北方遊牧民族の活動

 

              1 北方遊牧民族の活動
 
 遊牧世界と農耕世界  遊牧騎馬民族  スキタイとオリエント  匈奴
 匈奴帝国の成立  月氏(大月氏)  オアシス・ルート  匈奴と漢の抗争
 
 
 遊牧世界と農耕世界   戻る
 ユーラシア大陸の中央部には、東はモンゴル高原から西はウラル山脈地域、カスピ海北方のヴォルガ川流域、北部コーカサス平原をへて、黒海の北、南ロシア草原に達する大乾燥地帯が横たわる。この、中央ユーラシアの南辺は、万里長城地帯、タリム盆地の南に連なるパミール高原、そしてコーカサス山脈で限られているが、なかでも、長城地帯─天山山脈─アラル海─カスピ海─黒海の線から北はとくに乾燥して草原と砂漠とでおおわれ、そこでの主な生産活動は遊牧であった。遊牧というのは、羊・山羊・馬・酪駝なの群を放牧しつつ、住居・家財とともに移動する。  
 アジア史は「南北両民族の対立・抗争の歴史」であるといわれた。「南北両民族」とは農耕・遊牧両民族を指す。旧約聖書の、アダムとイヴとから生まれた兄弟カインとアベルの争いは、「カインに象徴される農民と、アベルに象徴される遊牧民との対立をあらわす」といわれる。  
 しかし、遊牧民と農耕民とはつねに敵対関係にあったのではない。遊牧民も穀物を必要とする。農耕民にしてみても、畜産品は遊牧民から得る方が有利であった。このような、相互依存が、遊牧民と農耕民とのあいだの関係であった。しかし、平和な交易はいつでもスムーズに行なわれるわけではない。遊牧民の欲しい物資が農耕民側に不足したり、また、それに見あう交換物が遊牧民になかったりする。このようなとき、遊牧民は武力によってとろうとする。この遊牧民の農耕地域への侵入・掠奪は、武力的交易であった。
   
 遊牧騎馬民族   戻る  
 馬を自在に乗りこなし、機動力に富む騎馬戦闘を展開するには、少なくとも馬街が必要である。馬街の発明は、前1000年紀の初めごろ、北部オリエントの遊牧民によってではなかったかといわれる。この地方から青銅製馬街を採用し、遊牧騎馬民族としてはじめて歴史の舞台に登場したのがキンメリア人であったとされる。
   
 スキタイとオリエント   戻る  
 北方の草原からオリエントへ侵入した最初の遊攻騎馬民族はキンメリア人であった。彼らは、前8世紀にウラルトゥ王国を攻撃した。ついで、小アジアに向って、黒海沿岸の豊かな地方を掠奪した。こうして、キンメリア人は小アジア東部のフリギア王国を滅ぼし、西部のリュディア王国に攻め入った。しかし、キンメリア人はそののち、アッシリア王アッシュールバニパルの軍隊に敗れ、その敗残部隊は、しだいにスキタイ人に吸収されていった。  
 スキタイ人がアッシリアの前に姿をあらわしたのは、これに先立つエサルハッドンの治世(前681〜669年)初期のことで、彼らはキンメリア人を南方へ駆逐し、スキタイ王パルタトゥアがアッシリアの王女を要求して与えら、スキタイとアッシリアとの同盟が成立した。スキタイ王マデユエスの軍隊はメディア軍を破って(前653年)メディアに侵入し、さらにかつての同盟国アッシリアを荒廃に陥れ、また、小アジア、北シリア、フェニキア、ダマスクス、パレスティナを掠奪した。ヘロドトスは、「スキタイ人のアジア(メディア)支配は28年にわたって続いたが、アジア全土は彼らの乱暴でなげやりな統治のため、荒廃に帰してしまった。住民の一人ひとりに課税してとり立て、貢税のほかに各地をまわって、個人の資財を掠奪した」といい、メディア人が計略を用いて、「彼らの大部分を倒し、以前の領地を回復した」としるしている。
   
 中央ユーラシア東方諸地域におけるスキタイ系文化の成立に重要な役割を果たしたものが「ステッブールート」である。遊牧民は移動生活のために接触する機会が多いから、スキタイ文化の東伝の理由として、こうした接触もあった。スキタイ系文化をとくに有名にしたのは動物意匠で、さまざまの貴金属容器・鏡・櫛・装身具などを飾りたてている。この動物意匠がスキタイ人にとくに好まれて彼らのあいだで発展し、スキタイ文化の流伝にともなって東西にひろまった。
 
