3 国際情勢の変化と日本
ジュネーヴ会談 平和五原則
アジア・アフリカ会議開催
アルジェリアの独立闘争 アインシュタイン
欧州経済共同体
ハンガリー動乱 フルシチョフ首相(ソ連)の訪米 キューバ革命
キューバ危機
ジュネーヴ会談 戻る
1955年7月18日、アメリカ大統領アイゼンハワー(65)、イギリス首相イーデン(58)、フランス首相フォール(47)、ソ連首相ブルガーニン(60)の4か国首脳会談が開始された。これは、第2次大戦後はじめての東西首脳会談であった。会談では、ドイツ統一、ヨーロッパの安全保障、軍縮、東西間の文化交流などについて協議が行われた。
会談は、ドイツ統一問題や軍縮などの重要事項について合意することはできなかったが、東西の文化交流の促進という点では意見が一致した。会談を通して、4ヶ国首脳間で緊張緩和への努力が確認される。
平和五原則 戻る
1954年6月28日、インド訪問中の中国の周恩来首相(56)は、デリーでインドのネルー首相(65)と、平和5原則を発表。国境問題で緊張関係にあった両国政府は、4月に「チベット・インド間の通商および交通に関する協定」を締結。その前文に、@領土・主権の尊重、A相互不可侵、B内政不干渉、C平等互恵、D平和共存の5原則がうたわれていた。
この日、周恩来が演説のなかでこの5原則に触れると、ネルーも賛同し、両国だけでなく世界平和にむけた5原則であることが打ち出された。
この5原則の精神は、翌年の第1回アジア・アフリカ会議での平和10原則に生かされていく。
アジア・アフリカ会議開催 戻る
インドネシアのスカルノ大統領(54)、インドのネルー首相(66)、中国の周恩来総理(57)、エジプトのナセル首相(37)ら、アジア・アフリカの29か国の代表が集まり、1955年4月18日、アジア・アフリカ会議(AA、バンドン会議)が、インドネシアのバンドンで開幕。
当時、第1次インドシナ戦争に敗れたフランスが東南アジアから撤退すると、アメリカが本格的に介入し、東南アジア条約機構(SEATO)が結成されるなど、東南アジアに緊張が生まれていた。
こうした国際政治における大国の動きに対抗して、前年、コロンボ・グループとよばれるインドネシア、ビルマ(現ミャンマー)、インド、セイロン(現スリランカ)、パキスタンの5カ国は、アジア・アフリカ会議の構想を打ち出し、開催を決定した。
反植民地主義と平和共存を基調として平和10原則を採択し、アジア・アフリカ諸国の連帯を世界に示した。しかしこの後、中ソ対立や中印の国境紛争など国際情勢の変化で、アジア・アフリカ諸国の団結は弱くなっていく。1965年に予定されていた第2回会議も、開催国アルジェリアの政変で実現不能となる。
アルジェリアの独立闘争 戻る
フランスのアルジェリア支配は、1830年のアルジェ占領から始まった。フランスはアルジェリアを「本国の一部」とみなしてきた。その支配は徹底をきわめ、アルジェリア人は市民権すら満足に認められなかった。第二次大戦後の改革も独立を望む彼らを満足させるにはほど遠く、1954年11月1日、アルジェリア民族解放戦線(FLN)の指導下に武装蜂起となった。各地でいっせいにテロが発生、フランスに対する民族解放闘争が勃発。以後、7年わたる死闘がはじまった。「ジャッカルの日」
アインシュタイン
核兵器廃絶の願い 戻る アインシュタインはドイツ生まれのユダヤ人で、1916年に一般相対性理論を完成、ノーベル物理学賞を受賞した。ナチスに追われ・アメリカのプリンストン高等研究所に迎えられた。1939年8月、原爆開発を勧告する書簡をフランクリン・ルーズヴェルト大統領に送付。その3年後に「マンハッタン計画」とよばれる原爆開発製造計画が実行された。しかし、原爆の悲惨な結果に心を痛めた彼は、核兵器と戦争の廃絶を死の直前まで訴えつづけ、世界の科学者の平和運動に大きな影響を与えた。
4月18日、ニュージャージー州プリンストンで死去した。76歳だった。
死の直前.アインシュタインは核兵器廃絶を訴える平和声明を発表。その4ヵ月後の8月6日、広島で第1回原水爆禁止世界大会が開かれる。
