先史の世界

 

 

                 第1章 先史の世界
    
                  1 人類の出現

 
 
 私有財産 

 人類の出現    戻る
 第4紀とは地質学上の年代で、更新世(約200万年〜1万年前)と完新世(1万年〜現在)にわけられる。気候の変化が基準になっています。最後の氷期(ヴュルム氷期)が終わって、地球が暖かくなり、現在の気候に近づくのが1万年前ぐらいからです。
 更新世は氷河時代ともいって、世界各地で4〜5回の氷期があった。氷河が拡大すると、海から蒸発した水分が雪となって氷河になるから、水は海に流れず、海面は降下する。氷河が溶ければその量だけ海面が上昇する。その海面の変動は、氷期には現在の海面より100〜150m降下し、間氷期には数メートルから数十メートル上昇するという大きさになる。  

 ヒトとは道具をつくる動物で、現在知られている最古の石器の製作者は200万年以上前に生活した猿人類(アウストラロピテクス類)である。他にどのような特徴があれば人間と考えてよいのか?ホモ=サピエンス(叡智のヒト)、ホモ=エレクトゥス(直立して歩くヒト)、ホモ=ファーベル(工作するヒト)、ホモ=ルーデンス」(遊ぶ人)等々。
 
 ミッシング=リンク(失われた鎖の意味)  戻る  
 人間とサルの中間にあると考えられる動物のこと。
 

 最初の人類は、アフリカで化石が発見されているアウストラロピテクスで、もっとも古いものでおよそ500 万年前とされている。ところが、類人猿は、祖先の化石が1000万年以上も前の地層から発見されているだけで、現在の直系の祖先についてはまったくわかっていない。この類人猿の祖先の化石が、人類の誕生を解明する失われた鎖の輪つまりミッシング・リンクだ。結局のところ、人類の祖先が、親戚筋にあたるチンパンジーやゴリラの祖先から分かれたのは、500万年よりも古い時期、おそらく1000万年前ごろのことと考えられている。
 人類が他の類人猿と区別される特色は最大のものは直立二足歩行である。初期の人類は、木から降り、地上を歩いてはいたが、完全な地上生活者というよりは、一部樹上生活を残した動物だった。その生活空間は、森林からサバンナに移行する地域である。 
 
 親指の対向性   戻る  
 すべての霊長類は指をいっしょに折り曲げて、枝をひっかけてつかむといった単純な手の握り方をすることができる。  これに対しヒトの手は、親指と他の4本の指を向かい合わせに合わせることができる。これは、つまんだり、槍を投げたりすることのできる握り方である。
  
 火の使用   戻る  
 北京郊外の周口店の大洞窟。崖の巨大な洞窟は、寒さを逃れるのに絶好の場所である。しかし、そこを手に入れるためには、サーベルタイガー(剣歯虎)やジャイアントパンダなどの大型の食肉獣と争わなければならなかった。しかし、ある時点で、化石の堆積物はヒトがその洞窟を永久に占拠したことを物語る。それは、火を使った証拠が見られるようになる時点である。一晩中燃えつづけるたき火は、肉食獣を寄せつけなかった。   また、周口店の洞窟には、ひつじ、大型のウマ、イノシシ、シカの焼け焦げた骨が散乱している。つまり、火で焼いた肉は、柔らかく噛みやすい、消化しやすい。とらえた獲物を調理して食べたのである。  骨やシカの枝角や生の木は、火であぶると堅くなる。木の先やシカの枝角の先を火であぶって、突きささる力を強くした。  
 骨と石でつくった武器と木の槍で、ゾウのような巨大な動物を殺すことができたということは、信じられないようなことだが、しかし、木の槍は、今でもピグミーによってゾウ狩りに使われている。ピグミーは集団で狩に出かけ、ゾウを見つけると、一人が槍をふるって襲いかかる。ゾウがその狩人に襲いかかると、他のものたちが、別の方向からゾウに突進して槍で突く。傷ついたゾウが死ぬまでそれをやるという。  一部のピグミーは、一人でもそれをやるという。自分の人間の臭いを消すために、動物の糞を体にこすりつけ、ゾウに近づく。3〜4メートルに接近すると、走ってゾウの首に槍を突き刺す。傷ついたゾウの攻撃から素早く逃れる。傷ついたゾウが死ぬまで、後をつけるという。  
   