 匈奴   戻る  
 中国の戦国時代(前403〜221年)に、陰山山脈の北方、南モンゴル高原を中心に、万里長城地帯にかけて匈奴が遊牧し、中国の西北・北辺の、秦・趙・燕と対立・抗争していた。趙の武霊王(在位前325〜299年)は、風俗を変え、胡服して、騎射を習わしむと伝えられる。「胡服」とは、騎馬に適した衣服を意味し、「騎射」とは、馬上からの弓射を示す。武霊王が、中国古来の戦車戦術を変えて騎兵・弓射戦術をとりいれたのは、匈奴との戦闘を有利にするためであった。匈奴は、金属性馬衛を用いて馬を自由に乗りこなし、馬上からの弓射戦術を採用していたのである。  
 匈奴が遊牧騎馬民族として史上にあらわれるのは、前5世紀ごろからのこと。世界史上はじめて騎射戦術を展開したのは、キンメリア人、とくにスキタイ人で、匈奴が前5世紀に遊牧騎馬民族としてモンゴル高原で勢力を振うようになったのは、騎射戦術を、スキタイ人からその中間の遊牧民を通じて学びとったからである。キンメリア人にはじまり、スキタイ人によって発展させられた騎射戦術は、スキタイ系文化とともに、中央ユーラシア草原の遊牧民をへて東方のモンゴル高原に伝わり、その伝播に、「ステップールート」が重要な役割を果たした。こうして、モンゴル高原にも、遊牧騎馬民族国家・匈奴が成立する。
 
 匈奴帝国の成立   戻る
 秦の始皇帝は中国を統一すると(前221年)、蒙恬に命じて(前215年)、オルドスに拠っていた匈奴の勢力を駆逐し、戦国時代の長城を修復し、西は甘粛省の臨桃から東は遼東にいたる、万里の長城を完成した。当時の匈奴の君主は頭曼単于であった。単于とは、匈奴いらい、五世紀の初頭に柔然の君主が可汗と称するまで、北アジアの遊牧国家の君主の称号である。  
 頭曼には冒頓という太子がいた。ところが、頭曼の愛妾に子供が生まれると、単于はこれを太子に立てようとし、冒頓を人質として月氏のもとへ送ったうえ月氏に奇襲をかけた。これは、月氏が人質の冒頓を殺害するのを期待しての行動だった。月氏は冒頓を殺そうとしたが、彼は月氏から逃げ帰り、父を謀殺し、父に代わって単于となった。冒頓は、即位すると、西方の月氏を討って、その本拠を河西へ移動させ、さらにオルドスの、かつて蒙恬に奪われた失地を回復した。こうして、北アジアは統一され、ここに、アジア史上最初の遊牧騎馬民族王国が成立した。  
 中国で漢帝国が成立すると(前202年)、冒頓の騎馬軍団は、山西省の北部から長城をのりこえて太原にせまった。漢の劉邦(高祖)はこれをむかえ討とうと歩兵軍団を率いて、平城(大同の東)にいたった。しかし、その近くの白登山で匈奴軍の包囲をうけ、かろうじて逃げ帰った。匈奴の力を思い知らされた劉邦は、とうていその敵ではないことを悟り、宗室の女を公主となのらせて単干の妃とし、兄弟の約を結んで和親した。  
 漢を屈服させた冒頓は、河西・黄河上流域へ退いていた月氏に第二の攻撃をかけて、その本拠を天山山脈の北方、イリ川地方へ移させた。これが大月氏である。こうして、匈奴は天山山脈の南北両側、タリム盆地とジュンガル盆地とを領有して西方へのルートを押えた。
 
 月氏(大月氏)   戻る
 月氏(大月氏)は、匈奴の攻撃によってアムダリアの北に移り、その南の大夏(バクトリア)を支配することになった。ギリシア人のバクトリア王国は北方から遊牧民の侵入で、すでに滅亡していた。大月氏は、ヒンドゥークシュ山脈方面に五人の総督を置き、ソグディアナ、パクトリア、パミール高原の一部を統治した。これらの総督はいずれもこの地方の原住民であったが、そのうちの一人が大月氏にかわってヒンドゥークシュ山脈以北の支配権を握り、やがて1世紀のなかごろ南方へ発展して、ガンダーラ地方を勢力下におさめ、さらにインダス川以東へも進出した。カニシカ王の出たクシャン(貴霜)王朝である。
 