欧州経済共同体(EEC)・欧州原子力共同体(EURATOM)設立条約(ローマ条約) 戻る
3月25日、ローマ市役所の広間で、フランス、西ドイツ、イタリア、オランダ、ルクセンブルク、ベルギーの6カ国代表が、欧州経済共同体(EEC)と欧州原子力共同体(EURATOM)設立の条約(ローマ条約)に調印。翌年1月1日に発足する。
この条約のなねらいは、欧州内の「共通の市場」をつくりだすことである。農産物には多くの例外条項が残るが、工業製品の大半は関税障壁を撤廃することが決められた。このローマ条約によって、各国はヨーロッパ統合へむけて動きだすことになる。
ハンガリー動乱 戻る
首都ブダペストで知識人、学生らによる反体制デモが発生。治安警察が市民に発砲したためデモは暴動と化した。3日前、ポーランドでは、かつて党籍から除名されたゴムウカが政権の座に復した。これに触発されてハンガリーでも「小スターリン」ラーコシ・マーチャーシュ(64)の支配に対する国民の不満が急速に高揚。数日前から学生を中心として、「右翼的偏向」のかどで前年に解任されていた穏健派のナジ・イムレ(60)の復帰、言論の自由などを求める動きが各地で強まっていた。この日も、学生が開いた集会に一般市民が加わって、反政府デモが行われていた。こうした市民の動きに、翌日、ついにナジ政権が復活。ソ連はただちに軍事介入するが、当初は柔軟な対応を示す。だが翌月1日、ソ連軍は再び軍事介入を行い、ワルシャワ条約機構からの脱退を宣言したナジ政権と、それを支持するハンガリー市民の抵抗を容赦なく押しつぶす。ナジ首相はソ連軍に連行され、のち処刑される。だが、1989年の「東欧革命」のなかで名誉回復され、改葬が行われる。
フルシチョフ首相(ソ連)の訪米 戻る
ソ連首相ニキータ・フルシチョフ(65)は、9月15日、アンドリュース基地に到着した。今回の訪問はアイゼンハワ大統領の招きで実現したもので、ソ連首相初のアメリカ訪問となった。米ソ首脳は、こののちホワイトハウスで2時間にわたり会談した。3日後、フルシチョフは国連総会で演説し、また25日から3日間、キャンプ・デーヴィッドの山荘で米ソ首脳会談をおこなった。フルシチョフのアメリカ滞在は12日間に及び、アイオワの農場ではじめてホットドッグを食べ、サンフランシスコでIBMの工場を訪問、ハリウッドで映画撮影所を見学するなど、精力的に日程をこなす。
キューバ革命 戻る
キューバでは、独裁政治と外国資本による産業支配、そして大地主制のもとで、国民は貧困にあえぎ、腐敗に怒っていた。1953年7月26日、弁護士として政治犯や貧しい人々のために活動していたカストロは、135人の同志とともに、キューバ第2の兵営、モンカダ兵営を襲撃した。だがカストロは逮捕され、55年にアメリカ、さらにメキシコに亡命し、56年秋に帰国した。当初のゲリラ戦から、やがて全国規模へ戦いを発展させた革命軍は、キューバ中部のサンタ・クララ市を落とした。首都ハバナ包囲網はいっそう縮まり、1月1日、パティスタはひそかに首都を脱出し、ドミニカ共和国に亡命。政変を知った民衆は歓呼して首都の街頭を埋め尽くし、御用新聞エル・ティエンボの社屋は焼き討ちされた。
1月8日、ひげをたくわえ戦闘服に身を包んだカストロは、民衆の歓呼に迎えられて首都ハバナに入り、2月16日、革命政府の首相に就任する。
キューバ危機 戻る
1959年にキューバに成立した革命政府を敵視するアメリカは、61年1月に国交を断絶。4月にケネディ政権は、亡命キューバ人部隊を使いキューバ上陸侵攻作戦を決行し、これが失敗に終わると秘密工作員を潜入させ、破壊活動をさせてきた。一方、キューバを支援してきたソ連首相フルシチョフ(68)は、キューバに中距離ミサイルの配備を提案。アメリカの侵攻を予想していたカストロ政権もこれを受諾し、核弾頭を含めた大量のミサイルとソ連将兵がひそかにキューバに送り込まれていた。10月22日午後7時、ケネディ大統領(45)は、テレビ・ラジオを通じて、ソ連がキューバに中距離ミサイル基地を建設中であると演説、さらにキューバへ武器を船で運べぬよう交通遮断を行うと声明した。