13ディズ




 
 ケネディは「ダモクレスの剣」の演説で、核戦争の恐怖に直面する人類と地球を、一本の糸につりさげられ、今にも切れんとする剣の下に恐れおののいて座る道化師にたとえた。 ケネディをして、その演説をなさしめたのが、このキューバ危機の体験であった。

 1962年10月 14 日、アメリカ軍U-2偵察機がキューバに建設中のソ連ミサイル基地を発見、弾道ミサイルが設置されているのを確認した(配備完了は1962年10月4日の事である)。この事実が16日の朝、ジョン・F・ケネディ大統領(ブルース・グリーンウッド)に知らされた。午前8時45分、「大統領、ロシアがキューバに攻撃兵器を持ち込みました。写真は後ほどお見せします。」

 隣国キューバはアメリカから90マイルしか離れておらず、カストロが率いる社会主義国である。ここに、ソ連が弾道ミサイルを運び込んでいることがわかった。しかも、ミサイルの標的はアメリカである。これらのミサイルは数分で米国に飛んでくる。米国は絶対にこれを黙認することはできなかった。

 しかし相手は一方の超大国ソ連、対応を少しでも誤れば核戦争になってしまう。。しかし、ミサイルは取り除かなければならない。アメリカとソ連がもし正面衝突すれば、「第三次世界大戦」になってしまう。ケネディは第三次世界大戦を阻止するため、知恵をしぼりぬいて対応するのである。

 「核戦争」の危機にさらされた緊迫の 13 日間が始まった。ケネディ大統領は直ちに閣僚や軍の首脳を招集してエクスコム・ExComm (国家安全保障会議執行委員会)を開く。激しい意見がたたかわされる。ミサイルが発射される前に空爆を行うべきだという意見が主張される。会議の雰囲気は報復攻撃、一色につつまれた。


 空爆すると第三次世界大戦に発展するかもしれない。空爆を避けたい大統領は、弟のロバート・ケネディ司法長官(スティーブン・カルプ)と親友のケネス(愛称ケニー)・オドネル大統領特別補佐官(ケビン・コスナー)と相談する。ケニーはケネディの側近で大統領特別補佐官という立場で、常にケネディと行動を共にしていた


 マクナマラ国防長官は海上封鎖を提案。そして、空爆派と封鎖派の意見が対立。 ケネディ大統領は、空爆か封鎖の二者択一を迫られる。10 月 22 日、大統領はテレビ演説をおこない、秘密にされていたキューバ封鎖が全世界に向け発表された。アメリカはもとより、世界がキューバで起きた人類の危機を初めて知った瞬間である。ソ連のフルシチョフはこの行動を激しく非難した。キューバは最高警戒体制を発令。カストロは、徹底抗戦と打倒アメリカを国民に呼びかけた。

 そんなおり、アメリカ機がキューバのミサイル基地を低空飛行で撮影するために飛び立つ。パイロットは、機銃掃射を浴びながらも、一発も撃ちかえさずに無事に戻ってきた。機体はにいくつもの銃痕が残っていた。一発でも撃ち返せば、キューバとの戦いがはじまってしまうから。

 しかし、その頃、キューバではミサイル発射準備にとりかかっていた。大統領はキューバ侵攻の準備を始めざるを得なくなった。同時に、大統領は最大の信頼を寄せるケニーに、キューバ大使との最終交渉にあたらせる。

 まさにそのころ、キューバ上空で偵察機U2機が撃墜されたのである。このパイロットは敵の攻撃を必死に避けようとするが、相手はソ連の地対空ミサイルだったのだ。機体を追いかけてくるミサイルにはかなわない。撃墜の報せを受けたケネディは、しばらく受話器を下ろす事を忘れるほどの衝撃を受けた。会議は報復攻撃やむなしの強硬論に一変、大統領に対して、28日早朝を期してキューバミサイル基地に対する報復攻撃を勧告した。ケネディは瀬戸際に立たされた。戦争しかないのか。しかしケネディは、今回の撃墜で軍事行動を起こす事はできない、と考えた。しかし、強硬派をおさえることはできるのか。

 クレムリンもこの事態に驚愕した。偵察機を撃墜したのは、ソ連ミサイル部隊であった。激怒したフルシチョフは、ただちに現地軍に対して、二度と偵察機に手を出すな、との指令を発した。

 こうして緊迫した日が経っていくなか、ケネディの意を受けた弟ボビー(ロバート・ケネディ)は、ソ連大使に大統領直通電話番号をおしえるのである。フルシチョフも追いつめられていた。決断するしかない、撤退か戦争か。フルシチョフは撤退を決意した。モスクワ放送は英語の放送を流し始めた、「ケネディ大統領閣下・・・」。

 こうしてソ連の譲歩で「キューバ危機」は回避された。歴史に残る13 日間は終わった。

 しかし翌年 1963年 11 月 22 日、JFKはダラスで暗殺される。リー・ハーヴェイ・オズワルドの単独犯行という事になっているが、それを信じる人は少ない。謎の暗殺・・・。また、ボビーも数年後、大統領選挙に出馬表明したあと、選挙活動中の 1968年6月5日、暴漢に撃たれ死亡した。これもまた、謎のままである。

 ケネス・オドネルへの 100 時間にわたるインタビューがこの映画の骨組みとなっている。