 オアシス・ルート ─ タリム盆地   戻る
 タクラマカン砂漠の周囲にはオアシスがならび、また、西トルキスタン、アラル海に注ぐアムダリアとシルダリアの流域や、この両河のあいだ(ソグディアナ)に流れる尻無し川の岸辺に多くのオアシスがある。湧きでる泉、山脈から流れだす渓流の近くにオアシスができる。そこに人びとは用水路・貯水池を掘り、灌概溝を作った。
 オアシス間には砂漠がひろがり、集団による商業 ─ 隊商活動が生まれた。東西両文明地帯を結ぶ、「オアシスールート」(「絹の道」)はこうして成立。
 現在、タリム盆地の地域は中国の新疆ウイグル自治区で、その西には、キルギスタン、タジキスタン、ウズベキスタン、トルクメニスタンなどの共和国がある。これらの地域の住民は、タジキスタン(イラン系タジク族)以外はトルコ系である。この地域はトルキスタン(「トルコ人の土地」)と総称されるが、「トルコ化」しはじめたのは8・9世紀以後のことで、それまでは、インド=ヨーロッパ系人種、イラン系人種(イランのインド=ヨーロッパ系人種)で主であった。これは、19世紀の末から20世紀にかけて、ロシア、スウェーデン、イギリス、ドイツ、日本、フランスなどの探検隊の調査の結果である。  
 点在するオアシスをむすぶ「オアシスールート」の隊商活動の立役者は、このようなインド=ヨーロッパ系やイラン系人種であった。
 
 匈奴と漢の抗争   戻る  
 匈奴と漢とのあいだには、半世紀以上にわたり、だいたいにおいて平和がつづいた。西方への「オァシスールート」は匈奴の支配下にあった。武帝が即位すると(前141年)、当時、イリ川方面に移っていた大月氏と同盟して匈奴を挾撃し、西方貿易を確保するため、使者として張騫が派遣された。しかし、張騫は出かけたきりで、その動静はいっこうにつかめない。そこで、武帝は、衛青をはじめ四人の将軍を遣わし匈奴を攻撃させた(前129年)。そのころ、大月氏はすでにアムダリア流域に移住し、張騫が苦難を重ねたすえ彼らのもとへたどりついた。張騫が、大月氏のもとから帰還したのは、前126年のことであった。大月氏はヘレニズム文化の豊かな土地に安住し、いまさら、はるか東方の漢と連合して匈奴と戦う意志を失ってしまっていたので、張騫はその本来の目的をとげることはできなかったが、彼の報告によれば、西方の国々は漢との交易を待ち望んでいる、という。さらに、大夏で中国四川省の竹杖と布とを見て、その由来をたずねたところ、大夏の商人が身毒で買い入れたものだ、という話だった。そこで彼は、蜀(四川省)から西南への道をとれば、インド経由で西方へ行けるだろう、と献策した。武帝は、大夏への近道を求めて使節団を四川から出発させたが、これは失敗におわった。  
 前122年、霍去病が、河西の地を匈奴から奪取するのに成功。この地は、「オアシスールート」の東端にあたっていて、月氏が匈奴の攻撃によってイリ川方面に移ってから、匈奴がここを支配して西方との貿易による利益を得ていた。  
 武帝はここに、河西郡(のち張えき郡)、酒泉郡、敦煌郡を置き、さらに宣帝のときに武威郡がたてられた。河西回廊の直轄化により、タリム盆地とそこを通る「オアシスールート」とは、漢の都長安に直結した。そして、万里の長城は河西の北側から敦煌のあたりまで延長された。  
 西方からもたらされる数々の産物のなかで、武帝がとくに待望したのは大宛の「汗血馬」であった。これは一日に千里を走ると称されたトルクメン種の名馬である。これは、漢が匈奴の騎馬軍団と戦うためにも是非必要だった。  
 前104年から二度にわたる李広利の大宛遠征が始まる。第一次遠征(前104年)は敗戦におわったが、第2次遠征(前102年)では大宛の首都を水攻めにして陥れ、名馬数千頭をもち帰った。
  
 
 
【内陸アジアの風土と民族】
A 地域と生活 
 1 草原地帯    → 遊牧生活
 2 砂漠のオアシス地帯 → 農牧と隊商の生活
 
B 民族
 1 インド=ヨーロッパ系のオアシス隊商民 ― イラン系ソグド人など
 2 アルタイ系遊牧騎馬民族 ― トルコ人・モンゴル人など
 
 
【騎馬民族の活動】
A 騎馬民族の出現
 ※ 南ロシアの草原地帯からモンゴル高原
 1 (2       )人(前7〜前4世紀頃) ― 南ロシアの草原地帯
  スキタイ文化(騎馬文化)
  動物文様の青銅器の武具・馬具が特色
 2 騎馬民族の活動(前4世紀頃) ← スキタイ文化の受容
  @ 匈奴 ― 陰山山脈
  A 烏孫 ― 天山山脈
  B 月氏 ― 甘粛・タリム盆地東部
 