これまでケネディは、キューバに攻撃用兵器が持ち込まれているとの秘密報告を無視してきた。だが8日前、U2型偵察機による航空写真で、キューバ西部に中距離ミサイルの基地が建設中であることが判明。驚いた彼は、ひとまず直接攻撃は避け、海上封鎖を決断したのである。大統領の発表に続き国防総省も、「キューバに向けて航行中のソ連船が停船命令を拒否すれば撃沈する」と言明、世界中に緊張が走った。6日後の28日、米ソ両軍の対侍するなか、フルシチョフはアメリカのキューバ不侵攻を条件に、ミサイルの撤去と国連による検証を提案。ケネディは海上封鎖を解除することを言明する。この合意成立で、米ソの全面核戦争の危機は回避されるが、以後も米ソを中心に核軍拡がすすむ。
【冷戦の緩和と多極化への移行】
A 冷戦の緩和のきざし
1 朝鮮戦争の終結 − (1 )協定(1953年)
@ アメリカ
1953年、(2 )大統領が就任(朝鮮戦争の平和的解決を公約)
A ソ連
(3 )の死後、マレンコフの平和的よびかけ
2 ベルリン4国外相会議(1954年) − 緊張緩和を討議
3 インドシナ戦争の平和的解決(1954年)
= (4 )休戦協定
4 オーストリア国家条約(1955年)
オーストリアの独立回復 → 永世中立国へ
5 (5 )四巨頭会談(1955年)
米・英・仏・ソ、ドイツ統一や安全保障について討議
→ 「雪どけ」
ソ連・西ドイツの国交回復(1955年) 、コミンフォルム解散(1956年)
C 多極化の方向
1 1955年、(6 )会議(アジア・アフリカ会議)
→ (7 )を発表、平和共存・反植民地主義
2 1956年、ポーランド・ハンガリーの反ソ暴動
(8 )戦争(第2次中東戦争、1956〜57年)
(9 )危機(1962年)
3 多極化の方向(60年代)
@ 共産圏における中ソ対立
A 東ヨーロッパ諸国のソ連からの離反傾向
B 西側でのフランスのアメリカからの遊離
4 1960年代以降、民族解放運動がすすむ(西アジア、東南アジア、ラテン=アメリカ、アフリカ)
→ 南北問題
@ 南の発展途上国への援助をめぐる問題が注目
A 1964年、第1回サミット(先進国首脳会議)開催
【第三勢力】
→ 第三勢力
米・ソの陣営にくみぜず、積極中立を主張
インドが中心 → ユーゴスラヴィア、エジプトも加わる
→ 1961年以降、非同盟諸国首脳会議
平和共存、民族解放闘争の援助、外国の軍事基地追放、植民地主義反対
【核兵器管理問題】
→ 原子爆弾・水素爆弾、運搬手段としての大陸間弾道ミサイルの開発
A 原水爆禁止運動
1 ストックホルム=アピール(1950年、最初の世界的活動)
2 原水爆禁止世界大会開催(1955年、第1回、広島)
3 パグウォッシュ会議(1957〜、ラッセルとアインシュタインら科学者中心)
B 核兵器制限問題
1 大気圏内外水中核実験停止条約(1963年、部分的核停条約。キューバ危機以後)
2 (10 )条約調印(1968年 → 70年発効 )
→ フランス・中国は参加せず
3 1969年より、米ソの戦略兵器制限交渉(SALT)はじまる
→ 調印(第1次1972、第2次79年)
3 米ソ、核戦争防止協定に調印(1973年)
4 1982年、米ソの戦略兵器削減交渉(START)が開始
【西ヨーロッパ諸国】
A 経済協力
1 (11 )(ECC、1958年)の成立※
@ ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(ECSC。1951年)から発展
A 1967年、ヨーロッパ原子力共同体(EURATOM。1958年) を合併
→ (12 )(EC)に発展
B 1973年、英・アイルランド・デンマークが加入(→ 拡大EC)
C 1981年、ギリシア加入。1986年、スペイン・ポルトガル加入
※ ヨーロッパ自由貿易連合(EFTA。1960年発足)
→ イギリスが、EECに対抗して結成
B フランス
1 第五共和政(1958年〜)のはじまり
アルジェリア問題の処理に失敗 → 内乱の危機
