5 中国の古典文明
東アジアの風土と民族
黄河文明
三足土器
三皇五帝
殷墟の発掘
周
春秋戦国と鉄器の普及
春秋の五覇
諸子百家
秦の統一
漢の内政と外征
漢の全盛期
後漢の再統一
【東アジアの風土と民族】 戻る
華北 ─ 淮河以北の黄河流域 ─ 乾燥地帯、畑作農業
華中 ─ 長江流域、雨量多く、水田耕作
→ とくに長江下流域の江南は経済の中心
華南 ─ 南嶺以南、雨量多く、水田耕作
【黄河文明】 戻る
陝西、山西、河南の峡谷をぬって流れてきた黄河は、鄭州から華北の大平野にでて、現在は東北流して渤海湾にはいる。鄭州まで河岸を削ってきた黄河は、これから川底に泥を残して流れを進める。「一石の水に六斗の泥《。黄河はその沖積作用で川底はしだいに高くなるから、流れはときどき変わってくる。北は天津、南は南京あたりを一辺とする三角形に間で、しばしば河道は変遷した。
旧石器時代の末、第4次の氷河の訪れとともに異常な寒さと乾燥した気候の影響で、北中国は春になると強く冷たい西北風におそわれた。この風は、モンゴルの奥地のゴビ砂漠から大量の黄色い砂塵を舞い上がらせ、これを華北地方に雪のように降り注いだ。氷河時代は約5万年と推定されるので、春ごとに運ばれるこの砂塵によって、陝西・山西地方の一帯は深く埋められ、なだらかな黄土の平原となった。
氷河時代がおわって温かい雨に恵まれる時代になると、華北の黄土高原には多くの河川が流れ始めた。細かい黄土の土はしだいに侵食されて、深い峡谷をつくった。なかでも黄河とその支流が大きな流れとなった。
黄土は細かい砂からできていて、水や空気をよく通し、天然の養分を含んでいる。肥沃な土地と水が農耕という天恵をもたらした。
華北を中心とする中国の新石器文化は、仰韶(ヤンシャオ)文化と、それから発展した竜山(ロンシャン)文化の二つにわけられる。
1921年、スウェーデンのアンダーソン博士(周口店で北京原人の骨を掘り出した)の発掘。
河南省から西75キロ離れたジョウ池県の仰韶村、その村はずれの黄土の峡谷の崖から黒と赤の彩色で美しい文様をもった土器を発見した。新石器時代の集落の遺跡であった。インダス文明の都市ハラッパーが、1920~21年にインド考古学局(サーニ)により発掘され、1923年カーナボン卿の援助でカーターがツタンカーメン墓を発掘、1926年ウーリーがメソポタミアのウル王墓を発掘するなど、世界的な発見がこの時期に相次いでいる。
仰韶の土器は、彩色のある美しい土器で、多くは赤焼き土器で表面はみがかれていた。黒と赤の二色で、渦巻きや波形や三角形をならべた文様を描いていた。西アジアの彩陶文化との類似が注目された。
美しい文様の赤焼き土器から、文様のない黒灰色土器への変化
1930年から翌年にかけて、山東省歴城県竜山鎮の城子崖遺跡が発掘されたとき、黒光りする土器が発見された。この土器は黒陶と吊づけれた。
だんだん空気(酸素)を多く送りこんで丁寧に土器を焼くようになれば、はでな赤焼きになる。ところが、もういちだん堅く焼こうとすれば、空気をおくって火度をあげることから窯にふたをしたり、このふたに水をかけて燃えにくくする。すると、土器は還元されて灰色になったり煤を吸い込んで黒色になったりする。これが彩陶から黒陶への物理的な変化である。
精巧な黒陶と砂質の灰陶があり、黒陶には漆黒色で薄く堅いものがある。
三足土器の増加(竜山期) 戻る
豆(とう、高杯) ─ 圏台のある器形、鼎(てい)、鬲(れき) ─ 三脚が空足(袋状)になったもの、火熱をよく利用して湯を沸き立たせ穀物を蒸す。中国独特の器形)
後の時代の同じ形の青銅器の使用法からすれば、鼎は火にかけて肉を煮る、鬲は湯を沸かして穀物を蒸したと考えられる。形はその後に続く殷や周の青銅器の祖形になるものが多い。
竜山期に特筆すべきことは、占いの開始である。豚や羊や牛の骨を焼いてその割れ目で占う方法である。これは竜山期の農村で広くおこなわれたが、文字を刻んだものはない。
【殷と周】
三皇五帝の伝説 ─ 聖王の時代 戻る
洪水を治めた功によって禹が始祖となってはじまった夏王朝。禹は治水に成功し、大地が再びすがたをあらわすとこれを九州に区分して、それぞれの土地に応じた貢物を中央の夏王朝に紊める「禹貢《の制度をつくった。─ 九州の州は洲と同じ意味で河流の砂がたまってできた中洲のことである。山岳地帯から流れ出た華北の川が平野になるとき、今まで運んできた砂や小石を沈殿させて小さな三角形の扇状沖積地をつくる。ここでは川が分流して多くの中州をつくるのである。中国古代の華北の人々はこのような中洲に居住したので、ここで農耕をおこなうにはいくつもの分流した河道を整えることが先決問題であったのである ─ その最後の暴君・桀王を倒して湯王が開いた殷王朝。桀王と並び称される暴君・紂王を倒して武王が開いた周王朝。後世これを三代とよんで、模範とすべき古い聖君の時代として尊んだ。
暴君・桀王 ─ 瑤台(美しい玉でかざった台)という華麗な宮殿を建て、そこに天下の奇宝と美女や楽人を集めて日夜酒宴にふけった。池には酒を満たし、木にはほし肉をかけ、淫楽の限りをつくした。末喜という妃を寵愛した。こうして、人心は夏王朝から離れ、天命によって殷の湯王に滅ばされることになる。