B 匈奴の隆盛
 1  戦国時代の中国北辺にあらわれる → 秦の始皇帝の攻撃で一時後退
 2 (3       )のもとで強盛(?〜前174)
 
   月氏を甘粛から西方へ追う、オルドスに進出して漢を圧迫
 
C 月氏    
  はじめ甘粛以西に居住、中継貿易で利益 → 匈奴の攻撃で、イリ地方へ移動
  → 烏孫の進出で、さらにアム川下流域、ついで上流域へ(大月氏)
 
 ※ 前2世紀頃の遊牧騎馬民族
  甘粛方面=匈奴、イリ地方=烏孫、アム川上流域=大月氏
 
D 匈奴と漢の争い
 1 前漢の時代
  @ 高祖(劉邦) ― 匈奴の(6       )(匈奴の最盛期の君主) に敗北 
  A (7     )の反撃(前2世紀後半)
   衛青、霍去病を派遣 → 匈奴はゴビ砂漠以北に後退、敦煌など4郡設置
  B 匈奴の分裂(前1世紀中頃)
     東匈奴 ― 漢に服属
    (8   )匈奴 ― 漢・東匈奴の遠征で滅ぶ
 2 後漢の時代 
  @ 再び南北に分裂(48、光武帝の時)
     南匈奴 ― 後漢に服属、長城付近に定住
     北匈奴 ― 後漢の攻撃、西方へ移動
         → 4世紀に南ロシアへ
         → (10         )= ゲルマン民族大移動
 
E 匈奴の衰退後の情勢
 1 2世紀頃
    鮮卑  ― 4世紀、華北に進出し(五胡十六国時代) 、(11   )建国
 2 5世紀頃
    モンゴル高原の(12    )(モンゴル系)、北魏と対立
    中央アジアの(13    )(トルコ系ともイラン系とも)
 3 6世紀頃
    (14     )(トルコ系)
       エフタル(中央アジア) を征服
       突厥文字(北アジア遊牧民最古の文字)、突厥(オルホン)碑文
 4 8世紀頃
   (15      )(トルコ系)
       キルギスに滅ぼされる(9世紀)
 
 
 
          2 オアシス民の活動
 
【オアシス都市の興亡】
A オアシスの道
 1 ユーラシア大陸の交通路
  新石器時代から存在、(16   )土器の分布
     のち「     」の名称(リヒトホーフェンが命名)
 2 沿線上の国々の興亡
  @ アム川上流 ― バクトリア(前3世紀、ギリシア人) 、大月氏(前2世紀)
    シル川上流 ― フェルガナ(大苑)
  A タクラマカン砂漠(タリム盆地)周辺のオアシス都市
       住民はアーリア系(インド=ヨーロッパ語族)
       亀茲(クチャ)、楼蘭(ローラン)、高昌(トルファン)など
      漢の時代36国、東西貿易の中継地として繁栄
  B 隊商貿易 ― (17     )人(ソグディアナ地方の商人、イラン系)の活躍 
 
【トルキスタンの成立】
A 「オアシスの道」沿線の住民
 1 はじめアーリア系(インド=ヨーロッパ語族)
 2 突厥の進出(6世紀) → トルコ系要素が加わる
 3 (18     )人(トルコ系)がタリム盆地に移住(9世紀) 
   → 中央アジアの急速なトルコ化がすすむ
   → (        )(「トルコ人の土地」の意)の呼称
 
B トルキスタン ― パミール高原を境に東西に区分
   西トルキスタン ― ソグド人(イラン系)、(22    )教信仰
   東トルキスタン ― ウイグル人(トルコ系)、(   )教・仏教信仰
 
C トルキスタン(中央アジア)のイスラム化
 1 アラブ軍(アッバース朝)がタラス河畔の戦い(751年) で唐をやぶる  
 2 サーマン朝(875〜999年)
    イラン系イスラム政権、トルコ系住民のイスラム化がすすむ
 3 カラ・ハン朝(10世紀中頃)
    トルコ系イスラム王朝、東西トルキスタンを支配
   → イスラム化が決定的となる
 
 
 
☆ 重要語句
オアシス都市 ソグド人 スキタイ人 騎馬民族 大月氏 匈奴 冒頓単于 柔然
エフタル 突厥 ウイグル 絹の道 彩文土器 ソグド人 ソグディアナ
トルキスタン タラス河畔の戦い 西トルキスタン 東トルキスタン
カラ=ハン朝