→ ド=ゴールの再登場、1958年第五共和政(大統領に強い権限)をはじめる
2 ド=ゴール大統領(1959〜69年) → アメリカから離反する政策
1960年、核兵器の開発成功(米・英・ソにつぎ4番目)
1962年、アルジェリアの独立を認める
1964年、中華人民共和国を承認
1966年、(13 )条約機構から脱退
3 1969年、ド=ゴール退陣(← 反体制運動「五月危機」)
→ ポンピドゥー → ジスカールデスタン → ミッテラン(1981年〜、社会党)
C ドイツ連邦共和国(西ドイツ)
1 (14 )内閣(1949〜63年、キリスト教民主同盟)
(15 )協定で主権回復(P327.→ NATO加入)
ソ連と国交回復(1955年) 、ベルリン再封鎖(1961年、東ドイツが「ベルリンの壁」)
2 キージンガー首相
@ キリスト教民主同盟と社会民主党の大連立内閣
A 東ヨーロッパ諸国との接近 → ルーマニアと国交回復
3 (16 )内閣(1969〜1974年)の「東方外交」
@ ソ連・ポーランドと国境の現状維持協定(オーデル=ナイセ線)
A 1972年、東西ドイツ基本条約
→ 東西ドイツの国際連合加盟(1973年)
4 シュミット首相(1974〜1982年。社会民主党)
→ コール首相(1982年〜。キリスト教民主同盟)
D イギリス
1 (17 )労働党内閣((1945〜51年)
重要産業国有化、マーシャル=プラン受入れ、NATO参加、中国承認
2 保守党政権
@ (18 )(1951〜55年)
エリザベス2世の戴冠式(1952年) 、核兵器保有、西ヨーロッパ連合(WEU)
A イーデン(1955〜57年) − スエズ出兵(→P344)
マクミラン(1957〜63年) → ヒューム(1963〜64年)
3 ウイルソン内閣(労働党。1964〜70年)
@ 経済の停滞続く → ポンド切り下げ(1967年)
A スエズ以東より撤兵(1968年)
4 ヒース(保守党。1970〜74年)
北アイルランド暴動(1969年〜激化)、EC加盟(1973年)
→ ウィルソン(労働党) → キャラハン(労働党)
5 英国初の女性首相サッチャー( 保守党。1979〜90年)
フォークランド紛争(1982年)
→ メージャー(保守党。1990〜現在) − 湾岸戦争(1991年。多国籍軍)
E スペイン
1 1975年、独裁者フランコ総統が死亡
→ ブルボン王朝が復活、民主化政策を進める
F ポルトガル
1974年、ポルトガル革命 → アフリカの植民地の独立を認める
【ソ連と東ヨーロッパ諸国】
A ソ連邦の発展
< 1 スターリンの死後(1953年) 、平和共存政策がすすむ
@ 1955年、チトーの(19 )と和解
A ジュネーヴ四巨頭会談(1955年、ブルガーニン出席)
B (20 )解散(1956年)
C ソ連邦(21 )大会(1956年)
→ (22 )(第1書記)がスターリンの独裁を非難(スターリン批判)
→ 自由化の傾向が顕著 = 「雪どけ」(エレンブルクの小説)
→ 「スターリン批判」の影響
→ 東ヨーロッパ諸国にソ連から離脱の動き
@ ポーランドのポズナニ暴動
→ ポーランドのゴムルカ(第一書記)、一時自由化への道(1970年、民衆の反抗で辞任)
A ハンガリ−の反ソ暴動(1956年)
→ ソ連邦軍に鎮圧、首相ナジ=イムレは処刑
2 フルシチョフ時代(首相兼任、1958〜64年) → 米ソの接近
@ アメリカ訪問
アイゼンハウアー大統領とキャンプ=デーヴィッド会談
B ケネディとウィーン会談
C キューバ危機(1962年) の解決
→ (23 )条約(1963年)
3 1964年フルシチョフ解任
→ 首相コスイギン、第一書記ブレジネフ(1964〜82年)
→ アンドロポフ(1982〜84年) → チェルネンコ(1984〜85年)
→ ゴルバチョフ(1985年) → 1991年、ソ連邦解体
4 中ソ対立
→ 中国はソ連を社会帝国主義と、ソ連は毛沢東の個人独裁を非難
中ソ技術協定の破棄(1959年) 以後、対立激化