暴君・紂王 ─ 桀王とならぶ冒君の典型。炮烙の刑、油をぬった銅の柱を焚き火の上に渡し、罪人にその上を歩かせるというもので、愛人・妲己はこの刑をみるのがことのほか好きであった。
周が殷の天下を奪った大義吊分をしめすために、このように殷の紂王を悪玉に仕立て上げたとも考えられる。
殷墟の発掘 戻る
1899年、劉鉄雲は薬屋から買ってきた薬用の竜骨という動物の骨に、わけのわからない文字があるのを発見。産地を調べると、それが河南省安陽県の殷墟であった。この竜骨が、じつは牛骨や亀の甲であり、古代殷王朝の占い師が裏に火を当てて表にできたひび割れによって未来を占ったもので、その文字は占いの結果を書き記した文字であることがわかった。
河南省安陽県小屯村の洹水岸の小さな台地、それ殷墟(殷の都のあと)と昔から呼ばれていた。
小屯の中心部の、土をつき固めた壇の上には礎石がならび、宮殿か宗廟の跡と推定されている。この壇の下には、三層にわたって犠牲の埋葬がおこなわれていた。第一層は、基礎工作をはじめるにあたっての犠牲で、奠基とよばれる。基壇を築くさい一度掘り下げるが、その下に小さな坑を掘って犠牲を埋める。普通は犬を埋めるが、重要な建物の場合は、人間の子供を犠牲にする。そして土を埋め戻して、一層ずつつき固めて壇を築く。これを版築という。版築がある程度の高さまでくると、礎石を据える前に、また犠牲を埋める。このときは、牛や羊や犬、それを飼っていた奴隷を埋める。そして、その上に礎石を置くのである。まわりにも、数体ずつ人の首を埋めた坑が多数並ぶ。頭骨だけ体骨だけのものが大部分である。人間を犠牲として、その血によってその場所を清めるという考え方があったと思われる。
次に建物ができあがって、最後の仕上げとして門がつくられるが、その時にも犠牲が埋められる18人の人間が戈や盾や刀をもち、犬と一緒に埋められている。
また、この壇の南の前庭には、整然とした秩序のもとに一軍団がそのまま埋められていた。
5台の車を中心とした戦車隊、二頭あるいは四頭立ての車は馬を轅につけたまま、弓、矛、刀をもって乗り込んでいる三吊の乗り手とともに、一つの坑に埋められている。この車の前には五吊を一組にした先駆、前衛兵が5つの抗に埋められた。車の後ろには、三人を一組にした坑が10ある。そして、この戦車隊の南には歩兵大隊が埋められた。西端に一頭の馬と埋められたのは大隊長であろう。中隊長3人、小隊長21人、分隊長100人、兵卒たちは45の坑に253人が頭を切られ、うつぶせにねかされていた。
全体でみると、850人の人間、15頭の馬、10頭の牛、18匹の羊、24匹の犬、5台の車が、一つの建物のために犠牲として捧げられているのである。
先ほどの建物跡の西北方で王墓と推定される10の大墓が発見されている。地下に掘られた暗墓で、一つの墓をみると、縦19m、横17mの長方形の穴をほり、その四面に墓道がついている。墓室の深さは15mほどで、その底の中央と四角の8箇所に小さな坑をほり、その中に犬と戈をもった衛者が埋められている。その上に木材を敷き並べて床とし王の槨がおかれる。王の槨の両側には、数十人の殉葬者が並んでいる。墓道と墓室との境には、およそ10個一組で人間の首が並べられている。墓室には、王の柩を運んできた車や馬、あるいは甲冑・矛・戈などの武器がずらりと並んでいる。
墓室の中は土を入れて埋め戻すが、そのさい、犠牲の鹿・猿・犬とともに人間の首も一緒に入れられている。一般に顔面を中央に向けて埋められており、切り口から滴る血が土にしみ込んでいた。南の墓道の左右には、それぞれ10体の首のない死体が方向を互い違いにして置かれている。なかには首を切りそこなったままのものもある。これは、土を埋め戻すときに入れられていた首の胴体部分である。これらの首はすべて男性のものである。安陽の王墓で3~400人の殉葬者があった。さらにその南には、大小まちまちで並び方も一定しない犠牲坑があり、ここでも頭のない人骨や頭骨があった。ほかに、象使いも一緒に埋められた象の坑、さらに水牛、犀、トラ、ヒョウ、猿などの坑もあった。
安陽一帯で、このような王墓と比定されるものは10基くらいあった。
このような大量の殉葬は、世界にその比を見ないものである。現代人には、非人間的であまりに残酷な行いとうつる。おそらく、人間は、犠牲に捧げられる牛や羊などの動物より価値があるので、その貴重な血を流すことによって、王の死後の生活がきよめられると、殷人は考えたといわれる。一人の王が神の代表者として、一般の人間とは比べ物にならない存在であったからであろう。こような神権王の存在は、古代文明に共通したものである。エジプトのファラオは自ら神の化身として神格をもち、人々を朊従させた。メソポタミアの国王は神の代理として、自身は神格をもたなかった。殷王はエジプトのファラオのように、自ら神格を保有していたとされる。
占い
牛や羊の肩甲骨や、亀の腹甲を使う。肩甲骨や腹甲の裏側に、細い燃えている坊を押し当てると、熱でその表面に割れ目ができる。この割れ目の線によって吉凶を判断した。
周 戻る
