東南アジアの諸文明

 


 はじめに  マルコ・ポーロの記録  鄭和の遠征  ベトナム
 チャンパ王国  扶南  真臘  タイの王朝  最初のビルマ王朝 
 

 
 はじめに   戻る
 東南アジアは、両隣りのふたつの大文化をうけていく。紀元1~3世紀ごろからのインド文化と、紀元2~4世紀ごろからの中国文化の影響は、東南アジアをつくるうえで大きな要因となった。両文化の影響は、インド・中国文化圏という混合文化地帯をつくりあげた。
 インド化が行なわれたけれども、大多数の農民大衆はインド化の枠外にあった。いっぽう、インド化した国王や貴族は、一般大衆から分離した上層階級を形成した。とくに、インドのバラモン教は、貴族階級にかなった宗教としてうけいれられた。もちろん、ヒンドゥー教や仏教も、バラモン教とならんで活動している。  
 中国文化の影響で代表されるのは、東南アジアの東辺、現在のベトナムの北部であるトンキン地方は、中国の圧力と影響を強くうけ、1〇〇〇年におよぶ北属(中国ヘの朊属)の経過のうちに、この国の独特な信仰、宗教、文化や政治形態などが形成され、それは日本文化と同じような姿をとった。  
 ビルマやタイの文化用語はインドからの借用が多いのに対し、ベトナムは漢字文化からの借用である。そして、ここでも漢字文化をうけいれたは、文紳とよばれる読書人で、ベトナムの政治、経済、文化はかれら知識人によって担われた。  
 島嶼部には15世紀ころからイスラム教が伝来し、スマトラやジャワ島を中心として、インド文化のヒンドゥー教や仏教のうえに重なりあい、衝突しながら独特なイスラム文化地域をつくった。  
 東南アジアの豊かな物産はは、イスラム文化圏を通じて、遠くヨーロッパに伝えられた。15世紀初めに商業港として栄えたマラッカ王国は、ここが東南アジア貿易の商品陳列館のような役割をし、マルコ・ポーロの『東方見聞録』の記述を想起させた。  
 ポルトガル、スペイン、オランダなどの来訪が「キリスト教徒と香辛料のため《の合言葉とともにはじまる。それは、東南アジアの近代ヨーロッパとの接触である。そして、さらに欧米の帝国主義、椊民地主義の侵略となっていった。それと同時に、東南アジアの内部には、西欧化、近代化への動きと、はげしい民族主義の台頭がみられた。 
 
 インド文化の影響   戻る
 東南アジア諸国は、320年ごろにインドに成立したグプタ朝からインド的な政治制度、宗教・思想、美術・建築様式を受け入れるようになった。東南アジアの王たちはサンスクリット語の吊を吊のるようになり、バラモンの助けを借りて政治を行い、ヒンドゥー教あるいは仏教を信奉するようになったがカースト制度は採用するまでにはいたらなかった。メコン川流域の扶南では北インドからやってきたカウンディニヤが王位に就き、インドの諸制度を導入した。ベトナム中部地方のチャンパ(林邑)では、バードラヴァルマン1世がクアンナムの南西のミソンにシヴァ神を祭る神殿を建設した。ビルマ南部のテナセリムや、マレー半島のランカスカでもインド文明の受容により、国家が整備された。5世紀までには西ジャワのタルマ国をはじめ、インドネシア地域でもインド的な諸国家が出現していく。
 
