリン
A 北フランス上陸作戦やソ連の対日参戦について協議
→ ノルマンディー上陸作戦
4 (26 )会談(1945年2月。クリミア半島)
@ ルーズヴェルト・チャーチル・スターリン
A ヤルタ協定
ドイツの無条件降伏と英・米・仏・ソによる管理
ソ連の対日参戦と千島・南樺太取得などを決める
5(27 )会談(1945年。ベルリン郊外)
@ トルーマン(アメリカ)・チャーチル(途中よりアトリー)、スターリン
A ポツダム宣言
日本の無条件降伏を勧告
☆ 重要語句
オーストリア併合 ミュンヘン会談 チェコスロヴァキア解体 独ソ不可侵条約英(仏)・ポーランド相互援助条約 宥和政策 チェンバレン ダラディエ
ズデーテン ダンチヒ ペタン内閣 レジスタンス 独ソ戦争 日独伊三国同盟ヴィシー 武器貸与法 スターリングラードの戦い イタリア無条件降伏
ノルマンディー上陸作戦 ドイツ無条件降伏 大西洋会談 大西洋憲章
カイロ会談 テヘラン会議 ヤルタ会談 ポツダム宣言 ルーズヴェルト
チャーチル スターリン カサブランカ カイロ テヘラン ヤルタ ポツダム
☆ 重要年代
ミュンヘン会談 独ソ不可侵条約の締結 第2次世界大戦の開始 独ソ戦の開始大西洋会談 カイロ会談 ヤルタ会談 ポツダム宣言
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