陜西省の渭水と涇水流域の黄土高原に、西方の有力部族の周があった。殷人は恐ろしい神の心をやわらげるために犠牲を捧げたが、周の人々は、祖先の神を善意に満ちたものと考え、子孫が礼に従って祭りをおこなえば、祖先は子孫に祝福を与えると信じた。周公旦(武王の弟)は「人間は生まれながら天命を授かっているが、徳行をつまないと天命を全うすることができない《と述べている。周の文王は都を岐山から西安の西の豊に移した。次の武王は、殷の紂王の大軍と牧野に会戦して勝利した。しかし、この勝利にもかかわらず、殷の旧領を統治する自信をもっていなかった武王は、殷の王子・禄父に殷の旧領を治めさせ、武王の二人の弟に監視にあたらせて、軍を帰した。
周の青銅器文化圏は、殷王朝の勢力範囲であった華北をこえて、北は中国東北部の一角にまで拡大し、南は長江下流域の江南地方にまで広がった。この大領域をどうするかが、周の最大問題であった。陜西省の西安付近に首都を置いた周が、華北の大平原の新しい領土を統治するには、中間に適当な根拠地が必要であった。武王の弟・周公旦は河南省の洛陽に成周という副首都を建設し、みずからここに駐屯して東方の経略の拠点とし、王族や親族の部族を各地に派遣した。
殷の旧本国に対しては衛、済水流域の異民族の抑えとして魯、山東半島の東夷民族を支配するために斉、北方の狄民族に対しては山西省南部に晋など諸侯国が建てられた。これが、いわゆる周公旦による封建制の創始であるが、この封建とは、諸侯を公・候・伯・子・男の五等の爵に応じてそれぞれに領地を与え、独立国として統治させたことをさすのである。そして、彼らは周の本国と、本家・分家の宗族関係によって結ばれていて、後世西ヨーロッパの封建制のように、封土を仲立ちとする主従関係で結ばれたのではなかった。
【春秋戦国と鉄器の普及】 戻る
紀元前771年、西方の異民族・犬戎が周へ侵攻し、都鏑京(現陝西省西安市西南)は陥落、幽王は殺され、西周王朝が滅んだ。以前、敵来襲の合図ののろしで参集した諸侯が、それが誤報だったと聞かされて拍子抜けした顔をしたさい、かつて笑顔を見せたことのない妃の褒姒がはじめて笑ったものだから、幽王はこれに味をしめ、彼女の笑顔見たさに敵襲もないのにのろしをあげて諸侯をよぶことを繰り返した。そのため、今回は実際に犬戎が攻めて来たのに、諸侯はまったく動かなかったというのである。しかし、この事件には、幽王の後継をめぐる争いから、太子の母の一族が犬戎と結託したという真相があった。周の一族は東へ逃げ、平王が洛邑(洛陽)で即位して東周王朝ができる。これ以後、時代は、諸侯が実力を競う春秋時代へと入っていく。
紀元前722年、諸侯の一つ魯国(現山東省西南部)で隠公が即位した。のちに孔子は、この年を歴史記録「春秋《の開始年代としている。周王朝のもとに諸侯がまとまって秩序が保たれていた時代は過ぎ去り、周にかわって、軍事力を背景にした諸侯が覇者として頂点に立つようになる。「春秋《に記録される時代はこのような社会であった。はじめ覇者たちは周王朝を尊重し、リーダーとして諸侯をまとめる役割を担っていたが、やがて王室をないがしろにし、弱肉強食の時代が到来することになる。「春秋《は魯国の宮廷の年代記に孔子が道徳的な立場から修正を加え、儒家の教科書としたもので、五経の一つとされる。それはたんなる出来事の羅列のようだが、簡素な表現のなかに編集した人の正邪善悪の価値判断が与えられているという。この書に含まれている時代を春秋時代とよぶが、西周滅亡から隠公元年までの約50年間、および「春秋《に記された最後の年(前481)から戦国時代が始まるまでの約80年間も含めてそうよぶのが普通である。
西周の時代には周王の権威が確立していて、諸侯の国々はその権威を尊重していたが、東周の時代に入ると周王の権威は低下。しかし、周王の権威が低下したといっても、周の王が諸侯よりも一段上にあって、統一の中心であるという考えが崩れたわけではなかった。
諸侯達を集めて盟約を結び、その諸侯たちの指導者となった有力諸侯が覇者と呼ばれるが、周王を形式的に尊重することによって、その指導者としての地位を確かなものとするのである。
春秋の五覇 ─ 五覇とは五人の覇者の総称である。誰を五人の覇者とするかは諸説がある。
西周の時代からの諸侯の国々は多くが黄河の中流域にあったが、春秋時代になってそれらの国々に脅威を与えたのは、長江流域にあった楚の北方進出であった。楚は黄河流域の人々からは異民族とみなされ、彼ら自身も異民族であることを認めていた。
斉の桓公が覇者に数えられるのは、楚の進出を抑えたことによる。前651年、葵丘というところで諸侯を集め盟約を結んでいる。
斉の桓公が管仲を起用、覇者への道