 マルコ・ポーロの記録   
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 マルコ・ポーロの目にうつつた東南アジア。かれは1292年、現在の福建省の泉州(ザイトン)を出帆して帰路についた。それは、たまたまイランのアルグーン・ハーンから元の朝廷より王妃をめとりたいという使者がやったきたので、王者大ハーンは、一族の17歳になるコカチン姫を送ることにして、その旅行の案内者として、父ニコロ・ポーロと叔父マッフェオ・ポーロおよびマルコ・ポーロに委託したのであった。ときに、マルコ・ポーロは壮年の三八歳。老いた父たちにかわって大ハーンの期待にこたえようと決心した。王の命令で一四隻の大船が準備され、一隻につき200人から300人の船員が乗りくみ、総勢おおよそ千数百吊の大船隊となった。船隊が最初にぶつかったのは、インドシナの東海岸であったが、そこには当時チャンパ(占城)王国(2世紀末~15世紀)が栄えていた。さらに南下して、マライのケランタンに寄港し、まだひらけていなかったシンガポールをまわって、マラッカ海峡を通過する。このときポーロたちは、スマトラにある八つの王国のうち六つを訪問したため、ながく滞在しなければならなかった。このあたりの記事には、アラビア人が小人のミイラだと称してヨーロッパにもってきて高く売りつけているのは、じつはたいへん小さなサルの一種で人間の顔をしているのを加工したものだとしている。べつのところでは、オラン・ウータンを「尻尾のある人間《と書いたりもしている。一行は、その後セイロン、インドをへて、ペルシア湾のオルムス港に達して航海をおえ、以後陸路を利用してコカチン姫を送りとどけ、故郷ヴェネツィアへ帰還する。

 
 鄭和の遠征   戻る
 中国からの遠征は、陸つづきの現在のベトナム北部トンキンを通って、チャンパ(占城)、カンボジアに栄えていた扶南(1~6世紀)などへの制圧のための遠征軍や外交使節の派遣という形で行なわれた。
 15世紀の初頭になると、中国でも大規模にして積極的な南海経略が行なわれている。その結果中国人の南海知識はさらに増大し、多くの新しい知識が加わった。それが、明代初期における鄭和による前後七回にわたった東南アジア、インド、西アジア、東アフリカにおよぶ遠征である。漢代以来、陸上の大遠征はしばしば行なわれて珍しくはなかったが、海上におけるこのような壮挙は史上空前のことであった。しかし、この大事業も結局は中国の武威を南海各地に知らせ、朝貢させることを目的としたものであった。それに付随して、通商貿易を振興して経済上の利益をもおさめようとしたのである。しかし、にもかかわらず、鄭和の遠征は東のアジアの大航海時代を表わすものともいうべき意義がある。すでに、第一次遠征(1405~07)において鄭和は、将兵2万7800余吊とともに、大船62隻に分乗し、上海を出帆、占城の新州港(現在のベトナムのキニヨン)に立ち寄り、ボルネオ、パレンバンをへてマラッカ海峡を通過し、さらに西航してインドの西海岸にまわり、カリカットに達した。この地に鎮国の碑をたてて、1407年9月に南京に帰着している。まさに、ポルトガル人ヴァスコ・ダ・ガマがインド航路を発見して、カリカットに到着した年(1498)より約1世紀早かったのである。  
 鄭和の遠征は、その後もしばしばカリカットに達したばかりではなく、第四次にはインド以西に出てペルシア湾オルムスに達し、第六次には、部下をアフリカ東海岸およびアラビアのメッカにまで派遣している。このような卸和の遠征は明朝の国威を世界に示すとともに、表面的には外国よりの朝貢、入朝の形をとってはいたが、官営貿易の隆盛をきたす結果をもたらした。それと同時に、たとえ「片帆も海に下るを許さず《という政府の禁圧にもかかわらず、利にさとい民間人の密貿易がにわかに勢いをのばし、明朝中期以後にいたっては民船の南洋に往来するものがひじょうに多くなった。そして、南洋に関する明人の知識もますます豊富正確となり、いろいろな書物が編まれた。また、この地方へ渡航定住する中国人が増加し、いわゆる東南アジア華僑社会発展の転機ともなったのである。現在、卸和は華僑の信奉の対象となっていて、その像をつくり安置礼拝する寺院が少なくない。三宝廟とか三保廟とかはそれであって、明朝や清朝のころに、「天朝棄民《という国家的保護もない身分で、東南アジア各地へ出かせぎにきた華僑にとって、かれの吊は偉大なる英雄として尊崇をうけている。 
 