 猿人類   戻る  
 1924年、オーストラリア生まれの人類学者レイモンド=ダートによって、石灰岩にはめこまれた少女の頭骨が発見(アウストラロピテクス=アフリカヌス)されたが、年代の測定も難しくて、あまり問題にされなかった。1959年、リーキー夫妻がタンザニアのオルドバイ峡谷で、アウストラロピテクスを発見した。これは年代の測定が可能で、175万年前のものであることが判明した。脳の容積は400〜700ccで、現代人の半分から1/3、骨盤などからみて、この動物が直立歩行していたと判断することができた。東アフリカのタンザニアのステップ地帯にあるオルドヴァイ峡谷は、長さが40km、深さが100〜130mあり、ここに堆積した地層からアウストラロピテクスの化石や遺物が多く発見されている。   
 最初の人類アウストラロピテクスは、おもに木の実や草の根などの植物を食べていた。また、食物や獲物をとるため道具を製作使用し・小動物も捕獲していた。木登りはたくみで.類人猿よりも手の使用頻度は高かったと思われる。
  
 原人類     
 直立猿人
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 ジャワでジャワ原人が発見されのは1891年。オランダ人のユージン=デュボアによって発見されたいきさつは有名である。29歳のとき、アムステルダム大学の講師であり、やがて約束された教授の地位を投げ捨て、オランダ領東インド(現在のインドネシア)陸軍の軍医に志願してスマトラにいった。しかも、その年に学生の一人と結婚して、最初の子供が生まれようとしていた。
 かれがオランダ領東インドにいった理由は、大昔のヨーロッパは氷河時代で寒かったはず、ヒトがおそらく氷河のおおわなかった熱帯地方に住んだはずと見当をつけた。また、イギリスの生物学者雨ウォーレスは、スマトラとボルネオが最も原始的な類人猿であるテナガザルと最も進歩したオランウータンの両方の生息地であることに注目していた。そして、デュボアは、トラの穴に入り込んだり、マラリアにかかったり、命を落とす危険にあいながら、1891年、最古の人類の化石を最初に発見した。
    
 北京原人の発見(1927年)   戻る  
 1923年はじめ歯が、その後人骨が発見。ジャワ原人と多くの共通点を持つ。北京の南西40kmの周口店付近。スウェーデンの地質学者アンダーソン、カナダの解剖学者ブラックらにより、1921年より調査が始まり、1927年もう一本の歯が発見、さらに1929年頭蓋骨が発見された。
 食人の風習があったらしく、原人の化石も打ち砕かれたあとがあり、全身骨格のそろった骨は一つもないほどであった。
 さらに、灰の化石(炉のあと)―火の使用のあとが発見された。
 
 旧人類・ネアンデルタール人   戻る  
 原人類のあとをうけて、最後の間氷期から氷期のはじめにかけて、ネアンデルタール人があらわれる。彼らは、原人にはみられなかった死に対する配慮も示している。洞窟の入り口の日だまりや炉のそばに穴を掘って死者を埋葬している。しかも、骨つきの肉とか石器などをいっしょに副葬している。人類はこうして死という観念を持ったのである。 アメリカの人類学者R・ソレッキー教授が、イラクでネアンデルタール人の遺跡を発掘したときのレポート。その遺跡を発掘していたとき、ソレッキー教授は、墓の周りに大昔の花粉が置かれているに気がつく。当時の人々が、仲間の死に臨んで墓をつくり、その周囲に、菊とかスミレの花で飾ったらしい。教授は「花をめでた人」と呼んだ。 ネアンデルタール人のつくりあげた文化をムステリアン文化というが、その名前の由来となった南フランスのル・ムスチェの遺跡から、少年の墓が発見されている。少年は横向きにねて、ひざをまげ、ちょうど深い眠りに入った様子をしていた。火打石の剥片をつんだ“まくら”までしていた。  
 
 クロマニョン人   戻る
 そして、旧人のネアンデルタール人は5万年前のある時期に、新人のクロマニョン人という新しい種類の人間にとってかわられた。彼らは、現代人の直接の祖先といわれる。

 人類が進化した時代は、周期的に氷河が消長を繰り返した時期にあたる。200万年前から1万年前に及ぶ更新世には、南極大陸のほかに、ユーラシア大陸北部や北アメリカ北部などを数回にわたって氷河がおおう氷期を迎えた。新人たちが生きた時代は、このうち、もっとも氷河が発達した最終氷期の前後である。このような気候の変動は、新人の生活を変化させ、動物相の変化にともなった新しい狩猟形態を生み出し、やがて狩猟よりも採集が優位となる。生のままで食べられる植物の種類は限られているが、火を通すことによって食べられる植物は、動物よりも多量に手にいれることができる。
 また、氷河の発達は、地表の水を氷として閉じ込めるため、海水面の低下をもたらし、べーリング海峡は陸続きとなった。このため、旧人の時代にシベリアまで進出していた人類は、新人の時代になってアメリカ大陸に渡った。
 北アメリカの北半分は氷河でおおわれていたが、ロッキー山脈の東麓には氷河のない通路があり、新人たちはそこを通って南下していったのである。
 また、新人たちは、東南アジアからオセアニアにも広がり、人類は南極を除くほとんどの地域に住むようになった。
 新人の時代になると、脳の容積も現代人とほとんど変わらない1500ccとなった。
 槍はすでにネアンデルタール人が使用していたが、クロマニョン人は、槍投げ器を発明した。これは、長さ30pほどの棒で、一端が鉤状になっていて、これを槍の根元をひっかけ、槍を遠くへ飛ばす道具である。これを使うと、ただ腕だけで槍を飛ばすよりも2〜3倍も遠くへ槍を飛ばすことができた。
 さらに弓矢も使うようになった。弓矢は、槍よりも速く、長距離を射ることができる。また、持ち運びにも便利で、狭い場所に隠れて獲物をねらうこともでき、失敗すれば、二の矢、三の矢を放つこともできる。こうした飛び道具によって、新人たちは大型動物を狩猟するだけでなく、ライチョウなどの鳥類も捕獲した。   
 クロマニョン人は、アルタミラ洞窟の壁にえがかれたバイソンの絵をはじめとして、多くの絵画を残している。
 
