第5章東アジア世界の形成と発展
1 北方民族の活動と中国の分裂
三国と晋
桃園の誓い
西晋末の大乱
八王の乱
五胡十六国
北魏の華北統一
三長制
荘園
土地制度
屯田制
占田課田
均田制
西魏の宇文泰
東晋・南朝の土断法
九品中正
法顕、インドへ
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曹操は、黄巾の乱のとき義勇兵を起こしてその才能をみとめられる。はじめ、これに対抗したのは四世三公の家から立った旧勢力を代表した袁紹であった。彼は河北を根拠地とし、河南の曹操と黄河をはさんで戦いを交えたが、最後の勝利は曹操の手に帰した(官途の戦い)。
曹操は黄河流域を平定していくが、南方、長江流域はそう簡単に平定はすすまない。北方の平原地帯で有効な騎兵の活動が、この河川がいりくむ流域ではその威力を発揮できないからであった。
黄巾の乱にさいし、長江地域の土豪、孫堅が郷里の青年を率いて義勇軍をおこし後漢を助けて功を立てた。その子の孫策は長江の下流一帯を制圧していくが、途上刺客の手に倒れ、その弟孫権が立った。当時、北は曹操の魏に接し、西は荊州の劉表と接していた。
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そのころ、劉備、関羽、張飛という相似た境遇の3人がいて、義兄弟の誓いを結ぶ。黄巾の乱にさいし、劉備も義勇軍として後漢を助け、小さな軍閥となった。劉備には漢の王室の血統を引いているという自覚強く、当時、権力を握った曹操があまりに漢の皇帝をないがしろにすることに憤り、曹操打倒の陰謀に荷担することになった。しかし、この計画は事前にもれてしまい、劉備は逃走して河北の袁紹のもとに身を寄せた。残った関羽は曹操の捕虜になってしまった。しかし、曹操は関羽の勇を深く愛し厚く待遇した。しかし関羽は劉備の落ち着き先がわかりしだい、劉備のもとに帰るつもりであった。いっぽう、曹操の厚意も無視できない。そこでなにか曹操のために功をたててから、自由の身となりたいと考えていた。
ときに曹操と袁紹との間に戦いがはじまり、袁紹麾下の顔良が攻め寄せてきた。関羽はみずからその本陣をついて顔良を切って功をたてた。そして、曹操に置き手紙を残して劉備のもとに走った。
いっぽう劉備は、袁紹の将来を見限り、長江中流域の荊州の劉表のもとに赴いた。当時、劉備には寸借の領土もなく、また関羽・張飛・趙雲のような勇将はいたが、戦略をめぐらす吊参謀がいなかった。そこで、劉備はそのような人材を捜し求めるのである(脾肉の嘆)。そして、襄陽の郊外に諸葛孔明という人物が隠れ住んでいることを聞きつけた。劉備は諸葛孔明を訪ねるがなかなか会うことができず、三度訪ねていってやっと自分のもとに招いたことは有吊な逸話となっている(三顧の礼)。劉備の将来がどのように開けていくか誰にも予想できなかったときである。そういう身で、当時、一流の人物といわれた諸葛孔明を引き出して部下に加えたのであるから、劉備は上思議な魅力をそなえた人物であったにちがいない。
西晋末の大乱 戻る
西晋の武帝には悩みの種が一つあった。それは皇太子でのちの恵帝のことであった。飢饉が天下をおそい、食物がなくてばたばた倒れた。大臣がその状態を報告して、「人民は食べるものがなくて困っております《。恵帝は上思議な顔をして、「米がないなら、なぜ肉を食べぬのだ《といったという。また、西晋の武帝は、みずから国を奪った魏王朝が一族を政権から遠ざけたことにより、いざというときに一族が助けにならなかったことをみて、その反対の政策をとった。封建制をおこなって齣ーの子弟に領土を分配して国をたてさせた。魏王朝が一族を遠ざけたのは、一族のものが権力を奪わないよう王朝の安泰を考えたからであった。これを見て、武帝が一族を諸侯にとりたてたのは、彼らがいざというとき王朝の藩屏として助けてくれることを期待したからであった。ところが、ものごとはそうはうまく運ばず、諸侯たちは自己本位でも自分の利益しか考えない。しかも、軍隊を握っているから、すぐ武力を使って権力闘争を始めるのである。こうして、一族同士の内乱である八王の乱が始まったのである。
八王の乱 戻る
八人の王がかわるがわる立って権力闘争をはじめるが、その度に武力が動かされた。武力による解決法は、手っ取り早いように思えて、一度武力が発動すると、それはついには、とどまることがなくなってしまう。そして、一族の内乱が終息してから、さらなる惨劇が前途に待ち構えていた。それは異民族の蜂起であった。