→ 国境紛争、国家間の対立へ
B 東ヨーロッパ諸国のソ連からの離脱の動き
1 ルーマニアのソ連批判(1965年、チャウシェスク) 、西ドイツと国交回復
→ 自主路線へ
2 チェコスロヴァキアの自由化(「プラハの春」1968年)
→ ソ連はワルシャワ条約機構加盟4カ国軍と軍事介入、弾圧
3 アルバニアの中国接近、ソ連と断交(1961年)
4 ポーランドの自主管理労働組合(連帯)が結成(1980年)
→ 委員長ワレサ
【アメリカ合衆国】
A (24 )大統領(民主党、1961〜63年11月、暗殺される)
1 (25 )政策 − 福祉や黒人の公民権拡大に努力
2 世界平和の維持に努力
@ ウィーン会談(1961年、フルシチョフ首相と)
A (26 )危機(1962年)
B 米・英・ソ連、部分的核停条約調印(1963年)
B (27 )大統領(民主党、1963〜69年)
1 黒人の差別撤廃を目的とする(28 )法成立(1964年)
→ 黒人解放運動つづく → キング牧師暗殺(1968年)
2 (29 )戦争(1965〜73年)
→ 北ヴェトナムへの爆撃(北爆)を開始、南ヴェトナムへ大軍を派遣
C (30 )大統領(共和党、1969〜74年)
1 1972年、中国訪問 → 米中和解
2 ヴェトナム撤兵(1973年)
3 (31 )協定に調印(1973年、訪米したソ連ブレジネフと)
4 ウォーターゲート事件(1972年) に関係してニクソン辞任
→ 副大統領フォードが昇格(1974〜77年)
D カーター大統領(民主党、1977〜81年)
1 「人権外交」
2 米中国交正常化(1979年)
3 エジプト・イスラエルの和平斡旋
4 第2次戦略核兵器制限交渉(SALTU)の調印
E レーガン(共和党) − 「強いアメリカ」めざす
→ ブッシュ(共和党) → クリントン(民主党)
【ラテン=アメリカ諸国】
A アメリカのラテン=アメリカ政策
1 リオ条約(1947年。リオデジャネイロ、19ヶ国。 米州共同防衛条約)
2 1948年、(32 )(OAS。カナダを除くアメリカ州諸国) 調印
第9回パン=アメリカ会議のボゴダ憲章で成立
→ 合衆国の支配的傾向が強まる
B キューバ革命
1 1959年、(33 )が親米的なバチスタ政権を打倒
→ 社会主義を宣言、ソ連・中国に接近
2 (34 )危機(1962年) → ソ連の譲歩で危機回避
C グアテマラ
左翼政権の農地改革実施 → 米CIAの策動で軍部クーデタが成功
D ニカラグア
ソモサ独裁政権打倒(1979年) → ニカラグア内戦はじまる
E アルゼンチン
1 ペロン政権(1946〜55年) − 民族主義的政策をすすめる
→ 軍部クーデタで倒される
→ 軍事政権、親米路線
2 1982年、(35 )戦争 − イギリスに敗北
3 1983年民政復活し、民主化へ
F チリ
1 1970年、総選挙で、(36 )大統領の人民連合政府が成立 → キューバと国交回復、社会主義路線
2 1973年、軍部のクーデタで倒される
☆ 重要語句
第三勢力 コロンボ会議 周・ネール会談 平和5原則
アジア=アフリカ会議(バンドン会議) 平和十原則 ジュネーヴ4巨頭会談
シューマン=プラン 周恩来 ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体
ヨーロッパ原子力共同体 EEC EC アルジェリアの独立承認
フランスのNATO軍事機構脱退 ベルリンの壁 ド=ゴール ブラント
イーデン ウィルソン ヨーロッパ自由貿易連合 スターリン批判
平和共存政策 ハンガリー反ソ暴動 ポーランド反ソ暴動 核拡散防止条約
中ソ論争 フルシチョフ コスイギン ブレジネフ 公民権法 キューバ革命
キューバ危機 ケネディ ニクソン フォード カーター カストロ
☆ 重要年代
周・ネール会談 ジュネーヴ4巨頭会談 バンドン会議
フランス第5共和政成立 スターリン批判 部分的核実験停止条約締結
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