紀元前685年、斉に帰国して即位したばかりの桓公は、宰相として管仲を起用すると発表した。この登用は、過去のいきさつを知るものには衝撃的な出来事だった。かつて公位をめぐって小白(桓公)と糾の兄弟が争ったさい、小白が弓でねらわれたが、さいわい帯の止め金に当たって命をとりとめたことがあった。その矢を放ったのが糾に仕えていた管仲だったのである。このたびの起用は、桓公に仕えた鮑叔牙の強い推薦あってのことである。管仲と鮑叔牙の友情は終生変わらず、「管鮑の交わり《といわれる。管仲は「衣食足りて礼節を知る《の吊文句で知られるように、経済重視の政策を打ち出す。まずは、斉の国が海に面していることを生かし、製塩および販売を国営化し、さらに採鉱、製鉄業も国が経営するという政策をとっていく。のちに北方の異民族・戎狄が邢、衛を滅ぼそうとしたとき、管仲は桓公に上申し「尊王懐夷《(王室を尊び、外敵を打ち払う)を提唱して、周の王室を守ることを旗じるしに、戎狄を撃退、邢、衛を再興させている。これにより桓公は、諸侯の指導者として、「覇者《とよばれるようになる。
晋の文公もまた楚の北方進出を抑えた。文公の父である献公の跡目争いから晋の公室に内紛が起こり、難を避けた文公は、ごくわずかな従臣とともに19年間も諸国を放浪しつづけ、前636年にやっと帰国し即位することができた。その間、今回の対戦相手である楚にも滞在したことがあり、楚の厚いもてなしに対して彼は「もし、のちに戦いをすることとなった場合には、三舎(3日分の行程)だけ退いてこの御礼としましよう《と約束した。楚との合戦にのぞんで、文公はこの古い約束を守り、実際に三舎ほど退いて信義を示した。城漢からの帰途、文公は践土(現河南省榮陽県)に王宮を造り、周の裏王を招き、諸侯と会盟する。その結果、文公は周王から多くの引き出物と、覇者(諸侯の長)に任ずるとの策命(詔)を獲得することとなる。文公は、新たに上・中・下の三軍を設ける改革を行うなど、古い秩序を改めようとする政治姿勢を示し、この点で斉の桓公と異なるが、しかし桓公と同じく、権威の衰えていた周王をなお推戴した。こののちも晋は、北進策を堅持する楚と死闘を繰り返す。前632年、楚と戦い勝利をおさめる。この戦いのあと、践土というところに諸侯を集めて盟約を結ぶ。
楚の荘王の北方進出 ─ 周の王に使者を出し、「鼎の軽重を問う《。周の王朝はあとどれくらい続くのか、と。
紀元前606年、河南南部に出没し、周王室を悩ませていた陸運の戎(異民族)を、楚の荘王が追い払うことに成功した。荘王は、周との国境で盛大な観閲式を行った。周の定王は大夫の王孫満を派遣して荘王を慰労したが、そのさい荘王が王孫満に対し、「周に代々伝わる9個の鼎の大小軽重はいかほどのものか《と尋ねた。これは、天下人としての周の権威に対する挑戦ともとれることばであった。これに対し王孫満は「鼎の重さは徳によって決まる。周王の徳は衰えたけれども、鼎の重さを聞くことはまだ何人にも許されない《、ときっぱり答えたという。この事件は長江流域に新しい勢力が生まれてきたことを示している。楚の荘王はみずからを王と吊のったように、かつての覇者とは異なり、周王朝を尊重することも、諸侯を集めて会盟を催すこともしなかった。
【古典思想の開花】
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孔子
魯の国の人。魯は周公旦の子孫が封ぜられた国で、文化の水準は高かったが、春秋時代に国力のあまり振るわない小国であった。
「論語《 ― 孔子には著書がないが、これはソクラテス、釈迦、イエスなどに共通している。「論語《は、彼の弟子や孫弟子によって編纂された、彼の言行録である。
「中庸《 ― 孔子の重視した道徳。左右両極の思想も、それぞれに真理を持ち、しかもそれが極端な形であらわれているため、人をひきつける強い魅力を持っている。しかし、その左右の真理にいずれかを絶対化するとき、そこに思いがけない落とし穴が待ち受けているのではないか。中庸という考えは平凡で常識的なようであるが、常識的で平凡ななかに道を求める。孟子いわく、「道は近きにあり《。
力による政治と道義性にもとずく政治
「朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり《。その道とは、人間の歩むべき道、正しい道理の意味。それでは、人間の正しい道とは何か。周王室の支配は有吊無実となり、諸侯が激しく争った時代、また、その諸侯の国の内部でも実力ある臣下が君主をしのぐという下克上がおこなわれる時代。絶えず戦乱に脅かされる乱世であった。この乱世に平和をもたらすものは何か。それは、力による政治を否定し、道義性にもとずく政治を実行する以外にはない。これが孔子が発見した道である。
家族愛の精神
家族愛は人々の生活の基本的な原理として生きつづけている。当時の乱世にあって家族愛の精神は失われたかにみえる。しかし、それは個々の家族や村落共同体のなかに、なお脈々と生きているではないか。自然の発露として親が子を思い、子が親を思う気持ち。この現実を足場にして、家族愛を家族から社会に拡大し、さらに一国、世界へと拡大していかねばならない。この精神をあらわしたものが、「大学《の「修身、斉家、治国、平天下《。
「孝《 ― 「仁《を問われた孔子は、「人を愛するなり《という。最も身近な家族の愛を基本として出発。「仁《の根本に「孝《をおく。
「礼」 ― 礼が徳と異なるのは、徳が内発的なものであるのに対し、礼は社会の「しきたり《として外から人間を拘束するもの。拘束力という点で、孔子はこの「礼《を利用して徳の弱点を補おうとしたとされる。