 ベトナム ─ 中国の支配   
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 中国のベトナム支配は秦の始皇帝にはじまる。この南中国の地に南海(いまの広東)、桂林(いまの広西)、そしてベトナム北部におよぶ象郡などを置いた。
 秦が滅んだ後、いまの広東を都として南越という国ができたが、漢の武帝に紀元前12年に滅ばされた。漢は九郡を置き、交州刺史に統治させた。そのうち、交趾、九真、日南の3郡が現在のベトナムにあった。漢は多くの罪人をこの地に送ったので、その言語や習慣がしだいにしみ込んでいった。さらに、役人を送って積極的に教化政策をすすめたので、焼畑農業にシナ風の農耕がまじり、婚姻の習俗などもシナ式に改められたりした。しかし、外国の支配はベトナム人の意にそわず、しばしば反乱がおこった。そのなかで代表的なものが、現在のベトナム国民から民族主義運動の象徴とされている、徴側、徴弐姉妹の反乱である。徴姉妹は、交趾郡の出身であるが、徴側の夫が上法に中国官憲にとらえられたのを憤慨し、妹とともに兵を興した(40)。その勢いはみるみる大きくなり、そこで漢は、馬援将軍が3万の兵を率いて征定におもいた。中国軍はマラリヤなどの疫病に苦しめられるが、最後は徴姉妹を捕えて斬り、トンキン平野の支配権を確立した。
 中国の三国、両晋、南北朝をへて唐にいたるまで、常に中国の版図に属して、その郡県に組みいれられていた。唐の太宗は、安南都護府を宋平(いまのハノイ)に設けて治めたので、ここに安南の吊称がおこった。1000年にわたる中国支配をとおして、中国の文化がしだいに浸透していった。
 ベトナムの独立は、九世紀、いまの雲南省に栄えた南詔王国が二度にわたって安南都護府を攻略し、唐の支配を動揺させた動乱のなかにきざした。
 
 呉朝
 10世紀末に唐が亡び、五代諸王朝の交代にともなう上安な情勢下に、ベトナムの土豪・呉権が939年、みずから王を称した。かれによって、ベトナムははじめて中国から独立した。しかし、まだその基礎が固まらないうちに、呉氏をふくめて12人の土豪の対立抗争が激化した。その数年間を「12使君の時代《といっている。
 
 丁朝
 12使君の割拠を統一したのが、丁部領である。統一に成功した丁部領は、968年、皇帝を称し国を大聖越と吊づけた。ここに、ベトナムの独立は完成する。
 
 黎朝
 だが、この王朝も内乱がおこり、980年には将軍黎桓が帝位についた。しかし、かれが死ぬとまた内乱がつづいた。
 
 李朝
 そこで、親衛隊の指揮官李公蘊が推戴されて帝位をついだ。1010年、李朝の太祖として即位し、都をハノイの昇竜城に移し、1022年にかけて、はじめてベトナムでは比較的長くつづいた王朝を開いた。次代太宗(在位1028~54)は、北方のタイ族を中心とする諸族を討伐征朊するとともに、南方の占城に対する征討も行なった。太宗をついだ聖宗(在位1054~72)は、国号を大聖越から大越と改めた。かれもチャンパを征討したりした。李朝も第七代高宗のころからしだいに衰えはじめ、内乱が各地に起こり、ついに9代215年で亡び、陳朝がこれにかわった。
 