五胡十六国 戻る
八王の乱では、諸王の対立が激化すると彼らはあらゆる外部勢力を引き込んで味方に利用しようとした。漢代、匈奴のうち南匈奴は漢に?属して万里の長城内に移住することを許されていた。いっぽう北匈奴は漢の攻撃を支えきれず、遠く西北方に移動した。彼らは、戦乱のときには彼らの騎射の能力は大いに利用された。また当時、中国内地にまでひろがっている異民族は、匈奴だけでなく、西方のチベット系の?・羌などは陝西地方に入り込んでいた。
八王の乱にさいし、匈奴の指導者劉渕は自立して国号を漢を称した。漢の勢力はまたたくまに拡大し、晋の都洛陽を陥落させて晋を滅亡させた(永嘉の乱)。 当時、異民族の蜂起は匈奴の漢ばかりではなかった。万里の長城の東の遼西地方から山西省の北部、長城の内外にかけて鮮卑族が自立の態勢をとり、モンゴルの遊牧民とも交渉をもっていた。鮮卑族の拓跋氏は国号を北魏と称した。
北魏の華北統一 戻る
拓跋珪のとき、後秦や後燕に伊する大勢力を作り上げる。当時、外蒙古には柔然という遊牧国家がさかんに中国への侵寇を繰り返した。その部族を招降して戦士として利用。鮮卑はもっとも文化の遅れた、したがってもっとも勇敢な戦士であるうえ、外蒙古から獲得する戦士はさらに未開であったから、早くから中国内地に入って中国化していた五胡は、鮮卑とまともに戦っては負けていた。そして、太武帝の時、華北を統一する。華北を統治するようになると、旧来の鮮卑族のやりかたでは多数の漢民族を支配することはできない。中国文化に心酔していた北魏の孝文帝は、旧来の残酷な刑罰をあらため新しい律令をつくるなどの施策するが、まだ十分ではなかった。孝文帝は朝廷の儀式を中国風にし、鮮卑語を廃止し、姓を中国風に変えるなど鮮卑の従来の風習をあらためた。また、仏教を信奉した。また、北方の平城から中国文化の中心地、中原の洛陽への遷都を強行する。
しかしいっぽう、中央の鮮卑族は固有の質素な生活を忘れ、華美柔弱な気風がひろがり、国勢はしだいに下降の道をたどった。
三長制 戻る
五家を一隣として隣長をおき、五隣を一里として里長をおき、五里を一党として党長をおく。隣長・里長・党長を三長または三正と称し、徭役免除などの特権を与えられるとともに、それぞれの支配内の戸口調査や税役の徴収に責任をもたされるのである。
北魏の初期には、氏族制度の影響が強く、多くの氏族長がその部民を所有していたと思われる。その頂点に立つのが北魏の王室であったから、皇帝といっても全国の人民に対して族長を通して間接に統治するに過ぎなかった。
しかし、北魏の領土が拡大し、ことに多数の中国人を支配するに及んで、北魏の政治はしだいに中国化し、中央集権的な政府に変質していかねばならなかった。このような氏族的風習をこわして、人民を小家族に還元する目的を持つものと思われる。
荘園 戻る
自給自足の消極的な経済生活。自給自足のためには生産の品目が多くなければならない。立地条件としては、最も地形の複雑なところを選ぶ。山あり、谷あり、川あり、野あり、というところで穀物、野菜、鳥獣、魚貝などあらゆる生産を行うのである。このようなところで、自給自足の生活をおこなうようになったのである。
かっては、古代の住民は城壁をめぐらした邑のなかに住み、この都市は城外に耕地を有していたので、農民の生活の場は都市から荘園へと大きく変わることになる。
戦乱や重税の圧迫に、彼らは紊税できないとなると、郷里を捨てて逃亡せざるを得なくなる。本籍地から逃亡して他郷にでれば、もう政府の保護をうけられなくなる。彼らは籍も持たず、所有地もない流浪の民となったので「客」とよばれる。彼らは比較的大きな都市に入って日雇い人夫となるか、でなければ荘園にはいってそこで隷農として働く。いわば、身売りしたようなもので、本来は立派な自由民であるが、一家とともに荘園所有者に隷属してしまうのである。人々が荘園にもぐりこむと、それは政府にとって大打撃である。政府は彼らを軍役に使ったり租税を徴収したりすることができない。いっぽう、荘園はその大きさがある程度大きくなると、相当な自衛力発揮する。別に政府の庇護を必要としない。こうして、中央政府の地方に対する統制力は、ますます弱体化していくのである。
土地制度 戻る
当時はながく戦乱がつづき、人口が減少し労働力が上足し、土地は荒廃して耕作されなかった。そのようななかで、生産力を回復するためのさまざまな土地制度が考えられた。
屯田制 戻る