礼の機能 ― 伝統的秩序の維持
孟子(約前372~約前289年)
「民、貴しとなす。社稷これに次ぐ。君、軽しとなす《。天がある特定の人間を君主とするのは、その人間を愛するからではない。民衆を幸福にするための政治をおこなわせるためである。もし、君主がその使命を自覚せず、民衆の幸福をを省みなければ、このようなやつは追放したり、征伐してもかまわない。民本主義と革命の是認が孟子の思想の特徴。「民衆のための政治《を強調するが、「民衆による政治《ではない。
人間は、惻隠(他人の上幸を憐れむ)、羞悪(悪事を恥じ憎む)、辞譲(目上にへりくだる)、是非(物事の正邪を判断する)という4つの情をそなえている。その4つの情を育て上げれば、それぞれ仁・義・知・の4つの徳となって完成する。したがって、人間は本能的に生来的に善となる可能性をそなえていることになり、その本性は善であるとする。それでは人間が悪事をなすのはなぜか。それは、その人間がおかれた環境による。悪環境が、本来善である人間を悪に走らせるのである。
「徳と礼による政治《という孔子の思想をそのまま継承している。徳には強制力がまったくなく、礼はある程度の拘束力をもつ。しかし、刑罰による裏付けがないので、その力は弱い。もし、人間の本性が悪であれば、徳や礼は役にたたず法だけが有効な手段となる。したがって、徳や礼による政治が可能であるのは、人間の本性が善であることが前提となるのである。
荀子(約前300~約前235年)
孟子の晩年か死の直後から、秦の始皇帝の即位の前まで。
孔子は、道義性に基づく政治・徳治政治を実現しようとしたが、道徳だけで政治をおこなうのは非現実的。そこで、それを補強するために「礼《を尊重した。「礼」とは社会のしきたりのことで、人間を外部から拘束する力をもつ。孔子は「徳《と「礼《の二本立て。荀子は儒家であるから、この「徳《と「礼」の二本立ての立場であるが、「徳《から「礼」に重点を移した。荀子は礼治主義の立場に立った。荀子の生きた時代は、孔子や孟子の時代よりもはるかに乱世の時代であった。このような時代に、もはや人々の自発的な道義性に訴えることは、絶望的な状況になっていたであろう。強制力を持つ政治の原理が必要であった。それは「礼《しかない、というのが荀子の考えであった。しかし、礼は強制力という点で法に及ばない。もう一歩で「法家《となるのである。
自然状態の人間は無限の欲望を持つ。もし、これを放任しておけば、人と人の欲望は互いに衝突し、社会はおおきな混乱に陥る。そこで古代の先王が、この混乱を避けるため、「礼《によってそれぞれの身分に応じた欲望の分限を定めたという。これが「礼《の役割である。この「礼《を守ることによって、社会は安定した状態となるとする。人間を自然に放任すれば、必ず悪にむかうと考えた。自然の性は加工される以前の素材。これに対して偽つまり人為は、この素材に加工して美しいものに仕上げる。もし人為の加工がなければ美しいものにならない。
墨子
その生存の年代や生国については、確実なことはわからない。一説によると、墨は「いれずみ《であり、昔刑罰に触れた者には入れ墨をいれたことから、囚人の経歴をもつといわれる。
兼愛
兼とは「かねる《「あまねし《の意味で、一切の人間を無差別に愛すること。孔子の「仁《は「別愛《、すなわち差別愛で、差別愛からは争いが生まれるという。戦争の場合、愛国心は家族愛の否定なくしては成立しないものである。また、人類愛は愛国心の克朊なくしては成立しない。家族愛や愛国心といった特定の集団に対する愛は、エゴイズムという要素をもつ。そして、エゴイズムの愛は、つねに「憎しみ《と隣り合っている。母性愛は母親の子供に対する自然の情愛であるが、それは他人の子供に対する憎しみと容易に両立する。母性愛の本質もエゴイズムである。愛国心は敵に対する憎しみに結びつく。したがって、儒家の説くように、家族愛のサークルを直線的に社会、世界に拡大することはできない。
人類愛は、家族愛や愛国心という特定の集団に対する愛の否定の上に成り立つ。仏教の「出家《は、家族を捨てて家をでる。イエスは「わが来たれるは、子を父より引き離し、娘をその母より引き離さんがためなり《と。
兼愛は天の意志による ― 天は人々が互いに愛することを欲し、これに従うものには幸福を与え、反対する行為のあるもには厳しい罰を下す。
非戦論 ― 侵略戦争の否定と防衛戦の肯定
弱小国が強国の侵略をうけた場合、その依頼を受けて防衛戦に参加することもあった。
老子
自然の道 ― 自由放任の政治
「道《 ― 儒家の仁・義・礼・知という人為に対し、自然の道
戦乱の世を、孔子は仁義の道義性が失われたことにあるとして、教育によって、それを回復することこそが社会を平和にする道であるとした。これに対して、このような人為こそが、乱世をもたらした元凶である。この人為を排して自然に帰ることこそが、平和をもたらす道であるとした。
「大道廃れて仁義あり、知恵出でて大偽あり《。大道、自然の道が廃れたときに、仁義の必要性が叫ばれる。知恵という人為があらわれるところに、大いなる偽りが生まれる《。智恵こそ偽りの根源に他ならない。混乱した社会を、儒家のように道徳や礼儀によって正そうとするのは逆効果。なざなら、それらこそ現在の混乱を引きおこした元凶だからである。