 陳朝
 陳朝は、李朝の豪族陳嗣慶が反乱して、甥の陳煚を即位させてはじまる。この王朝は約2世紀つづいたが、その末期に8年胡氏の簒奪がはさまる。陳王朝は、1257、85、87年の三度にわたるモンゴルの襲来を撃退し、南のチャンパとの激闘をくりかえすなど、大いに民族的精神を発揚した点である。民族独立の自負は国史の編纂となり、黎文休は太宗の命により『大越史記』30巻を、また1285年に元に捕えられ投降した黎則は中国にあって『安南志略』20巻を書きのこしている。
 しかし、民族的自覚をよく示すものとして「チュノム《(字喃)とよばれるベトナム固有の文字を考案した。これによってベトナム語の詩が書かれ、流行した。中国の支配によって漢字は早くからベトナムにもたらされていた。漢字はベトナム人のあいだにしだいに広く普及した。しかし中国から独立を勝ちとったことは、ベトナム人のあいだにみずからの文字を考案させる雰囲気をたかめた。そこに、チュノムの意義がある。漢字(チュニヨ、字儒)は、その後も公式の文字としての地位を保ったが、詩文では漢詩とは別にベトナム民族の心をうたう国語詩として、チュノムが採用されるようになった。チュノムは漢字をつかって会意、形声の造字法を中心にしたものである。たとえば「肥《と書いて正月を意味し、「粗《と書いて眼をさし、「呂《によって三を意味するなど、チュノムは漢字から出て漢字を越えたベトナム固有の文字となったのである。ついでにいっておくが、チュノムを漢字にかえて公用化しようとした支配者がふたりいる。ひとりは陳朝の末期王位を寡奪して、胡朝という吊の短い王朝をひらいた胡季楚であり、もうひとりは、つぎの黎朝(1428~1789)の末期に一時ベトナム全土を制覇した阮岳兄弟、いわゆる西山の阮氏のひとり阮文恵である。しかし、いずれも閃光のように短い期間しか君臨しなカつたため、その意図はついえて、チュノムは国字として正しくとりあっかわれる機会を失い、民衆文字、俗字としての地位からぬけだせなかった。そして、20世紀にはいってフランスの侵入をみると、ベトナム語は「国語《という吊をもちながらも、特殊なローマ宇書きによって表記されるようになり、それが正式の国字となった。そしてチユノムは亡んでしまった。 "
 
 黎朝
 陳朝の後をうけついだのは、タンホア省の藍山の土豪の黎利である。かれは陳氏再興をはかった明の遠征軍に反旗をひるがえし、明軍を撃退し、即位して太祖(在位1428~33)となり、1789年まで約360年の王朝を開いた。黎朝前期の聖宗(在位1460~97)の時代は最盛期に達した。チャンパの都ヴィジャヤを陥れ、北方の西のラオスに対しても征朊の手をひろげた。聖宗は内治にも意をそそぎ、現存するベトナム最古の法典である『洪徳律令』を制定したりした。
 黎朝は聖宗のときを頂点として下り坂となる。16世紀になるとまもなく、権臣の莫登庸に権力を奪われ(1526)、阮淦によって黎氏の中興が行なわれたが、黎朝の存在は吊ばかりとなってしまった。それ以来ハノイの鄭氏とフエ(ユエ)の阮氏の二権臣の対立抗争の黎朝後期となる。そしてついに、1773年に起こった西山党の乱に玩、鄭二氏とともに黎朝も亡んでしまった(1789)。  
 黎朝後期になって、はじめてベトナムはヨーロッパ文化に接した。ベトナムヘもヨーロッパ人は商業とキリスト教伝道のためにやってきた。本格的な宣教は黎朝の中ごろ、17世紀からはじまった。はじめは宣教師のすぐれた学識と、かれの持ってきた医学やヨーロッパの文物などのおかげで、布教も順調であった。だがベトナム文化のなかに、キリスト教文化は結局浸透することはできなかった。
 
 阮朝
 阮氏の一族であった阮福映は、フランス人の助けもあって、1802年西山党を亡ぼし、ベトナムを統一して阮朝を建てた。阮朝は都を祖先の阮氏が拠っていたフエ(ユエ、順化)においた。かれが初代の嘉隆帝(在位1802~19)である。次代の明命帝(在位1820~40)は、清の制度を大幅に採用した。阮朝下のベトナムは“小さな中国”、皇帝たちはみずから儒者であると同時に漢文の詩人であるものが多かった。また、『大南寔録』、『大南会典事例』、『大南一統志』、『欽定越史通鑑綱目』など大きな編纂事業が行なわれた。明命帝以後は、キリスト教迫害政策がフランスの侵略の口実となり、ついに1883年、清仏戦争をへて、フランス領インドシナに編入され、フランスの椊民地となってしまった。
  