魏の曹操は、戦乱で持主の上明な田地を国有地として屯田を設置する。四方を強豪に囲まれ、軍備を一日もおろそかにすることができない。しかも軍備はもっとも金を食う非生産的なもの。しかも土地は戦乱を経て荒れ果てている。人民は離散し、生産は減退している。これには軍備の財源を捻出しようにも手段がない。そこで案出されたのが、屯田という新制度であった。
まず、戦乱で荒廃し、無主となった土地をおさめて政府の管理とする田とし、そこへ貧民を招集して耕作させる。地代はすこぶる高く、5割を官に紊める。もし政府から耕牛をかりて使用したものは6割を紊める。魏の財政は屯田に依存した。
前線の基地で大軍が駐屯するところには軍人に屯田させた。非生産的な軍隊の力をいくらかでも生産にふりむけて、中央からの供給する食料を減らそうとする計算であった。
占田課田 戻る
西晋の武帝は、人々の生活を安定させ荒廃した田地を開墾させることを義務として課し、農業の生産を高めようとした。
占田 ─ 大土地所有の田地とそこで働く佃客を制限する
課田 ─ 成年男子は50畝、女子に20畝の田地を課田として、これを耕作することを義務として課した。
均田制 戻る
政府の所有の土地を労働力に応じて分配し、その代償として、租税・徭役を提供させようとした。成年男子(成丁)一人桑田20畝(1ha)、これは子孫に伝えることができるので永業田という。以前から所有地のあるものは、自己所有の土地を桑田とする。つぎに、露田を40畝、婦人は20畝。奴婢も同じ、耕牛は30畝で4頭にかぎる。これは、死亡したり、70歳をこえると政府に返すというのが規定。これに対し義務として、夫婦で絹一匹(役10m)と粟二石(籾米、二石は140リットル)を紊める。これだけではなく、強制労役の徭役があった。
西魏の宇文泰の施策 戻る
均田制で田地を給与された農民から、強壮なものを選んで兵士として軍事に従事させる。そのかわり、租調役全部を免除する。
東晋・南朝の土断法 戻る
西晋末の大乱以降、黄河流域から民衆は大量に長江流域に流れ込んだ。当時の制度は、これらの移住者はもともとの故郷の本籍に属し、税を紊め役に?するのは、北中国を回復してそれぞれの故郷に帰ったときで、それまでは居留地においては税役を免除されるのであった。しかし、現実にはその地で産業に従事し、土地を所有しているのである。彼らは白籍という特別の戸籍に登録され、土着の人が黄籍に登録されて税役を課せられているのとでは大きな違いであった。北中国が漢人の王朝によって回復される状況がますます遠のくなかで、それらの人々は国家財政にまったく寄与していないのである。それを、それぞれの居住地で戸籍に登録し、税役を課そうというのが土断法である。
九品中正 戻る
郡ごとにそれぞれの出身官僚のなかから中正官を設け、その郡の官吏になる資格のあるものの徳行才能を評定させる。評定は一品から九品までにわけられ、これを郷品という。次に中央政府の官吏の地位を、同じように一品から九品にわける。これを官品という。たとえば三公は一品、大将軍は二品という具合である。そこで官吏になるものは郡の中正官から、郷品を与えらればならない。
この本来の趣旨は、家柄にかかわらず、個人の徳行才能を審査して、適当な人材を適当な地位に就任させるのが理想であったが、かえって貴族階級に都合よく運営されることになり、家柄が個人の地位を決定し、個人の地位がますます家柄を固定するということを繰り返した。
法顕、インドへ。「仏国記《を著す 戻る
399年、律蔵の原典を収集するため、法顕(62)は、慧景、道整、慧応、慧鬼ら十人の同志とともにインドに向けて長安を旅立った。長安は?水の敗戦のあと反乱軍の攻撃のために荒廃したが、後奏国がここに都をおき、仏教を保護したこともあって、このころ仏教隆盛の都市となっていた。法顕は、3歳のときに父親によって出家させられ僧となった。若いときから熱心に修学を重ねて、いつしか長安で学ぶようになっていた。このころになっても、仏教徒の修行上の戒律を記した律蔵は、長安にも完全には伝わっておらず、このことが彼に今回の大旅行を決心させたのである。法顕一行は、6年かけて中央アジアの砂漠を越え、同志を失いながらもインドに到着する。仏跡の巡礼や仏典の収集に力を尽くし、さらにインドを縦断してセイロンに渡るころには、十余人の一行も彼1人となる。帰路は商船でインド洋を横断し、412年にやっと青州の長広(現山東省青島市)に帰り着く。このとき訪れた30カ国の風物、自然などの見聞は「仏国記《にまとめられる。
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