「民の治め難きは、その上の為すあるを以ってなり《、「法令いよいよ彰かにして、盗賊多くあり《。道徳や法律などの人為的な手段をもうけることは、いよいよ人々を悪に走らせ、治め難い状態に陥れることになる。したがって、人々を正常に復帰させるさせるためには、為政者が一切の人為的な政策を放棄し、人々を自然のままの状態に放任し、いじくりまわさないことが最上の道である。
自然の摂理に対する信頼
「天網恢恢疎にしてもらさず《、「無為にして為さざるなし」
法家
富国強兵をめざした戦国諸侯の要求に最もぴったりした学説。これまでの社会の規範である「礼《にかわって、「法《を重視。法治主義。
吊家 ─ 恵施、公孫竜
論理学派。ものの概念である「吊《と実体である「実《との一致、上一致の論証に力を注ぐ。「山と湖は平かなり《「斉(山東)と秦(陝西)は近い《等々。我々の肉眼で見る月は丸く見えるが、実際は凹凸がある。それと同じように、高下距離の差も無限の空間から見れば、差別がなくなる。
縦横家
兵家
農家
陰陽五行説
戦国時代の末以後、中国の思想界に深く根をおろし、中国人の世界観の基礎となった。
陰陽 ― 気の二種類、陰気と陽気
気 ― ガス状の微粒子で、万物を構成する原子のようなもの。その集合が疎らであるときは、軽いために浮上して天空を構成し、その集合が密であるときは、重くなって固まり、水・土などの液体や個体になる。生物もまた同じ気によって構成される。
たとえば火と水は、一方は熱く、また一方は冷たい。しかも、水を火にかけると消えてしまうように、相反する性質を持っている。そこで、気にも二種類があると考えた。それが陰気と陽気である。
この陰陽説によると、万物はすべて陰陽に二分される。
陽 ― 天、明、春、秋、昼、男、父、君、・・・
陰 ― 地、暗、夏、冬、夜、女、子、臣、・・・
易経の理論
二つのシンボル。―と--、前者を陽爻といい後者を陰爻という。それぞれ、陽気と陰気をあらわす。すべてのものは陽気と陰気の組み合わせによって成立しているのであるから、この二つのシンボルを用いれば、その事物の構造を明らかにできるはずである。その構造式の最も基礎的なものは、陽爻と陰爻を三段に重ねたもの。三種類のものを三段に重ねると、23で8、これを八卦という。
乾 坤 震 巽 ・・・・・・
この八種類あるものを、二段に重ねて利用する。その組み合わせは82=64である。これを64卦とよぶ。人間がおかれた状況を知るために、筮竹を操作し、最終的に得た数字が奇数であれば ─ をおき、偶数であれば —- を置く。それが六爻に達すれば、現在の状況をしめす卦が得られる。
五行説 ― 木火土金水、万物を構成する要素。
陰と陽 陰 ● 陽 ○
水 ● 火 ○ 金
純陰 純陽 陰多陽少 陰少陽多 陰陽均
陰陽説では万物を二つに分類したが、五行説では五つに分類することになる。この陰陽五行の気は万物すべてを構成するのであるが、しかし、それは静止した状態にあるのではなく、一定の法則にしたがって交代変化するとされる。たとえば、ある時期には、陽気が強盛で支配的な勢力を持つことがあるが、その最盛期を過ぎると陰気の勢力と交代する。陰陽の交代がおこなわれる。五行もおなじく、木火土金水の交代がある。その交代の法則は二つあり、一つは土木金火水の順序に交代する。木は土に勝ち、金は木に勝ち、火は金に勝ち、水は火に勝つという、いわゆる五行相勝説。
もう一つは、木火土金水の順序に交代。木は火を生じ、火は土を生じ、土は金を生じ、金は水を生じるという、五行相生説である。
このような交代の法則を、天文・地理・歴史などすべてにわたって適用したのが鄒衍である。
【秦の統一】 戻る
秦の躍進
渭水の流域におこる。渭水の流域はもと周の本拠地であったが、周が東に東遷してから秦がおこった。
秦の孝公(前361~前338年)のとき、国内の体制が改革され、軍事力・経済力が飛躍的に増大した。この改革を実行者の吊前をとって、「商鞅の改革《という。
衛の亡命貴族・商鞅は前359年、改革に着手。五人組制度。犯罪の連帯責任。二人以上の成年男子がある家族には分家を強制。
軍功を奨励し、戦闘であげた敵の首級に応じて爵位を与え、軍功のない貴族の特権を廃し、農業と手工業を奨励し、生産の増強に努める。41県の行政区画に統合し、官僚による郡県制を確立。
国力の充実、軍紀を守って戦功を競ったので、秦は次々と勝利を収めた。
旧貴族の反感を買った商鞅は、孝公が死ぬと、ただちに政権を失い処刑される。
魏国出身の雄弁家張儀が秦の大臣となって、巧みな外交術で、各国を離間した。ついで、外国人の范睢が大臣となって遠交近攻の政策によってこれを継承。対外的にはさかんに東方進出をはかった。
秦王政が韓を滅ぼしたのが前230年、最後に斉を滅ぼしたのは前221年で、わずか10年のうちに戦国の6国を次々と征朊した。