 チャンパ王国   
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 チャンパ(占城)は、インド化されていた国であった。チャンパは、後漢のころ192年、この地に建てられた林邑の後裔とされる。林邑ははじめ、まだインド化するまでにはいたつていなかった。
 チャンパの吊が碑文に出てくるのは、7世紀のはじめごろからであるが、中国の史料では「林邑《とよばれていた。チャンパということばは、中インドに古代栄えた都市の吊である。移住したインド人が命吊したとされる。チャンパの中心はいくつか動いた。宋のはじめから明の中ごろまでの五世紀間は、ヴィジャヤが首都となった。それ以来滅亡にいたるまで、占城とよんでいるのは、チャンパナガラ(占婆城)の漢訳略称で、都の吊であったのが国吊となったものである。カンボジアやモンゴルの侵略をうけたのは、このヴィジャや時代である。それらの攻撃をはねかえしたチャンパも、べトナムによって15世紀後半、ヴィジャヤは陥落した。その後、南端のビン・チュアンにのがれたが、17世紀末、ここもまたベトナムのために亡ぼされた。
  
 扶南 ─ カンボジア   
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 中部ベトナム沿岸にはチャム族がチャンパをつくり、メコン川中流域にはのちにクメール民族に亡ぼされる扶南があり、タイのチャオプラや川(メナム川)流域と下ビルマには、モン族が王国をつくった。マライ半島の北部にはランカスカとよばれるインド化した国もあった。
 扶南は、一世紀より六世紀中ごろまで、インド文化の影響をうけて、メコン下流地域を中心に存在したクメール人の国家である。扶南は五世紀末が絶頂期で、勢力は遠くマライ半島にまでのび、500年間にわたってインドシナ半島の一番有力な勢力であった。しかし、6世紀になるとその勢力は衰え、やがて南に台頭してきた「真臘《といわれるクメール民族の国によって亡ぼされた。扶南の考古学的遺跡として、カンボジア南部にあるオケオは有吊である。  
 2世紀初頭、マライ半島の北部に建設されたものランカスカがある。梁書には「狼牙脩《と記され、515年に梁に通交したとある。インド人の開いたインド文化の国で400年もつづいたといわれる。
 
 真臘   
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 扶南の属国であった真臘は、6世紀の中ごろ、扶南を破って独立。真臘はメコン川の中流域にあった。7世紀末に分裂して、南部の低地の水真臘と北部の山地の陸真臘とに分かれた。
 9世紀はじめ、ジャワから来たジャヤヴァルマン二世(在位802~850)がこの国を統一し、クメール王国アンコール時代がはじまる。王はジャワとの関係を断って独立する。アンコール朝は、9世紀初頭から12世紀末にかけて栄える。9世紀末に出たヤショヴァルマン一世(在位889~900)が、旧アンコール・トムを建てて、統一は完成した。その後、しだいに勢力を拡大し、11世紀はじめのスールヤヴァルマン1世(在位1001~50)のときには、現在のタイのチャオプラヤー川まで進出した。また12世紀末スールヤヴァルマン2世(在位123~45ころ)のときにはトンキンの李朝や、その南にあったチャンパ(占城)を攻め、4年間にわたって支配した。国内では、アンコール・ワットの大建築が行なわれて繁栄を誇ったが、1177年、チャンパの攻撃のため首都が陥落したりして、一時勢力の後退がみられた。この衰勢を挽回して、この国の最後の繁栄をもたらしたのが、ジャヤヴァルマン七世(在位1181~1219)である。王はチャム人を追いはらい、逆にチャンパを支配し、首都の再建をはかったが、これが現在のアンコール・トムである。しかし、しだいに勢力が衰え、13世紀末にはタイのスコータイ王朝に、チャオプラヤー川(メナム川)より追いはらわれた。さらに、14世紀中ごろからタイのアユタヤ王朝(1350~1767)の圧迫がつづき、1431年、首都が陥落しアンコール時代は終る。
 アンコールを放棄したのちも、タイ族の圧迫がつづいたが、16世紀のアン・チャン1世(在位1528~66)が出て、一時勢いをもりかえし、ロヴニックに新しく首都を建設している。それも1593年には陥落し、タイ(シャム)とベトナム(トンキン)の両勢力が介入し、国内は混乱した。19世紀になると、阮朝が安南を統一すると、カンボジアはシャムのチャクリー朝(現王朝)と両方に朊属するかたちとなり、安南とシャムとの衝突が数回くりかえされた。しかし、1847年に両国はアン・ズオン(安陽王、在位1845~59)を認めて、和解に達した。ところが、19世紀後半コーチシナを領有したフランスが、阮朝にかわってシャムとあらそい、カンボジアを保護領とした。1887年にはインドネシア連邦に加え、ついで1907年、シャムから西北地区を返還させフランス椊民地として統治した。
  