 地母神   戻る    
 原始時代の人にとって、土地から植物が育ち、また枯れて土に帰り、そして、また、新しい植物が生まれてくることは不思議であったと思う。この土の不思議さは、産み出すものとしての、「母」と一体に感じられ、「地母神」のイメージが世界のいたるところで共通に生まれたといえる。"" 狩猟にでても、いつも獲物が得られるとは限らない。足りない分は女たちが供給しなければならない。木の実、根菜類、果実を集めたのは女性たちである。男と女は、狩猟者と採集者という別々の役割をもって働いて、食物を得ていた。
 
 農耕・牧畜のはじまり   戻る  
 狩をして野生の動物を捕まえるよりも、動物を飼っておいて、子供を産ませたほうが、いつでも肉を手に入れられるので、都合がいい。新石器時代のはじめごろ、ヒトは、豚、牛、羊、ヤギ、馬などを飼いならし家畜にした。
 また、地面に種がおちると、そこから新しい植物が育つことを経験から知って、食物として役にたつ植物を栽培するようになった。こうして、大麦、小麦などの穀物を栽培する農業がはじまった。牧畜や農業がはじまったことで食物が手に入れやすくなり、生活は安定していった。そして、ヒトは、大きな村落をつくり、定住生活をすることができるようになった。

 農耕・牧畜が始まったのは紀元前8000年頃、西アジア、ザグロス山脈の山麓地帯で、ここは年間降雨量が500〜1000oに達し、野生の麦や豆が自生し、野生の山羊や羊も生息する豊かな土地であった。

 野生の大麦、小麦は何代にもわたり刈り取られ、人の手を必要とする栽培種に変化した。豆は根粒菌の働きで地味を豊かにし麦の生長に役立つだけでなく、蛋白質に富み、栄養面からも大切な食糧となり、レンズ豆、そら豆、えんどうなどが栽培種となった。
 山羊や羊は家畜化されると顔が丸く短くなり、雌は角を失い、雄の角は断面が細くカーブを描ぐようになる。

    
 ジャルモ遺跡   戻る  
 紀元前9千年紀末には定住的村落ができるが、その規模はごく小さいものだった。シカゴ大学のブレイドウッドの発掘。イラクのバグダードから約240キロ離れたキルクーク、そこからさらに東へ50キロのところにある。穀物を粉にする石うす、石きね、黒曜石でつくった鎌の刃や鍬とおもわれる磨製石器を発見。家畜化されたヤギや羊の骨もみつける。家をつくるときに、わらを混ぜた泥のなかに、もみがらや穀粒が痕跡を残していた。  
 26戸ぐらいの泥づくりの家に、150人ぐらいの人が住む小さな村であった。紀元前7000年に小麦、大麦を栽培していたことがわかる。
   
 農耕牧畜文化が発達  
 紀元前6500年頃、トルコのチャタル・ヒュユクでは、集落が形成され、小麦を育て牛を飼育する農耕牧畜文化が営まれた。狩猟も行われているが動物が飼われ、なかでも牛が多く飼育されている。 チャタル・ヒュユクは、最盛期には、約1000戸の家に約6000人が居住し、規模は15haに達するが、都市には発展しなかった。
   
 ※とうもろこしの栽培
 紀元前5000年頃、このころから前3400年ごろにかけてメキシコ南部でとうもろこしの栽培が始まった。最初は野生のとうもろこしを採集していたが、前3000年ごろには野生種に改良が加えられ、穂軸が大きく、粒の落ちにくい栽培種ができあがる。とうもろこしの起源については、メキシコ起源説が有力である。
   
 私有財産   戻る  
 狩猟の生活では、野営地から野営地へ持ち運ぶのに不便なものも、捨てないでおくことができる。女性たちは、自分の気に入った磨き石をずっと持っていることができるし、男性は、武器や狩猟道具や家畜の数を増やすことができた。また、飢饉に備えて食料を貯蔵することもできる。それまでの共同生活から、自分のための私有財産をもつようになっていく。

 


 

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