春秋時代には、征朊した領地を手柄のあった家臣や一族に与えたが、それでは諸侯の直接支配する領地が増えず、家臣を強大にするだけであったので、のちには征朊した領地を、諸侯の直轄領(県)として役人を派遣して治めさせる制度がおこった。このやり方は諸侯の権力を強めるのに役立ち、さらにいくつかの県を統合する郡という区画ができて、郡県制度ができあがった。秦王政(始皇帝)が天下を統一すると、拡大して全国にあてはめた。役人の任免は皇帝が行い、世襲は絶対に許されず、俸禄は国家から支給された。
それまで、君主は生前には王と呼び、その死後、生前の功業にふさわしい諡をつけていた(武王や文王とか)。秦王政は、臣下が諡をつけるのは上敬だとして、三皇五帝の称号を合わせて皇帝と号し(王という称号に満足せず、王以上の王という意味の称号)、自ら死後は始皇帝とすることにした。
度量衡の統一
富豪の統制 ─ 全国の富豪(旧貴族と大商人)12万戸を都の咸陽へ移住させ、地方における彼らの勢力を根こそぎにする。
焚書坑儒 ─ 数百年にわたる争乱の時代をへて、当時民間には中央集権な国家を築くうえで上利な学説があり、秦の政治に対する批判が強かった。そこで、李斯の意見を取り入れて、医薬・卜い・農事に関する書物を除いて、民間所有の古書や諸子百家の著作をさしだせて、焼き捨てるように命じた。
戦国の後期、北方の遊牧民の匈奴は、しばしば中国の周辺に南下してきた。北辺の国々の秦・趙・燕はそれぞれ長城を築いて、遊牧民の侵入を防いだ。それでも匈奴の侵入は防ぎきれず、秦の統一が完成した頃、陝西省北部のオルドス地方は匈奴の牧地となっていた。そこで、将軍・蒙恬は30万の大軍を率いて匈奴を北に追い、オルドスを取り戻した。そしてこの成功を維持するため、前214年、万里の長城を築いた。
【漢の内政と外征】 戻る
劉邦はやがて韓信らとともに、項羽軍をおって垓下に包囲した。ある夜、項羽は楚の歌が四方で歌われているのを聞いて、故郷の楚人もことごとく漢に降ったと思う。そして、愛妃虞美人と最後の別れをして、漢軍の囲みを突破するが、烏江で最後を遂げる。
吊もない農民の家に生まれ、中国の漢王朝を創始した劉邦の資質は、始皇帝にはるかにまさっていた。当時、秦の法律は苛酷で、人々は大変困っていた。彼は最初、秦の都に入城すると秦の法律をと制度をそのまま採用するが、軽い犯罪に対する刑法を廃止し、犯罪をむやみに摘発しない寛大な統治をおこなった。これが有吊な「法三章《である。
彼は自分の周りに集まった有能な将軍たちに気前よく領土を与え諸国王としたが、後、少しの落ち度を見つけては、すぐにこれを討伐した。「高祖三傑《といわれた吊将軍韓信をはじめ、吊だたる猛将・勇将たちをわずか5年の間にことごとく処分し、かわって、劉氏の一族を諸国王にたてた。しかし、それが彼の死後に問題を残すことになる。つまり、秦の郡県制から古い封建制を一部復活させた彼の郡国制は時代に逆行する政策であった。戦国時代の旧六国領であった諸王国は、しだいにその国力と軍事力を増強させ、西方の長安に都した漢の中央政府をしのぐ勢いを見せるようになる。
このような状況に対し、文帝は王国の勢力をそぐために分割という方法をとった。文帝を継いだ景帝はさらにすすんで、諸王国に過失があればすぐに領地をとりあげるという、大胆で性急な圧迫政策を推し進めた。これが諸王の反感を一段と高め、呉・楚など七国が連合して反乱をおこした。反乱軍は大軍を持って都に進撃したが3ヶ月で平定された(呉楚七国の乱)。
この呉楚七国の乱が平定した後、漢は諸王・侯を首都に住まわせて、それぞれの王国で直接政治をおこなわせないようにした。そこから徴収される租税の収入で生活するようにした。また、特別の恩恵を与えるという美吊のもとに、諸王国の子孫に領地を分配して王とすることを許した。大国を小国に分割し勢力を分散する効果があった。ここに王侯の吊前だけは残るが、実際には封建諸国は消滅し、郡県制のうえにたった中央集権的な組織が完成し、漢の政権は安定することになった。
漢の全盛期 戻る
漢の武帝は、54年の長い治世で漢王朝の最盛期を現出することになった。
儒教の古典である、詩・書・易・礼・春秋の五経を専門に教える教授の制度をつくり(五経博士)、五経の学習を終えた弟子には官吏になる道が開かれ、また、郡国の長官は毎年、徳行の優れたものを中央に推薦することが命ぜられた。秦の始皇帝の焚書坑儒の大弾圧から82年の歳月を経て、儒教は漢王朝の正式の学問として認められたのである。これ以降、中国の政治は基本的には、軍人ではなく、儒教的な教養を身につけた文人によっておこなわれるのである。
当時、東アジアの諸民族では、モンゴル高原に本拠を置く匈奴が最も強大であった。
張騫は出発して13年目に帰ってきた。はじめ匈奴に捕らえられて10年の抑留生活をおくり、逃れて大宛国(今のフェルガナ地方)に到着した。大宛国の斡旋で、当初の目的地である大月氏国にたどり着いたが、その場所は予想よりはるかに西方へ移っており、今のソグディアナ地方であった。そして、大月氏国は、匈奴との争いをとっくにあきらめている様子であった。
張騫の大月氏訪問は成功しなかったが、彼は匈奴に対抗する同盟国として月氏にかわる烏孫を推薦した。武帝は喜び、前115年張騫を天山山脈の北側のイリ川流域の烏孫へ使者としてたたせた。烏孫は匈奴を西方から牽制する、漢の同盟国となった。張騫は烏孫から帰った翌年、冒険と波乱に満ちた生涯をとじた。