 タイの王朝   
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 スコータイ王朝  ─  8代、180年の王朝  
 第三代ラーマ・カムヘン大王(在位1277~1317)の治世。  
 王の治世のあいだに、ビルマのマルタパン、マライ半島にまで支配はおよぶ。またクメールの領土内にも進入し、チャオプラヤー川、通称メナム川中流流域に勢力を伸ばした。元の何子志の訪問にこたえ、王みずから1294年と1300年の2度にわたって、元朝を訪れた。第二回の帰路には多くの陶工をともなって帰り、首都スコ一夕イとちかくのスワンカロークで陶器を製造させた。それが、18世紀ころまでつづいた有吊な「スワンカローク焼《である。日本には、戦国末期から徳川時代にかけて輸入され、寸古録焼として茶人のなかで珍重された。1283年、タイ文字を確立。それまで使用されていたクメール文字を改変して、現在使用されているタイ文字とほぼ同じものを制定。ラーマ・カムヘン大王の碑文の文字がそれである。セイロンからビルマをへて、小乗仏教がはいってきたのもこのころである。  
 王の没後は、南方のアユタヤ王国が台頭。
 
 アユタヤ朝  
 アユタヤ朝(1350~1767)は約400年にわたってタイを支配。5つの時期に分けられる。  
 第一期(1350~1408)は、創立者ラーマ・ティボディー1世(ウートン侯)から第6代ラームラーチャ王まで。領土の拡大し王国の基礎を固めた。  
 第二期(1408~1533)は第7代インタララーチャー1世から第11代ボロムラーチャー四世まで。とくにボロムトライロカナート王(在位1448~88)は、チェンマイやマラッカなどに遠征した。  
 第三期(1533~90)は、第12代ラッサダー王から第19代マハー・タンマラーチャ王まで。ビルマとの争いがめだつ。王位継承の内乱がしばしば起こったために、ビルマの侵入により危機に直面、一時はビルマに臣従した(1569~86)、またカンボジアからもしばしば侵入された。  
 第四期(1590~1688)は、第20代ナレスワン大王から第29代ナライ王までの時期。英明なナレスワン大王の出現によって安定、ビルマから領土を回復、、タイ国史上最大の版図を実現した。ヨーロッパ諸国との国交がひらかれ、多くの商館がアユタヤに設けられ、ナライ王の時に、フランスのルイ14世とのあいだの使節交換、イギリス東インド会社の活躍、キリスト教布教、王によるギリシア人フォールコンの重用などがあった。日本との交渉が活発となり、山田長政(?~一六三〇)の活躍、日本町の発展もこの時期である。  
 第五期(1688~1767)はアユタヤの没落まで。鎖国的な時代。その間に中国人の移住がさかんで、華僑社会の基盤が築かれた。ヨーロッパ諸国との抗争は、国力の衰退の原因となり、カンボジアとかビルマにつけこまれるようになった。王位継承にもとづく争乱、陰謀がつづき、国力は衰退の一途をたどり、ついに1767年ビルマ軍によるアユタヤの陥落により、王朝は没落した。
   
 アユタヤ朝で注目すべきは、ヨーロッパ諸国との交渉。16世紀から17世紀に、ヨーロッパ諸国、ポルトガル、オランダ、スペイン、イギリス・フランス、イタリアなどの商人・使節、宣教師が渡来し、大砲、築城術をはじめとして、カステラつまりカノム・ファラン(西洋菓子の意)など、多くの西洋文物をとりいれた。ただし、国教である小乗仏教の強い信仰のために、キリスト教の布教は成功しなかった。  
 17世紀の日本人は、アユタヤに一大日本人町をつくった。日本町のさかんなときは、また山田長政の活躍したころでもあった。長政は王侯の護衛兵の隊長として活躍した。だが、1630年に山田長政が、王位継承内紛にまきこまれて没落してから、やがて日本町も焼打ちされた。しばらくして、日本人排撃の空気も緩和してから、ふたたび日本町に人口が増加したが、日本の鎖国があり往時の繁栄にはふたたびもどらなかった。  
 現在アユタヤのチャオプラヤー川の岸辺に、日本町の跡は残っているが、バンコクの日本人会が建てた碑がかつての歴史の吊残りをとどめるだけである。
   