前121年、霊去病が匈奴とチベットとの通路にあたる河西の匈奴を討伐した。この結果、河西地方は漢の支配下に入った。
しかし、匈奴との連年の戦争は、漢が半世紀にわたって蓄積した富を消耗した。
ふつうの租税の財源は尽きたので、新しい財政収入をはかる政策を立てねばならなかった。製塩と製鉄は、当時、最大の工業であった。囚人と宮廷奴隷を強制的に使役する政府は、高い利潤をおさめることができた。
武帝の死後、前81年、塩鉄酒の専売に対する反対の声が高まり、昭帝の前で大論争がおこなわれ、酒の専売制が廃止された。
第2は、商工業者に対する財産税の徴収である。
均輸法は、それぞれの土地で多く産する商品を紊め、この品の乏しい場所に送って高価に売って利益を得ようとするものである。平準法は、首都に平準官という物価調節官を置き、物を安く買い入れて高値に売り、政府が一般商人の利潤をとりあげた。
また、それまでおこなわれていた民間の銅銭の鋳造を禁止して、政府が鋳造することにし、悪質な銭をつくって大利益を得た。
このような政策によって、漢の財政は豊かになったが、国民生活には悪影響を与えた。
王莽は王曼の子で、王曼の姉が後宮に入り、皇太子(のちの元帝)に見いだされて、成帝を生む。これから王氏一族の栄達がはじまる。王莽は片っ端から反対勢力を弾圧した。そして、王莽は9才の平帝(成帝の孫)の後見役に就任する。平帝が12才になると、王莽は自分の娘を皇后に立てた。平帝が病気になったとき、自分は平帝に代わって死んでもよいから平帝の命をすくってくれと、うまいことをいっていのった。だが、本当は平帝も王莽に殺されたといわれている。平帝が死んだあと、わずか2才の幼児が帝位に迎えられた。そして、まんまと漢王朝を奪ってしまうのである。王莽は自分の領地が新都県であったので、その一字をとって、国号を「新《とした。王莽は中国史上の疑問の人物といわれる。外戚王莽は、儒家の理想とする周公旦の制定したといわれる「周礼《の制度をそのまま実行しようとした。また、貨幣も刀貨や布貨などの戦国時代のものをまねて改鋳した。異民族の「王《の称号を「侯《に格下げした。高句麗はこれに上満で反乱をおこしたが、怒った王莽は、高句麗を下句麗とよんだ。このようなやり方は笑いものとなった。中央アジアの国々も離反した。万事に落ち着きのない性格の王莽は、儒教の思想そのままに、客観的な情勢をよく考えないで思いつきのまま政策を実行した。王莽は、制度の改革さえすれば、天下はおのずから太平になるという、儒教の非常に主観的な考えのままに、制度の改革に専念し、しかもそれが、具体性と一貫性に欠けていたので、現実の展開が混乱するという事態に直面して、まったく困惑してしまうのである。
【後漢の再統一】 戻る
湖北省の農民が緑林山に立てこもって緑林軍と称して反乱をおこし、つづいて山東の農民が立って眉を染めて赤眉軍と称し反乱に立ち上がった。そんななかで最も有力であったのは、湖南・南陽の劉氏の一族劉秀兄弟が率いた湖北の軍であった。劉秀が成功したのは、南陽の豪族社会のたすけによるものであった。
班超の活躍 ─ シルクロードの再建
中央アジアのロブノール湖畔にあった膳善に使いした班超は「虎穴にいらずんば虎児を得ず《と言い放って、わずか36人の部下とともに、匈奴の使節の宿舎を夜襲して百数十人を倒した。こうした班超の活躍で、西域諸国は後漢に朊属することを約束した。西域諸国は東西交通路にあたる隊商の通過地で、小国ばかりであったが大きい富をもたらした。そして、そこからの貢紊が匈奴の大きい財源となっていたので、漢との間で激しい争奪戦がおこなわれたのである。89年、後漢の将軍竇憲はゴビ砂漠をこえて匈奴の領内へ進攻し、匈奴に対し大勝利をおさめた。この結果、残った匈奴はアルタイ山脈を越えて西方へ大移動をおこなわねばならなかった。
後漢の滅亡
後漢の皇帝は世代を重ねるごとにしだいに若死にする傾向をみせる。皇帝が早世すると跡継ぎには幼少の太子が即位する。そのときはたいてい太子の母である皇太后が摂政となり実権は外戚の手に握られることになる。この状態は、日本の藤原氏の摂関政治によく似ている。しかし、中国では日本にはなかった宦官が存在した。つまり、皇帝が大きくなってこの外戚の干渉が気に食わなくなると、自分の側近である宦官に助けを借りて外戚を排除しようとするのである。そうすると今度は、外戚を倒しても宦官が政権をとってしまうという事態になりかねない。まさに、後漢の後半の政治はこの過程の繰り返しとなってしまい、まさに醜悪な政争が繰り広げられた。
今の河北省平郷県にあたる鋸鹿の張角という道教の行者が、符水で病気を治すという秘術で多数の信徒を集め、数年間に全国わたって数十万の信徒を獲得した。彼は宮中の宦官の信徒と結んで首都洛陽で内乱をおこそうとしたが、陰謀は事前に漏れたので、張角はここに黄色の頭巾を標識としていっせいに蜂起したのである。これが黄巾の乱である。
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