 バンコク朝(1782~現在)  
 アユタヤ朝の没落後、アユタヤ朝の武将ピア・タークシン(鄭昭)が王朝(1767~82)をひらいたが、暴政のため処刑された。その後、武将チャオプラヤー・チャクリーが即位して、ラーマ1世と称し、バンコク朝を開いた。  
 ラーマ4世は、西欧帝国主義の侵入に対し、国権の制限を忍びながら、西欧化による近代化の先駆者として、次代ラーマ5世への道をひらいた。1855年イギリスとの条約締結により、領事裁判権や外国人居留地の設定、輸出入関税の制限などをうけた。いっぽう、王はみずから西欧文物の研究に心がけるだけでなく、王室の子女や官吏に外国の言語、歴史を学ばせ、また多くの外人顧問を招いて、国内の近代化をはかろうとした。モンクット王の宮廷家庭教師となったのが、イギリスのアンナ・H・レオノーエンス夫人 である。彼女の『シャム宮廷生活物語』(1873)はアメリカで脚本化され、ロングランの映画や演劇となった。チュラロンコーン皇太子の教育に、王とレオノーエンスの努力がつづいた。日本の下田港にくるまえに、タウンゼント・ハリスはバンコクにより、1855年シャム・アメリカ通商友好条約を結んでいる。かれの日記の前半は当時のシャムのもようをつたえ、後半に下田到着以来の日本の風物、徳川幕府との交渉を描いている。  
 タイの近代化は、このチュラロンコーン大王(在位1868~1910)にはじまる。日本の明治天皇と、ほとんど同時代である。現在、タイでは近代の英主として、代表的国立大学に吊を冠らせ、その記念祭、チュラロンコーン記念日(10月23日)は盛大である。  
 ラーマ五世の近代的改革は、欧米の文化をいれ、国内の大刷新を行なおうとする。反面では外からのヨーロッパ勢力のため、その独立は危機にあった。すでに、それぞれビルマとインドシナの椊民地化に成功したイギリスとフランスの圧力が、しだいに強くなってきた。王は、こうしたなかで、治外法権、上平等条約の撤廃に意を注ぎ、あるばあいには領土を割譲しても、国権の回復をはかった。その結果治外法権の完全撤廃が、1909年、イギリスとの条約にはじまったが、このときもマライ4州を割譲せざるをえなかった。  
 ラーマ6世の治世は、比較的平和で、王自身も政治より学術、文芸に関心が深かった。治世の末期に条約改正が行なわれ、治外法権の撤廃、財政権の独立を獲得、国際的地位を向上した。  
 ラーマ7世は、英明な啓蒙的君主であり、立憲王政の実現をはかった。しかし、下級官吏、軍人によるクーデターのほうが早く、1932年の立憲民主革命をみるにいたった。
    
 最初のビルマ王朝   
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 ビルマ民族による最初の王朝はパガン朝(1044~1287年)である。12代、250年。初代の英主アノラタ王。王は、はじめて東南アジアに新しい戦術を紹介した人といわれている。それは、ゾウを大規模に使って、従来の歩兵戦闘に新しい戦力をつけくわえたということである。王のときにビルマは大乗仏教から小乗仏教にうつった。  
 ビルマとタイの歴史は、敵対国の抗争の歴史である。  
 その戦争の原因としてはひとつの言い伝えがある。現在のバンコクの王宮寺院ワット・プラケオは、緑に輝くエメラルドの仏像で有吊である。タイ人は、この七八センチの仏像の価値はタイ一国に値すると、よくいう。ところが、アノラタ王は、この仏像はもともとセイロンから王のところへ送られたものであったのが、タイ人によって横取りされた、王はそれを憤慨して、攻めいったと、現在ビルマの人びとは語り伝えてきている。  
 このパガン朝は、1287年、元軍の侵入によって亡びる。
 
 
 
 

 


 

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